大日本帝国が育てた?異能の航空機設計者
1910年代後半(大正半ば)、帝国陸・海軍は航空機の設計・製造を民間企業に任せることを選択します。航空機は発達のスピードが速く、官製ではとても世界についていけない、と判断したのだと思われます。
参入した会社
それまで、軍用機は海外の飛行機製造企業から、軍が直接製造権を取得していました。その飛行機を陸軍なら東京砲兵工廠、海軍なら横須賀海軍工廠などで製造していたのです。
第一次大戦で航空機が活躍したこともあり、チャンスと見た国内の製造業各社が、続々とこの新しい軍需の世界に参入してきました。
会社名 | 参入年 | 創業者 | 参考 |
中島飛行機 | 大正6(1917)年 | 中島知久平 | 創業時は「飛行機研究所」 |
三菱航空機 | 大正6年 | 三菱造船 | 創業時はエンジン製造のみ、後に重工と合併 |
川崎航空機工業 | 大正7年 | 川崎造船所 | 親会社から独立するのは1934年 |
日立航空機 | 大正7年 | 東京瓦斯電気工業 | 東京瓦斯電気工業はいすゞ自動車の前身 |
愛知航空機 | 大正9年 | 愛知時計電機 | 独立したのは1943年 |
川西飛行機 | 大正9年 | 川西清兵衛 | 創業時は「川西機械製造所」 |
立川飛行機 | 大正13年 | 石川島造船所 | 創業時は「石川島飛行機製造所」 |
多くの大日本帝国の技術力を支える製造業が参入してきたのですが、技術は必要に迫られて発達するもの。
第一次大戦で否応なく熾烈な航空戦を戦った欧州列強と、本筋から遠く離れて小手先で青島を落した我が国の航空技術では、大きな差がついていました。
そのため、各社は競うようにヨーロッパから航空技術者を招きます。軍部も外国人技術者を招聘するように指導していました。
中島飛行機がアンドレ・マリーとロバンのフランス人コンビ。
三菱航空機はハーバード・スミス(イギリス)とアレクサンダー・バウマン(ドイツ)。
川崎航空機工業はドイツ人リヒャルト・フォークナー。
立川飛行機はグスタフ・ラッハマン(ドイツ)
といった陣容で、ドイツはベルサイユ条約で飛行機製造を禁止されていたために優秀な技術者を招きやすかったようです。
ここまでの記述とタイトルと記事上のイラスト(BV141ではないぞ)から、この記事の先行きを「ははん!」と思った貴方。
歴史を語るにも、戦争の先を読むにも、「左右に偏らない」知識が必要なのですよね(笑)しばらく他の方には黙っておいて下さい。
競争試作
大正14(1925)年11月。大日本帝国陸軍は、新型偵察機を「競争試作」で作ることを決断しました。
「競争試作」とは、イギリスやフランスでは既に成果を上げていた航空機の開発方法で、軍の要求性能や開発方針を公示して試作する会社を募るものです。
希望する会社から試設計を提出させて審査するんですが、一定の技術力が確認できる企業を指名して試作させることもありました(大日本帝国の場合はコチラばっかりですね)。
指名された会社は、試作にかかる費用を軍に出して貰えますし、軍の指導も受けられます。軍の担当者は、本来秘密である競争相手の試作内容も知っていますからね、この情報は大きいのです。
大正14年の偵察機では、陸軍は川崎・三菱・立川を指名しました(中島もむりやり自主参加)。
陸軍の要求性能は最高速度200キロメートル/時以上、上昇限度6000メートル以上。
後の陸海軍の過大な要求性能を考えると、チョロイもんですが、当時はこれが大難問で世界的にも一流と見なされる性能でした。
このためもあって、どの試作会社も外国から招いた技師を中心として設計に取り掛かったのであります。
試作各社のうち、川崎航空機ではドイツから招いたリヒャルト・フォークト技師が設計を担当しました。
フォークト技師はドイツのドルニエ社の技師(大戦中はツェッぺリン社)だった人で、大正13年に川崎と結んだ技術提携契約に基づいて来日していました。
三菱ではアレクサンダー・バウマン教授が担当。
バウマン教授はシュツゥットガルト工科大学で教鞭を取っていたモノを、三菱が三顧の礼を持って迎えた世界的な航空工学の権威。
フォークト技師もシュツゥットガルト工科大学でバウマン教授を師と仰いでいたのです。
立川飛行機ではラッハマン博士が設計主務者を務めました。
ラッハマン博士は主翼前縁に装備される「スラット」の発明者として世界的に著名な航空技術者。
「スラット」は離着陸時に揚力を増大させる高揚力装置の一種です。
こうして見ると大日本帝国は航空技術の世界的権威を集めたのですが、その中ではフォークト技師が一歩見劣りすることが良く判りますね(笑)
川崎、危機に陥る。いや危篤だな
一歩見劣りするフォークト技師ではありましたが、能力が劣るなりに努力はしていました。母国のゲッチンゲン大学に設計した機体の風洞試験を依頼するなど、精力的な活動を続けます。
ところが、こんな努力を続けるフォークト技師に不幸が襲い掛かりました。
って言うより、川崎に危機が迫っていたのです。設計が完成し、試作機の製作にかかろうかという昭和2年4月。
大日本帝国を金融危機が襲ったのです。
川崎航空機工業の親会社である川崎造船所のメインバンクは十五銀行だったのですが、ココが破綻して川崎造船所の資金繰りが極度に悪化してしまいました。
本社や工場は差し押さえをうけ、事業の分割や譲渡、人員整理まで取り沙汰される騒ぎとなっていたのです。
川崎航空機の技術者(フォークト技師の下で、土井武夫などの日本人技術者が設計に当たっていました)たちは、会社の存亡をかけて設計に当たらざるを得なくなってしまったのでした。
こんな理由もあってか、川崎の提示した「新型偵察機」は新機軸を取り入れることは少なく、堅実な設計でした。
機体はこの時期ですから複葉なんですが、補助翼は上翼だけ。
流行り始めていた全金属製とはせず、骨格に特殊鋼やジュラルミンを採用し、胴体側面の一部は布張りで済ませる(これにも技術が必要なんですけどね)などの軽量化策を取っています。
翼型はゲッチンゲン大学が開発したものを流用し、それに絡めて前記のように風洞試験を依頼するなどの「節約」も。
ようやく完成した試作機は、岐阜県の各務原飛行場に持ち込まれて試験飛行を開始しました。この頃には川崎航空機は陸軍の「軽爆撃機」の試作も受注していました。
川崎にはメインの外国人技術者がフォークトさんしか居ませんから、フォークトさんは神戸の工場と各務原を往復する多忙生活となったのでありました。
制式採用
昭和2(1927)年の7月、陸軍は新型偵察機の試作に応じた川崎航空機・三菱内燃機・石川島飛行機製造所の試作機を埼玉県の所沢飛行場に集めて比較審査を行いました。
初めてのこととて、審査は極めて厳格だったそうです。
各社の技術者たちは、お互いに他社の試作機に近づくことも禁止され、不具合が出ても各社で修理することは許されず。戦場での運用に近い条件で審査されたのであります。
この厳しい審査中、石川島飛行機製造所の機は飛行中に補助翼が飛散する事故。
三菱内燃機も脚の故障で着陸時に破損しますが、川崎航空機は無事故で乗り切ります。
飛行速度も要求性能を20%も上回った川崎機の240キロ/時が最高でした。
ライバル社の故障を尻目に、無故障で審査を乗り切ったことで「機体強度の高さも十分」って評価も取り付け、川崎機が審査合格を勝ち取ったのでした。
翌昭和3(1928)年2月、川崎機は「八八式偵察機」として制式採用されることになったのであります。
採用時には陸軍から賞金20万円が贈られ、川崎はこれを従業員へのボーナスに使いました。
八八式偵察機は川崎がライセンス生産しているBMWの水冷エンジン(べ式発動機)を搭載していて、経営的にも大いに川崎に貢献しています。
なお、ラジエターは機首の前面に角型を配置していたのですが、採用後に前面の視界が悪く空気抵抗も大きいと指摘され、冷却機を機首下部に懸架して機首を整形した型が生産されました。
この型が八八式偵察機二型と呼ばれ、補助翼が下翼にも装備されるようになって安定性や操縦性がさらに向上しています。
八八式偵察機は当時の機体としては高性能だった上、稼動率も高く扱いやすい機体だったために実戦部隊には好まれました。
満州事変・第一次上海事変から日華事変の初期に至るまで前線で活躍しました。
合同審査の結果どうりの実用的な高性能機だったんですね。
八八式偵察機は当時の機体の常で、爆撃機としても利用されました。
後に爆撃専用の機体も開発され、「八八式軽爆撃機」として採用されています。この機は昭和15年頃まで偵察部隊に配備され続けていました。
生産は川崎のほかに石川島でもおこなわれ、機数は710機にも上り、当時の陸軍機としては破格の多さを誇ったのです。
フォークトさん、故国へ
八八式偵察機・八八式軽爆撃機の成功はフォークトさんを世界的に有名な航空機技術者に押し上げました。
それでもフォークトさんは川崎の設計陣を支え続けたのです。
外国人技師の招聘には「日本人技術者の育成」という目的もありました。
フォークト技師は土井武夫(二式複戦「屠龍」三式戦「飛燕」)を育て、三菱のバウマン教授は仲田信四郎(九二式重爆)・堀越次郎(零式艦戦など)を、中島では小山悌(「隼」「鍾馗」「疾風」など)が設計主務者として成長していきます。
特にフォークトさんの影響を強く受けたであろう、土井武夫技師が「真っ当な」飛行機ばっかり設計していることは、ちゃんと覚えておいてください(笑)
こうして大日本帝国の軍用機に大きな足跡を残して、フォークトさんはついに故国へ帰ります。
ご帰国は昭和8年でして、このとき大日本帝国は航空技術の自立を果たしおり、フォークトさんと同時期に来日した他の技術者たちはすべて帰国した後でした。
帰国したフォークトさんは伝統ある大手のブローム・ウント・フォス造船所に就職いたします。
ブローム・ウント・フォス社は航空機も製造していて、この部門の筆頭技術者として招聘するというの申し出をされたのです。
まさに大日本帝国で築いた名声のおかげです。
もう、ここらで先が読めましたね。日本ではブローム・ウント・フォスは造船じゃなくて「変態飛行機製造所」としての方が有名ですもんね。
大日本帝国で若い技術者を育成し、自らは有能な軍用機設計者として成長し、名声を得たフォークトさんは、母国へ帰って変態の産みの親になってしまったのです(笑)。
変態すすめ!
フォークトさんはブローム・ウント・フォスに入社すると、先ずHa137という急降下爆撃機を造りました。
これだけ見るとマトモそうな機体なんですが、競争相手のJu87と比べちゃうとその異様さがお判り頂けるでしょう。
逆ガル翼はそういう役回り(着陸用の脚を短くして強度を上げる)だよ、でもそこまで脚を短くせんとイカンのか?と思われませんか?
軍人は基本的に保守的な人種でありますから、「ちゃんとした脚」が付いてるシュツーカに勝てる訳がないのでありまして。
東洋の島帝国で一流の航空機技師の仲間入りを果たしたリヒャルト・フォークトさんは悔しかったに違いありません。原因が自分の「変態好み」にあったことはどこかへ置き忘れてしまいます。
ブローム・ウント・フォス社はもともと造船会社ですから、次は水上機で勝負!とも思ったのでしょう。
続けざまに水上機を設計しますが、どれもどこか変。
まずはBV138洋上偵察飛行艇。
3発はまあ良いとしますが、そんなコブを付けないとダメなんでしょうかね?そして胴体の短さってか尻切れトンボっぷり。
まあ、この尻切れトンボには意味がないワケじゃないんですけど。
フォークト技師の水上機には、プロペラ位置が低いって共通の欠点もありまして、真ん中のペラだけ上げてもねえ。
それでも、この機は採用されて297機生産されています。
3発がダメなら4発ってわけでしょうか、超大型水上機BV139。
この機はデカいのにカタパルトで射出可能な優秀機?なんですが。
デカいのを乗せる母艦が陸軍国ドイツに沢山ある訳もなく、我が国と違って水上機・飛行艇を攻撃的に運用する予定もナシ。なんでこんなの造ったんだか。
フォークトさんはこの後BV140を経て、皆さんご存知のBV141を設計するのであります。
この変態には全周の視界を良くする(BV141は偵察機)という立派な目的があるんですが、「そんな事せんでも良いだろ」という思いはどなたも抱くと思います。
私は工業デザインなんてぇモノは、要求される性能を「出来るだけシンプルに実現するため」に存在してると思うんであります。
シンプルにやれば、デザインそのものは目立たぬ物であります。
ラグビーで言うと、ホントに凄いウィングは派手なステップを切るでもなく、相手を吹っ飛ばすでもなく、直線を走るが如くにディフェンスを切り裂くようなものだと思うんですね(無理やりのタトエで申し訳ありませぬ)。
フォークトさんは逆に出来るだけ目立とう目立とうとしています。
ディフェンスにまわったフォワードの選手に、わざわざ当たって突破をはかるウィングやな。
こう言う奴は、そのうちターンオーバー(ジャッカルの絶好の標的である)食らう運命じゃ。
これでは競争試作に勝てる訳もなく、ナチスに嫌われていたフォッケウルフにすら負けてしまうんです。姿かたちを比べれば当たり前。
大日本帝国でその頭角を現した時は、まっとうな技術者だったフォークトさん。
大日本帝国の陸軍航空を代表する名機を設計した土井武夫を育てたフォークトさん。
土井武夫さんは真っ当な機しか設計してないのに。
ますます変態に磨きがかかる
フォークトさんの「ご乱心」はBV141で留まることがまったくありませんでした。
いや、ますます磨きがかかって参ります。以下、実機は製作されなかったのですが…
こんな飛行艇…BV138で我慢できずに超変態。
判りにくいからイラストで
後から見ると(模型)
何度も書いてきたように、大日本帝国では微塵も変態ぶりを見せなかったリヒャルト・フォークト技師。
ところが母国へ帰ると要らぬアイデアをこれでもか!とばかりにテンコ盛り。
こんな飛行機もあったりして
左右非対称だけか?と思いきやですよ。脚の収納具合をご覧くだされ。
これだけトレッドを取れば、地上での安定性に問題は無い筈なのに、何故に外向けに収納するんかいな?
そのおかげで、翼が分厚いじゃねえか!航空機が高速を狙うには、「厚翼は大敵」ってのが常識であります。
「一応航空技術者」のリヒャルト・フォークトさんが「知らんかった」では済まされませぬ。
この他にも、変態計画は掃いて捨てるほどありますが、多くが左右非対称。
これはいったいどうしたワケなんでしょうか?
謎としか言いようがありません。まあ、お蔭で私たちは「英国面」と並んで「独国面」も楽しめるんですけれど。