戦艦「大和」内務科~帝国海軍のダメコンは駄目だったのか~
世界の主要な海軍国、イギリス・アメリカ、そして大日本帝国はそれぞれ、長く機関要員と兵科の要員の間の対立関係に悩まされてきました。
と言いますか、機関要員を差別して当然のように考えていたようです。
兵機一体化への努力
砲術や水雷などの武器を扱う部門と航海技術の部門はまとめて「兵科」と言います。
エンジン(罐とタービン)を中心に機械を扱う部門は「機関科」で海軍に入ってから学ぶ学校も違い、出世のスピードも到達点も違っていました。
もちろん兵科の方が出世も早く、到達点もはるかに高かったのです。
機械(帝国海軍で単に「機械」と言うとほぼタービンを指します)が扱えなければ、軍艦は動きません。兵科の将校も水兵さんも、威張っていたって戦場にすら行けないのです。
それでも、機関科の士官も水兵さんも差別され続けていました。
差別は機関科以外も対象で、軍医科・薬剤科・主計科・法務科・技術科などの士官たちは士官であっても将校ではない、「将校相当官」と呼ばれていたのです。
階級の呼び方もただ少尉・中尉ではなくて「機関少尉」「法務中尉」でした。
もちろん、機関科からは不満が噴出しましたし、兵科の方でも「是正すべきだ」という正義感の持ち主が何人も出ました。
じっさいに何度も機関科の待遇は変更されたのですが、全く平等となるには時間がかかりました。
この問題が完全に解決した、と言えるのは教育機関も一つになり、待遇も全く同じになる必要があるのは当然です。これを「兵機一体化(一元化とも)」と言いました。
「兵機一体化」が実現するのは、大日本帝国海軍が破滅へと向かう時期なんですが、それは大日本帝国海軍の戦力も機構も史上空前の規模に成長した時期でもありました。
今回のお話は、その極大化した海軍を象徴する大戦艦が舞台となります。
この話は当事者の証言がありまして、まず事実に間違いなかろうと考えておりますが、現在のところウラの取れていない話であることをお断りしておきます。
70年以上の経過時間を考えると、もうウラ取りは無理ではないか?と思いまして、紹介することにいたします。
最強・最大の戦艦のダメコンを
言うまでもなく、戦艦「大和」は姉妹艦「武蔵」とともに史上最大・最強の戦艦でありました。
いったいどれ位大きいのか?ともうしますと、全長263mで全幅38.9m。
巨大な高層ビルが横倒しになって海に浮かんでいるようなモノなのです。
この海に浮かぶ高層ビルに、約3000人の水兵さんと下士官と兵科の将校と機関科、その他の士官とわずかな司令部要員が乗っていました。
新兵が乗艦するとすぐ「艦内旅行競技」というものが行われたそうです。
艦の構造を知るため、あるいはどこにどんな分隊があるのかを知るため、艦内の50ヶ所ほどにチェックポイントを設け、各人がそのポイントをたどって確認印をもらって帰ってくるまでのタイムを競いあったらしいのです。
今ならスタンプラリーですが、特典も景品も無かったと思われます。
しかも、ベテラン水兵さんに道を尋ねても反対方向を教える人がいたり(わざと、トレーニングのためです)して、所定時間が過ぎても帰ってこれない新兵が続出したそうです。
もちろん、その後は猛訓練が続くのでありました。
そんな新造の大戦艦「大和」に軍務局(軍政担当部局)から局員が来訪したのは昭和17年2月下旬のある日でした。
髙田利種軍務一課長(大佐)が当時機関科の待遇改善問題に取り組んでいて、海軍上層部を説得して改革案を承認させていました。この「局員」が髙田利種大佐かどうかははっきりしないのですが。
高田局員は「大和」の副長・運用長・工作長と甲板士官に面談を申し込みました。
この面談の内容は、同席していた今井賢二中尉(副長附甲板士官)の回想によると
『海戦では艦内の数ヶ所に被害が同時発生する例が多くある。どの被害にも遺漏なく対処すべく”挙艦防御”の思想を強く持って当たるべきであるが、機関科を風下に置く現在の艦内組織は”挙艦防御”思想には不適切である。
そこで新鋭大戦艦で新たなダメージ・コントロール組織の研究をして欲しい』
と言う内容だったそうです。
もちろん、軍務局というか髙田利種大佐の狙いは「兵機一体化」でありましょう。
従来の応急班(各科の手空き人員を集め、副長の指揮の下で損害対処にあたる臨時編成班)を改め、各科混成の兵機一体化の先兵としてやろう、という目論見であることは間違いないところでしょう。
機関科を見下していたのは海軍中央だけでなく、現場でも差別する気分が厳然としてあったのです。
兵科・機関科(他科も)が力を合わせて艦の危急に対処することで両科の相互理解を計り、その上でダメコン能力が向上すれば言うこと無し、だったのでしょう。
「大和」側はダメコン能力の向上をメインに早速研究を開始します。
大和級の防御は設計上「応急」と「傾斜復元(注排水)」という2系統が併存していました。「応急」の指揮官は運用長で兵科、「傾斜復元」の指揮官は工作長で機関科の士官です。運用長と工作長の二人を、副長がまとめてダメコンにあたっていたのでした。
これを内務長の一元指揮(内務長の上に副長がいますけど)として効率的なダメージコントロールと兵機一元の実を求めたのです。
帝国海軍に内務科誕生
3月中旬、今井賢二は「運用科分隊長」を命じられることとなります。艦内人事ですから艦長権限とはいえ、兵学校出て2年経つか経たないかの中尉を分隊長とは全くの異例の人事であります。陸軍の分隊とは人数が断然違いますからね。
さらにこの数日後、今井中尉は艦内限りではありますが「内務科分隊長」となったのであります。
今井中尉は砲術長の協力を取り付け、応急員の砲術科からの派出を増やしてもらうなど、「内務科」の実力向上に努めて、ダメコンに有効であるとの判定を勝ち取ります。
この試みは今井中尉の懸命な努力もあって成功をおさめ、「内務科」システムは全海軍の艦艇で採用されることになったのであります。
皇国の存亡を賭けた大戦争中なのに海軍機関学校は廃校(兵学校で統一教育)となり、将校相当官も廃止。
もちろん、正式な「内務長」は副長と同等の中佐クラスの配置で、内務長に就任するにあたってはちゃんと研修が行われました。
この研修は、兵学校卒業者と機関学校卒業者にそれぞれ合わせたカリキュラムが組まれていました。
兵学校卒業者には「電機・補機の一般、要務」で10日+「工作・注排水の一般、要務」で10日の計20日。機関学校卒業者用には「運用・応急の一般、要務」で15日間。
これが昭和18年10月22日に示達されているのです。この年の6月5日には連合艦隊司令長官・山本五十六元帥の国葬が執り行われていまして、漸く大日本帝国の頽勢がはっきりとしてくる時期であります。
さらに申し上げれば、中部太平洋で激闘が始まるちょっと前。この大切な時期に、大日本帝国海軍は艦隊を担う中心的な人材を対象に「こんなこと」をしていたのでした。
電脳大本営は、大東亜戦争を戦った海軍の中枢部(あくまでも中枢部ですよ)は碌なことをしてない!と批判することが多いのですが、これは大いに褒めざるを得ません。海軍の先達より、兵機一体化に関しては先を行っています。
残念?ながら大和は内務科システムの有効性を実戦で示すことが出来ないままに追い込まれて行くのですが、姉妹艦「武蔵」はシブヤン海における死闘で粘りに粘り、米軍を驚嘆させる防御力を見せつけたのでした。
艦体のデキの良さ・水兵の優秀・指揮の正確さもありましょうが、内務科システムによるダメコンの力も、「武蔵」の粘りに大きく貢献していた事、間違いはありません。
「大和」機関科員たちの最後
栄光の大日本帝国海軍がついに最後の時を迎えようとしていました。
「大和」は帝国海軍の最後の光芒を放つべく、米軍に蹂躙されつつある沖縄の臣民を救うために成功の見込みのない出撃をした事は皆さまご存じの通り。
その模様はさまざまなノンフィクションや戦記や小説で語られてきました。
もっとも有名なのが吉田満氏の「戦艦大和の最後」でありましょう。
幾たびも改稿されて幾つもの会社から出版されているんですが、電脳大本営的にはたいへん気になる記述があるのです。
吉田満著「戦艦大和」(河出書房新社より昭和41年12月20日発行のもの)71頁~72頁より抜粋いたします。
全力運転中の機械室、罐室ー機関科員の配置なり。これまで灼熱、噪音とたたかい、終始黙々と艦を走らせ来たりし彼ら。戦況を疑う由もなき艦底に屈息し、全身これ汗と油にまみれ、会話連絡すべて手先信号に頼る。
海水ポンプ所掌の応急科員さすがに躊躇
「急げ」われ電話一本にて指揮所を督促
機関科員数百名、海水奔入の瞬時、飛沫の一滴となってくだけ散る。
彼らその一瞬、何も見ず何も聞かずただ一魂となりて溶け、渦流となりて飛散したるべし
沸き立つ水圧の猛威
数百の生命、辛くも艦の傾斜をあがなう
されど方舷航行の哀れさ、速度計の指針は折るるごとく振れ傾く
隻脚、跛行、もって飛燕の重囲とたたかう
確かに軍艦が撃沈されるとき、機関科の戦死者は多いものです。機関科というか、配置が喫水線下だと生還者は極めて少ないのが現実です。
ただ本当に吉田満氏が描くように、機関科員が戦死することを承知の上で傾斜復元のために機関室に注水したのでしょうか?
そして「海水奔入の瞬時、(機関科員は)飛沫の一滴となってくだけ散る」勢いで海水が機関室になだれ込んだのでしょうか?
私はこの点がガキの頃から不思議でなりませんでした。昭和41年と言えば、儂は10歳だからな、そろそろ「ラグビー以外の戦い」にも興味をそそられているころ合いじゃ。
昭和18年の時点で機関科への差別は解消しているのです。
同等の戦友として、こんな事が本当に出来たのでしょうか。
吉田満以外の大和の生き残り、例えば「大和」の副長だった能村次郎大佐などは「4~5分で満水だから在室員全員が脱出できたはず」と回想しています。
しかし、これは現場証言とは言い難いのも事実(副長は司令塔内が持ち場)。吉田氏の記述も現場を見ているわけではありませんが。
大和の最後は関心を持たれる人も多く、数々の手記も書かれていますので今更決定的な事実も出てこないんだろうな?とは思えるのですが、この記事で伝えさせて頂いたように、兵機一体化・内務科創設・ダメコン強化の史実があったことを考えると、「吉田・戦艦大和ノ最後」の機関室注水シーンを否定できないことが悔しくてなりませんでした。
ダメコン強化は艦を救うだけでなく、経験豊富な水兵さんをも救うものでなくてはならないのですから。
機関室への急速注水は不可能?
ところが「大和の最後、機関室編」の探求から少し離れて技術畑の資料を漁っていると、結構な「証拠」を見つけてしまったのです。
大和型の設計に携わった堀元美海軍技術中佐の手記にちゃんとあったのです。
以下、電脳大本営による要約であります。
《大和の艤装の詳細記録は残っていませんので、機械室・罐室への注水をどの水管系統によって行われたか?明らかにすることは出来ません。そこで一般艤装図から外側機械室と外側罐室の容積を計算してみると、前者は約1000立方メートル、後者は約600立方メートルとなります。
内部にはさまざまな機械がありますから、室内の空間は容積の65%と仮定します。するとこの両区画を満水させるには機械室約700トン、罐室約390トンの海水を入れなければなりません。これは大変な量なのです。
例えば、この区画には排水用として1時間当たり500トンの能力を持つエジェクターが備えてありました。罐室には1台、機械室には2台です。
罐室に水を入れるには、このエジェクターに逆流させるほかないのですが、時間がかかるのはお判りでしょう。30分以上は必要です。
機械室の方は、主機復水管(タービンを回した蒸気を冷やして真水を回収するシステム)の冷却水ポンプを利用して排水する管系がありますので、これに逆に水をとおせばずっと早く水が入るはず。
しかし、それには機械室内側から冷却水ポンプを止め、仕切弁を開かなければなりません。つまり機械室内の乗員に無警告で注水は出来ないのです。
エジェクター系統だけで注水すれば、時間のかかることは罐室の場合と同じです。
つまり機械室・罐室ともに瞬時、あるいは退避の暇もないような短時間に満水して、全員が溺死するということは「物理的に不可能」なのです。
そもそも設計の上からも応急注水用の注水孔や注水管は、それほど大きな物を設けることは出来ません。設計者としてはそれが悩みとなっており、「武蔵」の沈没を受けて大和の注排水システムを強化することを検討したものの、技術的に困難が多く、見送られているのでありました。》要約ここまで。
この堀元美海軍技術中佐の証言で
「注水措置により多数の機関科員の生命を犠牲にし、この英霊のお命をもって艦の傾斜を喰いとめた」
という記述はまったくの捏造である、ということが出来ると考えるのですが、いかがでしょうか?
吉田満氏は、生前「すべてを真実と捕えられては困る」と言っています。小説家か、あんたは!
「戦艦大和ノ最期」は重要な記述であることは確かですし、電脳大本営もその価値を否定するものではありません。
が、もはやその役割を終えたことも一方の事実であろうかと思うのであります。
おそらく、ですが「大和」機関員の犠牲が大きいのは、被害が重なっていたところに、魚雷の直撃があったためではないでしょうか。
帝国海軍のダメコンは本当にダメだったのか
最後になりました。
「大日本帝国海軍はダメージ・コントロールがダメだった」
と言われ続けています。
確かに帝国の艦艇は建艦段階から攻撃偏重の嫌いがありますし、ダメコンに無関心かつ気の抜けたような運用者(戦艦金剛・航空母艦大鳳などの例)がいたことも確かです。
一方で、修理や補修で入渠するたびに各艦艇の防火対策などは大いに進歩しています。
山本五十六はミッドウェイの敗北を受けて「空母の防火対策を」、という技術者を制し「燃えやすい空母でも使いこなしてやるから、早く造れ」などと言っています。
が、海軍にも良心的かつ現実を見つめた人たちもいたのです。そして世界一優秀な下士官と水兵さんも。
小艦艇なら、(例えば秋月級駆逐艦「涼月(すずつき)」)驚異的な粘り強さを見せてわが身と水兵さんを守り抜いたフネはちゃんとあります。
主力艦では米軍の攻撃が激しく、ダメコンで沈没を防げた事例が無いからといって、帝国海軍は「何もせずにやられっぱなし」だったわけではなかったのです。