最後のささやかな勝利

松型駆逐艦

大東亜戦争末期(昭和19年12月26日)大日本帝国海軍はフィリピン・ミンドロ島に上陸したアメリカ軍に対し、反撃を企図いたしました。礼号作戦(れいごうさくせん)であります。

制空権掌握のため

昭和19(1944)年12月15日早朝、アメリカ軍がフィリピン・ミンドロ島に上陸しました。

アーサー・D・ストラブル少将

アーサー・D・ストラブル少将

アーサー・D・ストラブル少将指揮下の軽巡ナッシュビル・護衛駆逐艦12・高速輸送艦(APD)8・戦車揚陸艦(LST)30・中型揚陸艦(LSM)12・歩兵揚陸艇(LCI)31・掃海艇17・その他舟艇14の上陸船団。船団の直接護衛として重巡1・軽巡2・駆逐艦7・高速魚雷艇23。

軽巡ナッシュビル

軽巡ナッシュビル

更に間接護衛として護衛空母6・戦艦3・重巡3・駆逐艦18。

この大艦隊で、アメリカ軍は第19歩兵連隊と第503空挺歩兵連隊、それに基地設営要員も含めて2万7千人の上陸部隊を上げたのでした。護衛として随伴した魚雷艇23隻は島の占領後に駐留・警備にあたる任務も帯びていました。

大東亜戦争の初期にミンドロ島を占領していた大日本帝国は、島の南端のサンホセの周辺を拠点として海軍の水上機基地として使用していました。

地上戦力としては歩兵2個中隊が駐留しているだけで、これに基地要員を含めて合計約1千人が防衛兵力のすべてで、この時はたまたまレイテ島への増援途中で撃沈された輸送船の船員約200人も島に滞在していました。

レイテ沖海戦地図

レイテ沖海戦地図

日本軍が占領してからは、アメリカ軍に友好的なゲリラが時おり出没する程度で、平穏な生活が続いていた島だったのです。

アメリカ軍がこの島を狙ったのは、日本軍の防備が手薄なわりに飛行場の適地が多く、各島への距離も短いためにフィリピンの制空権を確保するために絶好の基地になると思われたからです。

この頃には、既に日本のレイテ決戦構想はほぼ崩壊しており、米軍は山下奉文大将指揮の第一四方面軍が持久態勢を取って待つルソン島を攻略しようという時であります。
大日本帝国が世界に誇った海上戦力はレイテ沖での一連の海戦でほぼ壊滅しており、艦隊としての反撃はもう望めなくなっていました。

日本軍の反撃は不発?

アメリカ海軍は日本の襲撃や逆上陸作戦を一応警戒していたようです。「日本艦隊出撃」の報せで間接護衛隊が攻撃隊を発艦させましたが、「機動艇」で移動していた日本陸軍の部隊でした。

PTボート、ケネディが艇長

ケネディ大統領が艇長だった魚雷艇PT109

 

揚陸も順調で、15日夜には掃海艇2隻と魚雷艇23隻を島に残して離脱、22日には追加物資を満載した輸送船23隻と護衛の駆逐艦11隻がミンドロ島にやってきましたが、当日中に揚陸が完了できなかったのはリバティ型貨物船4隻だけでした。

制空権確保を狙った米軍のミンドロ島上陸に対して、大日本帝国はフィリピン各地に点在する航空基地から、海軍機47機と陸軍機13機(特攻機と護衛をあわせて)が攻撃に向かいました。

この攻撃隊は海軍機が10機ほど帰還するだけ、と言う大損害と引き換えに、上陸船団旗艦の軽巡「ナッシュビル」を中破脱落させ、揚陸中のLST2隻を撃沈するという戦果を挙げています。
その後も海軍・陸軍ともに小規模な波状攻撃を続けたのですが、アメリカ軍第38任務部隊の圧倒的な戦力で日本軍航空戦力は大打撃を受けてしまいます。

LST

戦車揚陸艦LST

陸上でも12月16日にはサンホセが占領されてしまい、第38任務部隊は17日にはミンドロ島を引上げて燃料補給のためにウルシー環礁に引き上げました。

機動部隊による掩護はなくなりましたが、12月20日には占領したミンドロ島の2ヶ所の飛行場が稼動、なんと120機が展開していたのです。

大日本帝国海軍も、ミンドロ島が敵の手に渡るのを指を咥えて見ていたわけではありません。
偵察機の報告では間接護衛隊などを発見できず、船団の護衛が手薄だと考えられたこともあって、水上部隊による反撃を企図したのです。
第三十一戦隊(新設の対潜部隊)の第43駆逐隊・第52駆逐隊の松型駆逐艦「梅」「桃」「榧」「杉」「樫」で突入する計画を立てたのですが、集結前に中止。

続いて第43駆逐隊「榧」「杉」「樫」での殴り込みが計画されましたが故障などで実行できませんでした。

編成

12月20日、南西方面艦隊司令長官の大川内傳七中将は、第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将に対し、麾下の第二水雷戦隊司令官木村昌福少将を指揮官とする「挺身部隊」(以後「礼号艦隊」と記述します)を編成して22日以降にミンドロ島へ突入するように命令しました(礼号作戦)。

これで、ようやく第二水雷戦隊(旗艦「大淀」)を中心にフィリピン近海に散らばっていた大日本帝国海軍の艦艇がかき集められる事になりました。
第二遊撃部隊(志摩中将・木村少将)としては当初駆逐艦だけで12月23日の夜にサンホセ湾突入案を企画していたと思われます。

ところが、作戦実施にあたり、第二遊撃部隊の指揮官志摩清英中将はそれまで座乗していた(旗艦だった)重巡洋艦「足柄」を礼号艦隊に編入、第二遊撃部隊の旗艦を航空戦艦「日向」に変更しています。

1942セレタ-で入渠整備の足柄

シンガポールセレタ-軍港で入渠整備の足柄

フネは集めたものの、突撃は部下の木村少将に任せちゃいます、ってワケです。まあ、南西方面艦隊の命令も「木村少将にやらせろ」ですけどね。

志摩中将は戦後になって
「それならいっそのこと長官(自分の事です)が全部隊を率いて本作戦を指揮する方が適当だとも考えたが、木村司令官の面子もあり、計画の変更は徒らに事を紛糾させる虞があるので、歴戦の経験者たる木村司令官に一任することにした」

とか言ってるんですね。電脳大本営はこういう言い訳ほど嫌いな物がありませんので、ちょっと批判的に書いてしまいました。

「礼号艦隊」の編成は次のようになります。

大日本帝国海軍 「礼号艦隊」(司令官・木村昌福少将)

第一挺身隊=旗艦:駆逐艦「霞」・一番隊:駆逐艦「清霜」「朝霜」二番隊:駆逐艦 「榧」「杉」「樫」
第二挺身隊=重巡洋艦「足柄」軽巡洋艦「大淀」

朝潮型駆逐艦

「霞」同型の朝潮型駆逐艦

12月22日夕刻、礼号艦隊はカムラン湾に移動し給油作業など出撃準備が進められ、25日夜にミンドロ島への突入が計画されたのですが、天候悪化などで26日夜の突入に変更されました。

これを迎え撃つことになるアメリカ海軍の方でありますが。
主力の第38任務部隊は既に戦場にいませんでしたが、ミンドロ島の基地航空機が120機もいました。
さらに、「礼号艦隊」を発見すると周辺の艦隊から一部をT・E・チャンドラー少将に指揮させて迎撃に向かわせます。
チャンドラー艦隊(司令官:T・E・チャンドラー少将)=重巡「ルイビル」「ミネアポリス」軽巡「フェニックス」「ボイシ」駆逐艦8隻

リバティ型輸送船

リバティ型輸送船

なお、在泊の艦船は荷役が終わらなかった輸送船が4隻と魚雷艇10隻。

出撃

「礼号艦隊」は昭和19年12月24日、美髯提督木村昌福少将座乗の旗艦「霞」を先頭にインドシナのカムラン湾を出撃。艦隊は初めマニラに向けた偽装針路を取り、24・25日は米軍機の触接もなく順調に進撃できました。

26日未明に進路を南南東に変え、ミンドロ島への針路とします。

11:37、南西方面艦隊司令部から
「飛行偵察ノ結果、ミンドロ方面ノ敵艦船少ナキガゴトキモ、本状況ハ一両日間変更ナキモノト認メラルルニツキ、予定通リ本夜突入スルヲ可ト認ム。」
と入電があり、木村司令官は突入の決意を固め、麾下艦隊に次のように訓示いたしました。

挺身部隊ハ予定ドオリ突入ス。各隊ハ一層警戒ヲ厳ニシ、敵ノ奇襲ヲ未然ニ封ジ、全軍結束、作戦目的ノ達成ヲ期セ

16:25、重巡「足柄」から水上偵察機を射出(対潜警戒のため?)するのとほぼ同時に「礼号艦隊」はB-24リベーレーター爆撃機に発見されてしまいます。

「足柄」では『日本艦隊あり、北緯12度48分・東経119度12分、戦艦1・巡洋艦1・駆逐艦6、針路90度・速力28ノット』との電文を傍受した記録があり、発見されたことを認知していた事が判ります。

B24リベレータ

B24リベレータ

木村司令官はこれを全く意に介せず、そのまま「礼号艦隊」を進撃させます。
18:00頃からB-25ミッチェル爆撃機やP-38ライトニング戦闘機などが艦隊上空に姿をみせたものの、機数は少なく周辺を飛行しても攻撃をかけてくることはありませんでした。

礼号艦隊上空にやって来た米軍機はミンドロ島に展開した航空部隊でした。
ミンドロ島の航空部隊には爆弾などの備蓄が不足しており、すぐには艦隊攻撃の兵装が出来なかったのです。

慌てた第7艦隊では、チャンドラー少将の指揮の下で一部の艦を迎撃に向かわせなければなりませんでした。

ミンドロ島には輸送船4隻が残っており、警戒用の魚雷艇10隻が在泊中。輸送船はマンガリン湾内のイリン島の島影へ隠れ、魚雷艇群は迎撃態勢に入っています。

この日、フィリピン諸島は18:39に日没を迎えましたが、天候は晴で月齢も11。夜になったと言っても「礼号艦隊」は上空から丸見えで、ようやく爆装を完了したミンドロ島基地の米軍機が艦隊を襲ってきました。

20:45、朝霜が狙われましたが、命中弾はなし。ただ、これをきっかけにしたように続々と米軍機が襲来し、21:01「大淀」に爆撃が集中。
「大淀」には250kg爆弾が2発も命中したものの、爆弾は不発でした。

一発は艦橋脇を貫通して海中へ落下、もう一発はそこまで幸運ではなく、甲板を貫通して罐室の直上まで達しました。不発でなければどうなったことやら。

軽巡大淀

軽巡大淀

次に「清霜」が狙われ一弾が機関室を直撃して、航行不能になると同時に浸水が始まりました。
艦隊の他の艦に「清霜」を救助する余裕などある筈もなく、洋上に停止して炎上する「清霜」を残して礼号艦隊はミンドロ島へと急ぎます。「清霜」はその後30分で沈没してしまいました。

この空襲では「清霜」の喪失の他にも「足柄」の魚雷発射管附近に引き起こしをミスったB-25が衝突、大火災を起こしています。「足柄」の乗員70名以上が死傷し、装填してあった魚雷を投棄することになってしまいました。

突入ス

ついに「礼号艦隊」はマンガリン湾口に達し、突入を開始しました。

23:00、輸送船4隻に対して「霞」が4本「樫」「榧」それぞれ2本の魚雷を発射、3隻以上を撃沈破(アメリカ側では、輸送船「ジェームス・A・ブリーステット」の大破炎上)。

艦隊は一切ためらうことなく、海岸の物資集積所に対して砲撃を開始、20分にわたって射撃を続けました。

この戦闘中、足柄から発進した水偵(機種不明)が照明弾を投下して艦隊を支援、水上偵察機「瑞雲」も3機が飛来して魚雷艇を牽制・襲撃して礼号艦隊を援護しました。

米軍の記録では魚雷艇数隻が航空機の攻撃で損傷しています。

大日本帝国陸軍も戦闘機8機と重爆撃機1機を出動させて飛行場を爆撃・炎上させました。

帰投

12月27日00:04木村少将は攻撃終了を下令、礼号艦隊は避退行動に移りました。

航空機の攻撃が心配される中、木村少将は
『之ヨリ旗艦ガ「清霜」ノ救助ニアタル。各艦ハ合同シテ避退セヨ』
と命じます。

駆逐艦「朝霜」

駆逐艦「朝霜」

上空に敵機が乱舞し魚雷艇の襲撃も危惧される中で、木村司令官は駆逐艦2隻「霞」「朝霜」を率いて「清霜」の生存者を捜索・救助するというのです。

逃げる礼号艦隊を追尾してきた2隻の米魚雷艇が「霞」「朝霜」に攻撃をしてきたのですが、司令官の命令を無視して周辺で警戒に当たっていた「足柄」と「大淀」が「霞」の前に立ちはだかりました。

この木村少将の行動で「清霜」の乗員342名のうち艦長以下258名が救助されました。
5名がその後アメリカ軍魚雷艇に救助され、戦死・行方不明は79名となったのでした。

この行動こそ、木村昌福少将の真骨頂でありましょう。
指揮官の誠実さは部下将兵の献身を導きます。美髯提督の戦功はキスカ救出にとどまりません。

02:15、2隻の駆逐艦は救助活動を終了して先行の「足柄」「大淀」「樫」「榧」「杉」に追いつきました。米軍機の空襲に対処するため、ココからは航続距離の短い松型駆逐艦3隻(樫・榧・杉)を分離して行動することになります。

木村少将が直率した4隻(霞・朝霜・足柄・大淀)は12月28日18:30カムラン湾に帰着。
別行動の松型3隻は近くで米潜水艦に撃沈された給糧艦「野埼」の生存者を救助した上で翌日の正午、同じくカムラン湾へ無事帰投できました。

給糧艦「野埼」

給糧艦「野埼」

迎撃に派遣された巡洋艦4隻、駆逐艦8隻からなるチャンドラー艦隊は礼号艦隊をまったく捕捉出来ませんでした。

結果

この「礼号作戦」で、アメリカ側の損害は輸送船1隻の喪失と魚雷艇数隻損傷、飛行場の施設も若干の損傷、荷揚作業が一時中断。

航空機は26〜31機を喪失(うち20機が直接の戦闘による喪失、残りは滑走路が破壊されて着陸できず/米側公表資料)。

美髯提督・木村昌福

美髯提督・木村昌福

大東亜戦争の大局にはなんの影響もなく、フィリピンの攻防にも蚊の羽音ほどの効果もありませんでした。
しかし、この勝利は栄光に包まれてきた大日本帝国海軍が、組織的な戦闘で上げた「最後の勝利」と言えるでしょう。

圧倒的な制空権と強大な水上戦力に、適宜対応しながら進撃して作戦目的を達し、我が方の損害は一隻のみ。それも出来る限り水兵さんを救い出しています。

陸軍の飛行機も含めて、適宜なエア・カバーも掛かりこの時期としては理想的な作戦だったと言えるでしょう。

しかし、そうは思わない軍人もいます。

本作戦は、敵に与えた損害よりは味方の受けた被害の方が遙かに大で、戦略的には何等の価値もなく、徒らに敵をしてこの方面に兵力の増援と警戒心を喚起せしめただけだった。直言すれば、我が航空部隊に対する激励と、対陸軍あるいは対内的申訳作戦というの外はない。兵力に十分の余裕のあるときならとにかく、今日のような兵力激減の情況において、単に最高指導部の面目を慮り、貴重な僅かの兵力を無意味に使うようなことは最も戒めなければならない

これは『帝国海軍 提督達の遺稿』と言う資料に出てくる志摩清英中将(木村昌福少将の上司)の言葉です。

一方で木村昌福少将の海軍兵学校同期である草鹿龍之介中将は次のように言っています。

彼は兵学校の卒業成績こそ最後尾にちかかったが、細心大胆の天性は若い時から名駆逐艦長として、その操艦の手腕と部下統率の人格は儕輩をぬき、将来を嘱望されたのであったが、果たして今次戦争において、キスカ撤退戦、あるいは「多号作戦」などにおいてよく難作戦をみごとに完遂し、その天分を発揮したのである。が、この「礼号作戦」においても大胆果敢なる突入により、所在敵艦船をほとんど掃滅し、わがほうはわずかに駆逐艦一隻を失ったのみで、当時沈滞を免れなかったわが戦局に、一抹の涼風をおくったのである。

どちらの感想にも一理ないわけではありません。
ありませんが、私は言いたい。志摩清英さん、貴方スリガオ海峡で西村艦隊がボコられるのを見て逃げちまったじゃないか!

志摩清英

志摩清英


まあ、いろんな見方が出来るからな、言い訳だっていろいろ出来る。

でもね、この作戦も貴方が指揮を執ることだってできた筈だけど、下に投げちゃったじゃないか。
闘わない奴は何も言うな、ってのが電脳大本営的な「戦訓」でありますね。

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