大日本帝國海軍の駆逐艦整備は、明治30年に遡ります。
日清戦争で水雷艇を活躍させた海軍は、「水雷艇を撃破する艦」が英国ヤ―ロ―社で建造されたことに注目し、ヤ―ロ―社に雷型(305トン)とソーニクロフト社に東雲型(275トン)、各8隻を注文しました。
明治36年、この両型の運用実績を踏まえてついに駆逐艦の国産に踏み切ります。
雷型の方が日本の国情・運用にあっていると判定され、雷型をタイプシップに一部設計を改良して春雨型Ⅰ(375トン)が開発されたのです。
春雨型Ⅰは艦首部がまだ「タートル・バック」と呼ばれるクラシックな艦形なのですが、舵についてはそれまで「半釣合舵」と言って舵の一部が水面に出ていたものを、すべて水面下にした「釣合舵」にするなど、目立たない改良をしています。
主罐も国産の艦本式罐を初めて搭載し、主機(レシプロ)も国産を採用して、少し重量オーバーとなりましたが、性能は満足出来るモノでした。
春雨型Ⅰは日露戦争後まで、改良型の神風型Ⅰと合わせて39隻も建造されました。
日露戦争後、世界の駆逐艦は大型化の傾向を示していましたが、我が国では主力艦の更新(弩級艦)に手いっぱいで駆逐艦までは予算が回せませんでした。
そこで明治42(1909)年から駆逐艦を一等、二等に類別して、現代で言うハイ・ロ―ミックスで整備する事にしました。
一等駆逐艦として海風型Ⅰ(1030トン)、二等駆逐艦として桜型(530トン)をそれぞれ2隻建造したのです。桜型は低速になるのを我慢して安上がりなレシプロ主機を採用する節約ぶりでした。
艦形はどちらもタートル・バック(亀甲甲板)をやめ、艦首楼(艦首部分が一層分高くなっている)型を採用しました。
艦首楼型の採用によって、主砲をここに装備出来るようになり甲板下を兵員室につかえるようになりました。
大正の初めには最後の外国建造軍艦として、ヤ―ロ―社で一等駆逐艦の浦風(810トン)が建造されました。
浦風はタービン主機のほかに巡行用ディーゼルを搭載する画期的な駆逐艦として計画されたんですが、タービンとディーゼルを繋ぐ減速機が第一次大戦のために入荷せず、ディーゼルを搭載する事は出来ませんでした。
ただ、浦風は主罐を重油専焼としており、機関兵は大いに助かる事になります。
第一次大戦で大日本帝國海軍は連合国側の輸送船団を護衛する事になりましたが、そのために駆逐艦をそろえる必要が出てきました。
そこで日本海軍は緊急量産のため、桜型二等駆逐艦の設計を少し訂正したものを「樺型」として10隻建造、その内8隻が欧州の海で活躍しました。
また、仏蘭西向けに12隻を建造して輸出しています。
樺型(桜型含む)の特徴として、レシプロ主機3基(推進も3軸)を前後2室に分散配置している事が挙げられます。ダメージコントロール上、大変有利な配置です。
続いて一等駆逐艦「磯風」型Ⅰ(1105トン)と二等駆逐艦「桃」型(755トン)が核4隻建造されました。桃型の航海実績から、船体強度を増した「楢」型(770トン)も造られています。
大正6(1917)年、今まで英国を参考にしてきた駆逐艦の設計に革命が起こりました。
日本海軍独自の設計として、一等駆逐艦「峯風」型(1215トン)と二等駆逐艦「樅」型(770トン)が計画されたのです。
この両タイプは凌波性の向上のために艦形を大幅に変更して、大日本帝國海軍独特の駆逐艦の形の基礎となり、特に一等駆逐艦は主力艦隊に随伴可能な航洋性能を手に入れました。
「樅」型は高速旋回時に傾斜が大きくなったので、船幅と喫水をやや大きくした二等駆逐艦「若竹」型(820トン)も造られました。