ひめゆりの塔を汚したパヨク
悲しいことに、安倍晋三元総理が暗殺されてしまいました。
警備にも手落ちがあったようですが、「要人」の警護がエエ加減であるのは、どうやら戦後わが国の常態であるようにも思われます。
時期でもありますので、「沖縄戦」から話していきましょう。
ひめゆりの塔
まず最初に「ひめゆり学徒隊」について軽く触れます。
米軍の沖縄上陸も確実視されつつあった、昭和19年の末に陸軍が中心となって、女子高校生に対して「看護訓練」が行われました。
この時に沖縄師範学校女子部ならびに沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたのが「ひめゆり学徒隊」です。
看護訓練はこの2校だけではなく、沖縄の女子高生ほぼすべてに対して行われていまして、対米防衛戦に「参戦」した看護隊はひめゆりだけではありません。
「白梅学徒隊」「なごらん学徒隊」「瑞泉学徒隊」「積徳学徒隊」「悌梧学徒隊」「宮古高女学徒隊」「八重山高女学徒隊」「八重農学徒隊」などが知られていまして、「ひめゆり学徒隊」も含めて、すべての女子生徒が郷里を守る兵隊さんが負傷した場合に、看護することを「志願」して従軍したのです。
帝国陸軍にもっと他のやり方はありました(知念半島への住民避難を優先するとか、もっと言ってしまえば最初からどこかの半島に上陸前から住民を集めて「無防備都市宣言」をしちゃうとか)が、それは後知恵に近いもの。
各学徒隊は自分たちの土地を、志願して守ろうとしたのです。もちろん、男子生徒だって参戦しています。
ただ、昭和大帝も戦中は皇太子殿下であらせられた上皇陛下も、そのようにはお考えではなかったのかも知れません。
「忠良なる臣民を守り切れなかった」そうお考えであったように私などには思えます。
だからこそ、敗戦後初めて「皇族」として沖縄に降り立たれた若き皇太子殿下(上皇陛下)は美智子妃を伴って「ひめゆりの塔」に向かわれたのでありましょう。
テロリストども
敗戦後ながらくアメリカが握っていた沖縄の施政権は昭和47(1972)年5月15日に日本に返還されました。
この「沖縄復帰」の記念事業として「沖縄国際海洋博覧会」が開催され、時の皇太子殿下とお妃が開会式(昭和50年7月20日)にご出席たまわることなったのです。
これは敗戦後初めての「皇族」の沖縄訪問でありました。
昭和天皇はもちろん沖縄行きをお望みであらせられましたが、パヨクの糞が「戦争責任論」をまくしたてたりした事から断念なされ、名代として皇太子殿下ご夫妻による訪問となったモノでありました。
皇太子殿下は開会式出席だけではなく、父帝の思いを受けて糸満市にある「ひめゆりの塔」を訪れて献花することを熱望なさいました。
この献花は昭和50年7月17日に予定されました。
もちろん、「ひめゆり学徒隊」だけでなく、守り切れなかった全ての県民への痛切なお気持ちが、この御要望には詰まっていたことに間違いは無いでしょう。
ところが、頭の中身がどうにかなってしまったパヨクには、お気持ちが全く理解できませぬ。理解しようとしませぬ。
「沖縄解放同盟」なるテロ組織は「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げて
「流血も辞さない闘いで皇太子上陸を阻止する」
と堂々と宣言しやがったのでありました。
沖解同は6月18日には摩文仁の丘の日本軍慰霊塔に「皇太子沖縄上陸決死阻止」「大和人は沖縄から出て行け」「皇太子帰れ」などと落書き。
沖解同以外でも自治労を中心とした労働組合は沖縄各地でデモ行進を繰り広げ、ストライキや抗議の職場集会を実施して「皇太子訪沖反対」を沖縄県民の総意だと見せかけていました。
沖縄県下は騒然として参りましたが、先帝陛下も皇太子殿下もその御決意は微塵も揺るがず。
この情勢を憂慮した警察庁は、5000人の機動隊員を本土から派遣する方針を取る事にいたします。
ところがマスゴミが「過剰警備」などと批判しやがります。
沖縄県知事の屋良朝苗も楽観論を強く主張したため、この警備体制は大幅に縮小されてしまいます。
それでなくても、沖縄県警はヤル気や能力を疑われても仕方ないような失態を見せていました。
パヨク活動家(テロリストのことです)を見逃したり、警察無線をパトカーから盗まれたり。
この隙を、沖縄解放同盟のテロリストは巧みに突いたのであります。
ひめゆりの壕
皇太子殿下(のち平成天皇・上皇陛下)ご夫妻が目指された「ひめゆりの塔」は小さなモノでした。
高さが数十センチと言われるその塔は、「ひめゆり学徒隊」が兵隊さんの看護に努めた「沖縄陸軍病院第三外科」跡に建っています。第三外科はもちろん、壕の中に隠されていました。
卑怯なパヨクのテロリスト、沖縄解放同盟を名乗る殺人(未遂)犯2名はこの壕に忍び込んでいたのです。それも一週間も前から。
警察庁からは警備局警備課長だった佐々淳行氏が派遣されていました。
佐々警備課長は事前に地下壕内の安全確認をするように主張したのですが、県知事や沖縄県警の担当者らは
「聖域に土足で入るのか」
などと反対し、このいたって真っ当な主張を潰してしまうのです。
テロリストが土足で入っていないか?を確認するための作業を妨害するとは、非国民では済まされない重大な過失。
いや、これは薄汚い犯行を手助けするための、陰謀に近いものではなかったでしょうか(儂は陰謀論がこの世で一番嫌いじゃが)。
テロリスト集団「沖縄解放同盟」はひめゆりの壕だけではなく、皇太子殿下の車列が通過する途上にも潜んでいました。
糸満市の白銀病院に病気と偽って入院していたのです。
正午、白銀病院3階のベランダに現れた「患者」と「見舞い客」の2名が、病院の下を通過する皇太子殿下と妃殿下の車に「皇太子帰れ」「天皇制反対」などと喚きながらガラス瓶・スパナ・石などを投げ付けました。
テロリスト2人はその場で現行犯逮捕されましたが、この情報は即座にラジオで放送されていました。
「ひめゆりの壕」に潜んだテロリストはこのラジオ放送を聞いていたのです。ラジオは引き続き皇太子殿下と妃殿下の(お車の)情報を実況中継していました。
壕内の2名の薄汚いテロリストに、皇太子殿下の御動静をくまなく伝えるとは。やはりマスゴミであります。
と言うか、これは警備の手抜かりも甚だしいといえましょう。
ともあれ、テロリストは午後1時過ぎ、皇太子殿下と皇太子妃殿下がひめゆりの塔に到着したことを、至近の壕内で知る事が出来たのです。
2人は壕に梯子を架け、急ぎ地上に飛び出して皇太子殿下の足元に向けて火炎瓶を投げつけました。
火炎瓶は献花台に当たって、炎上。幸い皇太子殿下のもとには至らず。
ひめゆりの塔の警備任務に就いていた沖縄県警の警察官たちは、突然の出来事に驚き、その場をうっちゃって逃げてしまう大失態。
辛うじて皇太子殿下直接警護の皇宮警察側衛隊の隊員一名が、壕の中のテロリストに飛び掛かり、第二弾の投擲を阻止しました。
皇太子殿下におかせられましては、一瞬驚かれたご様子を見せ給うたものの、案内に立っていた「ひめゆり会」会長の身を案じるなど、ご自分の安全より周囲を気遣うご勇気をお見せになるのでした。
妃殿下もその落ち着きぶりはとても(大変不敬な言い回しをいたしますが)下々出身の女性に出来るレベルではありませんでした。
見方によっては、皇太子殿下をお守りするかのように、半歩御身を動かされておられるのです。
妃殿下はその後も坦々と皇太子殿下につき従い給い、予定された行事を全てこなしてしまわれました。
皇太子殿下はテロに騒然とする中で、事件の発生に動揺する警備担当者たちを処分しないように周囲の者にご依頼になるなど、とても「自分の命が狙われた人」とは思えぬ落ち着きぶりであったと伝えられています。
これが、戦後起こった「大逆事件」の顛末です。
この皇太子殿下のご様子は父帝、昭和天皇を彷彿とさせるものでありました。
先帝陛下が「摂政の宮」であらせられた頃
私は昭和天皇を先帝陛下と呼ばせて頂く事にしております。「さきのみかど」と、心の中ではお呼びしています。
もう、実際には「さきのさきのみかど」でありますけれど。
さて、「先帝陛下」は父君の大正天皇が玉体健やかならず、皇太子の身で若くして輔弼の任に当たられました。
大正天皇は少しでも昭和天皇に経験を積ませようと、皇太子がヨーロッパ各国を訪問して廻る事をお許しになったりなさるのですが、それはまた別のお話。
ココでは欧州からお戻りになって、皇太子兼摂政の宮としてご活躍を始めておられた頃のお話をさせていただきます。
摂政の宮として、昭和天皇は大正12(1923)年12月27日「第48通常議会」の開院式出席のため、貴族院へと向われました。
午前10時35分に自動車で皇居をご出発、10時40分頃には皇太子殿下の御召自動車は虎ノ門の公園側を通過いたします。
この時、西洋家具商の「あめりか屋」前の群衆の中にいたテロリストが警戒線を突破して接近、ステッキに仕込んだ散弾銃で狙撃したのであります。
銃弾は車の窓ガラスを割って同乗していた東宮侍従長・入江為守に命中し、入江は軽傷。
世にいう「虎ノ門事件」であります。
幸い先帝陛下におかせられましては、掠り傷の一つも負われる事はありませんでした。
御召自動車は何事も無かったかのように貴族院に到着し、「第48通常議会」は通常のように開催されたのであります。
この狙撃テロリストは犯行直後に逃走を図ったのですが、周囲にいた市民が一斉に押し寄せて袋叩きにしてしまいました。
帝都の市民の怒りはすさまじく、警察官が制止してもはなかなか聞き入れません。
警察官は犯人の身柄を確保しなければなりませんから、やむなく我が身を盾に大逆犯を守ってやらねばならない仕儀となってしまったのでありました。
皇太子殿下(昭和天皇)は平然と貴族院の開院式を終え給い、東宮御所に戻ると内閣総理大臣の山本権兵衛・警視総監湯浅倉平をはじめ、多くの皇族・武官ら見舞客とご対面。
御昼食のあと、参殿された秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王となんとテニスを楽しまれたのでありました。
この時、先帝陛下のご年齢は22歳であります。
現代のわれら下々なら大学を出るか出ないかのご年齢であります。私どもには逆立ちしても真似のデキようはずもない落ち着きぶりであらせられました。
事件直後には「空砲だと思った」と述べられたこともあり、豪放なご性格がうかがわれるのではありますが、昭和大帝(この時点では摂政の宮です)はそれほど単純な帝王ではあらせられませんでした。
大罪人の家族を思いやられて
このテロリストは難波大助と言う男でありました。
難波大助は前述のように逮捕され、大逆罪で起訴されて大正13(1924)年11月13日に死刑判決を受けます。翌々日の11月15日には死刑執行。
単純な儂などはテロリストは目的を達成することなく滅ぶのだ、正義は常に勝つのだ!と喜んでチャンチャン、なのでありますが。
難波大助は山口県の名家の出でありました。
難波の出身地の山口県知事には2ヶ月間の20パーセント減俸処分がくだされ、犯行の途中に難波が立ち寄った京都府の知事までもが譴責処分。
難波が卒業した小学校の校長と担任は「教育責任」を取って辞職、難波のふるさとの村々はこぞって正月行事などを取り止め…
などと周囲に責任が広がっていく中で、犯人・難波大助の父の難波作之進は「衆議院議員」であったのですが、事件の報を受けると直ちに議員辞職いたします。
それだけではなく、武家の「閉門」の様式を踏襲(表門を青竹で閉塞)した上で家の一室に蟄居、食事も充分に摂らず、大助の死刑執行後半年にして(大正14年5月)に衰弱して死亡します。
遺された長兄の正太郎も勤めていた会社を辞職しており、家族をまとめて蟄居生活を続けたのでありました。
一方で、事件を防げなかった側も責任を問われました。
事件当日に早くも内閣総理大臣・山本権兵衛、内務大臣・後藤新平、司法大臣・平沼騏一郎ばかりでなく、全閣僚が皇太子殿下宛に辞表を提出しました。
皇太子殿下は山本を慰留しましたが、決意は変わらず。改めて閣僚全員の辞表を提出して、内閣総辞職が認められました。
官界の方では警視総監の湯浅倉平、警視庁警務部長の正力松太郎が警護の責任を問われて懲戒「免官」となっています。
このような「責任」の広がりを、難波大助が処刑された後も皇太子殿下はじっとご覧になっておられたようです。
大正15(1926)年5月、皇太子殿下は岡山県・広島県・山口県を巡啓なさいました。
5月29日。山口県に至った先帝陛下は、内大臣の牧野伸顕をお召しになり、難波家の状況をおたずねになります。
おそらく事前にご内意を受けていたであろう牧野内大臣は、難波家を救済するように進言。もちろん先帝陛下は即刻の救済を命ずるのでありました。
家の当主、難波作之進は前述のように既にほぼ自決(よりも辛かったろうと思います)していました。
残った家族は、先帝陛下のご意思によって社会復帰を果たすことが出来たのであります。
難波作之進が衆議院議員であった事は既に述べました。
先帝陛下の優渥なるお取扱いによって、難波作之進が大切にしていた選挙地盤も復活することになりました。
この地盤は直接には松岡洋右が引き継ぎます。
先帝陛下は松岡を嫌っておられたことが、数々の逸話から推測されるのですが、それでも外交官・外務大臣として、大日本帝国に一定の貢献を為した人物でありました。
戦後になると、この地盤は岸信介に引き継がれ、佐藤栄作に至ります。大宰相の地盤なのです。
さらに、この地盤から選出された政治家が、我が国を立て直すべく奮闘していたことは、もう皆さんの方がよくご存じでありましょう。
そしてついに凶弾に倒れてしまったことも。
国民のこの違いは
先帝陛下のご受難の際、難波大助を叩きのめしたのは沿道の民衆でしたが、最初に取り押さえたのは私服警官だったそうです。
この時代でも、後の皇太子殿下(平成の帝)訪沖の時のように「過剰警備」と見られることは嫌がられていたようです。
ですが、逃げ出した警官などいませんし、厳しすぎるかに見える結果責任の追及にも、誰も文句は言っていません。
沖縄だけなのかも知れませんが、今上陛下の際には県警の警察官は逃げ出すわ、犯人を取り押さえた皇宮警察の警官には応援は誰も行かないわ、犯人が火炎瓶を投げるのを、平然と撮影しているメディアのカメラマンはいるわ、と言う惨状。
日本人の心は変わってしまったのでしょうか?こんな事で、次の戦争を私たちは戦えるのでしょうか?
最後に、戦後の復興を心の面で支えた先帝陛下の「戦後ご巡幸」
このとき、昭和大帝は周囲の者に次のように仰っておられます。
「戦争を防止出来ず、国民をこの災禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない事である。この際、位を退くことも1つの責任の果たし方だろうが、私は親しい者を失った人、困っている人の所へ行って慰めてやり、働く人を励ましてやって、1日も早く日本を再興したい。」
このようなお気持ちを抱かれる帝王が、他の国にあり得るのでしょうか?
昭和大帝は、こうして全国を廻って国民を励ましてくださいましたが、ついに沖縄県を訪れることは出来ませんでした。
「県民」の反発によるものとされています。もちろん本当の県民の、本当の意思ではありますまい。
最後の瞬間まで、昭和の帝は沖縄を訪れて「あの戦争の事を詫びたい」と思っておられたに違いありません。
お苦しい息の下で、侍医に「もう駄目か」とお尋ねになられたのは有名な話ですね。
もちろん「沖縄訪問は」と言う意味であった事に、異論をはさむ人はいらっしゃらないでしょう。
先帝陛下のご遺志を継がれ、主上となられた平成の帝は平成5年に「天皇陛下として」戦後初めて沖縄を訪問されたのであります。
「ひめゆりの塔事件」など無かったかのように。
その平成の帝と国民に長く仕えた大宰相が、糞みたいな似非宗教の「やらずボッタクリ」に巻き込まれてしまうなんて。
わが日本はなんと悲しい国になってしまったのでしょうか。