プロペラ髭と帝国空軍
大日本帝国陸海軍は明治42(1909)年7月に共同で「臨時軍用気球研究会」を設立し、航空機の研究を開始します。
初代会長
研究会の委員には東京帝大・中央気象台などからも委員を任用して、軍官民の総力を挙げて国産航空機の開発を目指したのです。
臨時軍用「気球」研究会とは言っても研究は遊動気球(飛行船の事やね)と飛行機に関する設計・試験・操縦法・諸設備・通信法などに指向されていました(陸海軍大臣訓令による)。
この臨時軍用気球研究会の初代の会長に収まったのが、長岡外史陸軍中将でありました。当時は陸軍軍務局長の要職にあり、研究会会長は兼務です。
この長岡外史将軍、大日本帝国陸軍を代表するような経歴ですんで、ちょっと見ておきましょう。
周防国都濃郡末武村出身ですから長州モンですな。
実のお父ちゃんは大庄屋の堀三右衛門ですが、徳山藩士(長州の支藩)長岡南陽の養子になります。
明治11(1878)年、陸軍士官学校(旧二期)卒。明治18(1885)年陸軍大学校卒業(一期)。
日清戦争で「大島混成旅団」参謀。
明治30(1897)年に軍務局第2軍事課長、ドイツ派遣。
明治35(1902)年、陸軍少将、歩兵第9旅団長を務める。
明治37(1904)年、日露戦争で大本営陸軍部参謀次長。
明治41(1908)年、軍務局長。翌年には陸軍中将。臨時軍用気球研究会の初代会長を兼務。
第13師団長、16師団長を歴任して大正5(1916)年に予備役。
大正13(1924)年、第15回衆議院議員総選挙で当選。昭和8(1933)年、76歳で死去。
で、この長州モンは「物好き」なオッサンだったようなんです。
第13師団(新潟県高田=現在の上越市)の師団長を務めていた時に、視察でやって来たオーストリア帝国のレルヒ少佐に「スキー」なるモノを伝授された長岡外史さん。
「こりゃあ新潟みたいな雪国の行軍に良いじゃん」
とかおっしゃって、スキーを導入したんでありますね。これが日本スキーの発祥なんだそうであります。
今はもうスキーなんか流行らぬそうですが、儂らが若いころはスキーったらホレ、その、ナンパし放題ちゅうか成功率が高い所って申しますか。
スキー場で出会う女性は何故かみんな綺麗なんだな。スキー場で見ないとそれほどでもないんだけど(笑)
まあそんなんで、ボーゲンしか出来ぬ儂でも結構楽しませてもらったのですが、それも長岡将軍のおかげって訳でありますな。
モノ好きはスキーだけじゃなくて
大東亜戦争前の大日本帝国海軍は「大艦巨砲」主義に凝り固まっていて、アメリカ艦隊との「艦隊決戦」ばかりを思い描いていた、そんな状況を山本五十六などが努力して「艦隊航空戦力」を作り上げたんだよ!ってのは良く言われる事ですけど、本当にそうなんでしょうか?
日露戦争に勝利し、第一次大戦では輸入品の航空機を活用した大日本帝国。世界が注目する新しい兵器をシカトしてたんでしょうか?
この記事はいやいや、そんなワケないじゃないですか、って話になる予定であります。
で、長岡さんの退役(予備役入り)後の活動に注目するわけなんです。
長岡さん、何をなさったかと言いますと、自ら「国民飛行会」なる団体を立ち上げ(大正4/1915年)、会長さんにおさまったのであります。
国民飛行会は「飛行ノ研究其趣味知識ヲ普及スル」事を目的として、活発な活動を繰り広げるんです。
設立の翌年には会長さん(長岡元将軍)の長広舌を主記事にした「日本飛行政策」なるパンフレットを発刊しています。
その長広舌の主旨は以下のようになります。
「敵の高速艦隊が日本に襲来して近海を暴れまわる(当時は国内輸送も海運がメインです)。わが連合艦隊はこれに決戦を挑まんとして追いかける。その隙を狙って飛行機を乗せた敵の別働艦隊が、都市焼き討ちを仕掛けてくるだろう。
日本にとってこれほど困る事はない。よって我が海軍の将来の戦術は優良な飛行機を用いて敵の飛行船・飛行機を打ち落とすモノでなければならない。」
大正5年ですからね。プロペラ髭が、見た目の珍奇さの割に先見の明があることがお判りいただけるかと存じます。
さらに長岡さん、
「文明の利器はそふ安くは買はれぬ」
と仰って国民は増税の苦痛を忍んで防空に協力すべきである、と述べておられます。
私もね、少しの増税くらい全額を国防のために使ってくれるなら、喜んで協力させて頂くんですけどね(笑)
冗談は置いときまして、電脳大本営がホントに書きたいことはココに凝縮されとるのであります。
つまり、この時代(大正年間)から軍備のために金使うには国民に納得してもらう必要があった、退役軍人も一生懸命に軍備拡充を国民に訴えていた(言葉使いは相当の上から目線ですが)、ってことです。
すごく民主的な、国民本位の社会じゃないですか!
しかも、長岡会長はもと陸軍軍人ですよ。その人が「海軍航空」の充実を訴えているんです。
大阪・名古屋壊滅
長岡会長はその後も、ご自慢のプロペラ髭をブン廻しつつ都市空襲の恐怖を煽り、「だから航空戦力を!」と言い続けています。
昭和4(1929)年には
「日本を攻撃せんとする敵は先ず大阪を空襲するであらう」
という長い題名のパンフレットを世に送り出します。
なんで大阪なのか?という肝心なところが全く無いんですけど、取りあえず今で言う「シミュレーション」ですね。
その「大阪攻撃」というのは恐怖に満ち満ちております。
敵の双発爆撃機300機が無防備都市・大阪に低空から(高高度爆撃より照準が正確)600頓(トン)の「大爆弾」を投下。
続いて爆撃機30機が焼夷弾3万個を投下します。
双発爆撃機と爆撃機は原文のママの表現なんですよ。
わざわざ「双発」と断ってるところから、「爆撃機」とだけある方は単発と考えてよいと思います。単発の爆撃機が一機あたり1000発の焼夷弾かぁ。
いや、こんな細かいところで引っ掛かっては先に進めません。
まあ、ともかく大阪は市民の8~9割が爆殺・焼殺されてしまい、この結果日本は降伏に追い込まれる、と長岡さんは書いています。
次は名古屋も壊滅させなきゃ不公平ってモンでしょう(全国の都市の皆さん、皆さんの街が登場しないのは儂が悪いんじゃなくて、プロペラ髭のせいだからね)。
続けて「国民飛行会」いやプロペラ髭は「嗚呼、名古屋の壊滅」を発表するんですね。題名が短いのは名古屋を軽視したのかもしれぬな、怒れミャーミャー族。
「すは敵襲と言ふので、名古屋市内外100万の老若男女は悉く戸外に飛び出し右往左往に遁げ迷ふたが、統ての川々の橋といふ橋は先ず爆破せられたる為めに、東西南北八方塞りで道路上にグヨグヨする許りである。」
これは後年の東京大空襲の予言みたいですね。ヘタな占い師(先ごろお隠れになったThin tree-Number childのことを言ってるワケではないぞwww)より、よっぽど当たってる。
この無差別空襲で「大名古屋の人々は九分通り死滅した」とパンフレットは記しています。
さらに敵機は毒ガスも投下したので、名古屋には「此の世からの地獄が出現」してしまうのです。
その間、大日本帝国の防空部隊は名古屋上空には一機も現れません。不意打ちを喰らった事と、数が少ない事が原因になった、と長岡さんは説明します。
この結果は「多年に亙る政府政党の不覚は申すに及ばず、日本国民一般が空中戦化学戦を余りに軽蔑したる当然の応報」なんだそうであります。
ここで本筋から外れますが、流石は元将軍。
無差別爆撃が民間人を標的にしているからどうとか、化学兵器は禁止だとか、ピース頭が言いそうなことは一切仰いませんね。
そう、戦争は何をやっても勝てば良いのです。
その強固な信念を持ったうえで、勝ったあとでの評判や統治のしやすさを考えてルールを守れるならば守ったら良いのです。
敵は必ずコチラの弱いところを狙ってきますから、始まった後で「そんなんルール違反やん」とか言っても、やめるわけがないんですよ。
予測して対策を講じていない方が悪いんです。
こういった爆撃の恐怖を語ったのはプロペラ髭だけではありません。
もう少し後、昭和3(1928)年になりますが、小磯国昭少将(当時)が「敵が千五百発の焼夷弾を東京に投下すれば」などと書いています(陸軍航空本部発行の啓蒙宣伝書)。
政治家としても
長岡外史元将軍は大正13(1924)年に衆議院議員に当選して、帝国議会に登場いたします。
彼の「政策」は航空強化一本槍でありまして、良くこんなんで当選したな、と思うのですが。
それでもさすがに未来予測は的確でありました。
長岡プロペラ議員は昭和2(1927)年3月15日、第五二議会衆議院本会議で質問に立ったのです。
事前に提出された質問趣意書の表題は「飛行事業並補助艦ニ関スル質問」でした。
ちょっとだけ、この質問の背景を説明しておきますと、ワシントン条約は大正11年に締結されています。
つまり、主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の建造保有を制限された各国海軍は巡洋艦以下の「補助艦」増勢に血道を上げている時でした。
プロペラ髭は次の主旨の質問をするのであります。
「海軍が補助艦の建造に没頭するあまり、昭和2年度に増設予定の飛行隊2隊半を半隊に止め、航空母艦加賀の建造を取りやめ、艦載飛行機の調弁を所期の1/4に止めたという新聞報道があるが事実か?」
「陸軍が四個師団を減じて飛行設備を拡張しているのに対して、海軍が予定の航空充実を取りやめ、補助艦建造に莫大な費用をかけるのは統制ある政府下の陸海軍とは思えない。」
などの11項目。
長岡議員は演壇に立って更に鋭く突っ込みます。
「海軍の飛行機は甚だ少ないが、60万トンに余る艦船を敵の空中攻撃から援護できるのか?政府は補助艦よりも航空機を多く造ることが国防上有利とは考えないのか。」
プロペラ髭はますます快調に回転いたします。
「海軍軍人の中には『帝国海軍は攻勢防御を取らねばならぬ、そのために膨大な補助艦を必要とする』などと説く輩がいる。
しかし我が国の海防は伝統的平和愛好の国民性に基づき、専守防衛でなければならぬ。ハワイやフィリピン、シンガポールまでのそのそ出ていくのではない。
日本海海戦で大勝利を得たのは対馬海峡で敵を待ち伏せしたからであって、攻勢防御に出ていれば勝敗は逆だっただろう。」
「海軍はこの事を踏まえ、無線電信・水雷・潜水艦・飛行機・飛行船を発達統制して全知全能を尽くせばシナ海・日本近海を『犯スベカラザルノ域』とするのは困難な事ではない。
これこそ国防の経費を最小限にし、かえって国防を盤石にする所以である。」
大東亜戦争で「攻勢」を取り、敗れ去った経験を知る私たちから見ると、なんという先見の明でありましょうか。
要は海軍が飛行機で守りに徹すれば、巨額の建艦費(軍艦は維持するにも金がかかります)を使って軍艦をつくる必要などない、ってんですね。
儂、軍艦好きだから、これはちょっと賛成しかねるけどな。
この目立ちたがり屋は、さらに軍政の改革にまで踏み込んで参ります。
空軍設立論
長岡議員先生のプロペラ髭は益々快調に回ります。
「陸海軍と民間の航空行政を一元的に所管する『航空省』を創設すべきである。戦時には空軍主将一任の指揮に陸海軍を照応(協同のことか?)させよ。
これこそ次のいくさに勝つ唯一の方法である。」
ここまでを表面的に読んじゃいますと、プロペラ髭議員の主張は海軍批判のように見えますが、ココに来て「そうじゃない」と判りますね。しかも陸軍出身の長岡外史は決して陸軍の肩も持ってる訳じゃあありません。
陸海から航空部隊を取り上げて航空省をつくれ、って事でありまして。これこそ「帝国空軍」構想のハシリだと言えるかも知れません。
これ以降、逓信省の内局である「航空局」を「航空院」として独立させ、陸・海軍航空隊と民間航空を統制させよう、という構想が何度も提出されるのであります。
「航空局」ってのは、もともと「内閣航空局」だったのですが、コレは陸軍大臣の管掌にあり、それを逓信大臣の管轄下に移していたんです。
その全ての構想は陸軍側から提案されたのですが、海軍と逓信省の共同抵抗で頓挫、を繰り返します。
最終的に、海軍と逓信省は航空局を外局に昇格させて逃げを打ち、「大日本帝国空軍」はついに誕生することはありませんでした。
もし、この時に「航空省」が誕生していたら?
大東亜戦争は、私たちが知っているような形で戦われることはなかったと思います。
因みに、民間航空を戦争に投入する事は、この時よりもう少し後に満洲の大空で石原莞爾らが試み(満洲航空)て成功を収めています。
陸軍は「航空院(コレを航空省に発展させるつもりだったんでしょう)」がダメなら次善の策で、って考えたんでしょうねぇ。
追い込まれても、次なる策を常に準備している…電脳大本営の考える「名将」の資格の一つであります。
さて、ココまで長岡外史に攻め込まれた陸海軍はどのように答えたか、であります。
この時の陸軍大臣は「宇垣軍縮」の推進者である宇垣一成大将でした。
宇垣大臣は「啓発スル(サレル、だと思うぞ)所頗ル大」「相当ニ考究モ致シテ」などとと質問者の長岡を立てつつも、具体的な論点については「追テ書面ヲ以テ御答弁申上ゲ」と逃げてしまいます。
陸軍以上に問い詰められている筈の海軍大臣は答弁すらしていないようです。
飛行機の重要性は誰もが判っていた
この頃から、長岡外史に限らず「航空の重要性」を解く論者が増えてまいります。
海軍将校出身の中島知久平などもその一人なんですが、この「身内」に対しても海軍の逃げ口上は
「飛行機が爆弾を、行動中の軍艦に命中させるのは至難の業である」
という点でありました。
そんな海軍の逃げは、だんだん追い詰められていきます。
大正11(1922)年に吉松茂太郎海軍大将(大正4~6年に3回も連合艦隊司令長官になった人)は雑誌「海之日本」に発表した「制海権と制空権との関係」という論文で次のように述べます。
「(第一次大戦の)戦時戦後を通じて航空術は絶大なる進歩を遂げたうえ、爆弾投下の装置もますます精巧を加えつつある」「現下の状勢をみれば、移動目標に対する投弾命中の可能性を大ならしめ」「絶大なる脅威を軍艦艦隊に加へ得るの時期も近い」
既に現役を退いたとはいえ、連合艦隊司令長官を三回も務めた海軍大将のお言葉であります。
海軍(のお偉方)が大艦巨砲に凝り固まっていたワケじゃない、って事はご理解いただけるのではないでしょうか。
それ以上に、このお話からお気づきいただきたいのは、大正年間から昭和にかけて、
「軍部(儂、この表現はヘンだと思います)」
が一般向けに盛んに軍備についての解説を行っていた、という事実であります。
パヨクが言うように、戦前の大日本帝国が「軍国主義の社会」であり、大日本帝国が戦争ばかりやっていた国だったら、そんな必要が何処にあるでしょうか?
長岡外史にとことん突っ込まれた海軍だって、独自に(陸軍に比べるとスマートかつ巧妙に)「予算獲得」のための宣伝戦を繰り広げているんです。
プロペラ髭が飛行機好きになった理由
長岡外史は陸軍に奉職しながら、ココまで飛行機好きになったのは何故なんでしょうか?
先述したように、新しいモノ好きだからなんでしょうか?
実はプロペラ髭が「混成第九旅団」の参謀(大佐)を務めていた時のことであります。
ひとりの衛生兵から上申書を受け取っています。
その衛生兵の名前は二宮忠八。
二宮の上申書には
「『飛行器』の模型実験に成功しているので、人が搭乗できるようになれば偵察に使える。ついては軍から研究予算を出して貰えないか?」
と書かれていました。
時は日清戦争の真っ最中であります。
長岡外史大佐参謀は、この上申書にたいして
「今は戦時である」
「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」
「成功したとしても戦争には使えない」
などと、この新奇な企画に対して一顧だに与えませんでした。
二宮忠八はこの扱いに軍の無理解を悟って退役。
ビジネス界に入って成功し、飛行器の開発を続けました。しかし、資金面での停滞、特にエンジンの手配の間にアメリカのライト兄弟に先を越されてしまったのです。
長岡(だけじゃありませんが)の冷淡な態度が
「日本人による飛行機の発明」
というせっかくのチャンスを失う一因となってしまったのです。
後に長岡は自らの先見の無さを嘆き、二宮に面会して謝罪したとされています。
長岡の国民飛行協会の設立には、飛行機の普及を進めるだけではなく、二宮忠八の研究・功績を後世に伝える狙いもあった様なのです。
二宮忠八はこのように「お国に冷たくされた」のに、
「飛行機(の開発)で犠牲になった人のため」に飛行神社を建立したりしています。
なお、長岡将軍のプロペラ髭、実は普段は垂れ下がっていたそうで、写真撮影される時に丁寧にひねってしごき上げていたそうです。
顔の両横に水平に張り出した「プロペラ」に仕上ると、ようやくカメラマンに「よし」と命じたそうです。
まあ、あんまりしょぼくれたプロペラ髭は見たくもありませんから、これで良しとしておきましょう。