大東亜戦争中の機関車

翔鶴

大陸軍国ロシアが隣国への侵攻に失敗しつつあります。その原因にはいろいろあるんでしょうが、補給・輸送の失敗も良く取り上げられるところです。

鉄道は高効率

陸上輸送、それも「そこそこインフラが整ってる」地域では、鉄道の効率が非常に高い事は言うまでもありません。

今回のウクライナ侵攻では空港の争奪はニュースになってましたが、鉄道の方はあまり報道されないんで「不思議やなぁ」と思ってます。

ロシア軍は侵攻後数日で決着、と思ってたみたいなんで、鉄道のことなんて、端から考えもしなかったのかな?

大日本帝国も、陸軍には専門の訓練を受けた鉄道聯隊がちゃんとあったんですが、今回は国内の鉄道のお話です。

日本国有鉄道の機関車に「戦時型」があった、ってのは皆さんご存知でしょうか?

「鉄ちゃんスチーム部」の皆様には常識的なことかも知れないのですが、このサイトを読んでくださるミリオタや愛国指向の方は案外ご存じないかも?と思いまして紹介させていただきます。

D52型蒸気機関車

http://sl-index.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e1/sl-index/D52_468.jpg?c=a0

 

大東亜戦争は石油確保のための戦争だった、と言うのは何度も指摘させていただいてますし、電脳大本営の基本的な立場でもあります。

そのことは、当時の軍部(という言い方は大嫌いなんですが)も政府も十分判っていて、事前に研究もしていました。

だからこそ、当時の日本の需要を十分に賄える「パレンバン油田」を開戦早々に占領することが出来たんですが、この石油を国内に運ぶことに関しては主担任の海軍が全く無関心でした。

もっとも海軍にすべての責任を押し付けることは出来ませんけれど。

やがて戦勢が大きく傾きだすと客船や貨物船は軍に徴用され、米軍による機雷封鎖もあって内航運輸の輸送力も不足してまいりました。

もともと島国であることを活かして、船舶による輸送は日本の産業を支えていたのです。
その船舶による貨物輸送が出来なくなってしまい、鉄道による貨物輸送に期待が集まることになりました。

特に石炭を燃やして走る蒸気機関車なら、貴重な石油を消費することなく、大量の貨物輸送が可能であります。

戦時型蒸気機関車

そのような状況にあった昭和18年から生産がはじまったのが、「D52型蒸気機関車」でした。

1200トンもの貨物列車(貨車1両で10トン見当です)牽引し、東海道・山陽本線・函館・室蘭本線などで運用できるように、有名なD51(デゴイチ)型を改設計しボイラーを思い切って大型化した機関車です。

と言ってもターンテーブル(転車台)の大きさやカーブのきつさもあって、車体の長さは制限されています。
したがって、ボイラーもむやみに伸ばすことは出来ません。
やむなくボイラーの径を巨大化して、日本の蒸気機関車としては最高の1,660馬力を実現しています。
おおっ、戦中の昭和18年から生産してるのに、「わが国最高馬力」だぜぃ!

しかし、その設計・製造に当たっては苦労の連続だったようです。

物資が極端に不足して鉄や銅が使えず、木材など代用材が多数使われるなど、造りとしては非常に質の悪いものだったのです。

戦争を完遂(当然勝利で終わる)するまで数年だけ持てば良い、または走ればよいという設計思想だったそうで、これは「戦標船(戦時標準船)」と同じ発想ですね。

陸の戦標船

もっとも戦標船のほうは「どうせ沈められるから」だったんですし、実際にボカボカ沈められました。っていうか、フネとしての安定性に不安があるからなかなか外洋に出して貰えずに生き残ったフネも多いんですけどね。

D52型蒸気機関車の場合、陸上を走ってますので、沈められようが無いんですが、代わりに自分で壊れちゃったみたいです。
走行中に異音がしたかと思う間もなく、ボイラーだけ吹っ飛んじゃった例もあります。

ただ、悪いことばかりではありませんでした。

蒸気機関車というモノは、この当時ですでに技術的に完成の域に達していました。ですから、新型と言っても保守的な設計ばかりだったんです。

そんなときD52型の設計で苦労したおかげで、工作法や材質面で大きな前進を見ることが出来たんです。その前進が戦後の躍進につながった、と言われています。

この機関車の完成を聞いた東条英機首相は、わざわざ操車場へ足を運んで技術者たちを褒め、気になってることを尋ねました。
「この機関車はいつまで保つのかね?」
「はい、勝つまで走り続けます!」

多忙な首相が、ご満悦で引揚げたことは言うまでもありません。

敗戦後、まだ無事に動いていたD52は改造されてC62型のベースとなったり、そのまま補修されて使われたりしましたが、大部分はさっさと引退となってしまいました。

電気機関車も

「戦時型」が作られたのは蒸気機関車だけではありませんでした。
電気機関車でも「戦時標準型」が作られていきます。

この当時、全国的に見ると、ほとんどの路線は蒸気機関車が牽引していたんですが、都会近くの幹線は電化が進んでいました。

ここで使うための貨物用電気機関車として作られたのが「EF13型」でありました。EF13型には代用材料と簡易工作がテンコ盛りでして、コンセプトはD52型とおなじです。
EF13型

EF13型

電気機関車って、横から見ると長方形なのが普通ですけれど、このEF13型は凸型になっています。
なるべく使う材料を少なくしようと言う工夫なんでしょうが、これって表面積が減ってないような気がします。

必要な機器すらケチったようで、線路が滑ったときの「砂撒き装置」も無かったそうな。スリップしたら運転手が降りて撒いたんでしょうか?

戦車1両ぶんのコンクリート

こうして軽量化したら、今度は困ったことが起きてしまいました(っていうか、初めから判ってたでしょうけれど)。

あまり軽いと摩擦が少な過ぎてスリップし易くなってしまうのです。

クルマで言えばトラクションの問題ですな。車の場合は操縦性やブレーキングの問題もあるから、駆動輪側に車重を掛けりゃ良い、ってモンでもないけど。
まあ、それでも駆動輪にある程度の重量が掛らなきゃ、どんな高性能車もその能力を発揮できるわけがない。

まして電気機関車は鉄のレールの上を鉄のワッカで走るからな、スリップ上等!状態だから、車と違って軽量化しても良いことはあまりないのだ。

そのため、軽くなりすぎたEF13型では、その分をコンクリートを積み込んで補っていたんです。
重量なんと16.4トン!(ちなみに九七式中戦車の重量は15トンほどです)

九七式中戦車チハ(新砲塔)

九七式中戦車チハ(新砲塔) Wikiからパクリました

 材料をケチって重量を減らし、重量を減らし過ぎて戦車1両分のコンクリートを積んで、と無駄と矛盾だらけにみえますが、コレにはたった一つだけですが理に適っていたことがありました。

それは、運転席にコンクリートを使った「防弾装置」が完備していたこと。

材料ケチリで薄っぺらな鉄板しか使えなかったので、2枚の薄い鉄板の間にコンクリートを挟んだもので運転席を囲ったんだとか。

人材払底

この頃、機関車の運転手(機関士と機関助手)は「35歳」と言われていたそうです。

35歳というのは一人ではありません。
機関士が18歳、機関助手が17歳、あわせて35歳なんです。

 大東亜戦争末期の日本は人的資源すらそこまで追い詰められていた、と言うことです。

英霊方の特攻を肯定的に見る人(私だってこの立場です)でも、

「鉱物資源は無くても、人的資源は有り余ってたから(特攻させた)。」のようなご意見をおっしゃいますが、そんな事はありません。

いろいろな職場の中核の人材は戦場に行ってしまっています。
蒸気機関車の乗務は重労働ですから「35歳コンビ」(「蒋介石機関士」という呼び方もありました)を起用しましたが、他の交通機関には女性が多く乗務していました。

働ける人間は完全に払底していたのです。

復職した機関士の責任

戦争で勝てなかった責任を、仕事で果たそうとしてきました
と語る機関士がおられました。旧国鉄、青森機関区所属の阿部康一郎と言う人です。

阿部氏はすでに機関士に登用されていた(戦前は石炭を投げ込む「機関助手」になるのにテストがあり、成績良好な機関助手が機関士に抜擢されました)のですが、大東亜戦争開戦前に海軍に応召、航空機の整備兵となりました。

機関士ということで、特別扱いで機械モノ担当と言うことでしょうか、空母「翔鶴」の乗り組みとなります。

昭和17年10月、南太平洋海戦で艦載機が発艦した後、阿部氏は休憩を取ろうと兵員室へ。ところが兵員室は兵科(砲術・水雷など、搭乗員は別室)の水兵さんたちで満員でした。

真珠湾攻撃準備中の瑞鶴、後方翔鶴

真珠湾攻撃準備中の瑞鶴、後方に翔鶴が見えます。

兵員室は兵科優先ですから、ムリに入ることは出来ません。あきらめて持ち場へ帰った直後、米「ホーネット」の艦爆隊が500キロ爆弾4発を命中させました。
そのうち一弾は兵員室を直撃したのでした。

九死に一生を得て復員、復職した阿部氏は機関士の仕事に邁進します。
復興のために、人も食糧も石炭も大量に運ばなければなりませんでした。

戦争は終わっても、わが国得意の海運は米軍の「飢餓作戦」でばら撒かれた機雷が残っていて、とても運行できたものではありません。

いきおい、鉄道に負担がかかります。

鉄道輸送には、路線や機関車によって貨車何両まで引っ張って良い、と言う規程がありますが、そんなモノを守っていては、石炭も食糧も必要なところに届けることが出来ません。

蒸気機関車の機関士や機関助手たちは、「職人」でした。

自分達が骨身を削れば、国鉄(JRの前身)の規程がどうあれ、それ以上の貨車を引っ張ることが出来ました。
阿部氏だけでなく、復員した機関士たちは戦後も国と国民を護る戦いを続けたのであります。

規程以上に連結した貨物列車を、敗戦の責任を背負い込んで文句一つ言わずに引っ張るうち、阿部氏の技量は旧国鉄でもトップに上り詰めていました。

昭和29年8月、敗戦後からお続けになられた昭和天皇の全国ご巡幸が青森にやってきたとき、阿部氏はお召し列車の正機関士に選ばれたのであります。

「お召し列車の正機関士」は素行や家庭環境も審査されますが、もちろん第一のポイントは運転技量です。

運転時間(正確さ)、黒煙のほど、ブレーキ操作には完璧以上が求められます。

お召し列車は営業列車よりも連結車両が少なく、火力はそれほど必要ないのですが、その分火床が薄く、安定しないので運転が難しいのです。

全国巡幸1

全国ご巡幸 昭和大帝は献身的に国民を励ましてくださいました。

 

阿部氏の担当運転区間は八戸(当時は尻内と言ったようです)から青森まで。
途中ですれ違いの列車も無いようにダイヤが調整されていましたが、青森駅が難関だったそうです。

ホームの柱の間隔が狭くて、陛下のご降車位置の絨毯が見えません。しかもホームの真ん中が頂点になって、僅かに勾配が付いている悪条件。
悪条件下であっても、ショックもなく緩やかにピンポイントで止めなければなりません。

練習を重ねた阿部機関士運転のお召し列車は、ドンピシャの定刻、滑るかのように青森駅に入線すると、音もなく停車。
停止位置には1ミリの狂いも無かったそうです。

一人の戦い抜いてくださった戦士が、敗戦の責任からちょっとだけ解放された瞬間だった…と私は思います。昭和大帝の偉大さを再認識しつつ…。

もちろん、戦争に勝てなかった事は、整備兵の阿部さんになんの責任もあろう筈がありません。

それでも責任を感じ、復興に献身した多くの日本人の代表の一人として紹介させていただきました。

 

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