帝國海軍は護衛が大嫌い3~バタビア沖に見る護衛軽視
護衛が大嫌いシリーズの1と2では潜水艦の脅威について、「気付けたはずなのに手を打たなかった」って方向から、帝国海軍の護衛嫌いを見ましたが、今回は「護衛する気ないやん」「防護対象を放り出して」って事象を見てみましょう。
順調な南方作戦
真珠湾への奇襲で幕を開けた大東亜戦争は、当面の戦略目的である南方資源地帯の確保も順調でした。
大日本帝国の大東亜戦争における当初目標は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)の石油資源の獲得です。
代表的なパレンバン油田だけで当時の日本の消費量を上回る石油を産出しており、ここを無傷で占領できれば長期持久戦を戦い抜けると思われていたのです。
実際には精製などの問題のほかに本土へ還流させるルートにも問題があったのですが…
蘭印は石油の他にも錫・ボーキサイト・ゴムなどの戦略物資をも産出する資源大国です。宗主国のオランダは1940年にドイツによって占領されて、政府がイギリスに亡命。蘭印は植民地帝国オランダの最後の拠点となっておりました。
日本軍は蘭印攻略を担当する部隊として軍司令官・今村均中将を戴く第16軍を編成。
蘭印作戦では奇襲が不可能で、第16軍隷下の部隊には香港・マレー作戦にも参加した「再使用部隊」も多く損害回復に問題をかかえていました。
長途の渡洋作戦になるため、制海空権を確保することも必要で、その上油田の設備を連合軍に破壊される前に占領するという特別な任務もあったのです。
悪条件の重なる任務ではありましたが、蘭印占領の支作戦ともいえるフィリピン・シンガポール作戦は順調に進み、今村均中将は困難ながらも、ある程度の余裕をもって蘭印作戦に当たることになります。
が、とんでもない落とし穴が名将今村均を待っていたのでございます、バタビア沖で。
海軍の護衛
大日本帝国の圧倒的優勢の続いていた昭和17年2月18日であります。
今村中将率いる第16軍は、満を持して西部ジャワ島攻略の「蘭印作戦」を発動、輸送船56隻に分乗してカムラン湾を出撃いたしました。
帝国海軍も、もちろんこの作戦に協力いたします。第16軍が乗り組んだ輸送船56隻もの大輸送船団を、第五水雷戦隊司令官の原顕三郎少将に命じて少将直率の第三護衛隊(軽巡2、駆逐艦15、その他合わせて27隻)で護って行きます。
さらに西方支援隊として栗田健男少将の第七戦隊が第19駆逐隊の駆逐艦2隻とともに間接支援を行っていました。
栗田少将の持ち駒は最上型重巡洋艦4隻(第1小隊「熊野」「鈴谷」、第2小隊「三隈」「最上」)とこの海域では最強クラスでした。
大戦力を握った栗田少将は、皆さんご存知の怯懦の片鱗を早くも見せてくれるのでありますが、それはまたの機会に。ただ、この時点で気が付けよな、海軍の人事担当(人事専門職がいないのも海軍の欠陥)。
私に言わせれば、栗田中将はこの大東亜戦争が有利に展開していた時期から、「実戦部隊を直卒すること」に向かない性格であることを自分から発信し続けておりまして。
このシグナルに気付かない(気づいても知らん顔する)海軍中枢が「引き返しちゃった責任」を追及されるべきなんであります。
また横道にそれました。
迎え撃つ連合国艦隊はアメリカ海軍の重巡「ヒューストン」、オーストラリア海軍の軽巡「パース」オランダの駆逐艦「エヴェルツェン」の3隻。
帝国海軍が圧倒して当たり前の戦力差、逆に逃げ出さずに迎え撃ったことを褒めてあげなきゃいけないほどです。
帝国海軍はこの「巨大戦力」で第16軍が乗船した強襲上陸船(陸軍のフネでありますから武装していても船であります)「神州丸」「あきつ丸」その他総計56隻の輸送船を護衛したのです。
連合国艦隊の方は昭和17年2月27、28日のスラバヤ沖海戦で打ち破られた残存艦隊でした。
スマトラ島バタビア(今のジャカルタ)に逃げ込んだものの、バタビアも安息の地ではありません。大日本帝国の侵攻が迫っていました。
2月28日夕刻、連合国艦隊はスンダ海峡を経由してジャワ島南岸のチラチャップへと向かったのであります。
行きがけの駄賃狙い
連合軍の艦隊はオランダ駆逐艦「エヴェルツェン」の準備が遅れ、巡洋艦2隻(パースとヒューストン)が先行していたのですが、ジャワ島バンタム湾に差し掛かると前方に神州丸以下の日本の輸送船団を発見しました。
付近には幸い護衛艦艇が見当たりません。開戦以来、大日本帝国海軍にいいようにやられっぱなしの「パース」と「ヒューストン」は、これを屠って復讐を遂げようと「パース」先頭の単縦陣で突撃します。
ところが、大日本帝国側はちゃんと気づいていたのです。
折から哨戒中の駆逐艦「吹雪」が両艦を発見、司令部に通報するとともに両艦の追尾を続けていたのです。
通報を受けた原司令官は座乗の軽巡「名取」、第11駆逐隊(初雪、白雪)を率いて西方2万mまで接近。更に哨戒中の駆逐艦「春風」(第5駆逐隊)も距離8000mで敵艦を発見します。
ここに至っても連合軍の「パース」と「ヒューストン」は日本軍の艦隊に気づかず、輸送船団へ突撃を続けていました。
原司令官は第三護衛隊の全艦に集結命令を通達し、西部支援の第七戦隊第2小隊(重巡「三隈」「最上」、第1小隊は栗田が直卒して「参戦拒否」)、駆逐艦「敷波」(第19駆逐隊)も呼び寄せます。
やがて生起した海戦は2時間あまりの戦闘で連合軍巡洋艦2隻を撃沈、日本軍の損害は駆逐艦「白雪」「春風」「敷波」の3隻が小破しただけと軽微でした。
一般に「大日本帝国海軍の一方的な勝利」と言われる所以でありますが…ここから海戦の模様は暗転してしまうのであります。
輸送船団に損害
連合国艦隊が壊滅しようとする頃、パンジャン島南方で陸軍の輸送船団の直衛に当たっていた「第二号掃海艇」が右舷缶室に魚雷1本を直撃され、艦体切断したのち転覆し戦死傷40名。
続いて陸軍輸送船の「佐倉丸」(9,246トン)の左舷船倉に魚雷1本が命中、左舷機関室にも魚雷が命中し沈没。
陸軍病院船の「蓬莱丸」(9,192トン)の左舷機関室に魚雷が命中して横転、着底。
陸軍輸送船の「龍野丸」(7,296トン)が自船に向ってくる魚雷を発見、回避中に座礁。
さらに第16軍司令官の今村均中将座乗の陸軍揚陸船「神州丸」にも魚雷が命中、大破着底。
今村中将は海上へ投げ出されてしまい、3時間に及ぶ海水浴を楽しんだ後に救助。
幸い第16軍司令部に被害はありませんでしたが、無線機を喪失して上陸当初の指揮命令伝達に一定の障害が残りました。
酸素魚雷が
「神州丸」と「龍野丸」はのちにサルベージの上修理されて戦線に復帰することになるのですが、連合軍艦隊が魚雷を発射した形跡はありませんでした。
索敵もしっかりしており、洋上に他の敵影は発見されていません。
それでは探知できなかった敵潜水艦でしょうか?
大日本帝国海軍は海戦直後から原因の調査に取り掛かった、とWikiにもあります。
そして輸送船の被雷した時刻や命中した方向、さらには爆発の大威力から第七戦隊の「最上」が発射した魚雷(二回目の発射)が敵艦に命中せず、そのまま射線延長線上の輸送船団に命中した可能性が浮上してきました(駆逐艦「吹雪」の魚雷説もあり)。
調査は進められ、ついに陸軍の上陸点で九三式酸素魚雷の一部が引き上げられます。
第三護衛隊司令部はここに至ってついに原因は「味方の誤射」と判断し、今村中将に対して護衛隊司令部一同が謝罪することになりました。
謝罪をうけた今村司令官はこれを快く受け入れると、この事件に関しては敵魚雷艇による損害とすることを提案、海軍の顔を立てたのでした。さすが後に「聖将」とまで言われる今村将軍ではありますね。
海軍側はこの今村中将の寛大さに感謝して、それでおしまい。
Wikiによれば、護衛隊司令官の原少将はこの海戦の戦訓所見として
「輸送船団至近ノ海面ニ於ケル戦闘ニシテ、シカモ多数ノ夜戦隊挟撃ノ態勢ニ於ケル魚雷戦ニ於イテハ、射線方向ニ対シテ特ニ深甚ノ注意ヲ要ス」
としているのです。これが海軍の見解と言っても過言ではないでしょう。
如何でしょう?海軍は真剣な反省をしていると言えますか。してませんよねぇ。
戦後の海軍に批判的な考究もだいたいこの線で追及の手を収めています。
しかし、本当にそうなんでしょうか?
ここで第三護衛隊(第五水雷戦隊基幹)の任務を再度確認しておかないとワケが分からなくなります。
第三護衛隊の任務は「第16軍が分乗した56隻に上る輸送船団の護衛」でした。
「敵艦隊との戦闘」でも「敵艦隊の撃滅」でもありません。
如何でしょう?
味方(護衛すべき)輸送船団に向かって突撃する「パース」と「ヒューストン」を発見した「吹雪」がこっそり追尾した行為の重大性がお判りになるのではないでしょうか?
「吹雪」が幾ら帝国海軍の誇る重武装駆逐艦だ、と言っても、敵は巡洋艦2隻。単艦では全く勝負にならなかったでしょうが、足止めは出来た筈。
第三護衛隊司令部は「吹雪」からの連絡を受けて、隷下の各艦を呼び集め、「パース」と「ヒューストン」を撃沈したのですから、「吹雪」が足止めしている間に迎撃態勢を整える時間は十分だったと考えられます。
「吹雪」艦長が決断を躊躇うなら、司令部から足止めを命じなければなりません。
つまりは電脳大本営が主張する、「大日本帝国海軍は護衛が大嫌い」と言う事なのです。
第三護衛隊司令部は護衛対象、貴重な陸兵を満載した輸送船団の安全より、2隻の巡洋艦を確実に沈める事を重視したのです。自軍の戦力が集積されて、確実に2隻を屠れるようになるまで、わざと手出しをしなかったのです。
その結果、護衛対象の輸送船団に接近を許してしまい、「第三護衛隊ー敵艦隊ー輸送船団」と言う配置になってしまったのです。
「敵艦隊ー第三護衛隊ー輸送船団」の、普通に考えれば小学生でも判りそうな隊形に持ち込めば、バタビア沖海戦の結果は全く違っていたでしょう。
その配置を「しまった!」とも思わずに無統制に魚雷を乱射した結果として味方の「強襲揚陸船」を撃沈してしまったのです。
結果だけを見ても、圧倒的な大兵力を持っていたのに、輸送船団に損害を出したんですからこの作戦は大失敗です。敵艦隊を撃滅したとしても司令官は更迭が当たり前の「大失敗」であります。
しかし昭和17年12月8日、山本五十六連合艦隊司令長官は「三隈」「最上」「敷波」に対して、バタビア沖海戦における戦闘を称賛し、
『各隊協力善戦奮闘シ遂ニ敵ヲ殲滅シテ克ク護衛ノ任ヲ全フセルハ功績顕著ナリト認ム』
として感状を与えたのでありました。
東郷平八郎元帥が「連合艦隊解散の辞」で述べた
「勝って兜の緒を締めよ」
を此奴は教えてもらわなかったんでしょうか?海軍大学校出てるのに。
山本五十六元帥を「名将」と評価する方もいらっしゃいますし、「愚将」と批判なさる識者もおられます。
私は「護衛ノ任ヲ全フセルハ」の一語を以て、評価を変えても構わない、と思いますよ。少なくとも「嘘つき」です、元帥は。
私は「実戦の指揮官としては戦隊司令(戦艦2隻程度)がお似合い、山本の実力は海軍大臣をやらせてみないと判定不能じゃないかな。」ってところです。
因みに、「スパイ説は反論する必要も認められないくらいの愚説」と言っておきます。
さてさて、せっかくのパレンバンの石油も、これでは本土にまで届かなかったのも当然でありましょう。
なお、蘭領インドシナでもっとも産出量の多いパレンバンは、大東亜戦争中は陸海軍の協議で陸軍の支配下に置かれました。
海軍は大作戦のたびに陸軍に頭を下げて、石油を融通してもらうことになってしまうのですが、これが陸軍のしっぺ返しだったかどうか?は不明であります。