千島の奥も樺太も~白系ロシア人脱出~

北方領土

(^^♪千島の奥も樺太も、八洲(やしま)の内の護(まも)りなり
至らん國に勲(いさお)しく、努めよ我が背、恙(つつが)無く。
「蛍の光」第4番の歌詞を、勝手に電脳大本営が書き替えました。本来「樺太」の部分は沖縄が入っています。

シベリア出兵

大正9(1920)年3月、アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港)を、折から内戦中の赤軍パルチザンが襲撃・占領。その後2か月間にわたって大規模な住民虐殺を開始しました。在留邦人も女性や子供を含めて多数の犠牲を出したのであります。

皆さんよくご存じの「尼港事件」であります。

日本人が多く犠牲になった上に、ロシア人ばかりでなく半島人やChina人、果てはChina海軍の艦艇まで赤軍(正規軍ではありませんが)の手助けをしていますので、大いに非難してやりたいところであります。

が、この記事は尼港事件の後日譚とでも言うべきエピソードをお話させて頂きたいので、簡単に。

尼港事件で廃墟となった市街

尼港事件で廃墟となった市街

尼港事件の起こる3年前、大正6年にはロマノフ王朝は崩壊していましたが、反革命派もいまだに侮れない勢力を持っていた時期であります。

反革命派をさっさと潰したいボリシェヴィキ政権ですが、ロシアは第一次世界大戦でドイツと激しく争っていました。
勝ち目の見えないドイツとはさっさと戦争を止めて、内乱を押さえ込むために、ボリシェヴィキ政権は大正7年3月にドイツと「ブレスト=リトクリフ条約」を結んで戦争からドロップアウトしちゃいます。

困ったのは「西側諸国」です。英仏軍にしてみれば、東部戦線で戦っていたドイツの戦力が西部戦線に集中してきます。
もっと恐ろしいのは、たとえ戦争に勝利しても、「強大な社会主義国家」という自らの国家のアイデンティティと鋭く対立する存在が確立してしまう…

そこで、同盟国の癖に大戦争にあんまり大きく関わっていない、日本とアメリカがシベリアに出兵して共産ロシアに対する「東部戦線」を形成することにしたのであります。
おあつらえ向けに、チェコスロバキア人の部隊がボリシェヴィキ政権と戦闘状態にありました。チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国に支配されてたんですが、この「チェコ軍」を助け出そう、ということを出兵の名目にしたわけです。

もちろん、他の考え方・捉え方もできますよ。シベリア出兵に限らず歴史の事象なんてみんなそうです。いろんな方向から見なきゃいけません。

尼港事件の犯人ども

尼港事件の犯人ども
背後に日本人から奪ったのであろう屏風が…

日本でもこの出兵には賛否両論がありましたが、大日本帝国も共産主義とは相容れぬ国であります。
ロシア帝国が満洲や朝鮮半島を覗うのさえ国防の危機でありますのに、共産ロシアとなれば、コレはシベリアの大地に兵を出して勢力を削っておかねばならないところです。

で、でありますね。このロシア内戦とチェコ軍VSボリシェヴィキ政権とシベリア出兵は物事が複雑に絡まりすぎておりまして、ハッキリ言ってよう解りません。解りませんので、非常に表面的な説明をいたしております。そこんとこ、ご理解ください。

シベリア出兵は本来の目的はともかく「戦争相手国のドイツに囚われているチェコ軍団を助ける」と言うのが建前でした。
ところが、第一次世界大戦は、大正7(1918)年11月に休戦協定が結ばれて終結しました。この休戦には「チェコスロバキアの独立」も条件に入ってましたので、日本軍は建前上では争う相手がいなくなってしまったのです。

本来なら日本はシベリアから撤退しなければなりません。

ところが、この当時北樺太はロシア領でしたが邦人の居住も多く、その対岸にある尼港(ニコラエフスク)周辺にも日本人居留地が点在していました。
大日本帝国は臣民を見捨てることは出来ずに、シベリアへの駐兵を続けていたのです。
ただ、徐々に兵数を減らしていたことが、後に大いに悔やまれることになります。

尼港事件

赤軍の勢力はどんどん増していました。さらに赤を装った山賊や馬賊も横行していまして、シベリアの情況は予断を許しません。

大正8年が近づくと、ニコラエフスクとその周辺で働いていた農民や労働者(半島出身者やChina人も赤山賊(パルチザンとの表記多し)に合流するようになり、白軍(反革命派)や日本軍の脅威となりました。

シベリアに寒い寒い冬がやってくると、山賊(山はないか…)どもはついに尼港に襲い掛かりました。

大正8年1月28日、赤どもはニコラエフスク付近の「チヌイラフ要塞」を占領、要塞からの砲撃で大日本帝国海軍の無線電信所を破壊します。電信線はその前に切断されており、尼港と日本本国との通信手段は完全に失われてしまいました。

事態を重く見た帝国は、支援を送ることにしました。

三笠 裏長山泊地

日露戦争中の三笠 裏長山泊地にて

特に海軍は栄光の戦艦「三笠」に、砕氷艦「見島」(鹵獲したロシアバルチック艦隊の海防戦艦「アドミラル・セニャーヴィン」を改造)を付けて急遽尼港へ派遣したのですが、厚い氷に阻まれて入港出来ません。

2月28日には赤軍がニコラエフスクに入城、開城合意文書が交わされましが、赤鬼が約束を守る筈もなく、略奪・暴行が横行したため、数の少ない日本軍は3月12日に反撃に出ます。
ところが、この時China海軍の砲艦が赤軍に味方して艦砲射撃を行い、日本軍の抵抗を挫折させてしまったのでした。

これが、「尼港事件」であります。海面情況が改善するのを待って、日本軍は尼港周辺の赤どもを叩きのめすのですが、虐殺された帝国臣民は帰っては来ませんでした。

その後、帝国はシベリアからは兵を引いたものの、ロシア人の狼藉を監視・防止するため、北樺太を保障占領するとして「サガレン派遣軍」を創設、一個旅団相当の兵力ではありましたが、樺太北部に展開して「軍政」も行っています。

海軍のヨミの甘さ

「尼港事件」は、海軍に大きな衝撃をもたらしました。

何しろ、たかが氷に阻まれて居留民の救出に行けなかったんですから。
戦力的には十分な艦があり、改造とは言え砕氷艦「見島」があったのにも関わらず、であります。
しかもこの海域は海軍にとって「未経験」ではありません。日露・日ソ間には長きにわたってこの海域で漁業権の争いがあったからです。

砕氷艦見島(ロシア海防戦艦時代)

砕氷艦見島(ロシア海防戦艦時代)

当時の日本には海上保安庁はありませんから、この海域の警備(北方警備)も当然のように帝国海軍の担任でした。そんな海域で、邦人救出に間に合わないのでは、存在意義を疑われても仕方ありません。

焦った海軍は能力の高い砕氷艦の建造を思い立ちます。当時「能登呂型給油艦」の建造計画がありましたので、そのうちの1隻を本格的な砕氷艦に切り替えて建造することとし、コレを砕氷艦「大泊」と名付けたのであります。「大泊」の建造は大正10(1921)年にはじまりました。

「大泊」の設計にあたってはロシアの砕氷船「ドブルニア・ニキチッチ」の設計が参考にされたようです。
砕氷の方法は、まず艦首を氷の上に乗り上げておき、艦内の前部・後部のタンクに海水を取り込んで自重を増やし、さらに前後のタンク間で重量をやり取りしてその重みで氷を叩き割る…というモノでした。

計画では2mの厚みの氷を砕ける筈でしたが、実際は1m少々だったようです。

北サハリン占領

日露戦争の末期(正確に言うと戦争を終わらせる交渉が始まってから、ですが何か問題でも?)に、大日本帝国は樺太全島を占領しました。千島樺太交換条約によって、樺太はロシア領になっていたのです。

交渉の結果、北緯50度以南の樺太は合法的に日本領となり、大日本帝国による開発が進められていました。

本格的な砕氷艦がやっと建造の緒に就いたとき、南樺太の日本領や、北樺太とその対岸に仕事がある日本人は千名のオーダーで「危険地帯」に暮らしています。

砕氷艦「大泊」の就役をのんびり待っていることは出来ません。大日本帝国はこれらの日本人の安全を担保するために、北樺太を保障占領することにいたしました。こうして「サガレン派遣軍」が創設され、北樺太を支配下に置くと、軍政を開始したのです。

亜港の日本人街

亜港の日本人街

「軍政」と聞くと強圧的で搾取がひどい、と感じてしまう人も多いと思います(パヨの悪宣伝に汚染されておられますよ)が、大日本帝国はどの領土でも必要以上の武力は使っていませんし、搾取もしていません。この軍政にはロシア人も参画しています。

何処でも、大日本帝国の統治によって、程度の差はありますが経済的な発展が加速されているのです。北樺太ももちろん例外ではありません。
石炭の産出量を例にとると、大正11(1922)年に北樺太全域で4万5千900トンだったモノが翌年には10万5千400トンに倍増しています(北海商科大学・竹野学教授、2013年)。

この竹野先生の研究は(北樺太における)「酌婦」の出身地を帝国本土・半島に分け、China人酌婦やロシア人も加えて人数の消長を調べるなど、心ある日本人の興味をムチャクチャ惹きます。

酌婦がいる、人数が増えてるってのはその地が「安定的な日本の支配」のもとにある、と少なくともその地の住民が考えてた、ってことですから。

ところが、大日本帝国の方針は変わってしまいます。

北樺太からの脱出

私たち日本人からすると、樺太は日本のモノであります。昔から現在に至るまで。まあ、千島樺太交換条約って難物がありますが(笑)

南部は間違いなくわが帝国の領土であり、北部も尼港事件の代償みたいなモノでありますので、いっぺん他の地域での戦争に負けたからと言ってロシアに譲る必要などありません。

歴史の話に戻ります。

樺太派遣軍司令官々舎(旧亜港市長官舎ナリト)

樺太派遣軍司令官々舎(旧亜港市長官舎)

サガレン派遣軍が保障占領して軍政を敷いた北樺太は、江戸時代末期からロシア人が入植して、経済活動を行っていました。
シベリアに共産革命の混乱が押し寄せてくると、北樺太に逃げてくるロシア人もたくさんいたのです。

共産革命に賛成できない立場のロシア人を「白系ロシア人」と呼びます。保障占領下の北樺太は白系ロシア人が逃げ込むのに絶好の場所でした。

共産主義とは全く相容れない価値観を持っている大日本帝国の支配下にあるのに、ロシアの領土でもありますから、パスポート無しで行けますんでね。
元々北樺太で財を成した人々も居ました。この人たちも当然「白系」であります。

サガレン派遣軍の軍政は、彼ら弱い立場の白系ロシア人を(積極的に、ではありませんが)保護し、彼らに安息の地を提供していました。

で、この北樺太をソ連に返す、という交渉が行われることになりました。

コレは日ソ基本条約(日本國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦閒ノ關係ヲ律スル基本的法則ニ關スル條約)締結に伴うモノです。
つまり、帝政ロシアを滅ぼしたソ連を認め、マトモな国際関係(満蒙の国境不可侵など)を築こうとするもの。

条約で居留民の安全が保障されるなら、保障占領の必要は無くなりますから、サガレン派遣軍が北樺太を占領・施政権を行使する根拠がなくなる、ってワケです。

しかし、北樺太がソ連に返されてしまえば、日本人は保護されるでしょうが、白系ロシア人は迫害されることは目に見えていました。将来を悲観した白系ロシア人は、北樺太を捨てて逃げ出すことになります。

閲兵中の白衛軍敬礼するのはコルチャーク提督

閲兵中の白衛軍
敬礼するのはコルチャーク提督

日本でも有名な白系ロシア人は、プロ野球の名投手スタルヒンでしょう。が、私には悲しいかな、野球をちゃんと語る能力がありません。

代わりに、亜港(アレクサンドロフスク)で一番の有力者だったペトロフスキーさん一家の脱出行を見て頂くことにいたしましょう。
(以下の話は「北海タイムス」の大正14年2月23日の記事を元に構成しています。)

ペトロフスキー家

ペトロフスキー一家のご先祖のフィリップ・ペトロフスキーさんは徒刑囚だったようです。シベリア送りになったのですから、かなり重大な犯罪を犯したか、帝政を倒そうとしたか、でありましょう。

フィリップ・ペトロフスキーさんはシベリアで止まらずに、さらに東へ。樺太に渡るとアレクサンドロフスクの町で石炭事業を興しました。囚人のくせに事業を興すってなんだかヘンですが、帝政ロシアのシベリア流刑囚だと、なんだかありそうな話でもあります。

フィリップ・ペトロフスキーさんは石炭を掘って(掘らせて)カネを儲けると、大規模なレンガ工場も建設しました。

1920年代の亜港の市街

1920年代の亜港の市街

その工場で生産されたレンガによって、今でも残っているアレクサンドロフスクのいろいろな建造物や、市の大通りにある家々が建てられたのです。

亜港の街にはそれを記念してペトロフスキー通りまであったそうです。

記事は、このように書き始められています(改行等は電脳大本営にて行っています)

<亜港屈指の資産家として又亜港相談会役員の一人として近くは強盗事件で亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られたコンスタンチン・ペトロスキー(ママ)の一家は我が軍撤兵と共に亜港を引き揚げなければならぬ運命となった。
彼が北樺太に抱擁する幾多の富も今となっては全く何等の力を有していないのである。彼は悄然として妻エレナと共に長男コンスタンチン(九才)長女アナスタシヤ(五才)次男アナトリー(七才)二女エレナ(四才)三女ナタリヤ(二才)等の手を取り新しき生活を営むために暖かい南国を指したのであった。
一家が小樽経由長崎へ向かう途中ペトロスキー氏は北海屋ホテルの一室でしめやかな物語を聞かせて呉れたのであった。>

うん、邪魔くさい。旧仮名使いを変えて、句読点打ち直して「上から目線」の語り調を改めるのは手間がかかり過ぎじゃ。
しかし、マスゴミの「上から目線の書きっぷり」は今も昔も儂をムカつかせてくれるな。

ソ連への返還が迫る北樺太の社会は次のような感じだったようです。

「北京交渉(日ソ基本条約の交渉は北京で行われていました)がいよいよ成立した、と聞いた有産階級と日本軍に好意を持っている人達は、驚きと諦めの気持ちでコレを受け入れなくてはなりませんでした。」

日ソ間の交渉は、もう数年掛かりであり、大日本帝国に逃げなければいけない、との覚悟は決まっていたのですが、資力が充分ない人々もいますし、日本に逃げてから何處に居を求めたらよいのかという不安は誰にもありました。

ペトロフスキー家のように莫大な資産を持つ家庭であっても、炭鉱や工場はもって逃げることが出来ません。

1925年の亜港の街並み

1925年の亜港の街並み

前途の生活に不安を抱く人々は軍に(大日本帝国に)南樺太への「移住」を要望したのですが、南樺太は帝国が開発中であり、白系ロシア人を受け入れる土地はなさそうでした(吾々が南樺太へ行っても農業は出来ず不適当である…との記述があります)。

日本の本土に行くにしても、北海道は家屋が不完全なので到底冬の寒さに耐えることが出来ない、と思われました(コラ、難民のくせに贅沢言いやがって!というとヘイトになりますよ)。家屋が不完全って、北海道の人に対するヘイトやけどな。

白系ロシア人は南を目指しました。長崎あたりは暑すぎるのでは?という意見もあったようですが、思い切って南へ行く気持ちはわかります。
中には
「ほんとうに、吾々はロシアの冬を見捨てる事は此上もない惜しいことだ。ロシアのトロイカ(三頭馬車)に乗って走回る事も出来ない。然し安住の地を求める喜びの為には……これも止むを得ない事でしょう」
と寒い土地を望む人も居たようですけど。

難民

以下、記事ではコンスタンチンさんの長男のコンスタンチンさんが書いた「逃避行」が続きます。
書いたコンスタンチンさんは父ちゃんと同じ名前ですが、1913年生まれで逃避行時は11~12歳です。年齢についてよく理解して読んで頂く必要があります。

「1923年のサハリン島(樺太島)は実際のところ、大変に平穏無事と言える状態だった。
住民は豊かな暮らしを営んでいた。誰も政治について話すものは居なかった。島に駐屯している日本軍は住民に対して友好的だった。日本軍は地元の行政府に干渉することもなかった。
住民の多くがこの状態はしばらく続くものと思っていた。しかし、実際はそうではなかったのだ。運命はサハリンの住民にいつものように生活の転換点となる大きな事件を準備していたのであった。」

「1924年になると、町では日本はソ連邦へのサハリン北部の返還についてソビエト政府と交渉しているという噂が広がった。
もちろん我々には交渉の詳細は分からなかったが、交渉が行われていること自体を島の住民は信じていたのである。」

高須俊次

高須俊次

「9月になって日本の駐屯軍(サガレン派遣軍)最高司令官の高須将軍がわが家を訪れた。秘密の話し合いの中で高須将軍は北サハリンは間もなくロシアに返還されることになっていると父に断言したのである。」
注:高須将軍とはサガレン派遣軍の軍政部長だった高須俊次少将じゃないかと思います。

「大転換の知らせは僕の両親を当惑させた。僕たちはボリシェヴィキに我々が捕まった場合どうなるかということを既に予測できたからだ。僕たちの家族はもう何年にもわたって新政権のブラックリストに載っていた。」

故郷である亜港(アレクサンドロフスク)を引き払うことは、だれにとっても大変な困難を伴ったことでしょう。
特にコンスタンチンさん(年下の方)の祖父のフィリップさんには辛い試練だったことでしょう。
フィリップさんはサハリンの地へ流され、それでも家族のために忍耐強く、過酷な労働を、長い年月続けてきたからです。フィリップさんがもし「徒刑囚」のように働いていなければ、ペトロフスキー家は財産を築くことはなかったことでしょう。

まずいことに、フィリップさんは帝政が崩壊した後になって、かなり多額の資金を白衛軍(反ボリシェヴィキ)の運動に援助していたのです。

コンスタンチンさんは、じい様がシベリア政権(たぶん、コルチャークさんでしょう)に約50万ルーブルを金貨で送ったと聞いたそうです。
紙幣は混乱のロシア領内では流通しなくなっていたので、ツァーリの肖像入りの金貨で全額を集めて送ったのだそうです。

樺太招魂社

樺太招魂社

コレは大変ヤバい状況です。お金持ち、ってだけで粛清されるのに、白軍に資金援助してたのがバレたら、一族郎党皆殺し、間違いナシです。

と申しますか、ソ連は知っていたと思われる事件が起きるんであります。

ソ連、強盗を雇う

コンスタンチンさんの書いた記事をマル引きした部分に「亜港住民は云うまでもなく内地方面に迄知られた」という強盗事件があったのをご記憶だと思います。

この事件については、コンちゃんも詳しく書き残しています。事件が起こったのは1924年12月1日。

12月1日はフィリップさんの「名の日の祝い」(自分の洗礼名があやかった聖人の祭日)にあたっていたそうです。
ペトロフスキー家はお金持ちですから、大勢の親戚知人を招いて盛大に祝うのだそうですが、この年は時節柄「簡素」に祝うことになったとか。
そのうえ折からの雪嵐が激しく、遠方の人たちは来ることが出来なかったそうです。
結局、早めに到着した人や市内の親戚、それに加えて高須将軍も加わって祝いの席が始まりました。
フィリップ爺さんと高須将軍が向かい合って座り、長男(フィリップの孫)のコンちゃんも同じテーブルを囲んでいました。

コルチャーク提督

コルチャーク提督

豪華な料理とお酒で賑やかな談笑となったのですが、突然台所のドアがバタンと開きました。
マスクをした男が二人、拳銃を手に乱入してきて、テーブルについている人達を無言のうちに射ち始めたのです。

コンスタンチンさんはとっさにテーブルの下に伏せて(子供ですから)難を逃れたのですが、一番頼りになる筈の軍人・高須将軍は胸と顔に弾を受け血だらけになって床に倒れてしまいました(軍政家ですから)。

賊どもは、さらに将軍の頭を一撃して部屋を飛び出して行きました。飛び出していく前に、コンちゃんも拳銃で頭を殴られ、額に弾を受けてしまいます。
その割には、そんな状態で「僕を狙った拳銃を妹が男にしがみついて撃たせまいとしていた」とか書いてます。

その後、フィリップ爺さんが別の賊と絡み合って奥の部屋から出てきます。コンちゃん、今度こそ男になるチャンス!とばかり爺さんに加勢。
賊のマスクをはぎ取って顔を爪で引っ掻きまくります。

そこへ父コンスタンチンさんが日本軍の兵士を連れて到着し、一家は助かったのでありました。子コンちゃんは、せっかく顔を引っ掻いていた賊に逃げられてしまいましたけど。

その後警察の捜索によって、5人の犯人が捕まりました。
尋問によって明らかになったところでは、賊どもが樺太に渡って来たのはつい最近のことで、ペトロフスキー一家を皆殺しにすることが目的だというのです。

赤が雇い主であることは間違いなく、報酬はペトロフスキー家から略奪できた宝石類などだったそうです。
日本側はココまで判ったのに、犯人を刑務所で監禁しただけで処刑しませんでした(コンちゃん談)。国交正常化後のソ連に対して気がねしていたのでしょうか?

高須将軍は半死半生の状態で血の海の中に横たわっていました。日露の医師が駆けつけて、生命だけはとりとめることは出来たのですが。
医師団は将軍を動かすことを禁じ、将軍は数か月もペトロフスキー家の一室で治療を続けることになったそうです。

その間、武器を持った日本の警備兵がペトロフスキー家と表通りに常駐していました。

サハリン州立郷土史博物館、旧豊原の樺太庁

サハリン州立郷土史博物館、旧豊原の樺太庁

ペトロフスキー家でも、コンちゃんを含めて全員が連発拳銃を携帯するようになりました。コンちゃん、こんなことも書いています。

「僕は頭を犯人の拳銃で殴打されたため、算数が出来なくなり、他の科目でも以前は覚えていたことが分からなくなった。両親は心配してサハリンを去るまで全教科の家庭教師をつけたが、はかばかしい成果は上がらなかった。」

回復した高須将軍とフィリップ爺さん、父コンちゃんの間で話し合いが行われました。
二人はペトロフスキー家の将来について日本軍の幹部に相談を持ち掛けたワケです。

高須将軍が語ったことは…
『日本の大財閥の一つである「ミツビシ」がペトロフスキー炭鉱の獲得に関心をもっている。
この炭鉱の高品質の無煙炭は日本では大きな需要があるので、この会社がこの石炭の採掘を引き受けたいという。
「ミツビシ・コーポレーション」は現在炭鉱で働いている人達を雇用する用意がある。』

さらに、『「ミツビシ」はこの炭鉱で1924年末から1925年年初にかけての石炭採掘の代償として、ペトロフスキー一家が必要を感じたら、直ちにサハリンから脱出する機会を提供する』という提案も付けられました。

この提案は、フィリップ爺さんの「できるだけ早く島を出る」という考えにピッタリであり、爺さんはこの協定に同意し、サインしたのでした。

私のような貧乏人はココで大きな疑問を感じます。1925年年初以降のペトロフスキー炭鉱の採掘権は幾らで売れたのか?
ココまでの採掘権はペトロフスキー・ファミリーの脱出と引き換え、ですよね。それ以降も炭鉱は存在してるワケで、その採掘権はどうなったんでしょうか。

協定書によれば、ソ連が日本から炭鉱を引き継ぐとき「ミツビシ」に対し炭鉱の額面価格を支払ったら「ミツビシ」はその全額をペトロフスキーに支払うことになっていたそうです。

大泊町のイラスト地図

樺太南端の大泊町のイラスト地図

しかし、ソ連は北樺太受領に際して一円も払うことなく、炭鉱を国有化してしまいました。
日本に逃れたペトロフスキー家は何らの補償金も受け取ることは出来なかったのです。

大泊、やっと登場

ペトロフスキー家は全力で樺太脱出の準備を始めました。1925年の冬のことであります。
間宮海峡(タタール海峡)は氷に閉ざされています。ペトロフスキー家が日本(北海道)へ到達するには二つの道がありました。
樺太島の南部へ、そり道を荷馬車で行くか、砕氷船で氷を割りながら海峡を通って行くかです。

竣工時の大泊

竣工時の大泊

子供も多くて、大日本帝国のバックアップもあるペトロフスキー家は当然海路を選びます。
子コンちゃんの手記では、「亜港へ接岸する砕氷船は日本の軍艦の構成艦とされていた。」となっています。「日本の軍艦の構成艦」で「砕氷船」と言えば、「大泊」しかありませんね。

また、子コンちゃんはこんなことも書いています。

「日本帝国軍艦の伝統として艦上に女・子供を乗せて航行できないという規則があった。驚いたことに、日本側は僕たち一家を輸送するために一時的に軍艦というステータスを変更したのである。それはペトロフスキー一家を最も安全な方法で日本へ送り届けるためであった。」

女・子供を乗せて航行できない、というのは全くの間違いか、嘘です。旧海軍はけっこう開放的で、国民に体験航海などの機会をジャンジャン提供してますし、修学旅行の見学先としても、可能な限り軍艦を解放していますから。

ともあれ、ペトロフスキー家はこうして日本へと出航する砕氷艦に乗り込んだのでした。

砕氷艦大泊

大泊が氷の海を行く

艦上生活は大変快適なものだった、とコンスタンチン氏は書いています。
一家には西洋料理の食事が提供され、水兵さんたちはコンちゃん以下の子供にとても親切に接してくれたそうです。一緒に遊んで、悲しい気持ちから気をそらせてくれたのです。

1日目は砕氷艦は海峡の氷を砕きながら進まなければいけませんでした。コンちゃんたち家族は誰も不快な気分にならなかったそうです(除く、船酔いしてしまったママ)。
砕氷にはフネを激しくピッチングさせてる筈なんですけど、規則的なんで船酔いしなかったんでしょう。
しかし2日目に氷の海を抜けると、船酔いが一家全員を苦しめるようになります。一家は誰一人食べ物に見向きもしなくなったそうです。

コンちゃんはよほど苦しかったのか、
「砕氷艦は安定性を欠き、それに加えて嵐のために全くガタガタになっていた。船は波を受けて右へ傾き、次の波で左へ傾くという風に何度も8の字にのたうった。」
とか抜かしやがります。

小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)

小樽港に到着したペトロフスキー一家(「北海タイムス」大正14年2月23日)

まあ、「白ロシア人」なんぞ、海のことなんぞ全く判らぬ陸上民族ですから、許してやりましょう。

砕氷艦「大泊」はペトロフスキー家を助け出して、無事に小樽港に帰り着いたのでありました。

「大泊」戦争を生き延びる

「大泊」は大正10(1921)年11月7日に竣工していますから、ペトロフスキー家の脱出時点では艦齢4年。訓練も行き届いて働き盛りだったでしょう。
帝国海軍の悪癖で艦長はコロコロ変わっています。この脱出行の時は山県少介中佐で9代目。

実は「大泊」ちゃん、寒い所で働くために造られたのに、その艦橋は吹きさらしでした。大正時代は駆逐艦も露天艦橋なんですけど、「大泊」は氷の海で活躍するフネですよ、帝国海軍の設計陣はナニ考えてたんでしょうね。

さすがに1回目の航海で欠陥が露見して密閉式になったそうですけど。
その時の改造で艦首も強化して、海面下に衝角を追加。あまり厚くない氷なら、いちいち乗り上げて氷を割る必要をなくしています。
この程度のことなら、設計段階で考えとけよな、と思いません?

まあ、帝国海軍が設計建造した砕氷艦はこの「大泊」一隻だけでしたから、数々の不手際もやむを得ないのかもしれませんね。

「大泊」はお話した脱出行以外は、戦史に残るような活躍はしていませんが、氷に閉じ込められた民間船・貨物船の救出には何度も出動しています。
なにせ大船が身動きを取れなくなるほどの氷だと、「大泊」以外に救出不可能ですから、北方海域で漁業や輸送に勤しむ人たちの守り神として頼りにされたのでした。

南極を離れた直後、氷に阻まれ身動きできなくなった宗谷

南極を離れた直後、氷に阻まれ身動きできなくなった宗谷

 

海軍が国民とその財産を守ることを任務としているなら、「大泊」も殊勲艦と言って差し支えない、と電脳大本営は考えます。

帝国海軍は「大泊」の後継として、より大型の新型砕氷艦を建造する計画を持っていましたが、ついに着工されることはありませんでした。

砕氷艦は戦後、元特務艦「地領丸」が南極観測船「宗谷」に改造されるまで、日本の船籍から消えてなくなってしまったのでした。

冒頭の「蛍の光」の歌詞を現代日本語にいたしますと、次のような意味になります。(かなり意訳します)

『千島列島の奥も樺太(沖縄)も、わが日本の国土であり、守護すべき土地です。
我が友、我が夫、我が兄弟よ!学を修め職を得て、どの地に赴くとも、日の本それぞれの地域で、どうかご無事にお元気で、勇を持って任にあたり、務めを果たされんことを。』

いわゆる北方領土はもとより、樺太も千島列島も日本の領土です。

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