総統の贈りモノ

サブマリン707から

私ども大日本帝国臣民(の後裔)は、わが帝国からはるばる海底経由で欧州の同盟国まで、連絡路を拓いた潜水艦のことは良く知っております。

お手本?

前後5回・5隻の遣独潜水艦のうち、欧州の地にたどり着いたのは伊三十・伊八・伊二九の3隻。
無念にも伊八を除く2隻は帰国途上で、触雷や浮上中を雷撃されて沈没。
「欧州との連絡」の任務を全うできたのは、第二回の伊八ただ一隻でありました。

ロリアンを出港する伊29

ロリアンを出港する伊二九

大日本帝国海軍のドン亀乗りは、電脳大本営的に「世界一のサブマリナー」なんですけど、超優秀な水兵さん達をもってしても、地球半周以上の敵対海面を(ほぼ)無寄港で往復するのは至難の業だったんですね。

ところが、であります。コチラから行けば、向こうからもやってくるのが世の常ってヤツでして。
盟邦ドイツも「潜水艦自慢」、って言うか実戦参加潜水艦の発祥のお国でありますから、連絡潜水艦を寄越そうとしました。

って言いましても、ただ連絡に行けば良い、ってわけじゃありません。
お互いに不足する戦略物資や新兵器の設計図やら見本やら、積んでいく必要があります。

ドイツの誇るUボートには、いくつかの型があります。
しかし、この任務に就くためにはみんな小さかったんです。
主戦場が太平洋よりはるかに小さい大西洋で、敵の索敵能力も密度も太平洋よりずっと濃いので、仕方は無いんですけど。
大きいとどうしても見つかり易いですから。

瀬戸内海を航行するコマンダンテ・カッペリーニ(UIT24)

瀬戸内海を航行するイタリア潜水艦「コマンダンテ・カッペリーニ」(UIT24→伊503)

そこで、総統閣下はイタリアの潜水艦に目を付け、コレを大日本帝国に派遣したんでありました。この話は別記事に書いております。

そのイタ公の潜水艦は、無事に東洋の同盟国に到着しましたが、欧州の戦況は思うに任せず。
大日本帝国の快進撃も止まり、大英帝国の戦力は増強されるばかり。

そんな時にふと地図をみると、大英帝国の重要補給ルートの一つである「インド洋」の東端に、同盟国の占領地があるじゃないですか!それも港湾施設の整った…(シンガポールの事でっせ)。
⁂呂500の航海地図を、後で載せておきますので、そいつをご覧くだせぇ⁂

此処を拠点にして、大日本帝国にインド洋の通商破壊をしてもらおう。
彼らの潜水艦はデカくて騒音も半端ないし、見つかり易いけど、水兵は優秀だからな。

ブレスト軍港の伊八

騒音のハンパない潜水艦「伊八」と超優秀なサブマリナー(ブレスト軍港にて)

うむ、わが国のUボートを数隻、「通商破壊用お手本」として送ってやろう。

ってな風に相当閣下がお考えになったかどうか?はまったく判りませぬが、歴史は(表面的には)そういう風に流れてまいります。

そのお手本潜水艦こそ「U511」改め「呂500」なのであります。

U511

U511潜水艦は1941年2月21日、ドイツ造船ハンブルク工場の307番ヤードで起工されました。この年の9月22日には早くも進水。
年末、地球の反対側の同盟国の参戦を待っていたかのように竣工(12月8日)します。大日本帝国へ行く運命だったんですな。

ただ、この時はまだ運命はそのカゲすら見せず、初代艦長のフリードリッヒ・シュタインホフ大尉の指揮で訓練にあたります。

wikiによると
「1942年5月からU-511を使用して、30cmヴルフケルパー42ロケット弾をUボートから発射できるかの実験を行った。ペーネミュンデ陸軍兵器実験場所属で、艦長の兄であるエルンスト・シュタインホフが協力した。」
となっておりますが、儂の理解では弟(U511艦長)の方が「協力」したんだと思うぞ。

U511ロケット水中発射実験

U511ロケット水中発射実験(プラモの箱絵をパクリますた)

ドッチが協力しようが、兄弟の話ならどうでも良いけど、陸海軍間となるとそうもイカン。特にこの実験はロケット弾の水中発射だからな。

まあ、でも本記事の主要テーマでは無いから、ココでやめることにします(ホントは勉強不足でネタが無いのだ)。

U-511はこの実験の他は順調に訓練をこなし、大西洋へ3度出撃し戦果も挙げています。

この後、艦長が交代して1943年5月10日、フリッツ・シュネーヴィント艦長の指揮の下でロリアンを出航、喜望峰を回りインド洋に入るのであります。

U-511の「譲渡」については、しょうもないスッタモンダもありまして。
U-511とともに、相当閣下は「U1224」も大日本帝国に送ろうとしています。遣唐使船じゃないけど、長途の航海は危険だから、複数のフネで、ってことなんでしょうか?

で、ですね。このU1224には日本から乗田貞敏少佐を長とする廻航要員が、伊八潜に便乗して行ってるんです。
つまり、U1224の譲渡方法は数ヶ月前に日独間で「話が付いてた」ワケです、代金の支払い云々も含めてね、たぶん。

一方で、U-511には廻航要員が行ってない。
普通に考えれば、日独どちらのサブマリナーも優秀ですが、いつも戦ってる戦場が違う。
どちらも経験豊富と言っても、技術が伸びていく方向が違うんですね。

ですから、両国のサブマリナーを、別々の潜水艦に乗せて送り出す方が
「どっちかだけでも目的を達成する可能性が高い」
と判断するのが当然でしょう。

ところが、U-511は廻航要員が行かなかっただけじゃなく、譲渡方法も未定だったようなんです(笑)。

帝国海軍は「当然くれるんだろ。」的な図々しさ。対してドイツは「建造法からメンテナンス法までセットで売ってやる。」(←ココ割と重要)的な殿さま商売だったようです。

この両海軍の醜いやり取りを見た相当閣下が
「U511は大日本帝国へのプレゼントじゃ、第三帝国の水兵が運んで行け」
と仰ったので、無償譲渡になった…とされています。

「U511」(として)最後の出撃!は、大日本帝国への遠路はるばるのプレゼント運びとなったのでありました。

この「最後の出撃」には通常の乗員以外に、新任の駐日大使ハインリヒ・ゲオルク・スターマーさんやドイツ人科学者や技術者が便乗しています。

それに加えて、ベルリンに駐在していた「三国同盟軍事委員」の野村直邦大日本帝国海軍中将も乗っていました。

野村直邦中将

最短記録ホルダー、野村直邦中将

いや、野村提督に悪意を抱いてるワケではないが、大日本帝国海軍のサブマリナーが運航する潜水艦もいるんだから、大日本帝国の提督ならソチラに乗るべきだと思うんだが。

まあ、U1224は大西洋で撃沈されちゃって、艦長以下全員戦死だから、野村さんがコッチに乗ってたら「あの記録」は出来なかっただろうけど。

「あの記録」とは、「閣僚在任最短記録」でありまして。

野村提督さんったら、無事に帰任されると、昭和19年の7月17日に東條内閣の海軍大臣にご就任。
7月17日にはたしかに親任式を済ませておられるので、海軍大臣におなりになった事は間違いナシ。

しかし、肝心の東條内閣は翌日、すなわち昭和19年7月18日に総辞職しちゃうのであります。
とうぜん、野村さんも辞任でしょ。「総」辞職なんだからさあ。

つまり、在職1日www。

Wikiなどでは何故か、後任の米内光政が海軍大臣(小磯國昭内閣)に親補されるまでの4日間も「海軍大臣職」にあった、とされています。
たぶん大戦争中に海軍大臣空席…ってワケにも行かなかったんでしょうな。
でも、ホンマのところは親任(天皇陛下が「海軍大臣になれ」って命じてくださる事だぞ)の翌日に辞職の「一日大臣」。

わが滋賀県の誇るピンク・ザウルス(=元総理の宇野宗佑さん)でさえ、69日「も」その地位にあったのになwww。在職日数と体位は直接の関係はないと思うぞ。

米内光政

後任大臣の米内光政

三日天下より短い壱日大臣…空前絶後の大記録は、帝国(の水兵さんの)潜水艦に乗らなかったから誕生したのであります。ちょっと口惜しい気がする。

呂500

シンガポールのペナン軍港は、帝国海軍のインド洋における一大拠点となっておりました。
モンスーン・グルッペと呼ばれる、インド洋での通商破壊を担うドイツ潜水戦隊も、帝国海軍の支援を受けつつ此処を根拠地として作戦を継続していたのです。

U511はペナン軍港にいったん入港して「呂500」と名乗りを変え、補給とメンテナンスを行っています。
驚くべきことに、長途の航海による損傷は皆無だったとか。

日本までの航路誘導のため、ってな名目で奥田増蔵海軍大佐以下4名の日本人が、U511改め呂500に乗り込みます。実際はこの驚異的な潜水艦の性能調査を、一刻でも早くやりたかったのでありましょう。

Uボート

Uボートイラスト

呂500は7月24日にペナンを抜錨。

マラッカ海峡を抜けちゃうと、当時はまだ比較的安全な海域だった…筈なのですが。

U511は7月29日に南シナ海を北上中、攻撃を受けちゃうんであります。

高雄からシンガポールに向う帝国の「ヒ3輸送船団」が航行中だったのですが、U511と遭遇したんですね。
奥田大佐は発光信号で味方識別信号を送るなどで、友軍であることを伝えたのですが、U511の船体塗装が明るいグレー塗装だったためか、ヒ3船団は信用せずに砲撃を開始したのです。

太平洋に比べると、大西洋は海水が明るく見えるようです。
コレに合わせたU511の塗色は、帝国潜水艦の黒色に近い塗装を見慣れた目には異様に映ったのでしょう。

奥田大佐は懸命に手旗信号を送って「味方じゃあ!」と訴え、ついに砲撃は中止されます。
船団側はこんな不審潜水艦の航行情報は貰ってませんから、臨検のために海防艦「択捉」を指名して呂500に接近させます。

この択捉に奥田大佐が詳細な説明を行い、ついに「説得」に成功したそうです。

昭和18年8月7日、U-511は母国から約90日の航海を終えて日本に到着。帝国海軍の大根拠地呉に入港いたします。

呂500の航跡

呂500の航跡

ココからしばらくは
「不撓 日独潜水艦協同訓練時代を偲ぶ」
と言う、帝国海軍機関兵曹長だった山本勲氏がお書きになった回想録(残念ながら私家本)の記述を参考にさせて頂きながら、U-511の「活躍」ぶりを見ていきましょう。

 

山本兵曹長はU-511の要目を、次の様に記しておられます。

偉そうに

排水量:750トン、満載排水量:1120.84トン、常備排水量:1007トン、全長:76.76メートル、吃水線長:75.76メートル、
幅:6.7メートル、内殻直径:4.40メートル。

主砲:10.5(私家本には単位が書いてないんだけど、糎=㎝で間違いないと思います/以下兵装については同じ)×1、機銃:20(粍=㎜)×2、20(粍=㎜)×1、魚雷発射管:53(糎=㎝)×6、予備魚雷:53(糎=㎝)×8、機雷:42(糎=㎝/このクラス、UボートIXC型は魚雷発射管から敷設する機雷を積んでたようで、そうすると内径が合いませんが)×8。

軸馬力:4400馬力(マン社製2200馬力2基)、水中軸馬力:1000馬力、燃料:64.35トン。
水上最大速力:18節(ノット)、水中最大速力:7.2節、水上航続距離:18節(で)4400浬(カイリ)、12節11000浬、水中航続距離:5節59浬、4節130浬、安全潜航深度:123メートル、航続日数:84日。
乗員定数:47名

U511のサブマリナー歓迎の様子

U511のサブマリナー歓迎の様子(国会図書館所蔵の写真、以下同様)

山本兵曹長をはじめとする乗員は、言葉や生活習慣の違いに途惑いながらも慣熟訓練に励みます。

日本側が一番驚かされたのは、やはりメンテナンスの部分だったようです。山本兵曹長は機関科だから余計に、かも知れませんが…

(山本兵曹長曰く)帝国海軍の潜水艦ならば
「一行動終わると、兵員により厳重に各部点検が行われ、特に重要な燃料ポンプ及び噴油弁の調整は時々精密に行われ」
る筈なんですが。
私たちの抱くイメージもまさにその通りなのですが、先進的な技術を誇る同盟国の水兵さんはそれら機器の調整方法を知らなかった(!)のです。

山本兵曹長が身振り手振り「も」(たぶん「だけ」だと思う)駆使して「調整しなくて良いのか?」との真っ当な疑問をぶつけると、

「そんなに調整しなくてはならないような機械を、ドイツでは作っていない」

と、思いっきり非科学的かつ上から目線のご返答だったそうです。

軽合金製のピストンリングにも耐磨環がついていませんでしたが、コレも「ドイツにはそもそも磨耗する材質のモノがない」から。

日本では出港45分前に行う主機械の試運転、電池充電について尋ねてみると、
「そもそも試運転の必要がある機械を、ドイツでは作ってない。」とかドイツの水兵さんが偉そうにご返答。

U511のサブマリナー歓迎の様子

U511のサブマリナー歓迎の様子

山本兵曹長さんは儂などより総統相当に素直なご性質のお方らしく、「日独間の基礎的工業水準は隔絶的」などと嘆息なされるのじゃが。
儂はドイツ水兵が遠い異国に「島流し」になって強がってる、様に思えるんだけどな。
独逸の機械がドンだけ良いか知らんけど、出港45分前に行うのは試運転って言っても「始業前点検」みたいなモンだろ?

始業前点検やらねぇプロなんて、現在の世界一の技術大国(日本)にだって居ねぇと思うぞ。
冶金技術がドンだけ優れてるか知らんが、磨耗しない材なんてあるわきゃねぇし。

とは言っても、やはり日独の優劣はあったようで、特に機械経験の豊富だった山本兵曹長は工具一つなどから金属の「材質の優秀さ」を観じていらっしゃいます。

工具なんかに使ってる金属にも優劣が出る、ってのは冶金の基礎技術のレベルが大きく違ってたことを意味してますから(と儂は思う)ね、海軍中枢は憂慮すべきなんですが…

さらに山本兵曹長さんは、ご担当だったエンジンについてこまかく観察されています。
つまり、独逸海軍はUボートに単一方式(マン社製、帝国海軍では「マ式」と呼んでます)を一貫して採用しており、コレがメンテナンス性の良さに直結してる、と言うことであります。

作戦海域の違い…だけか?

山本兵曹長の驚きはコレにとどまりませんでした。

その驚きを実際に確認するために、U-511(呂500)とほぼ同規模の大日本帝国オリジナルの潜水艦の要目を紹介申し上げましょう。排水量で合わせると、海中6型(呂33型)が適当かな?

海中型の艦内

海中型の艦内

基準排水量:700トン(水中1200トン)、全長73.00m、全幅6.70m、吃水3.25m。

兵装:40口径八八式8cm高角砲1門、13mm機銃1挺、53cm魚雷発射管4門(艦首)、魚雷10本

機関:艦本式21号8型ディーゼル2基+電動機、2軸推進(水上3000馬力・水中1200馬力)。

速力:水上18.9節(ノット)水中8.2節、航続距離:水上12節8000浬(カイリ)、水中3.5節90浬。

安全潜航深度:75メートル。乗員61名。

良く知られていることですが、大日本帝国海軍は保有する潜水艦を排水量で区分し、1000トン以上の艦は「伊号」、1000トン未満は「呂号」、500トン未満を「波号」としていました。

このうち、帝国海軍の一線級潜水艦はすべて伊号でありました(大東亜戦争後半には呂号も太平洋戦線に投入)。
フネは大型なほど外洋航海に適する、と言う一般論からすると、作戦海面が広大な太平洋で、その太平洋を挟んだアメリカを仮想敵国としている以上、大型潜水艦を重視するのは当然だと言えます。

この点を踏まえれば、「長距離航行用」とされているUボートIXC型の基準排水量が1000トンに満たない、って点から私どもは驚くべきでありましょう。

山本兵曹長はこのご著作を読めばわかるように、理知的なお方でありますので、もっと踏み込んで驚かれます。
兵曹長がもっともビックリされたのは、何だと思われますか?

U511のサブマリナー歓迎の様子

U511のサブマリナー歓迎の様子

この要目中にちゃんと書いてあります。乗員数なんです。

ほぼ同規模の潜水艦で、ドイツ艦の方が47名に対して帝国艦は61名。
ドイツ艦の方が運用としては長期の作戦に投入されるのに、であります。

そもそも、乗組員の勤務体系が違っていました。
大日本帝国は三直制だったのに、ドイツでは二直制でした。

山本兵曹長が仰るに、
「一般に戦闘配置は総員のほぼ三分の一で配置する。日本では昼間当直二時間、四時間は休養と雑務や食事、夜間は三時間当直と六時間雑務と就寝時間、これに比し独潜は各三時間で交代、夜間は四時間で交代、当直勤務になる。」

こまかい交代の様子が良く解んないんですけど、三直を二直で済ませちゃえば、確かに乗員は少なくて済みますね。
「それだとドイツ潜水艦の方が、乗員一人当たりの負担が大きくなってしまう」…と思った貴方!労務担当適任ですね。

ロールケーキなどが有名な某コヤマ洋菓子店に指導に行かれると良いと思いまする(笑)儂の家内もあそこのロールケーキが好きなんだけど、アノ報道以来買ってねぇ。

ただ、この場合はそうそう単純ではありませんでした。

大日本帝国のサブマリンでは、運転下士官(山本兵曹長の御表現だからな)が常に立ったままで、機械や運転員の報告に気を配りつつハンドル操作し、時には触手検査をする必要があったのです。

U511の乗員歓迎風景

U511の乗員歓迎風景

これに対しドイツ潜水艦の運転下士官なら、椅子に座って計器をにらみ、燃料ハンドルを握るだけ。
特に片舷機械(帝国海軍で単に「機械」とはタービンを言いますが、この場合は原動機=ディーゼル・エンジンを指すと思われます)六シリンダーの排気温度は運転台の横にある個々の計器により、機械の燃焼状態は一目で知るようになっていた。」

クルマのエンジンだって、回転状態や気筒(冷却液)の温度を知るメーターが付いてるもんね。
儂らのガキの頃のクルマには速度計ぐらいしかなくてさ、中学生のころだったと思うが、親父が車をブルーバードSSS(お若いの、スリーエスって読むんだぞ)に変えたとき、タコメーターが付いてたのに「おお」っとか思ったもんね。

儂の親父は「こんなもんに頼ってたらイカン、回転数はエンジンの音で判る」とか言ってたけどね。もちろんミッションはマニュアルやった。

儂が自分で選んでクルマを買うようになると、タコメーターの付いてないクルマを買った事は無い。

U511の乗員歓迎風景

U511の乗員歓迎風景

で、今は一周しちゃって、エンジンの様子なんて知るためのメーターはほぼ無いよね。
だいたいのクルマは、表示を切り替えたりして知ることは出来るようになってるけど、結構スポーティに走っても知る必要に迫られることはほとんど無い。

儂が言いたいのは、日独潜水艦の「運転の様子・調子」をどうやって知るか?の違いは、技術レベルの違いって言うよりも「熟練」とか「名人芸」を何処まで重んじるか、の違いじゃないか?ってことなんです。

ちょっと、このことは覚えておいていただきたいと思います。

まあ、こうした負担軽減策によってドイツ艦では定員数削減が実現していました。
その果実として、乗員の居住性の改善がもたらされました。

Uボートの士官室の隣には下士官室があったのです。もちろん、帝国潜水艦にはありません。
下士官室では各部の長たる下士官が常設のベッドで休養できました。また各部の連携も長が直接顔を突き合わせますので、スムースに行くのです。

ってことで、ドイツ潜水艦の乗員の負担は軽減されていたんです。

日独潜水艦の大きさの違い、乗員数の違いは単純に想定・運用戦場の大小だけでできたモノではない…ように思えるのですが、いかがでしょうか。

さらに違いが

山本兵曹長はさらに乗員の負担軽減って言いますか、生活環境の違いを見てとっています。

「機械室に排気利用の覆水器があって、機械運転中は海水からも蒸留水が取れるようになっていた。」

日独サブマリナー交歓

日独サブマリナー交歓

コレは大きな指摘であります。

大日本帝国軍艦の乗組員は、潜水艦に限らず水不足に悩まされました。潜水艦は特に積める真水の量が限られていたせいで、また閉鎖空間でもありますから、そりゃもう臭かったそうです。

ニオイくらいで、と仰らんように。臭い環境で寝起きを続ければ、確実に戦力は低下します。
儂は高校時代、誰がヒリ出したか?不明な屁の臭いが充満したスクラムに、ボールを投入した経験があるから良くわかるのじゃw。

あの後、敵味方ともにフォワードのパワーが目に見えて落ちた。お互いに締まりのない、つまらん試合になってしまった。

閑話休題。
山本兵曹長の「排気利用の覆水器」がどういうモノなのかよく判らんのですが…
ではありますが、機械室後部にはシャワー室もあった、との記述もありまして、ドイツ潜水艦ではある程度の真水が供給され、清潔さが保たれていたんじゃないのか?と想像できるのであります。

覆水器の覆はおそらく「復」なんだろうけれど、この当時の軍艦の「復水器」ったら、タービンを回した蒸気を真水に戻す装置です。
もちろん、呂500はタービンなんか積んでません。ディーゼルとモーターのハイブリッド推進じゃからな。

おそらく、「排気」ではなくエンジンの熱を(冷却がてら)利用して海水を蒸留したんでしょうね。

山本兵曹長も
「排気熱の利用は合理的で、排気による覆水器の運転とともにタービン機を運転、加圧に依る機械給気の供給が計られるなど、機械の能率増進に繋がっていた。」
と書いておられます。

コッチの「タービン機」はおそらくターボチャージャーでしょうね。「加圧に依る機械給気の供給が計られる」とか書いておられますし。
クルマや航空機と違って、エンジンの重量や設置スペースに制限の少ない船舶で、ターボチャージャーが必要なんかな?とも思いますが、潜水艦ですから…

海軍だけじゃなくて

山本兵曹長はたたき上げの有能な下士官らしく、これらをまとめて

全てが計器によって機械的に戦闘できるドイツ海軍と、その多くが人力により戦闘する日本海軍の違い」とお考えになっています。

2直と3直などの勤務体系についても
「潜水艦だけの問題ではなく、全海軍の問題ではないか」
と鋭いご指摘。

第21号駆潜艇

第21号駆潜艇 呂500は駆潜艇の訓練にも参加しました

全てが計器によることが良いのか悪いのか?は考えてみなければいけませんが、私はこのことは現代にも通ずる大きな問題だろうと思います。

最後に、山本兵曹長さんのご記憶にある、もう一つのエピソードを書いておきましょう。

日時は記されていませんが、「呂500」が佐伯大入島に乗り上げる、と言う事件が発生しちゃったのであります。

その日の午後、佐伯に防空注意報が出ました。
その後、注意報は解除もされず空襲警報にもなりませんが、大方の乗組員(山本氏含む)が上陸したのです。
少し無責任にも思えますが、空襲慣れしちゃうとこんなモノなんでしょうか。
その翌朝、兵曹長さんたちは、桟橋じゃなくて島の漁港近くに乗り上げている呂500を発見することになります。
当直の「機械部下士官」(兵曹長の御表現)が後部クラッチの入ったまま試運転をしてしまったのが、この座礁事件の原因のようです。

兵曹長さんによれば

潜水艦の主軸には主機械からスクリューまで二カ所のクラッチがある。
前部は主機械と電動機(発動機)の間、後部は電動機と推進器の間にある。
潜航中は前部クラッチを『脱』として電動機運転し、機械航走(浮上時)の時は前後部クラッチを『着』として軸は一本の推進軸として運転する。
試運転や充電の時は、電動機は発電機として後部クラッチを『脱』にして運転する。」
「防空警報が出ると手軽く小運転ができ、またそのまま潜航もできるので前部クラッチを『脱』の状態にするのが常態である。」

「同日は(平常通り)機械室では当然後部クラッチは『脱』と思い、前部クラッチを『着』として機械を始動した。ところが後部クラッチは『着』のままなので当然機械は進み出し、島に乗り上げたという顛末のようだ。」

思い込み、でありますね。日独技術の相違とは関係ない。

呂500は夕方の満潮を利して離脱し、最前部に負った損傷も修理され、戦局の悪化もあって佐伯湾から舞鶴港、七尾湾に向かっています。山本兵曹長はそこで呂500乗組の任を解かれました。

呂500は敗戦後、米軍の接収を受け、昭和21(1946)年4月30日、若狭湾にて海没処分されました。

米軍の進駐まえ、8月15日を過ぎてから(おそらく18日)、艦橋の日の丸を消して出撃した、と言う証言もあります。
が、それも日本海に出ただけで、帰ってきたようです。

「呂500」は、舞鶴市の沖合い約20キロ、深さ約90メートルの海底に沈んでいることが確認されています。
全長約77メートルの船体に大きな破損は見られず、ほぼ原型をとどめていたそうです。

一方、はるばる欧州から潜水艦を廻航してきたドイツ海軍のシュネーヴィント艦長以下ドイツの水兵さん達は。

彼らは遣日作戦完了後、東京で盛大な歓待を受けました。
その後シンガポールに戻り、モンスーン・グルッペの一員としてインド洋方面で通商破壊に活躍、ジャワ海で全員戦死(涙)

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