地獄の半島

平壌の戦い

明治27(1894)年6月29日、広島の大本営に居た川上操六兵站総監は、糧食・弾薬の輸送に窮して「日本国内から人夫を送ってほしい」と言ってきた、混成旅団の兵站担当将校に大激怒いたしました。

インフラがほぼゼロ

大日本帝国は李氏朝鮮の農民反乱の影響による内政改革の挫折や、清国軍の駐留を慮り、混成旅団(混成第九旅団)を漢城周辺に派遣していたのです。
その兵員数は清国兵に倍する約8000名。

もちろん、糧食や弾薬その他補給品は日本国内から海上輸送されて、漢城にほど近い仁川港に山積みになっています。

問題はこの山と積まれた補給品をどのようにして漢城まで送り届けるか?でありました。日本国内の事であれば、人夫も車もお金さえ出せば幾らでも集まったでしょう。
水運も利用できた筈ですし、この頃なら鉄道が利用できる範囲も広がっていました。

ところが、朝鮮半島(現韓国=Koreaはこの半島の南半分)ではこれらのインフラが全くの未整備だったのです。

併合前のソウル南大門通り

併合前のソウル南大門通り

コレは李氏朝鮮の「開国」が遅れたから、というわけだけではないようです。大日本帝国の江戸期に比べても、インフラの整備状況は貧弱と言うか、そもそもインフラが無いって言うか。

仁川と漢城の間には漢江が流れていて、この大河には「川蒸気」があったのです。もちろん輸入モノですが。
混成旅団は「文明の利器」を利用しようとしたのですが、いざ使おうとすると、故障ばっかりでタダの一往復もできない始末(仁川~漢城は32キロほど)。

現地の人たちには「メンテナンス」の概念も無ければ技術もなく、それを学ぼうとする意志も無かったのです。
荷馬車や大八車を「徴発」(金を払って、ですよ。パヨが曲解することを恐れて括弧書きにしました)しようにも数が少なくて、しかも朝鮮役人の妨害が激しくて思うに任せません。

仁川には日本人の居留地があり、当然そこには日本人の人夫が居たのですが、大量の軍需物資を運ぶには人数が少なく、すぐに疲労困憊して動けなくなってしまいました。

そんな事情での混成旅団の「SOS」だったのです。

清国はカネも払わなかったみたい(笑)

朝鮮(李氏)の官吏は清軍が牙山に上陸すると、糧食や韓銭の提供を行っています。
その一方で大日本帝国軍に対しては朝鮮人労務者を雇用できないように、妨害しました。

いったん、現地の混成旅団からの要請に激怒した川上操六兵站総監でしたが、8000名の兵隊さんが飢えるのを放置することも出来ず、第五師団の輜重兵300名を仁川に送るように命令しています。

李鴻章

当時の清国の指導者李鴻章

川上総監が怒ったのにも、ちゃんとした理由はありまして、混成旅団には「運搬手段は現地で調達せよ」との命令が出されていたのです。
朝鮮半島に居た清軍よりは多いとはいえ、混成旅団はわずかに8000名。輸送距離は30キロ強、そして旅団は駐留していて、行軍しているワケではありません。

こんな「恵まれた条件」で、輸送手段を調達できないとなると、この先直隷平野で行われるであろう大会戦に、どうやって物資を運ぶのか?というわけです。

こういうと、またまたパヨやら反日思想に染まったアンポンタンが喜びそうですね。電脳大本営を舐めるなよ、パヨめ。
大日本帝国がそこらのシナチョウセン野蛮国のように、無料で現地人を使うワケ無いじゃないですか。

川上操六さんは混成旅団に応援を出す際に、ちゃんと確認をしています。
「まず、費用を惜しまず、現地で人的・物的輸送手段を確保すべく検討し、日本公使館の支援も求めて兵站業務を全うせよ」

旅順口激戦の図

旅順口激戦の図

そうです、大日本帝国の「徴発」とは、「カネ払って雇い入れる」ことなのであります。
混成旅団は付近の村落に対して「極めて穏和の手段」(つまり普通より多額のカネと引き換えに)で駄馬を集めるようにしていますし、公使館に要請して朝鮮政府から人馬徴収に協力する旨の言質も取り付けていました。
朝鮮政府は約束通りに「日本軍の徴集に応ずるように」との告示も出していたのですが…

川上操六兵站総監が怒って、第五師団の輜重兵が応援に来てからほぼ1か月後の7月25日、旅団が清軍攻撃に出発する朝になってみると、馬は一頭も集まりませんでした。

朝鮮政府は表で「協力せよ」とか言いながら、裏に回ると「日本軍が略奪に来るから、牛馬を隠せ」と指示を出し、日本軍に協力するものは殺す、と脅迫までしていたのです(朴宋根「日清戦争と朝鮮」に拠ります)。

これでは戦争になりませんから、混成旅団から兵士を、公使館から巡査を出して、通行している牛馬を見つけては無理やり協力させています。

この際だって、ちゃんとお金を払っているのですが、次に出てきます食料の買い付けの時のような「支払い方」をしたのではないか?と思われます。

一方の清軍は朝鮮の「宗主国」ですから、お金を払うつもりは全く無かったようです。

コレも、食料買い付けの所でお話いたします。

現地調達なら新鮮です

混成旅団用の食糧は日本本土から仁川港に送られたことは前述いたしました。

代表的なモノは精米・干し魚・高野豆腐・醤油・切り昆布・缶詰・ラッキョウ・干瓢・梅干し・味噌漬け・味噌・砂糖・酒・大麦。馬用に藁・干し草・ブラン(小麦の表皮)など。さらに薪や炭。

半島の味噌や醤油は兵士の口に合わず、砂糖は全く入手不可能だったそうです。コレは皇軍兵士が贅沢を言ったんじゃなくて、現地の調理文化が低劣に過ぎたのでありましょう。

逆に半島でも調達可能だったモノは穀類・肉類・卵などだったそうです。
つまりさ、加工食品に「文明度」が現れてるんだよ(笑)

混成旅団は牛・豚・鶏など、比較的豊富にあって値段も安いものを、現地価格の3倍ほどの値段を提示して買い取ろうとしました。

しかし、現地人は誰も応じません。ココでも、朝鮮政府はウラに回って日本軍への協力を禁じていたのです。

黄海之戦我松島之水兵死臨問敵艦之存否

黄海之戦我松島之水兵死臨問敵艦之存否
「まだ沈まずや、定遠は」

 

日本軍の徴発隊は一計を案じました。

朝鮮の村々で食料を見つけると、金切り声で喚きたてる村人に現地価格の3~6倍、時には10倍もの「韓銭」を投げつけ、牛・豚・鶏や野菜などを「無理やり」持ち去ったのです。

村人たちは李氏朝鮮の役人に「牛を強奪された」「野菜を盗られた」と訴えるのですが、決して韓銭を受け取った、などとは言いませんでした。

こうして行く先々の村で「支払い済みの強奪ごっこ」を、李氏朝鮮官吏に見せつけつつ、大日本帝国陸軍は進撃して行ったのであります(杉村潜「在韓苦心録」)。

清軍も食料買い入れ、人夫の使役はすべて時価で支払っている、と本国に報告しているのですが、実態は大いに乖離していました。

「支那兵は野菜の外、糧米等は一切買弁せず、野菜も買弁するといふは名のみにて」(西山盛壽中尉報告)と全く払う気なし。

清軍は人夫の使役でも、さすがにこればっかりは一日に400文と決めて韓銭を支払ったようですが、食事は提供しなかったようです。

現在の日本国内なら、昼食・夜食はまあどこでも手に入りますが、こんな態勢になったのはコンビニの普及が一役買っています。

私どもの高校生くらいまで(ラグビー部の合宿費用を稼ぐためにドカチン=土方仕事のバイトしました。昭和40年代の終わり頃です)肉体労働にはアゴアシ付きは当たり前だったんですけどね。だって、現場で昼飯調達できねえんだもん。

幾ら半島人の人夫って言ったって、遠隔地まで重い物を担いで行って、昼飯も出ないで放り出されたんじゃ、たまったモンではありません。「400文の日当」もかなり安かったみたいですし。

なんと物々交換経済!19世紀でっせ(笑)

こうして平壌に立て籠もろうとする清軍を追いかけることになった大日本帝国軍でありましたが、朝鮮半島の現地事情が進軍を阻む構図は一向に変わりありませんでした。

「半島の家屋や旅館は狭くて不衛生なので、天幕を張って野営する方がマシ」
というのは内地出発前から、日本軍の指揮官たちは十分承知だったようです。
ソレが現地へ行ってみると、想像を絶する状態であったのです。

李氏朝鮮では人やモノの移動が制限されていて、結果として道路網は全くの未発達。道幅は50~60センチほどしかないところが大半で、路面もデコボコ、角ばった小石がそこかしこに露出したまま。

併合前のソウル全景

併合前のソウル

せっかく徴発した馬も蹄を痛めるのが怖くて、使えません。
まして騎兵隊や砲兵隊は進軍不可能。
樹木を過剰伐採しているので、山々に保水力がなく、いったん雨が降ると、小雨でも土石流が道路を襲いました。

後述する英国人のイザベラ・バードによれば、半島には人工の道や橋も少なく、
『あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない』
という惨状であります。

そしてそれ以上に日本軍を悩ませたのが「支払い」でありました。

「当時の日本は貧乏だったけど、誇り高い国なので…」という話題は電脳大本営の得意とするところでありまして、もう何度も書いておりますので、「またかよ!」と思われた貴方、ごもっとも。
でも今回ばかりは違うんだな(笑)

日本軍に予算が無かったわけではなく(ちゃんと多めに支払った、って書いてあるでしょ)、李氏朝鮮の貨幣制度に大きな問題があったのです。

いや、日本で生まれ育った「文明人」である私は、ついつい「貨幣制度に問題」と書いてしまいましたが、李氏朝鮮の経済体制そのものが前近代って言うか、「はじめ人間ギャートルズ」的段階にありまして。
ぶっちゃけると貨幣制度なんぞ、無きに等しかったのが問題となったのであります。

Wikiによれば、李氏朝鮮では専売制度の対象品である塩が、布・米・雑穀としか交換できませんでした。貨幣との交換ができないのです。
コレはコレで、政府が貨幣を信用していなかったことを示す面白い事象ですが、李氏朝鮮は19世紀になっても物々交換経済だった、ということをも示しています。

物々交換経済なんて、ほとんど自給自足に鼻毛が生えたか陰毛が抜けたか?程度の、経済というのが恥ずかしいほどのモンであります。

電脳大本営的には19世紀にもなって、物々交換で済んじゃった、あるいは用がたりてた「民度」を問題にしたいところではありますが、今回は軍隊と貨幣の流通に絞ります。

ギャートルズ

はじめ人間ギャートルズ

基本的に物々交換ですから、半島で流通している貨幣は量が少なかったのですが、種類だけはムチャクチャたくさんありました。

政権(李氏王朝)の財政が悪化するたびに、新しい貨幣を作ったり、改鋳したりしてましたから…
物々交換経済で財政が悪化する、ってのはいったいどういう状況なんだろう、って言う「文明人」には理解不可能な問題はこの際、プーチンの机にでも置いといてください。

そのために半島の住民は李氏朝鮮の貨幣を信用することが出来ませんでした。まあ、基本が物々交換だから必要もないんですけど。

その半島住民が唯一信用した貨幣が、すでに出てきた「韓銭」だったのです(韓銭の名称は大澤博明「陸軍参謀 川上操六」より)。

韓銭には金貨・銀貨もあったようですが、どちらも数が少なく主力は銅貨でした。

この銅貨がなければ、食料を買い入れることも、人夫や馬を雇うこともできません。
現地でこの銅貨を集めるには大変な苦労があったそうですが、それよりも運搬することの方が大変だったと言います。

川上操六が半島を視察した際、重量27グラムの大日本帝国の一円銀貨を韓銭銅貨に替えると3キロほどになった、とされています。

銅銭には穴が開いていましたので、紐を通しておけるのですが、重い物は重いし、嵩張ります。

基本、物々交換は続く

半島人を一日雇えば、韓銭銅貨で払わねばなりません。

部隊の糧秣輸送に500人雇えば、その支払いに約750キロの韓銭を紐に通して持っていかなきゃなりませんでした。
500名の人夫の日当を払うために、20名の人夫を雇ってゼニを運ぶ必要があったのです。状況によっては、せっかく運んだ韓銭の多くが、韓銭運搬の費用に消えていく事もあったと思われます。

私は半島や李氏朝鮮のこの時代を、できるだけ史実に忠実に描こうと思っておりますが、「まさかね」と思われる方も多いと思います。
いくつか、今まで書いたことの証拠を挙げておきましょう。

一つは李氏朝鮮が日本に派遣していた「朝鮮通信使」です。1429年にやってきた朝鮮通信使の報告書の中に

「銭が盛んに用いられ、布や米による支払いを凌駕している。だから、千里の旅をするものであっても、ただ銭貨を帯びるだけでよく、穀物を携帯しなくてよい」 (『李朝世宗実録』巻46)

と、日本で銭が大いに利用されていることが、驚きとともに報告されています。
自国では銭が使われていないことが判りますよね。自国でも一般的に使われていたら、報告なんかしませんから。

コレはまあ、時代が時代ですから。次こそは同時代史料でっせ。

イザベラ・バード

イザベラ・バード

1894年に、半島各地を旅行して廻ったイギリスの有名なご婦人イザベラ・バードさんは
「1ドル(=1円=0.2ポンド)が葉銭(韓銭)3200枚に相当し、100ドル運ぶのに馬1頭か男6人が必要だ」
と嘆いています。

半島を前進する大日本帝国陸軍の将兵の苦労がしのばれるではありませんか。

日清戦争が終り、李氏朝鮮は大日本帝国の勢力圏に飲み込まれていきます。
李氏朝鮮は相変わらずの財政難。

大日本帝国はコレを救うために、借款を与え、税関の運営を指導し、日本の貨幣を半島内で流通させて、「半島経済の近代化」に努めなければなりませんでした。

我がご先祖もこの辺で気が付いて、半島から距離を置くべきでしたね、併合なんかせずに。

いや、気づいてる人もたくさんおられたんですよ。伊藤博文公を筆頭にね。
その伊藤博文公がテロリストの犠牲になったところでも気づけた筈なんですが…

われらのご先祖は「雲鼓半島を何とかしてやらなきゃ」と思っちゃったんですね、近いだけに。近いから臭ったのに。

ほっときゃ良かったんだ(´;ω;`)。

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