片翼帰還のエースたち

九六式2号艦戦イラスト

「エース(撃墜王)」は戦闘機操縦者にとって、憧れの称号でしょう。第一次大戦で飛行機が戦場に現れ、10機撃墜で「エース」と呼ばれるのが対戦国共通の慣例となりました。

撃墜数だけが大切ではないのですが

ところが、遅れて参戦したアメリカが
「ウチのパイロットは参戦期間が短いから、5機撃墜でエースやねん」
とか言いだして、その横槍が通ってしまいました(諸説あり)。

たった5機というなかれ、エーリッヒ・ハルトマンだ、ゲルハルト・バルクホルンだ、ギュンター・ラルだ、岩本徹三だ、西沢広義だ、ユーティライネンだ、カタヤイネンだ、と言った人たちの驚異的な数字に目を奪われてはいけません。

エーリッヒ・ハルトマン

最多撃墜王 エーリッヒ・ハルトマン

 

あの人たちは「特別な人」なのです。ひょっとするとリアル「ニュー・タイプ」なのかも知れません。

大東亜戦争では、我が帝国海軍の誇る「エース」坂井三郎氏が仰るように、新人パイロットは「初陣から無事に帰ってくるのが難しい」ほどの激戦となったのでありました。
まあ、狙う方もヨタヨタ飛んでる新米パイロットはカモでしょうから、当然かも知れませんね。
それを乗り越えて、初めて敵機を撃墜できるんですから。

さらに、航空機は戦闘機ばかりじゃありません。
もともと、戦場に現れた順なら偵察機→爆撃機→戦闘機(専用ではなく、こういう風に使った、ってこと)です。

やがてそれぞれの機種に専用機が用意され、それぞれの性能が向上すると、パイロットも専門となっていきます。

となると、戦闘機乗りにおける「エース」みたいな称号が、爆撃機や偵察機の乗員に準備されていないのは不公平ってものです。

水上偵察機の搭乗員は何人かエースになられてますけどね。別の記事(エースと呼ばれなかったヒーロー)で紹介していますので、ぜひ合わせてお読みを。

すみません、脱線してしまいました。
ともあれ「撃墜数」は戦闘機パイロットの勲章ではあるのですが、パイロットの実力はそれだけでは測れない、ということであります。

盟邦の超人的な撃墜数を誇るパイロットや、一発の被弾もせずに第二次大戦を駆け抜けた弱小国のエースに、微塵も劣らぬ偉業を成し遂げたパイロット。

そんな「エース」が我が軍にもおられた事を紹介させていただきたいと思います。

奇跡の片翼帰還、樫村機

まずはお一人目。そう、コチラの樫村寛一少尉(最終)は有名で、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

樫村 寛一

樫村 寛一

樫村寛一は大正2年生まれ、香川県の善通寺市(現)出身で丸亀中学校を卒業して、昭和8年に呉の海兵団に入団します。
翌年2月に24期操縦練習生となり霞ヶ浦航空隊に入隊、7月には教習課程を修了して戦闘機操縦者に。

えっ、たった半年?まあ、このころは飛行時間はたっぷり取ってましたから問題なかったんでしょう。それは樫村自身が戦果として証明します。

「卒業」後の樫村は大村・横須賀・鹿屋の航空隊でごく平凡に勤務。

昭和12年7月の盧溝橋事件をはじめとする支那側の挑発が激しく、支那事変が勃発すると、樫村は10月に第十三航空隊(大村海軍航空隊から抽出)に配属替えとなります。第十三航空隊は上海基地に進出し、ここで樫村は初陣を迎えます。

上海進出から約一か月、11月22日の南京爆撃行の護衛に出撃した樫村は初陣ながらも2機(機種不明)を撃墜して日ごろの鍛錬ぶりを証明します。

Curtiss P-36 "Hawk"

カーチス P-36 “ホーク”

 

次の出撃は12月9日、南昌攻撃でした。この日は支那側も米国製戦闘機「カーチス・ホーク(P36)」を大挙上げており、果敢な迎撃を試みてきやがりました。

カーチス・ホークはアメ公初の近代的戦闘機(全金属製・単葉片持ち翼・引込み脚)ですが、海外に大量に販売され、なかなかの性能でした。特にフランスが沢山注文してたんですが、さっさと降伏したために英国に振り向けられました。

一方でフランスが受領していたカーチス・ホークはドイツに接収されて北アフリカに。独仏両国が主力戦闘機を出せないアフリカ戦線で、カーチス・ホーク同士の空戦が繰り広げられたんであります。

カーチスP36ホーク

引込み脚のギミックが秀逸です。
90度ひねって後方に引き上げ、収容します。

また脱線でしたね。そんなカーチス・ホークも大日本帝国の精鋭パイロットに掛かればチョロイものだったようですね。

また、九六式艦上戦闘機も運動性能が突出した世界レベルの戦闘機でしたので、支那人パイロットが操るカーチス・ホークに勝ち目はありませんでした。

96式2号艦戦

96式2号艦戦
広大な支那大陸での活動用に増槽装備

 

支那にできたのはお得意の「人海戦術」で対抗することだけ。ところが樫村の2戦目はこれが問題だったのであります。
記録がハッキリせず機数が良くわからないのですが、第十三航空隊は「司令直卒」(つまり気合入りまくった全力出撃)でも27機の出撃でしたから日本側は10機内外、支那側は30機は下らなかったと推定します。

光人社の「日本陸海軍航空英雄列伝」によれば、樫村は1機を撃墜後に機首を立て直そうとしている時、後方から迫って来た他の1機と「正面から」衝突。
この衝撃で左翼の外側1/3を失ってしまいます。

「後方から迫って来た他の1機と正面から」って?細かいことは言わないでください。電脳大本営じゃなく、光人社の「日本陸海軍航空英雄列伝」にそう書いてあるんだもん。

九六式艦上戦闘機三面図

九六式艦上戦闘機三面図

 

外翼1/3を失うってことは、左右の揚力バランスが完全に失われると同時に、補助翼(エルロン/機体の左右の傾きを調整する)も失くしてしまいます。
機はバランスを崩し落下するのですが、樫村は墜落寸前に立て直しに成功、水平飛行に持ち込みました。
しかしながら、九六式艦戦は左に滑りつつ落ち込もうとしますから、これをいなしてやらなければいけません。
樫村に残されていた手段は右翼のエルロンを上げて(通常なら右翼側が下がる)左滑りを防止し、昇降舵(エレベータ)を下げ(機首が上向きになる)操作で機の下降を止める…ということだったと思われるのです。

樫村機片翼で帰還

樫村機片翼で帰還

もちろん空気の流れもありますから、一定の角度に舵を保っていれば良いというものではありません。樫村は600キロ(時間にして1時間20分ほど)にわたってこの綱渡りを続け、ついに基地に帰り着きました。

太平洋の戦いでは

樫村はこの「片翼帰還」が国内のニュース映画で流されたこともあって、一気にスターダムにのし上がったのですが、やっかみもありました。
同じ航空隊の士官(兵学校出)からは「途中で墜落してたら、機の秘密が支那に漏れていた。敵地で滑走路に突っ込んで自爆すべきだった」などという批判まで出ているのです。

樫村はそれらを気にすることもなく(?)勤務と技術の研鑽に努めて、横須賀航空隊に転属。再度南支方面で活躍します。

昭和17年には飛曹長に進級して東部ニューギニア方面で船団護衛・防空の任務に就いています。昭和18年1月にはブインのムンダ基地に着任。

3月6日、樫村はルッセル島攻撃に向かう艦爆隊の直掩戦闘隊の第2中隊長として9機を率いて出撃します。

この日は米軍もF4Fを迎撃に上げていまして、樫村隊長は18機編隊のF4Fを発見してこれに向かいました。

F4F空母格納庫にて

F4F空母格納庫にて

ところが、一瞬列機が2機ともこの隊長機の機動を見落としてしまったのです。2番機福森一飛曹、3番機明啓飛長が敵編隊に気づいたときには樫村隊長機の姿を発見することは出来ませんでした。

樫村寛一はついにこの空戦から帰還せず、戦死と認定されて少尉に進級したのでありました。
日支戦からの撃墜数(単独)10機を数えるエースの少し寂しい最後でした。

体当たりして片翼帰還した人も

戦意高揚の為なのか?樫村は体当たりで一機落としたように喧伝されました。
が、本人はそんなことは主張していませんし、航空隊としても海軍としても認定していません。

ところが樫村寛一ほど有名ではありませぬが、本当に狙って敵機に体当たりし、片翼となって長駆飛行して帰還した勇者がおられるのです。

そのエースが南義美大尉(最終)です。

大正4(1915)年12月15日に香川県の綾歌郡に生まれた南は、昭和8年に呉の海兵団へ入団します。
ここで航空兵に転じ昭和10年8月に霞ヶ浦海軍航空隊へ入隊。11月には第30期操縦練習生過程を終了して戦闘機搭乗員になりました。

南は佐伯航空隊、大村航空隊で勤務し昭和12年の日華事変開始と同時に第十三航空隊に配属されて上海に進出。
9月20日、南京空襲で初陣となり、その後も南は奮戦を続けました。

翌昭和13年5月31日、漢口爆撃の護衛で空中戦が起こります。南は1機を撃墜しますが多勢に無勢で、多数(一説には12機、50機説もあります)の敵機に囲まれて燃料タンクを射抜かれ、ついに弾丸も撃ち尽くしてしまいました。

南は残った敵機中の1機に体当たりを決行して2機目を撃墜。
引き換えに乗機は左翼の日の丸部分から外側を失ってしまいました。しかし巧みな操縦で愛機を操った南は帰途につき、揚子江河畔までたどり着くと不時着。

乗機を破壊して味方哨戒艇に発見・救助され無事に生還することが出来ました。

南義美の「片翼帰還」は基地までたどり着けなかったためか、動画が撮影されなかったためか、新聞では報道されたものの、樫村寛一と比べて今一つ派手にもてはやされた形跡がありません。

が海軍としての評価はどちらも「善行章一線」で差別はありませんでした。

南はその後も繰り返し出撃し、9月に日本に帰還するまでに合計9機を撃墜したのであります。

空母に

本土帰還後の南は古巣の佐伯航空隊・大村航空隊で勤務したほか、航空母艦「飛龍」と「瑞鳳」にも乗艦を経験。空母の搭乗員になることは海軍航空で「一人前以上」と認められた事を意味しています。

昭和16年10月には新造航空母艦「翔鶴」に乗り組みとなり、真珠湾攻撃・インド洋作戦・珊瑚海海戦に出撃。
昭和17年6月には大村航空隊教員の辞令で(休養の意味の配置です)日本に帰ってきました。しかし、太平洋の戦況は南に長い休養を与える余裕は与えてくれませんでした。

昭和19年2月、南義美は第601航空隊に配属されます。大日本帝国海軍の輿望を担った新鋭航空母艦「大鳳」の戦闘機隊であります。

「大鳳」はマリアナ沖海戦に出動、南は第一次攻撃隊制空隊員として出撃します。空中戦の後に帰還したのですが「大鳳」は僅か4本の魚雷で撃沈されてしまいます。この時南も負傷。

負傷した南は本土に帰りますが、戦局は彼に休養を与えません。
航空母艦「千代田」に乗り組みを命じられた南は、昭和19年10月24日と25日のレイテ沖海戦に参加することになります。

支那大陸上空を圧して、その技量を見せつけた帝国のベテラン搭乗員は多くが散っていました。
「千代田」はじめ小沢艦隊には「おとり」の役割しか果たすことが出来ませんでした。

南は残り少ない「技量抜群のパイロット」として母艦上空の直衛任務に就き、10月24日は無事母艦を守り抜きます。
25日には敵機4機を撃墜したのですが母艦「千代田」はついに沈没。南は沈没海面に着水し軽巡洋艦「大淀」に救助されたのでした。

爆装で護衛?

マリアナ沖・レイテ沖と打ち続く敗戦で、大日本帝国海軍は組織的な戦闘力を喪失してしまいました・・・
と言うのは大日本帝国海軍の思い込みで、まだ手はあったというのが電脳大本営の主張です。が、それはこの項とは少しお話が違いますね。

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

 

ただ、ここでは「大日本帝国海軍は攻撃にしか目が行かなかった」とだけ申し上げておきましょう。追い詰められた海軍は禁断の一手を繰り出してしまいます。

そう、「特攻」であります(実際の関行男大尉以下の突入はレイテ沖海戦の直前、昭和19年10月21日です)。

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

 

南義美は第201航空隊に配属され、同年11月25日に「神風特別攻撃隊・笠置隊」の直掩機として出撃、未帰還となってしまいました。
直掩と言っても、「聯合艦隊告示88号」によれば突入機2機(高井威衛上飛曹・藤本英敏二飛曹 )+直掩2機(鮎川幸男中尉/海兵出・南義美少尉  )という、なんだかヘンな配置であります。

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

南は直掩任務中に敵機との交戦あるいは対空砲火によって撃墜されて戦死、とされているのですが、海軍は特攻による戦死と認定して二階級特進、海軍大尉としています。

さらに、一部の記録では南の零戦は爆装だった、としているものもあるのです。

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

「笠置隊」の突入、敵空母はイントレピッド

ともあれ、片翼帰還の「エース」は特攻で散ったのであります。

電脳大本営は特攻の意義を否定はしません。いや、英霊の清冽なる御志は今に至るまで私たち日本人のバックボーンであり続けております。
これは未来永劫変わることはないでしょう。

しかしながら特攻させるならさせるで、効果が極大になるように手立てを尽くさねばなりません。我が大日本帝国にはその発想がなかったと言わざるを得ません。

千尋の海に沈みつつ、なおも御国の守り神

南義美は間違いなく「ニュータイプ」の一人だったのでしょう。使い方は他にあった筈なのですが。

零戦でも片翼帰還

樫村寛一と南義美両エースの片翼帰還は九六式艦戦に搭乗していた時でありました。この記事の最後に、零戦で「片翼帰還」した勇者にも触れておきましょう。

森田勝二等飛行兵曹(最終)です。
大正12年北海道に生まれ昭和13年6月、第9期乙飛予科練習生・横須賀航空隊。昭和16年10月、第10期飛練卒業後大分航空隊にて延長教育(戦闘機専修)。同年11月第三航空隊配属、台湾・高雄基地で12月8日を迎えます。

森田の愛機

森田の愛機

開戦とともにダバオ・メナド基地に進出した第三航空隊は昭和17年1月21日、ケンダリー飛行場への索敵・攻撃に出撃します。森田二飛もケンダリー飛行場上空に達しますが、敵機は見当たらず、やむなく地上銃撃に移りました。

低空で何航過かするうち、左主翼に対空砲火が命中しピトー管部分から翼端寄りを吹き飛ばされてしまったのです。しかし森田は安定を失うことなく、片翼となった愛機を巧みに操ること3時間。

メナド基地に無事帰着、しかも着陸にも成功したのです。

片翼となった愛機の前でポーズをとる森田

片翼となった愛機の前でポーズをとる森田、これが遺影となりました。

 

先の2名の先輩と違い、森田には報道され称賛される暇はありません。引き続きジャワ島東部への航空侵攻作戦に伴って、バリクパパンに移った森田は2月3日、スラバヤ攻撃に出撃、未帰還となり戦死認定を受けて二等飛行兵曹に昇進したのでありました。

弱冠二十歳の若武者の最後はどれほど勇壮なモノであったのか?証言する戦友はいないようです。

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