軽巡「鬼怒」、レイテ突入成功!

軽巡洋艦鬼怒

「謎の反転」であっけなく帝国海軍の惨敗に終わった空前絶後の大海戦。

その陰で、栗田艦隊が諦めた「レイテ突入」を成し遂げた小さな艦隊があった事をご存じでしょうか?

五五〇〇トン型

この小艦隊の中心である旧式軽巡洋艦の紹介から始めます。軽巡洋艦「鬼怒」であります。

「鬼奴」じゃないからな!

軽巡洋艦「鬼怒」は大正年間に多数が建造された「5500トン型軽巡洋艦」のうち、長良型の一艦として誕生しました。
大正11(1922)年11月、神戸川崎造船所で完成、同年12月に第二艦隊第5戦隊に編入されたあと、第一艦隊第3戦隊・第二艦隊第2水雷戦隊などに属して長く活躍しました。

 

公試時と思われる天龍

軽巡「天龍」たぶん公試時です

「5500トン型軽巡洋艦」と言うのは、「天龍型軽巡洋艦」の後継として計画されたものです。

天竜型の3500トンでは水雷戦隊の旗艦として艦型が小さすぎると判断され、大正7(1918)年度の八六艦隊計画で5,500トン型を9隻建造することになったものです(うち1隻は計画が改められて軽巡「夕張」として建造)。

5500トン型は次のような特徴を与えられていました。

①最高速力36ノット。
これは水雷戦隊の旗艦として、駆逐艦たちを率いて敵艦隊に突撃するためです。大型艦としては当時の世界最高速です。

そのために機関出力をなんと90,000馬力!としています。おりから建造中の戦艦「長門」の80,000馬力も超えちゃっています。鉄腕アトム(リアルで見てた人はもう少数派だよねぇ)にもあと一歩。
当然、船形も駆逐艦並みの細長い船形になっています。

②水雷戦隊旗艦用として司令部用の施設、通信能力を拡充してあります。

③魚雷戦の時には先頭に立って進路を切り拓くために、14cm砲を7門搭載

④機雷戦を考慮しています。後甲板を広く空けて、機雷の敷設作業用としています。

⑤日本軽巡洋艦としては初めて、方位盤射撃装置を装備しました。これも水雷戦隊の進路啓開のための砲撃戦を有利に展開するためです。

⑥魚雷戦に参加できるように発射管8門(片舷4門)を装備しています。

⑦一号機雷(艦隊決戦場で使う浮遊型機雷)を搭載しています。艦首の形状も一号機雷を乗り切れるように(と福井静雄大先生がおっしゃっています)スプーン・バウになっています。

なお、お若い方のために説明しておきますと、「福井静雄大先生」とは大東亜戦争まえにお生まれの、私の100倍ほど熱心な軍艦ファンであり、数々の貴重な軍艦写真を残してくれたお方です。

ところが少々文章が下手糞で、何がおっしゃりたいのか判らないことがちょくちょくある、という極々わずかな欠点をもお持ちであります。
しかも、帝国海軍の設計陣(大先生は軍艦ファンが嵩じて造船官になられたのです)のミスを隠すため?に平気で嘘をお書きになるのが生れ付いての悪癖ですが、私は大先生が大好きで、電脳大本営でもお写真を勝手に使わせて頂いております。

閑話休題。
排水量5500トン・速力36ノット・主砲50口径14センチ砲単装砲×7・水雷兵装八年式連装魚雷発射管×4・搭載魚雷16本・40口径八センチ単装高角砲×2・艦上偵察機×1

第3戦隊旗艦時代の鬼怒

第3戦隊旗艦時代の「鬼怒」

このように「水雷戦」(主力艦の数で劣るため、漸減作戦の一部として重視されていました/魚雷戦のことです)のエースとして期待された5500トン型でしたが、実戦の機会は「鬼怒」にはなかなか回ってまいりませんでした。

カタパルト

5500トン型はイギリス流の巡洋艦設計の影響が強く残っていて(河合定二設計)、のちの平賀設計などに比べると艦としての余裕が大きく、平和な時代にはさまざまな実験ベースとなりました。

中でも、第一次大戦から軍事用途に使われるようになった航空機(気球・飛行船を含む)の運用実験の母体となりました。

この記事は「鬼怒」が主人公ですので、「カタパルト」が積まれたお話をしなければなりませんね。

長良型5番艦「鬼怒」艦橋前に滑走台、1931(画像時)はその上にカタパルト設置

長良型5番艦「鬼怒」艦橋前に滑走台、その上にカタパルト設置

昭和5(1930)年10月、ようやく完成した「呉式二号二型射出機」が艦艇では初めて「鬼怒」に装備されました。

それまでは重巡「衣笠」で空気式の「呉式一号一型」を実験していたのですが、呉式二号二型は火薬式射出機に進化していました。

このカタパルトは「鬼怒」での実験などでさらに進歩を重ね「呉式二号三型改一」として実用化されて、5500トン型の軽巡各艦の標準装備となって行きます。

上の画像はこの「呉式二号二型射出機」を装備していた時のもので、装備位置が非常に興味深いですよね。

「鬼怒」では1年間実験を繰り返し、この装置は「神通」に乗せ換えられました。

1941,12,7給油を終えた阿武隈

1941年12月7日、給油を終えた阿武隈(鬼怒同型)
カタパルト上に艦載機

昭和9(1934)年4月には5番・6番主砲の間に本命の「呉式二号三型改一射出機」を装備しています。そして不要となった滑走台に保(ホチキス)式13mm四連装機銃1基を設置。

カタパルトや、艦艇からの射出の話は面白そうなので別の記事にまとめてみたいと思います。

熟女になってた

この当時の大型艦艇の「健康寿命」はビックリするほど短く、有名な八八艦隊など、建設が完了したら毎年一~二隻を更新する予定だった程です。すなわち、予定寿命は長くて16年。

現在の長寿命がかえって異常なんですけど。

「鬼怒」は幸いなのか間が悪かったのか?昭和12(1937)年の支那事変で大陸沿岸に出動したくらいで平和な時を過ごします。

昭和16年の大東亜戦争開戦の時には連合艦隊附属の第四潜水戦隊(吉富説三少将)の旗艦としてマレー作戦から蘭印作戦などに参加するのですが、この時には既に艦齢20年。

おばあちゃんでは失礼でしょうが、関西なら誰もが遠慮することなく「オバハン!」と呼びかけるような年齢になっておりました。スレンダーで行動力に満ちた魅惑的な熟女、ですけどね。

ジャワ作戦では敵機の爆撃を受けて(昭和17年3月1日)4名が戦死したものの、緒戦は無難に過ごした「鬼怒」。でも厳しくなる戦局は「鬼怒」をも見逃してはくれませんでした。

昭和18年4月に南西方面艦隊に編入されると6月23日、マカッサルでB-24リベレーター10機の攻撃を受け、至近弾により戦死3名、負傷者17名の被害を受けて呉に帰投、修理。

B24リベレータ

B24リベレータ

昭和19年には数回に分けて5番主砲と7番主砲を撤去し、12.7cm連装高角砲を設置。カタパルトも取り去って25mm三連装機銃を装備、さらに25mm機銃を三連装・連装・単装取り混ぜて多数装備しています。

おトシなんで、第一線にはあまり投入されなかった5500トン級も大日本帝国海軍に余裕がなくなると、米軍に挑んでいかなければなりませんでした。

「鬼怒」は昭和19年10月18日、捷一号作戦に出撃する栗田艦隊とともにリンガ泊地を出港。

途中ブルネイで、レイテ島へ兵員を輸送するため第一六戦隊(「鬼怒」・重巡洋艦「青葉」・駆逐艦「浦波」)は栗田艦隊と別れてマニラへ向かいます。
一旦マニラに入港して揚陸用の小発を搭載する予定だったのです。

ブルネイを急遽出港した第一六戦隊は、警戒艦の「浦波」を先頭に「鬼怒」「青葉」の順にマニラに向かっていました。

青葉1930、三田尻沖か

1930年の青葉、たぶん三田尻沖です

 

マニラ入港も目前に迫った10月23日04:25、米潜水艦「ブリーム」の放った魚雷1本が「青葉」の前部右舷機関室に命中、浸水が激しく大傾斜の状態となってしまいました。

艦尾左舷方向に傾斜し、上甲板ギリギリまで水面が迫ってくるほどの危機でしたが、辛うじてここで傾斜を食い止めることができました。

しかし、機関は損壊してしまい自力航行は不可能です。「鬼怒」が「青葉」を曳航することになりました。

ブリーム

潜水艦「ブリーム」

なんとか(艦尾方向に傾斜してますから、艦首は海面から高く持ち上がってます)舫綱を渡しても横波が強く、すぐそこのマニラ湾口に向かう速度はわずか4ノット。

曳航中には米機動部隊の艦載機によるマニラ空襲まで行われ、「鬼怒」と「青葉」はコレヒドール島の影に隠れて息をひそめる一幕も。
なんとか夕刻にはマニラ湾内のキャビテ軍港にたどり着くことができました。

レイテ沖海戦地図

レイテ沖海戦地図

当然「青葉」は応急修理の必要があり、第一六戦隊はわずかに「鬼怒」と「浦波」の2艦だけとなってしまいました。

それでも予定通りキャビテ軍港で小発2隻を後甲板に搭載した「鬼怒」は、「浦波」を従えて一路カガヤンに向かいました。

レイテ殴り込みの「本隊」第一遊撃部隊が、パラワン水道で米潜水艦の攻撃を受け「愛宕」と「摩耶」が沈没、「高雄」も大破してブルネイに引き返している頃の事であります。

一六戦隊はレイテへ

第一六戦隊が護衛する予定の輸送作戦は、ミンダナオ島カガヤンから歩兵第四一連隊をレイテ島へ輸送するモノでした。

「青葉」が抜けた第一六戦隊は「鬼怒」と「浦波」の二隻で輸送船5隻を護衛していくことになっていました。

「鬼怒」と「浦波」は10月24日の0630、マニラを出発して輸送船と合同するためにカガヤンに向かったのですが、その行動はマニラ湾を監視していた米機動部隊の偵察機に完全に察知されていたようです。

出港後30分で早くも米艦載機の空襲を受け、1000までに三波に分かれたのべ40機による空襲を受けてしまいます。

「鬼怒」と「浦波」は艦体には重大な損傷なく切り抜けたのですが、艦橋を中心に機銃掃射を受け死傷者を多数出してしまいました。「鬼怒」47名、「浦波」25名、なお「浦波」は重油タンクに破口を生じています。

レイテ沖にて

レイテ沖にて

この「浦波」の損害を修理していた頃が、栗田艦隊(第一遊撃部隊)が大空襲を受け、大戦艦「武蔵」が落伍・沈没、艦隊もいったん反転して後退している時間帯にあたります。

翌10月25日の早朝、第一六戦隊はモロタイ島から出撃してきたB-25ミッチェル56機とP-38ライトニング37機の大編隊による空襲を受けました。

P38ライトニング

P38ライトニング

戦隊は執拗な水平爆撃を受けますが、至近弾の嵐を掻い潜りカガヤンへとひた走ります。
この3時間に及ぶ空襲で「鬼怒」は40発ほどの至近弾を浴びました。からくも直撃を免れた、または「40発もの爆弾を回避した」とも言います。
通信機の真空管が飛び、伝声管が聞こえなくなったり(伝声管の中のサビがおちて、目詰まりを起こしたため)といった軽微な損害を受けたのですが、直撃弾は大規模空襲にも関わらず一発もなく「鬼怒」の乗員の錬度の高さを見せつけた戦闘でありました。

危機を脱してカガヤン到着も間もなくとなりましたが、昼間に入港すると空襲を受けそうです。

そこで退避行動を行い、夕刻にカガヤンに入港するべく時間調節をして25日16:00にカガヤンに入港。

ここで第三十師団歩兵41連隊を乗船させました。
「鬼怒」に340名「浦波」にも150名とその武器・弾薬を搭載して、いよいよレイテ島オルモックに向けて進撃することになったのです。

コレが栗田艦隊が米護衛空母部隊を蹴散らした後、なぜかレイテ突入を諦めて再反転を決意する頃であります。

突入・陸兵輸送、成功

第一六戦隊が41連隊の兵隊さんたちを載せてオルモックに向かわんとしている時、同連隊の兵を満載して先行している輸送船団がありました。

本来第一六戦隊が護衛するはずだった第一輸送隊と第二輸送隊です。

一等輸送艦

一等輸送艦(第四号輸送艦)

第一輸送隊は一等輸送艦「六号」「九号」「十号」、第二輸送隊は二等輸送艦「百一号」「百二号」で編成されていました。

両隊ともに第一六戦隊の1日前にカガヤン到着、徹夜で乗船作業を行ってオルモックに向かっていたのです。日中航行となってしまい数次の空襲を受け続けましたが、さいわい少数機でしたので損害を浮けずに済んでいます。
一等輸送艦に関する記事はコチラ
二等輸送艦ならコチラです

二等輸送艦

二等輸送艦

撤退を続ける栗田艦隊がシブヤン海からタブラス海峡を抜けて脱出しようかと言う刻限の26日夜明け前。
第二輸送隊・第一輸送隊・第一六戦隊は相次いで栗田艦隊が突入を諦めたレイテ島のオルモックに到着しました。

空襲は受けたものの沈没艦はなく、全艦無事に陸軍部隊を揚陸し05:00には全艦オルモックを出港しました。

第二輸送隊はさらなる輸送作戦を実施するために分離(「百一号」はボホール島、「百二号」はネグロス島へ)しましたが、「百二号」はネグロス島北端のギマラス海峡で撃沈されてしまいました。

第一六戦隊と第一輸送隊はマニラに向かったのですが、10:00頃から艦載機約50機による空襲を受けるようになります。

この編隊は日本艦隊主力(栗田艦隊)を攻撃に向かう途中、たまたま第一六戦隊を発見して攻撃してきたものです。

最後

日本艦隊はついていませんでした。最初に「浦波」が直撃弾を受けて炎上、「鬼怒」も左舷後部に魚雷を一発受けました。

これはそれほどの浸水にはならずに応急処置できましたが、直後に艦後部に直撃弾を受けて後部マストは吹っ飛び、舷側のビームもひん曲がり、惨澹たる有様となりました。

防空火器にも被害を受け、対空火力が一気に減少してしまいました。

機関室では蒸気が噴出、操舵機もマトモに動かなくなり、12:00にはついに機関が停止。「鬼怒」は航行不能となってしまいます。

その直後には炎上していた「浦波」が大爆発を起こし、艦首を持ち上げてから沈んでいきました。

横須賀を出港する浦波

横須賀を出港する浦波

 

17:00、粘り続ける「鬼怒」の傾斜はいよいよ激しくなり、浸水も止めようがなくなり、ついに「総員退去」が発令されました。

乗員が次々と退艦するまで頑張った「鬼怒」は17:30、艦尾から滑るようにシブヤン海に沈んでいきました。

海に浮かんだ「鬼怒」と「浦波」の乗員は、後続していた第一輸送隊の各艦に救助され、27日の昼前にマニラに帰港できました。

この第十六戦隊を救助するために、コロンにいた駆逐艦「不知火」が溺者救助に向かったのですが、途中で空襲に遭って撃沈されてしまいました。コチラの生存者は一人もありません。

不知火

駆逐艦「不知火」

 

また、この輸送作戦に参加した輸送艦5隻のなかで、輸送作戦を終えて内地に帰る事が出来たのは、一等輸送艦「第九号」ただ一隻でした。
大破した重巡「青葉」は、応急修理を終えていろいろな苦労の末に内地に帰ることができたのですが、昭和20年7月の呉大空襲で撃沈されています。

マニラにたどり着いた「鬼怒」の水兵さんたちは、マニラ大空襲で重巡「那智」が港内で撃沈されるのを目の当たりにした後、さらに過酷な運命、コレヒドール島防衛戦に翻弄されることになります。

「レイテ湾殴り込み」を諦めた栗田艦隊の陰で、力戦奮闘して大切な陸兵を無事に送り届け、ついに力尽きた小艦隊と水兵さんがおられた事、私たちは覚えておかなければならぬ、と思うところです。

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