海防艦の奮闘

海防艦「御蔵」

大日本帝国海軍に海防艦が初めて登場したのは明治31年(1898年)のことでした。

この年、大日本帝国海軍は新たに一等から三等までの「海防艦」という艦種を設けたのです。

海防戦艦

大日本帝国の海防艦の活躍を紹介したいのですが、その前に世界の海防艦にもちょっとだけ触れさせていただきます。

海防艦っていうのは、種々さまざまな艦型のフネが混在している艦級でして、大は一万トン近いモノから、数百トンしかない「艦」って言って良いのかよ!みたいなフネまであるんです。

海防戦艦アンリ4世8800トン

フランス海防戦艦「アンリ4世」8800トン

 

基本的には文字通り自国の沿岸防衛に使われるフネでして、外洋遠く進出して…なんてことは考えていません。

「ン?それで1万トンってか!」って言うのは当然の疑問ですが、世界は広いんでありますよ。
北欧を中心にヨーロッパ諸国、それも列強からはちょっと力の落ちる国々では「海防戦艦」と呼ばれるフネがあったんです。

海防戦艦って言うフネは、喫水が浅く航続力も無いけれど、巡洋艦並みの艦体に準戦艦とでもいう様な強武装を詰め込んでいるんです。

海洋進出にあまり興味のないフランスなんかや、予算の制約で本格的な戦艦を整備できない国は結構積極的にこの「海防戦艦」を作っています。

フランスの代表的な海防戦艦が「アンリ4世」(8800トン)です。
全長108メートル・全幅22メートル・喫水7メートル・40口径27センチ単装砲2門。

イルマリンネン級海防戦艦ヴァイナモイネン

フィンランド海防戦艦「ヴァイナモイネン」

 

もう少し小さいとフィンランド(対ロシア戦争ではウクライナの先輩じゃな/ソ連軍をボコボコにしたわけじゃないですからね。冬・継続の各戦争で領土を取られながらも、かろうじて独立を守ったんです)のイルマリンネン級。

4100トン・全長93メートル・全幅17メートル・喫水4.5メートル・46口径25.4センチ連装砲2基4門。

同型艦の「ヴァイナモイネン」は1937年5月の英国王ジョージ6世陛下戴冠記念の国際観艦式に、フィンランド海軍の旗艦として参列したことで有名です。
我が重巡「足柄」(妙高型)とは同窓生って事ですね、フネとしての力には大差がありますけど。

ただ、この時「ヴァイナモイネン」はフィンランドからイングランドまでの航海が出来ず、スウェーデンの海防戦艦「ドロットニング・ヴィクトリア」に曳航してもらって晴れの舞台に出向いています。
いくらロシアと対峙する陸軍国だからって、一寸不細工じゃありませんか(笑)

足柄、独逸装甲巡グラーフ・シュペーと並ぶ

訪欧の重巡「足柄」、ドイツ装甲巡「グラーフ・シュペー」と並ぶ

 

そのためかどうか?「ヴァイナモイネン」は冬戦争と継続戦争を生き抜いたのですが(ネームシップ「イルマリンネン」は1941年に触雷で沈没)、ソ連軍に接収されて「ソ連の軍艦」にされてしまったのでした。

そのソ連は「海防戦艦」は持ちませんでしたが、前身のロシア海軍は「アドミラール・ウシャコフ級」という海防戦艦を持っていました。
同型艦「アドミラール・セニャーヴィン」「ゲネラール=アドミラール・アプラクシン」との合計3隻で、ともにはるばる東洋まで航海して日本海海戦に参加しています。

バルチック艦隊ったら、ずーっと沿岸沿いに航海してきたからな。海防戦艦でも世界半周出来たんでしょう。

アドミラール・ウシャコフ級海防戦艦

アドミラール・ウシャコフ級海防戦艦

 

「アドミラール・セニャーヴィン」と「ゲネラール=アドミラール・アプラクシン」は大日本帝国海軍に降伏して「見島」「沖島(”おきのしま”、ですよ。”おきしま”と読むと琵琶湖に浮かぶ有人島になってしまいます)」と名前をかえて、「海防艦」に分類されるのであります。

大日本帝国の海防艦

さてさて、大日本帝国海軍に「海防艦」が誕生したのは明治31年だ、と申し上げました。
この年、我が海軍は
海軍軍艦及水雷艇類別標準
を制定いたしまして、運用する艦船・舟艇を次のように分類するのであります。

〇軍艦>戦艦 (一等、二等)・巡洋艦 (一等、二等、三等)・砲艦(一等、二等)・海防艦 (一等、二等、三等)・水雷母艦

〇水雷艇>水雷艇駆逐艇・水雷艇 (一等、二等、三等、四等)

この「海軍軍艦及水雷艇類別標準」は明治33年には「海軍艦艇類別標準」と呼び方が変わり、時代に連れて改正されていくことになります。

海防艦に付いて申し上げておきますと、大正元(1912)年に「三等海防艦」が廃止され、昭和6年(1931年)には一等と二等の分類も廃止になって「海防艦」という単一の艦種になっています。

ただ、駆逐艦以下を「軍艦」とは分類せずに継子扱いするカタチは既にこの時確立しているんですね。

「海防艦」だけじゃなくて「戦艦」だって「巡洋艦」だってこの時始めて登場した、といえないことは無いんですけど(笑)大日本帝国海軍の「海防艦」はある意味で「特殊な艦種」として運用されていくことになります。

前期海防艦

海防艦は、 沿岸・領海警備、拠点防衛、船団護衛、対潜哨戒等を主要任務としています。
これらの任務の性質から、海防艦は武装や装甲を重視する代わりに、速度・航洋性は犠牲にしている艦がほとんどです。

北欧でもフランスでもロシアでも、この「近海防衛用軍艦」は自前でオリジナルを(外国の造船所に発注することはありましたが)造っていました。

ところが、大日本帝国の海軍は別の考え方をしていたようです。
大日本帝国は欧州列強にはるかに遅れて国際社会にデビューした関係で、まだまだ貧しい国でした。

何処の国でも海軍というモノは金食い虫です。

貧しい大日本帝国海軍には前線に配備する一線級の艦とは別に、沿岸防備の艦艇を新規建造するほどの余裕は無かったのであります。

そこで日本海軍が編み出した方策といいますのが、「旧式化した主力艦などの大型艦を海防艦籍へ編入する」というモノでありました。

出雲(巡洋艦)佐世保、大正5年

佐世保に停泊する「出雲」大正5年

 

もともとは主力艦ですから、排水量はのきなみ5000トンを上回る巨艦ぞろい。

大日本帝国の海防艦は、沿岸住民にとってまことに頼りになる存在であると同時に、海兵団での新兵訓練や遠洋航海での実務訓練にはうってつけでした。

実際のところは旧式艦ですから、肝心の戦闘能力はまあ、アレですけど。

でありますから大東亜戦争が始まるまで、大日本帝国の国民にとっては「海防艦=往年の主力大型艦」というイメージが定着していました。
臣民ばかりではなくて帝国海軍の下は水兵から上は高級将校に至るまで、このイメージは浸透していたようです。

このイメージは覚えておいてくださいね。後々「大変な事態」を巻き起こしてしまう事になりますから(笑)

それは後ほどのお楽しみといたしまして、この時期(かなり長いですけど)の代表的な海防艦として、「出雲」を紹介いたしましょう。

東京湾で公試中の占守級占守

東京湾で公試中の海防艦「占守」昭和15年

 

「出雲」は言わずと知れた日露戦争当時の装甲巡洋艦です。

偶然にも「海防艦」が出現した明治31年にイギリスアームストロング社で起工・同年進水。一年後に就役。排水量9750トン・全長121メートル・全幅21メートル。
20.3センチ連装主砲2基4門(ちなみに戦艦三笠は30.5センチ連装砲2基4門、15000トン)で当時の類別は一等巡洋艦でした。

巡洋艦「出雲」は猛将上村彦之丞の率いる第二艦隊(第一艦隊は東郷平八郎連合艦隊司令長官直卒)旗艦として、輸送船を狙って帝国近海に出没するウラジオストック艦隊を捕捉する任務に就きました。

ウラジオ艦隊は神出鬼没の行動を繰り返しましたが、上村艦隊は大いに苦労しつつ、ついにコレを捕捉、黄海海戦でボコボコにします。
ついで対馬沖(日本海)海戦で大バルチック艦隊をも葬り去るのであります。

上海に停泊する出雲

上海に停泊する「出雲」

 

第一次大戦では先ず北米の西海岸警備に派遣され、後に地中海に派遣された第二特務艦隊の旗艦となっています。

その後、練習艦として士官候補生を乗せて世界中を廻る「栄光の時」を過ごし、ついに 大正10(1922)年の9月1日に一等海防艦に「格下げ」となったのであります。

海防艦「出雲」は格下げになっちゃった後も、その巨体を活かして活躍を続けています。日支戦争の活躍ぶりはコチラの記事で。

後期海防艦

1922年のロシア内戦の「赤軍勝利」、1924年のレーニン死去を経て、スターリンの率いるソビエト連邦が強国の仲間入りをしてきました。
後に亡国の元になる「計画経済」がこの時はツボにハマっていたんですね(笑)。
まあ、人民からの搾取を上手い事やってるってだけの話なんですけど。人民からムシるから「人民共和国」なんだな。Chinaにチクるなよ(笑)

択捉級福江

択捉級「福江」昭和18年

ソ連の経済発展を受けた1930年代から、大日本帝国・満洲国とソ連・モンゴル人民共和国との間で国境紛争が頻発するようになります。

紛争は大陸だけにとどまらず、オホーツク海や千島列島の周辺などでも漁業問題などに絡んだ事件が続発します。

ソ連沿岸警備隊が大日本帝国の漁船を銃撃したり、拿捕したり。

この事態に、大日本帝国海軍は駆逐艦を北方に配備して対応することにいたしました。
本来、第二水雷戦隊に所属(籍は横鎮)していたエリート部隊の「第一水雷戦隊」を大湊要港部に所属替えして北洋へ投入したのでした。

ところが、この時期の大日本帝国海軍の艦隊型駆逐艦って中部太平洋(つまり暖かい海)でアメリカの戦艦に魚雷をぶっ放すために建造されています。

また、そのために厳しい訓練を重ね、整備を続けてもいます。

御蔵級昭南、完成引き渡し

御蔵級「昭南」完成引き渡し昭和19年

 

それを全く気候の違う北方域に投入して、しかも訓練もしていない沿岸防備や漁船の警護に駆り出した所で、良い結果は出ませんよね。

その上運用コストの面でも、艦隊型駆逐艦で領海警備をさせるのは割に合わなかったんです。

まあ、そんな訳で小型・軽快かつコスパに優れた水上艦を造って沿岸防備・領海警備に投入し、漁船漁民や漁場を保護しようじゃないかという計画が持ち上がりました。

電脳大本営的にはこれこそ海軍の主任務なんですよ。(笑)この時期は「海上保安庁」が無いからね、しょうが無い。念のために言っておきます。

この話は昭和5(1930)年ごろに持ち上がってます。
そう、補助艦規制のロンドン軍縮条約の絡みの可能性も高いと思われるところであります。

ところが、保有制限された駆逐艦の代替は、制限排水量以下の「水雷艇(実質的には小型駆逐艦です)」を整備することになり、「海防艦」の新造計画はなかなか承認されることはありませんでした。

出来たことは出来たけど

海防艦新造計画は昭和12(1937)年になって、やっと予算が認められることになりました。

これによって新型海防艦『占守型』の建造が始められることになったのであります。

T9峰風舞鶴で全力公試

舞鶴湾で全力公試中の「峰風」大正9年

 

第一駆逐隊の「峯風型」が老朽化した事もありますが、この時期になって、駆逐艦を一線(要は太平洋正面って事です)から引き抜いておくことが出来なくなったのと、軍拡全般に予算が付きやすくなってる事が予算承認の原因でしょうね。

それでも海防艦は、一般国民ウケするようなカッコ良い艦(米の大艦隊に単艦忍び寄って…みたいな活躍はしそうもありませんから)ではありません。

予算は獲得したものの制約は一杯付いてきましたし、余裕のある予算では全くありませんでした。

足掛け5年も掛けて計画したのに、排水量は希望した1200トンから800トンに減らされて、備砲も廃物利用とされてしまいます。

大日本帝国海軍は一点豪華主義(基本、貧乏国だからな)の嫌いが多分にあり、小艦艇の関係者は何時の時代も涙ぐましい努力を強要されたモノであります。
まあ、ハイローミックスを上手にやった、って見方もできますけどね。

占守級八丈

占守型海防艦「八丈」

 

しかしながら、ちゃんと設計すれば予算不足の小艦でも、実用本意のシンプルな名艦は出来る筈です。
それは帝国の誇る駆逐艦が証明するところなんであります。松級を見ろよ。

ところが、ですよ。設計を担当する「艦政本部」はこのとき多忙の極みにありました。

「そんなチンケなフネ設計してられるかよ!」
ってな声が大きく、「新型海防艦」の設計は民間技術育成の意味も込めて三菱重工に委ねられる事となったのであります。

民間で設計しても、優秀な軍艦は出来ます、もちろん。

大英帝国なんかは戦艦だって民間設計(海軍がムチャクチャ口出ししたようですが)ですし、大日本帝国だって、航空機は陸海軍ともに民間設計が普通です。

ところが、ですね。
三菱さん、初めて軍艦の設計を担当させてもらって張り切りすぎちゃったんですね。
質実剛健のシンプルな艦を地道に設計すりゃあ良いモノを、ヘンな具合に気を利かせてしまいます。

北の荒海で漁船を守る水兵さんが、荒天時に甲板上に出なくて済むように、と長甲板室を採用。
船体は艦艇構造を採用、解氷装置や暖房装置を完備するなど、凝りに凝った艦となってしまったのであります。

軍艦に限らず、兵器は凝り過ぎると碌な事にはなりませぬ。

駄目艦だったのか?

それでも新型海防艦「占守型」は良いフネでした。

完成した時期が大東亜戦争が始まる時と一致してしまったのが不幸なだけで、これは「占守型」のせいではありません。

「占守型」完成後はいきなり大東亜戦争開戦。

本来の北方ではなく、南方に配備された艦も多くありました。ある程度は南方での活動も考慮して設計されていたとは言え、本質は北洋警備艦です。

かなり「暑い艦」という評判が立つのも致し方ないというか、当然というべきか。

後の量産型海防艦のモデルとされた「占守型」でありますから、「居住性・生産性ともに劣悪」との悪評も付きまとってしまいます。

1944、公試に出る第17号海防艦(第1号型)

公試に出る「第17号海防艦」(丙型) 昭和19年

もともと北洋で使うように造った艦を、南洋で使う事に大きな問題があるんです。
また4隻だけ造る予定で設計した艦を量産艦のモデルにする方がおかしいのです。

国民からも海軍からも、ちっとも期待されなかった「占守型」は戦時の南方で使う護衛艦としては良くなかったかもしれませんが、北洋の警備艦としては武装・居住性・操縦性に秀でた優秀艦でした。

そもそも、海軍全体として「占守型」にはなんの期待も無かったんだろうという「証拠」があります。

それは昭和15年の「完成発表」でのエピソードであります。

占守型の基準排水量が「8600トン」と1桁多く記載されているのでありました。
前述のように「海防艦」は旧式の装甲巡洋艦など1万トンクラスの艦が多かったので、
「860トン?海防艦がこんなに小せえワケないじゃん!」
とか言って何処かの段階で誰かが「訂正」しまったのでしょうか?

かなりお粗末な「訂正」で全長や全幅は書き換えなかったようです。
おかげで「どんな装甲付けたらこんなに重くなんねん」って話になってしまっております。

もちろん、「占守型」はブリキ缶(ほとんど装甲の無い駆逐艦を揶揄と愛情をこめて言うアメリカ海軍言葉)以下の装甲しかありませんけど。
帝国海軍の艦艇要目の公表で、ここまで巨大なミスはちょっと思い付きませんね。

そんなこんなで、あまり大歓迎はされなかった「占守型」ではありますが、当時の北方海域ときたら旭日旗を掲げた軍艦がいないと、赤い国の艦艇が漁船を拿捕して連れていったり、威嚇射撃をしたりと大騒ぎ。

日本海軍初の本格的北方警備専用艦として大いに役に立つのであります。

海防艦は小なりと言えども、菊花のご紋章付きの立派な「軍艦」(昭和17年7月までですけど)であります。

艦長は海軍大佐(or中佐)でありまして、ご紋章ナシで少佐が艦長の駆逐艦なんぞよりも「格上」なんでありました。

第2号海防艦(第二号型)

第2号海防艦(丁型)
昭和19年

 

これは北方警備の際に赤い国無法者集団との交渉がある、そのための配慮のような匂いがします。
「占守型」は4隻が建造されたうち、「占守」「国後」「八丈」が大東亜戦争を生き抜いています。

ニュータイプへ

大日本帝国は大東亜戦争の開戦を前に、占領予定の南方資源地帯からの資源還流のための護衛兵力が不足していることに気が付いていました。
電脳大本営は「帝国海軍は護衛が大嫌いだった」という立場です。

大嫌いだからこそ、護衛やらなきゃ!となったら専用艦を作るんですよ。艦長は非エリートでね(笑)

帝国海軍は昭和16年度の戦時建造計画(いわゆる「〇急計画」)で長大な航続距離の「占守型」海防艦を原型として新型の護衛専用艦を作ることにしたのです。

これが「択捉型」であります。

「択捉型」は凝りに凝った「占守型」をわずかに簡易化しただけでした。

これから大戦争をしようって言うのに、戦時に必要な設計の簡素化やそれから来る工期短縮などぜんぜん考慮されていません。

南方航路への投入が前提のフネなのに、北方用の「占守型」に搭載されていた「暖房用の補助罐」はそのまんま。

何の気づかいで乗せてるんだか?もちろん冷房装置なんかは付いてませんよ。

鵜来型、完成引き渡し

「鵜来」型の完成引き渡し画像
昭和20年

 

「暖房用の補助罐」は次級の「御蔵型」でやっとこさ廃止され、その代りに主砲が高角砲になるし、爆雷搭載量は36個から120個へ増えるし。だいぶん「飴公と戦うフネ」になってきましたな。

ただ、まだまだ建造に時間が掛かりました。

その点を大幅に改善したのが「日振型」でありまして、直線主体の設計となり、工数が大幅に削減(5万7千⇒3万)されたおかげで、4か月で出来るようになったんであります。

「日振型」には大きな掃海具が搭載されていましたが、対潜能力にはやや不安がありました。

そこで「鵜来型」では掃海具を外して「三式爆雷投射機」を片舷8基計16基も搭載。従来からの投下軌条2基はそのままで、対潜攻撃能力を大幅に向上したのです。

「鵜来型」こそ、大日本帝国海軍が持ちえた、もっともバランスの取れた海防艦(護衛艦)だったんじゃないかと思います。

ところが、戦況は悪化の一途を辿ります。工数を徹底的に削減したはずの「鵜来型」すら、帝国には大きな負担になって来たのです。

丙型・丁型

せっかく造った海防艦も、アメリカ軍の「数の力」の前にボカスカ沈められてしまいます。

それでなくても、「血の一滴」と言われた石油さえ満足に還流できないのに。

護衛艦をもっと造らなければ!戦艦や空母や巡洋艦や新型・大型駆逐艦を油槽船や石ころ(鉄鉱石)積んだ貨物船の護衛には使えんからな。

南シナ海で撃沈された第一号海防艦

南シナ海で撃沈された第1号海防艦

 

日振型や鵜来型をもっともっと小型化・簡略化して出来上がったのが「丙型(第一号型海防艦」であります。

56隻もの同型艦が竣工し多くが戦没してしまいましたが、大日本帝国海軍の最後を飾る(私は軍隊は国民の生命財産を守ってナンボだと思ってますんで)に相応しい奮闘を見せたと思います。

この丙型は航続力を考慮してディーゼル機関が使われましたが、数が急には揃いませんでした。

そのため、海軍お得意のタービン機関に換えたモノが「丁型」で、63隻が竣工しています。

この数になると、流石に固有名詞を艦名に付けてやることは出来なくなり、「海防艦〇〇号」って言う通しナンバーで呼ばれることになりました。
「丙型」が奇数番号で「丁型」は偶数が付けられています。
うーん、「名前」を付けてやりたいなぁ。

それでは、健気な海防艦たちの活躍をちょっとだけ見ておきましょう。

海防艦の奮闘

当初、占守型海防艦に求められたのは漁船の保護や領海警備でありました。しかし、太平洋の荒波はそんな暢気な戦いを許してはくれません。

「海上護衛戦」と称する無理ゲーが海防艦に課される任務となってしまったのであります。

「船団護衛中の敵潜水艦撃破や航空機撃破が海防艦(護衛艦)の任務」などと仰る方もおられますが、それは違います。

海防艦の任務は「護衛」であって、護衛中の貨物船を敵の潜水艦や飛行機の攻撃に晒さなければ良いのです。

襲ってきた敵をやっつけるのは主任務ではありません。あくまでも「攻撃させない」ための行動の結果として「攻撃してきた敵の撃破」が生じるのであります。

まあ、それはさておきまして。

択捉型の海防艦「隠岐」の話になっちゃうんでありますが、昭和18年11月19日朝のことであります。

択捉級天草

択捉型海防艦「天草」
昭和19年

「隠岐」は任務について以来、休む間も無く貨物船を護って東へ西へと忙しく働いておりました。

それでも大日本帝国の輸送船はアッチでボカン、コッチでもボカン。そのためかどうかは判然としませんが、「隠岐」は数日前に「海上護衛総司令部」(海上護衛総隊の正式名称ですよ)の隷下に編入されたばかりでした。

「隠岐」はサイパン島の北方海上において浮上中の敵潜水艦を発見しました。
敵潜も「隠岐」に気づいたようで、急速潜行を試みやがります。

「隠岐」は潜水艦を追跡、あたりを徘徊しながら昼頃に至ってほぼ元の潜水艦発見位置に戻ると3本の雷跡が迫ってきました。

当然警戒を厳にしていた「隠岐」は易々とこれを回避して敵潜の潜望鏡を発見。
その位置まで急行すると直上で爆雷16個を投下。幅10メートル・長さ100メートルに及ぶ流出オイルと盛大なる気泡の噴出を認めました。

大日本帝国海軍のソナー(水中探信儀)は精度が悪く故障がちでしたが、「三式探信儀」に更新されると精度が上り、この探信儀に換装してからの水中探査能力は一定の向上が認められます。

アメリカ海軍によれば、対日戦で52隻の潜水艦を喪失したという事です。大日本帝国海軍の方は172隻の海防艦を投入して73隻を失っています。
潜水艦と海防艦の建造費を比べると、潜水艦が3~4倍以上かかりますから、帝国海防艦の圧勝ですね(笑)

しかし、海防艦も次第に本土へと押し込められてしまいます。

丁型海防艦30号の場合。昭和20年7月28日、由良湾に停泊中ノことでありますが、延べ80機以上のアメリカ艦載機に襲われます。アメリカ軍は由良海岸基地と由良町の市街を狙って来襲したものと思われますが。
「海防艦30号」は単艦で敵機を引き受けて奮戦しましたが衆寡敵せず撃沈されてしまいました。

由良港内で撃沈された第30号海防艦の浮揚作業

由良港内で撃沈された第30号海防艦の浮揚作業

そして、いよいよ「海防艦奮戦」の白眉であります。

本土を背に、アメリカ戦艦を迎撃

昭和20年7月14日のことであります。
アメリカ海軍第34任務部隊・第8戦隊の第1分隊、すなわち戦艦「サウスダコタ」「インディアナ」「マサチューセッツ」
巡洋艦「クインシー」「シカゴ」
駆逐艦「アボット」「アーベン」「ウォーカー」「ヘイル」「ステンベル」「チョーンシー」「バラード」「ブラック」「ヒアマン」
(大日本帝国なら「長門」相当の戦艦3隻、重巡2隻、駆逐艦9隻)
の各艦が、大胆にも我が本州に接近してきたのであります。

奴らの狙いは「釜石地区」。

サウスダコタ

戦艦「サウスダコタ」

 

ここにある日本製鉄の釜石製鉄所を砲撃で消し去り、重要な産業を破壊して交通を麻痺させ、日本人の戦意を挫くという作戦。
戦艦と巡洋艦は割り当ての目標に砲撃を敢行し、駆逐艦隊は釜石港の内か周辺で艦船に遭遇すればこれを砲撃する予定でした。

このとき、釜石港にいた大日本帝国の軍艦は「海防艦221号」と「第48号駆潜艇」の2隻だけでした。
第48号駆潜艇はアメリカ艦隊上空警戒に当たっていた艦載機にたちまち撃沈されてしまいました。
海防艦221号が単艦でアメリカの大艦隊を迎え撃つ事になってしまったのです。221号は釜石湾を出た時点で敵艦隊と遭遇しました。小さな海防艦の周りに40cm砲弾が雨あられと降り注ぎます。

221号は「交戦は無謀である」と悟り半島の裏側に退避します。これで砲弾の恐怖からは逃れましたが、第48号駆潜艇を屠った空母艦載機が襲ってきました。

B25の空襲から逃げる海防艦11号

B25の空襲から逃げる海防艦11号
昭和19年11月

 

221号は巧みに山を背に取り、対空戦闘を開始。221号は敵機の機銃掃射を集中されて穴だらけとなったものの、しぶとく戦います。
単艦で艦載機10機の撃墜を報告しています。

これが「釜石艦砲射撃」の唯一の効果的な反撃とされているのであります。

アメリカ側は「砲撃のいかなる場面においても、敵兵力とは遭遇せず」としているのですが、弾着観測機は「目標上空にて対空砲火を受く」と報告しています。

巡洋艦「シカゴ」「クインシー」は5インチ対空砲弾を港内にいた「護衛駆逐艦型の船舶一隻」に対して使用した、と報告。また、駆逐艦「ヘイル」は「(おそらく)座礁した護衛駆逐艦」に対して射撃を行ったと報告しています。

戦後、海上保安庁巡視船となった鵜来

戦後、海上保安庁巡視船となった「鵜来」

 

これが「海防艦221号」でありましょう。

因みに、このときアメリカ戦艦3隻合計で802発の16インチ砲弾を発射しています。

大東亜戦争を生き延びた海防艦たちは復員輸送任務に当たって国への最後の貢献を済ませると、賠償艦として支那やイギリスに引き取られて行きました。

一部の幸運な艦だけが新しく出来た海上保安庁で巡視船という新任務に就くことが出来ました。

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海防艦の奮闘” に対して1件のコメントがあります。

  1. 豊後水道の現役漁師 より:

    伯父が丙型海防艦、第23号に対潜配置の下士官として勤務しておりました。
    同艦が戦争終盤に富山県で建造されたのに伴い、別の艦から転属というかたちで「ヒ86船団」を護衛中に南シナ海で戦死いたしております。
    私は戦後の生まれであり、伯父とは2歳違いの亡父から話を聞き及んでいるに過ぎませんが、伯父から直接聞いた話として、戦闘以外のエピソ-ドもありますので、いずれの機会にか投稿させていただきたく思っております。

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