大英帝国海軍の改革者
1914年、第一次世界大戦が起きると、大英帝国は4年前に引退していたジョン・アーバスノット・フィッシャー男爵(引退前に受爵、当人が初代)を「第一海軍卿」に起用しました。
英国面の改革者
第一海軍卿は日本で言うと軍令部長に相当する大英帝国海軍の制服組トップです。
以降、面倒なんで本編の主人公は「フィッシャー提督」か「フィッシャー」と呼ぶことにします。
フィッシャーは1841年の生まれで13歳で海軍入隊(!)後、海上勤務を重ねて出世した人です。
時おり「出自に恵まれ」みたいな解説を見ますけれど、お父さんは軍人だったものの資産を持っていたわけではなく、貧しい少年時代を送ったようです。
電脳大本営の想像では、このことが後年の大英国帝国海軍の改革へと直結していきます。
フィッシャー提督こそ悪名?高き「英国面」の改革者であり、ジェントル面じゃなくて紳士ヅラした士官から水兵さんを救ったヒーローであり、大英帝国海軍の戦力近代化の旗手でもあったのです。
ただ、残念なことに、第一次世界大戦の作戦指導でつまずき、正当に評価されることは少ないように思います。
つまり電脳大本営的・儂的に「お気に入り」になる要素タップリの人物なんであります。
フィッシャー提督が海軍に入った頃は、世界中の海軍の軍艦はまだ風の力で動いておりました。
魚雷(水雷)学校
フィッシャー提督の専攻は砲術で、22歳のときには「ウォーリア」という装甲艦の砲術士となっています。
ウォーリアは世界初のオール鋼鉄製の軍艦として有名なフランスの「ラ・グロワール」への対抗として建造された艦です。
小型ながらも蒸気機関(メインは帆走)搭載・ライフルを切った後込め砲・スクリューによる推進・装甲の配置など、後の近代海軍を支える技術がテンコ盛りの「隠れた名艦」で、フィッシャー提督の人生を象徴したような乗務だと思います。
28歳で早くも中佐に昇進すると、ドイツへ技術調査に派遣されます。
ドイツでの調査対象は魚雷と機雷で、特に電気推進魚雷には興味を引かれたようです。
3年後に帰国したフィッシャー提督は魚雷と機雷の訓練機関を砲術学校から独立させました。
この学校が大英帝国海軍の水雷教育の基本となっていきます。
王室からの信頼
その後、フィッシャー提督は海上勤務となって何隻かの艦長職を務めます。
この間になぜか英王室の知遇を得ることになりました。
史上もっとも長期にわたって「プリンス・オブ・ウェールズ」(艦の名前じゃなくて大英帝国の皇太子の方ね)だったアルバート・エドワード(後のエドワード7世)とは友達となり、やがてヴィクトリア女王の侍従武官となって海軍少将に昇進。
なんだか「やなヤツの出世物語」のようですが、フィッシャー提督から庶民の香りが消えることはありませんでした。
軍備の改革
提督に昇進したフィッシャーは、艦艇や設備を担当する第三海軍卿に就任して大英帝国海軍の戦力を精力的に改革していきます。
水雷艇駆逐艦
まず手がけたのは「水雷艇駆逐艦」を開発すること。
ドイツで魚雷(水雷)の威力に着目していたフィッシャー提督は、当時のライバル国、フランスが大量に保有を進めていた「水雷艇」の脅威を正しく認識できました。
大英帝国海軍は主力艦(戦艦)の保有量ではフランス(フランスは戦艦の形で迷走中)を圧倒していたのですが、小回りの効く水雷艇に近寄られて威力の大きな魚雷を発射されると、大戦艦といえども無事にはすみません。
そこでフィッシャー提督が推進したのが、水雷艇よりは大型で速射砲を搭載して水雷艇なみの機動性をもった「水雷艇駆逐艦」の整備でした。
「水雷艇駆逐艦」は時とともに実用性を増し、たんに駆逐艦と呼ばれるようになり、魚雷も装備して各国海軍の軍馬に成長していきます。
「軍馬」って言うのは「安上がりで実用的で戦場にどんどん投入できる」って意味ね。
さらに魚雷が主兵装の「潜水艦」を大英帝国海軍に導入したのも、フィッシャー提督なのです。
旧型艦の刷新
フィッシャー提督が1905年にはじめて第一海軍卿になる頃に、英仏は同盟関係になっていました。
フランスに代ってドイツ帝国が大英帝国の強力なライバルとして浮上してきたのです。
ドイツ帝国はフランスと違って新興の帝国でしたから、古い軍艦を持っていませんでした。
新しい戦艦をどんどん整備してきますが、大英帝国には古い軍艦がたくさんありました。
その維持にもお金が必要ですから、イギリスの方は新しい艦をどんどん、と言うわけには行きません。
この後にも書きますが、軍艦の革新(ドレッドノートの誕生)があったものの、古い軍艦はなかなか捨てられないものなんです。
それをフィッシャー提督は”too weak to fight and too slow to run away”(戦ったら弱っちいし、逃げてもノロい)と言って150隻以上をバッサリ。
くず鉄として売り払ってしまい、浮いたお金で本国艦隊に新鋭艦をどんどん配備したのです。
弩級戦艦
フィッシャー提督は「単一口径・同砲身長の主砲での一斉射撃」主義者でした。
たくさんの同一口径・砲身長の大砲を同一の諸元で発射すれば、確率的にすばやく命中弾を得やすい、というものです(詳しくは別に記事にします)。
これはそれまでの「名人がそれぞれの砲側で狙う」(これはこれで、砲撃距離が短ければ有効ですが)と言う射撃法への革命であり、抵抗も大きいものでした。
そのフィッシャー提督の理想を具現化したのが世界初の弩級戦艦「ドレッド・ノート」で、後の軍艦の標準となります。
弩級、超弩級の呼び方は軍艦ファンでなくても使うほど一般的になりましたが、弩がドレッドノートのドだと知ってるのはミリファンに限られます。
さらにドレッドノートの産みの親(の一人)がフィッシャー提督だ、ってのはオシャカ様でもご存知あるまい(笑)。
巡洋戦艦
フィッシャー提督は弩級戦艦を創造しただけでなく、単一巨砲は同じでも装甲を薄くして速力を高めた「新たな主力艦」も造りだしました。
それが「巡洋戦艦」です。
どうもフィッシャーさんはトロくさいのがお嫌いだったようで、世界初の巡洋戦艦「インヴィンシブル」を企画したのです。
ここまで、やることなすことツボにはまり続けたフィッシャー提督だったんですが、この巡洋戦艦で大きなミソをつけてしまうことになりました。
第一次大戦の大海戦・ユトランド沖海戦でドイツ艦隊にボコボコにされてしまったからです。
電脳大本営的に言わせていただけば、これは運用が間違ってるから当然なんですが、批判はフィッシャー提督に。
大日本帝国の八八艦隊用をはじめ、各国の計画中の巡洋戦艦は設計を改めることになってしまったのです。
ハッシュハッシュ巡洋艦
その第一次大戦に起用されたフィッシャー提督、海軍の作戦にとどまらず、陸軍作戦にまで口を出します。
それがバルト海侵攻作戦です。
ドイツ北岸のバルト海へ、艦隊に護衛させた輸送船団を送り込み、敵の中心ドイツ帝国の、そのまた中枢に陸軍の大部隊を上陸させて一気に戦争のカタをつける。
フィッシャーらしいって言えばフィッシャーらしい、大胆と言うか大掛かりと言うか、まあほとんど賛成者はいませんでした。
このあたりチャーチルとの絡みが面白くて、結果的に第二次大戦を誘発することになっていくんですが、それはまた別の話。
フィッシャー提督はみんなに反対されても、バルト海侵攻作戦のために「大型軽巡洋艦」と言うワケの判らない軍艦まで作ってしまうのです。
これこそ、有名なハッシュハッシュ巡洋艦。
結局本来の目的に使われることはなく、それぞれに最初期の航空母艦へと改造されていったのでした。
航空母艦の産みの親もフィッシャー?
水兵さんの待遇改善 フィッシャーの真骨頂
ここまで、フィッシャー提督の軍備の改革ぶりを紹介してきました。
特に弩級戦艦や駆逐艦を生み出したことは、大きく評価してあげるべきでしょう。
「近代海軍の父」といっても過言ではありません。
しかし、フィッシャーの真価はこんなことに留まりません。
フィッシャー提督の真骨頂は海軍を支える水兵さんの待遇改善にありました。
まず、提督が心を砕いたのは機関科の人たちの待遇改善でした。
フィッシャーさんのイギリス海軍のキャリアの始まりが、世界初の蒸気動力の装甲艦「ウォーリア」であったように、この時代は軍艦に「機関」を積むのが当たり前になっていく時代でした。
ところが、その機関を扱う機関兵や士官の待遇はひどいものでした。
そもそもイギリス海軍では機関科の士官・兵は「軍人」扱いさえしてもらっていません。
同じ軍艦に乗り込み、万一撃沈されるときは一番脱出しにくいところで勤務していても、機関科は文官扱いでした。
これは日本も偉そうなことを言えず、アメリカ海軍にも存在した問題ですが、社会の成り立ちなどもあってイギリス海軍は特に差別が激しかったのです。
フィッシャー提督はこの事が良く判っていて、兵科と機関科の教育を統一し(一系化と言います。日本の一系化問題については別の記事で詳しく触れる予定です)、結果として機関兵の待遇を改善しようとしたのです。
これは日米に比べてもかなり早い改革だったのですが、フィッシャーの引退後にゆり戻しがあり、機関兵の苦労はまだまだ続くのでした。
さらにフィッシャー提督による水兵さんの待遇改善は続きます。
もっとも水兵さんに歓迎されたのは食糧事情の改革でしょう。
イギリス海軍は歴史的に「酷いもん喰い」なんですが、水兵さんのパンも固いもの(可能であれば柔らかいパン)が支給されていたのです。
これをちゃんとした柔らかいものに変えたのがフィッシャー提督。
たったそれだけかよ、と言われそうなんですが。
士官(貴族階級出身)の食事には気を使っても、「水兵は動ける程度に食わせとけば良い」と思い込んでいたイギリス海軍を動かしたのでありました。
品目 | 1867年 | 1905年 | |
一
日 あ た り
|
ビスケット | 560g | 560g |
ラム酒 | 35cc | 35cc | |
砂糖 | 57g | 85g | |
チョコレート | 28g | 32g | |
紅茶 | 7g | ||
コーヒー | 11g | ||
生肉 | 453g | 340g | |
野菜 | 230g | 453g | |
一
週 当 |
からし | 230g | 230g |
胡椒 | 113g | 113g | |
酢 | 113g | 113g |
大して変わりないように見えますね。
一番上のビスケット(biscuit)が問題の堅いパンで、金槌で叩かないと割れないほどだったとか。
それを私たちが想像するような「ビスケット」に変えたのがフィッシャー提督だったのです。
なお食事当番は輪番制で、上表の食材を受け取って調理場へもって行って料理してもらい、出来た食事を(公平を期するために)目隠しして配給するシステムだったそうです。
また、ラム酒は酔っ払い防止のために倍量の水で割って支給されました。
このやり方を考えたのは1870年頃のバーノン提督と言う人なんですが、このバーノン提督のニックネームが「グロッグ親父(Old Grog)」でした。
私めがお酒を呑んで時々陥る「グロッギー」の語源だそうですよ。
グロッグってのは生地の名前なんだそうですが。
なんだかフィッシャー提督のお話がネタの備忘録みたいになってきましたので、この辺でお終いにいたしましょう。
フィッシャー提督はチャーチルとの政争で第一海軍卿を辞任して、1920年死去されました。
いろんな評価のあるのが軍人ってモンですが、フィッシャー提督は「ハッシュハッシュの産みの親」、ってだけじゃないよ、ってことです(笑)。