陸軍の小型舟艇
大正4(1915)年4月の事であります。
第一次世界大戦を戦っていた大英帝国の海軍大臣ウィンストン・チャーチル卿は、ダーダネルス海峡西側のガリポリ半島に敵前上陸し、オスマン帝国の首都イスタンブールを目指す作戦を実施しました。
大失敗
名高き「ガリポリ上陸作戦」です。
ガリポリ上陸に絡んでは、面白くてためになる(笑)エピソードが一杯あります。
電脳大本営的には「ネタの宝庫」と捉えておりますが、今日はその宝庫から「陸軍」と「フネ」をお箸代わりにして、ネタを取り出してみたいと存じます。
まあ、その前にガリポリ上陸作戦の簡単な顛末を紹介させていただきましょう。
チャーチルさんは協商側のドイツ・オーストリア・オスマン各帝国のうち、オスマン帝国を最弱と見て(実際にそうでしたけど)、ココを脱落させ大戦争を有利に導こうと考えたようです。
ところがどっこいしょ、老オスマン帝国には英雄ケマル・アタチュルク(トルコ共和国の初代大統領になるお方です)さんがおりまして、大規模な割には暢気にやって来た大英帝国(植民地軍含む)+フランス軍を叩きのめしちゃうのであります。
チャーチルさんの計画は、世界でも初めての陸海空三軍の総力を結集して、大規模な上陸作戦をやっちゃおう!というのが骨子でありました。
連合軍上陸部隊は陽動するでも奇襲するでもありませんでした。
連合軍の上陸企図を察知し、戦力が増強されて堅固に構築された陣地に拠って待ち受けるトルコ軍の正面から堂々と上陸しちゃったのであります。
まあ、これだけで敗退確実なんですけれど、その上に連合軍の上陸作業は旧態依然とした端艇や艀(はしけ)に100%頼りっぱなし。コレでトルコ軍の反撃を受けやすくなり、大損害を被ってしまったのです。
この教訓は、大日本帝国陸海軍に大きな衝撃を与えました。
支那大陸への勢力扶植を進めつつあったとは言え、我が帝国は島国であります。
世界中の何処へ行くにも特に陸軍には「上陸問題」が付いて回るのであります。
ガリポリの戦訓は帝国陸軍に「上陸作戦の近代化」を研究・開発する機運を醸成したのでありました。
帝国陸軍はガリポリの戦訓を詳細に分析し、「企図の秘匿」と「奇襲・陽動の重要性」を認識します。
(あっ、ソッチの方向は認識だけにしとけよ)
また上陸即戦闘が可能な「敵前強行上陸部隊」を所有すべき、多数の揚陸資材による上陸部隊の増大(複数部隊の同時上陸に必要な船舶数を確保する)、早期の砲兵揚陸などの教訓を得ることになりました。
(そうそう、コッチの方向でいくんだ!)
一方、帝国海軍の方は師匠筋の大英帝国海軍が、対陸上戦闘で損害を重ねるのを傍観して、上陸作戦の援護からは手を引きたい、と考えるようになります。
コレが電脳大本営の年来の主張「帝国海軍は護衛が大嫌い」の誘因の一つとなっていきます。
陸軍が魚雷艇を輸入して…
こうして、上陸地点までの護衛(これすら嫌がったんですけどね)は海軍が担当するけれど、上陸作業そのものは陸軍が海上での護衛・防備まで含めて自分でやるって言う「分担」体制が確立されて行きます。
となれば陸軍は不得手な筈の船舶を大小取り混ぜて開発しなきゃいけないことになります。
みなさま良くご存じ、世界初の強襲揚陸艦「神州丸」や大東亜戦争でも大活躍する「大発(大発動艇)」などであります。
これらで、敵前上陸をするワケでありますが、当然敵も妨害をしてまいりますので、「神州丸」から敵地へ向かう「大発」を援護してやらなければなりませぬ。
もちろん陸軍はその護衛艇も開発いたしました。今週はその「陸軍護衛艇」の話をいたしましょう。
陸軍と海軍は仲が悪かった!って言うのが、ある程度「定説」ではあります。
が、実際のところ現場レベルではちゃんとお互いにリスペクトしています。
それが陸軍省と海軍省ってなレベルになると、予算は取り合いしなきゃいけませんし、縄張りは広げなきゃいけないし、になってしまうのです。
まあ、そんなワケで陸軍は強襲揚陸艦や護衛艇を開発するに当たって、海軍には相談しなかったようです。相手はお舟の専門家なのにね。
陸軍はその代りとして、大英帝国の「魚雷艇」を買い取って「護衛艇」の参考にすることにしたのであります。
帝国陸軍御用達となったのは英国・ソーニクロフト社製の「CMB」と呼ばれた高速水雷艇です(大正3年3月輸入)。
えっ、魚雷艇か水雷艇かハッキリしろよ!ですって。はいはい、例のごとくココでまた脱線しておきましょう。
海戦の様相を変え得る新兵器!として登場した「水雷(魚雷)」でしたが、どんなフネに搭載したら効果的なのか?という議論はなかなか結論が出ませんでした。
その結論が出ないうちに世界の中心から外れた東の方で、新興のチンケな島国(生意気にも帝国を名乗って)が威海衛とか言うChina軍港を襲うのに水雷艇を使ってしまいやがるのです。
しかもこの島帝国のやつ、世界の中心の一角たるロシア帝国との戦いでも、今度はそこそこの大海(大日本帝国的には「天皇陛下の御浴槽だけどな)のど真ん中で水雷艇を使って見せるんでありまして。
波の荒い日本海で使えるんなら、波穏やかな地中海なら余裕で使えるじゃん!
てなワケで水雷艇はますます注目を浴びます。
ただ、島帝国の水雷艇も満足のいくほどの活躍は見せられませんでしたし、ヨーロッパやアメリカでチョロッと使われたときでも、その運用は困難を極めました。
それで、第一次大戦の前には「水雷艇」の能力を高めるために二つの方向性が模索されるようになった、と私は思います。思います、というのは
「二つの方向性があんねんけど、どっちにすべえ?」
とか言う議論が大っぴらに行われた、という一次史料を私は見たことが無いからです。
無いけど、意識する・しないはそれぞれだったでしょうけど、マトモな海軍の造兵者や軍備担当者は絶対に「どっちや?」って悩んでたと思いますよ。
その二つの道って言うのが、
①規模を大きくして大型の魚雷をいっぱい積んで大砲もいっぱい装備する。大きくなれば航洋性も向上して、長期の任務もこなせる。
②速力を高めて操作性を向上させる。速力を含めた機動性で敵の迎撃をかわし、任務を遂行する。そのため、できるだけ小型軽量なフネが望ましい。
の二つなんですね。
もちろん①が駆逐艦になって(正確には既存の駆逐艦に合流)、②が「魚雷艇」へと発展していきます。
②の道を取るに当って、艇のエンジンが蒸気タービンから内燃機関へと変更されます。当時は内燃機関の方が重量当たりの馬力とかがはるかに良かったからなんです。
電脳大本営では、この「内燃機関を使った水雷艇」以降を「魚雷艇」と呼ぶことに「ほぼ」しています(笑)。
という事で、大英帝国の「魚雷艇」CMB(coastal motor boat)を購入した(40フィート型≒12mと35フィート型≒10.6mの両説あり)陸軍はそのスピードを活かした「偵察艇」をまず開発するのでありました。
高速艇甲
ガリポリを戦訓に上陸戦の研究を本格化させていた大日本帝国陸軍は、大発動艇(大発)などを上陸用舟艇として開発しました。
ただ、この「上陸作戦」のときに敵情偵察や連絡を目的とした高速の舟艇が必要だという研究成果も得ており、陸軍運輸部がこの高速艇の開発に当たることになったのです。
輸入したソーニクロフト艇から「魚雷落射器」を取り去り、艇体を少し大型化した試作艇が制式採用されます。コレが「高速艇甲」です。
この制式採用艇は木造で、ソーニクロフト艇とおなじ船底ステップ一段付きの滑走型。
『昭和造船史』には制式艇の全長14.42m・幅2.74mとありますが、全長45フィート(約13.72m)との説もありまして判断に迷う所です。
45フィート説は昭和12(1937)年初出と思われるのですが、制式後も「高速艇甲」の改良は続けられていまして、武装の強化もあって自重が増加(4.5トン→5.3トン)してますので、艇体が小さくなるのはちょっと謎なんですね(笑)。
搭載機関は400馬力のガソリンエンジン1基、『昭和造船史』はカーマス(Carmouth)式を取っていますが、形式不詳12気筒・米国製リバティエンジンなどの説もあり、いずれにせよ日本軍の小型艇としては最速の37~38ノットもの高速を発揮しました。
「日本軍」と書いてあるのにご注意くださいよ。
高速艇甲には武装兵8人が乗船でき、最初の制式艇には固有の兵装がありませんでした。
ただ、偵察用ですから無線通信機は装備されています。
初期にはイギリス製の「マルコーニYA3型無線通信機」が装備されたのですが、電信は航行中の受信が困難であり、無線電話機能は音声不明瞭で実用に堪えず、とされています。
まあ、それでも陸軍はこの高速艇に満足したようです。そりゃ、海軍の小型船舶より断然早いんだからね(笑)
「高速艇甲」は初めのころは機密保持のため陸軍運輸部の工場で生産されていました。
上陸作戦は意図の秘匿が肝心、ってえのもガリポリの戦訓ですから、これも良く分かるところであります。大発(上陸用舟艇)は大々的に造ったりしてるけどね。
そのためかどうか?初期の生産艇には固有名(愛称)が付けられていました。
1号艇は「稲妻」2号艇「鳴神」(なるがみ)3号艇「飛龍」4号艇「吹雪」5号艇「神風」(かみかぜ)…なんだかなぁ。海軍さんと被るんだよね、ネーミングが。
日支事変が始まると民間の造船所でも建造されるようになったのですが、大発などの上陸用舟艇に比べると生産数はごく僅か。
昭和17(1942)年3月の時点で26隻が配備(完成済み)されていた他、17隻が建造途中であったにとどまります(この17隻中何隻が完成したかは不明)。
これ以後は戦況悪化に伴った生産兵器の整理対象となってしまい、昭和18年以降は生産されませんでした。
完成した「高速艇甲」は陸軍船舶兵の諸部隊に配備されました。
昭和9(1934)年8月に行われた陸海軍合同演習にそのうち1隻が参加している事が確認できます。
第二次上海事変中の「杭州湾上陸作戦(昭和12年11月)」では、大発81隻・小発94隻・装甲艇3隻・高速艇乙10隻などと同時に「高速艇甲」4隻も実戦投入されています。
バイアス湾上陸作戦などでも5隻が参加していまして、海軍の小型舟艇を上回る優れた性能で活躍しました。
陸軍船舶兵の某幹部さんは、海軍が「高速型」と呼んでいた最高速力13.5ノットの内火艇(15m型)のことを「海軍のいわゆる高速艇」と揶揄したと言われています。
大東亜戦争でも引き続き便利に使われました。開戦劈頭の南方作戦では独立工兵連隊(上陸用舟艇の運用を担当)に各2隻に加えて上陸戦の指揮を執る「揚陸団司令部」にも2隻が配備されていました。
ソロモン諸島の防衛戦にも投入され、ガダルカナルの戦いでの川口支隊でも部隊本部に1隻が配備されて舟艇機動に働いたようです。
ただ、アメリカ軍が投入してきた「PTボート」には速力では対抗出来たものの、火力では全く太刀打ちできませんでした。
昭和4年に実施された性能テストでは、機関室隔壁設置・排気方法の改善・安全で水しぶきが掛からない座席への改良(はやぶさ級ミサイル艇!と思った方はツウですな)・通信機能の改良・騒音対策などと並んで、追加すべき装備として自衛用機関銃・サーチライト(または照明弾発射機)・煙幕展張装置・自動測深機などが指摘されていただけに、ちょっと残念です。
高速艇乙
陸軍運輸部が船舶同士や陸上との伝令用に使うために開発したのが高速艇乙です。
昭和5年7月の設計ですから「甲」が出来てからだいぶ後の事です。
38ノットの最高速力を誇る「高速艇甲」に比べて、高速艇と言いながら「乙」はずっと低速なんですが、前記の「いわゆる海軍の高速艇」と比較すれば恥ずかしい速度ではありません。
「高速艇甲」が軽快な滑走型の木造船体だったのに対して「高速艇乙」は普通の排水型の木造(鋼製もあり)船体になっています。
搭載機関も、高速艇甲がガソリンエンジン(400馬力)だったのに対し、高速艇乙は陸軍の舟艇で多く使われていたディーゼルエンジンを搭載。
100馬力型で速力13ノット、150馬力型では速力16.5ノットを発揮できました。
武装兵10人を搭乗させられるほか、固定兵装として艇首に軽機関銃1丁を装備し、屋根上に重機関銃1丁を装備することも可能。
全長11メートル・幅2.43メートル・満載排水量5.0トン。
「戦前船舶」第102号の「船舶資材保有状況」によれば、昭和17年3月31日現在で88隻(うち44隻は未成)所有されていた、となっています。
水上戦車「装甲艇」
高速を旨とした上記の舟艇には「装甲」はありませんでした。
陸軍は上陸用舟艇の護衛・上陸支援のためには装甲を施した専用の「戦闘用舟艇」が必要と考え、昭和3年に試作艇を完成します。
このフネは「装甲艇・さきがけ」と命名され、2号艇「勝鬨」、3号艇(愛称不明)と改良を重ねます。昭和5年ころからは3号艇を基本として量産型が生産されるようになっています。
装甲艇は名称の通り船体と上部構造物に装甲が施され、武装は戦車砲1門と機関銃2門をそれぞれ砲塔式に搭載しています。
これはまさに「水上戦車」に他なりませんぞ。
砲の形式も1号艇では37粍砲で、2号艇以降は八九式中戦車の主砲と同じ九〇式57粍戦車砲。昭和13年以降に建造された艇では57粍戦車砲2門と機関銃に進化しています。
支那事変では沿岸や河川など、海軍の駆逐艦が入り込めない水域で活躍し、大東亜戦争でも上陸戦や海上輸送の際の大発などの護衛として便利使いされました。
しかし、アメリカ海軍が魚雷艇「PTボート」を投入してくると、コチラは低速過ぎて対応が困難でした。
駆逐艇
ここまでの「高速艇甲」は武装の貧弱で、「装甲艇」は速度の不足で、アメリカ軍魚雷艇に手も足も出ない状況に、帝国陸軍は急遽対応策を打ち出します。
実は昭和16(1941)年頃、停泊中の揚陸艦(神州丸)や輸送船を敵の潜水艦から守護するための「小型駆潜艇」が陸軍運輸部によって試作されていたのです。
この試作艇は「高速艇丙」と呼ばれたのですが、Wikiによると
「大戦当時は既に旧式である航空機用エンジンである八九式八〇〇馬力発動機を流用、3基搭載し、最高速力42.0 ktと極めて優秀な高速性能を発揮」
となっています。
この「丙」をもとに、横浜ヨット工作所などに建造させたものが「カロ艇」と呼ばれる高速戦闘艇「駆逐艇」です。
昭和18年3月に試作1号艇が横浜ヨット工作所で起工され、翌年11月には改良された試作2号艇が竣工。
実用試験を経て武装を強化したものが「駆逐艇第一型式」として量産されました。
第一型式の武装は九八式20粍高射機関砲×2門・爆雷投下軌条2基(海軍供与の三式爆雷10個)・発煙筒2基・「ら号装置」(陸軍式の簡易ソナー)など。
結局、「カロ艇」はソロモン攻防には間に合いませんでした。
なお、Wikiの「八九式八〇〇馬力発動機」が良く判りません。
「98式800馬力発動機」ならBMW9型、すなわち「ハ-9」かな?とも思われるのですが、それなら水冷(液冷)の筈で、第一形式の巨大な通風筒と整合しません。
どなたかご教示を。さらに、Wikiを安易に信じちゃ駄目だぞ(笑)。
このカロ艇がもう少し早く出来て、ソロモンに投入されていたら?
戦後のアメリカの歴史はちょっとは変わっていたかもね。
セクシーハリウッド女優とよろしく遣ってた大統領とかさぁ。