撃墜王(エース)と呼ばれなかったヒーロー
「エース」といっても、もちろん野球の投手のお話ではありません。
下駄履き(フロートをぶら下げた水上機)を操って太平洋を自在に飛び回ったヒーローのお話です。
エース(撃墜王)と呼ばれたい
現在では、そうじゃないかも知れませんが、かつて空中戦とは、国が威信をかけて送り出した新鋭戦闘機を操る男たちが、磨き上げた技量と体力をぶつけ合う命がけの勝負でありました。
いや、戦闘機同士ばかりではありません。偵察機も爆撃機も入り乱れて、隙あらばと狙っていました。
そんな中で撃墜スコアを5機以上に伸ばしたパイロットを「エース(撃墜王)」と呼んで讃えるようになりました。
撃墜王とは、第一次大戦の頃から始まった呼称なんだそうですが、当初は10機以上の撃墜者を指したようです。
ところが途中参戦したアメリカが
「ウチのパイロットは時間が足りなくて10機も墜とせへんがな!」
とか言ってゴネたので5機以上をエースとしたんだそうです(笑)。
数はともあれ、戦闘機乗りにとって、「エース」「撃墜王」は憧れの称号となりました。
祖国を守る戦いにロマンを感ずる国民も、目に見える形でヒーローを欲しますから、祖国に撃墜王が誕生することを望み、大いに歓迎しました。
飛行機はいろいろな役目を果たすいろんな機種に分かれていまして、「敵の飛行機を叩き落とす」のは戦闘機のお仕事であります。
つまり、戦闘機乗り以外の搭乗員が、「撃墜王」の称号を獲得するのは「ほぼ」不可能です。
しかし、大日本帝国海軍の(陸軍も、ですが)搭乗員たちは優秀そのものでしたので、戦闘機乗りじゃない人たちも「エース」になっちゃたのでした。
水上機のエースたち
第一次大戦までは、水上機だって陸上機と互角に戦うことが出来ました。
しかし、大きなフロートをぶら下げた「下駄履き」は、飛行機全体の空力が洗練されてくるとどんどん不利になっていきます。
第二次大戦が始まる頃になると、「下駄履き」を戦闘機として使おう、などと考えている国は極東の島帝国以外にはありませんでした。
傑作戦闘機「零式」を水上離発着できるようにした「二式水戦」や、離島を占領して急遽進出するために作り上げられた水上戦闘機「強風」など。
特に「強風」など、水上戦闘機を陸上機に「改造」したら事実上の「海軍最強戦闘機」になってしまうほどのデキ。
とは言っても、大日本帝国においても第一次大戦以降、水上機は偵察や着弾観測などが主任務でありました。
この任務に就いているパイロットは、操縦の技量が優れていても、その技量を格闘戦に使うことは喜ばしいことではありません。
彼らの任務は偵察して「無事に帰ってくる」ことで達成されるのですから、敵機を見つけたら、なるべく避ける。
いや、なるべくなら見つからないように帰ってくるのが優秀な「偵察機乗り」なのであります。
それでも主に水上機でスコアを重ねてエースとなった方たちがおられます。
磨き上げた技量で、速度も武装も貧弱な愛機を駆って躍動した「撃墜王」を紹介させていただきましょう。
ソコに帝国軍人の矜持・人間味が見えてくるように思うのです。
人数は多くありません
さすがにその人数は多くありません。
それは、技量優秀な人が多くはなかった、と言う意味とは違う、ってのはご理解いただけるでしょう。
直ぐ上に書きましたように、水上機に限らず当時の偵察機は無事帰ってきて「ナンボ」です。
今と違って写真の電送なんか出来ませんでしたし、傍受が心配ですから、出来ることなら帰ってからの報告のほうが良いですからね。
「下駄履きエース」になった人はその原則に反している存在です。
運が悪いか、あまり良くない意味で戦闘精神が旺盛すぎた人である可能性が高いのです。
調べ方にもよるんでしょうが、はっきりと「エース」と呼べそうな水上機乗りは三名さんだけです。
下駄履きエースの方々
先ずは甲木清美(かつき きよみ)飛曹長。
全部で16機以上撃墜、そのうち水上機で5~7機を落しています。
甲木飛曹長の水上機でのスコアは以下の通りです。
年月日 | 場所 | 所属部隊 | 乗機 | 撃墜機種 |
1942.1.11 | セベレス島 | 水上機母艦 千歳 | 零式観測機 | PBY×1 |
1942.10.4 | ソロモン | R方面航空部隊 | 零式観測機 | B-17E×1* |
1943.8.~10. | 占守島 | 第452航空隊 | 二式水戦 | B-25×1~2 |
1943.9.12 | 占守島 | 第452航空隊 | 二式水戦 | B-24×1~2 |
1944.1.? | インドネシア | 第934航空隊 | 強風 | B-24×1 |
*は体当たりによる撃墜
松永英徳(まつなが ひでのり)上飛曹は総スコア16機。
残念ながら水上機での撃墜数が調べきれません。よって表ナシです。
1943~1944年に甲木飛曹長と同じ第934航空隊に所属して二式水戦に搭乗されておられます。
もうお一人は河村一郎飛曹長で、水上機で5機撃墜を果たしておられます。
河村飛曹長のスコアは以下の通りです。
年月日 | 場所 | 所属部隊 | 乗機 | 撃墜機種 |
1942.1. | 不明 * | 水上機母艦 瑞穂 | 不明 * | ノースアメリカン爆撃機×1 |
1942.3. | 不明 * | 水上機母艦 瑞穂 | 不明 * | ノースロップ爆撃機×1 |
1942.9.20 | ソロモン | R方面航空部隊 | 零式観測機 | PBY×1 |
1943.6.30 | ソロモン | 第938航空隊 | 零式観測機 | B-17×1、艦爆×1 |
*1942.1.と1942.3.の撃墜は、乗艦の「瑞穂」の搭載機種と行動から九五式水上偵察機または零式観測機に搭乗、場所は南シナ海かインドネシアだろうと考えています。
さすがにどの撃墜王も戦闘機は墜しておられませんね。
でもね、エースには名を連ねなくても敵の高性能戦闘機を叩き落した水上機乗りはおられます。それも乗ってたのは水上戦闘機じゃなくて。
戦闘機をやった下駄履き乗りは
昭和20年2月16日の事であります。
鹿島海軍航空隊の隊付教官である、藤田信雄特務少尉は零式観測機に搭乗してアメリカの優秀艦載機、F6Fを迎撃(特務少尉は下士官からの叩き上げ士官)。
この迎撃戦では、「零観」「二式水戦」あわせて6機が上がったのですが、藤田機を除く5機が撃墜されてしまいます。
しかしこの劣勢の中、藤田は激しいドッグファイトに持ち込みました。
日本語なら「巴戦」、電脳大本営的には「クルクル戦」ですが、速度に劣る水上機はコチラの方が有利。
ただ、よほどの技量がなければ、圧倒的に速い敵機の攻撃をかわして、クルクル戦に持ち込むことは出来ません。
藤田は見事にクルクル戦でF6Fを追い詰め、ついに未確認(本人は撃破申告/近隣航空隊が墜落確認)ながら撃墜、一矢を報いたのであります。
零式観測機の記事
超絶空戦技能を持つ、水兵上がりの士官・藤田信雄とは
「史上ただ一人、超大国アメリカの本土を爆撃した男」です。
そうです、あの藤田兵曹長です。
昭和17年9月9日の早朝。
北米大陸西海岸のオレゴン州沖に浮上した「伊25潜」から、零式小型水上機で飛び立ち、同州ブルッキングズ市の山中に2発の小型焼夷弾を投下したあの藤田兵曹長なのです。
藤田兵曹長はさらに9月29日にも爆撃を実施、敗戦時には特務中尉に昇進していました。
明治44(1911)年生まれ、昭和7(1932)年海軍入隊。
「下駄履き乗り」としては天才的な人だったようです。
敗戦までの飛行時間は5000時間を越え、アラスカからオーストラリア・ニュージーランドまで偵察飛行し、すべて生還(当然ですわな)。
空中戦になったこともありましたが、かすり傷一つ負わず。
しかし、偵察任務に忠実な藤田には、これ以外に海軍幹部やミーハー好みの国民から賞賛を浴びる戦績がありません。
地味なのです。
直接命令
1942年4月21日、軍令部に呼び出された藤田はびっくりすることになりました。
他言無用の「米本土爆撃作戦」の説明を受けたのですが、その場に今上(昭和大帝)の弟宮、高松の宮が同席されていたのです。
高松の宮は皇族の義務として、海軍に在籍されておられました。
軍令部におられることは不思議でもなんでもないのですが、一下士官をわざわざ呼び出して直接命令を下されることなど、異例中の異例といえる現象です。
流石の名パイロット・藤田も作戦の困難さを思わずにはおられなかったのでしょう。
出発前には遺書をしたため、決死の覚悟でアメリカ本土へと向かったのでした。
爆撃そのものは、当初から山中の森を狙うこととされていましたので、大した成果はありません。
それは当然で、2度も侵入に成功して無事帰艦したことが大きく評価されるべきです。
大洋上と違い敵の本国の目の前ですから、潜水艦も海面に長く姿を晒すことは出来ませんし、無電のやり取りも出来ません。
ドンピシャの時間と場所に帰ってくるのが、素晴らしい技量の証明になっています。
爆撃後
帰還した藤田は上官から「木を一本折っただけか!」と思わぬ叱責を受けました。
確かに爆撃では山火事も起きず、損害は殆ど与えることは出来ませんでしたが、それは事前にわかっていたこと。
潜水艦に搭載できるのは「零式小型水上機」と言って、特別に開発された小型の飛行機で偵察専用の機体に過ぎません。
爆弾も運べると言っても、小さな60キロのものが2発だけなんですから。
藤田たちの攻撃が行われる前に、ミッドウェイの敗北があり、海軍に余裕がなくなっていたことが心無い叱責の原因だったと思われます。
これ以降、藤田が海軍で大きく評価されることはありませんでした。
鹿島海軍航空隊の「隊付き教官」とは言いながら、F6F撃墜のときだって、自分自身も特攻に出る予定で学生たちの訓練を進めていたほどです。
そして敗戦。
誰からも褒めてもらえぬままに、藤田は土浦市に落ち着き、金物店を営んで一時は大きく発展させたようですが、結局倒産。
電気部品工場で働くことになりました。
昭和37(1962)年5月20日のこと。
そんな藤田に日本政府首脳から招待がありました。
都内の料亭で当時の首相の池田勇人、内閣官房長官大平正芳に面会すると、アメリカ政府が藤田を探している、と告げられます。
日米関係への影響を心配した日本政府は、一切関知しない、としながらも、渡米するように勧めてきたのでした。
(別説ではブルッキングズ市の商工会議所から、パレードの主賓として招待された、とも言われます)
藤田は戦犯として裁かれることまで考慮し、「自決用に」と家宝の日本刀を持参して渡米を決断します。
現代の我々から見ると、冗談のような「決断」ですが。
当時の日米の国力や、(命令とは言え)アメリカ本土の「軍事施設ではない」山林を爆撃した自らの戦歴を考えると、藤田の心配はおかしいことではありませんでした。
藤田は自分が断った時の日本政府の苦衷を思い、二度目の「死を決してのアメリカ本土行き」を決断したのです。
しかし案に相違して、渡米した藤田を待っていたのは
「史上唯一のアメリカ本土爆撃者」
を英雄として歓迎する市民の群れでした。
藤田はかつての敵国を訪れて、はじめて「国に尽くした英雄」として評価されたのでした。
藤田はその歓迎振りに自分の心配を恥じました。
自決のために持参した日本刀は、歓迎してくれた市長へのプレゼントに変わりました。
藤田は、それだけではなく、帰国すると生活を切り詰めてお金を貯めました。
衣類は勤務先の作業着だけ、娯楽はたまに買い込む文庫本だけと言う暮らしを続けたのです。
友好のために
藤田はそうして貯めたお金でブルッキングス市の高校生三人を日本に招待しました。
かつての敵国の若者を招くことで、自分を初めて英雄扱いしてくれたことへの返礼としたのでしょう。
ブルッキングス市の高校生たちは、東京を訪ねたり日本の高校生と交流したり、おりから開催されていた「つくば万博」を見て日本を楽しみました。
時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンはこの話に感動し、笑顔の写真に自筆のメッセージを添えて藤田に贈りました。
“To Nobuo Fujita With admiration for your kindness and generosity”
藤田とブルッキングス市の交流は続き、1990年には2度目の訪問。
藤田はこのとき「若い人たちに本を」とのメッセージを添えて1000ドルを寄付しました。
ブルッキングス市はこの「僅かなお金」を大切にしました。
この1000ドルを基金にして図書館を建設しようとしたのです。そのために、経緯を全米に発信して寄付を募りました。
出来上がった図書館は、人口僅か6000人ほどの小さな町には不似合いなほど立派で、エントランス・ホールには一振りの日本刀が飾られているそうです。
そしてその年から、ブルッキングス市の創立記念日は「フジタ・デー」と呼ばれることになりました。
その後の訪問では、時の市長を乗せてかつてのフライト・ルートを飛行するなど英雄扱いは変わりませんでした。
1997年9月には、ブルッキングス市は老いた敵国の搭乗員を「名誉市民」とすることを決めたのですが、その知らせが日本に届く僅かに3日前、藤田は永眠してしまいました。
世界の史上でただ一人
「超大国アメリカの本土を爆撃した男」
はいま、自分が爆撃したことを記念した「ボム・サイト」に眠っています。
真の英雄とは
藤田は操縦の腕は確かでしたが、その任務から撃墜数は多くありませんから、エースの称号にはまったく縁がありませんでした。
その爆撃行も母国の日本では、特に所属していた海軍では全く評価されていません。(ただし、藤田の高潔な人柄を育てたのは海軍の教育であったことも否めません。)
アメリカが藤田を探したときも、かつての兵士を心配して、守ってやろうと言う動きは全くありませんでした。
それに引き換え「爆撃された側」は大きく評価しています。
勇気をもって粘り強く戦うことが、敵の尊敬を受けるのは大東亜戦争の離島防衛で何度も証明されていますが、空の戦いでも同じことでした。
敵の尊敬を受けることは、お互いの理解を深めることにつながります。
敵の尊敬を勝ち得たものこそ真のエースだ、と言ったら幾多の撃墜王たちに怒られちゃいますかね。
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