北の都・北の守り
明治10年代~20年代に、帝国政府内で検討された「北京」構想をご存知の方はいらっしゃるでしょうか?「ぺきん」ではありませんよ、「ほくきょう(ほっきょう)」と読んで頂きたいのです。
旭川遷都?
明治2年5月、函館は五稜郭に立て籠っていた旧幕府軍がついに降伏。国内の争いを治めた政府は7月に「開拓使」を新たに設置して北海道の開拓と整備に乗り出しました。
北海道は道南にわずかに漁業などの拠点がある程度で、未開発の大地が広がっていたのです。
開拓使は札幌を開拓の中心とし、まずは海岸線の開拓を進めるという方針を取りました。海運など、交通の利便性と北方防備を念頭に置いた方針でしたが、そのために広大な内陸部の開発は後廻しにされていました。
明治5年、開拓使判官となった土佐藩出身の岩村通俊が、
「北海道の開発は内陸部から始めて四方へ広げるべきである」
と考え、地図を睨んで
「北海道のほぼ中心にある上川(現在の旭川市)こそ北海道開発の中心たるべし」
と、部下の高畑利宜に上川の視察を命じました。
高畑は三ヶ月にわたる調査の結果、上川の土地が肥沃かつ平坦で耕作・牧畜ともに適し、森林にも恵まれ、一刻も早く開発すべきであるとの詳細な報告書を提出したのでした。
報告を受けた岩村通俊は「上川の地に『北京』を建設し植民局を置くべし」との建議を行ったのでした。
しかしこの建議は政変の嵐に巻き込まれてしまいます。明治6年政変(征韓論政変)が起きてしまったのです。西南戦争で一定の決着を見るまで、政府は北海道を開拓するどころでは無かったのであります。
明治18年、大日本帝国の政治は落ち着きを取り戻していました。岩村通俊は司法大輔となっていました。
開拓とは無縁に思われる、司法畑の役職についていた岩村ですが、上川開発・北京建設の野望を忘れたワケではありません。
裁判所事務視察として北海道に出張する機会を得ると、政府に「北海道開拓を進める為の実地調査」が必要である、として上川原野の調査を命じて貰ったのです。
岩村は勇躍北海道へ向かい、上川へと分け入り、自身ではじめて上川盆地を視察しました。岩村はこの視察で自分の見立てが全く間違いなかったことを確認し、
「(上川盆地の情景は)石狩岳は比叡山に似、流れる川は鴨川の如くして、京都よりも更に規模が大きく、素晴らしい。ここは後日我が国の北の京となるだろう」
との感想を漏らします。
さらに、岩村はこの視察で生涯の同志を獲得します。その人こそ、永山武四郎屯田副司令官でありました。
我が屍は北海道に
ココで、北海道の開発に重要な役割を果たす永山武四郎について、軽く紹介させてください。
永山武四郎さんは1937(天保8)年に薩摩国鹿児島郡鹿児島近在の西田村(現・鹿児島市)でお生まれになりました。鹿児島藩士として戊辰戦争に従軍し、明治5年に開拓使(お役所です)に移籍、明治8年には屯田事務局付。
明治10(1877)年4月に屯田兵第1大隊長、西南戦争に従軍。
帰還した後は開拓少書記官・屯田事務局副長・屯田事務局長と累進し、階級は屯田兵大佐を経て明治18(1885)年5月には陸軍少将・屯田兵副本部長。
明治21(1888)年6月からは北海道庁長官。翌年には屯田兵司令官兼務。一時陸軍省出仕を経験し、また1年間の欧米出張があった以外は一貫して北海道の発展に努めた生涯であります。
永山武四郎さんは明治36年から貴族院議員を務めるのですが、翌年の議会出席のための上京中に倒れます。死期を悟った永山は家人に
「我が亡骸を北海道に埋めよ、かの地をロシアから守らん」
と言い残したのでありました。
時代を戻します。
永山という理解者を得た岩村は、気が焦ったのか帰京する前から行動を起こします。
函館の宿で「北京を上川に置くの議」を起草し、三條実美太政大臣宛に郵送したのです。内容は
「以前北京を上川に建設し殖民局を置くべしと建議した。今回実際に上川の地を視察したが、その素晴らしさは聞くに倍するものであり、前議を採用なさるべしとの思いを強くした。」
「まず北海道の中心である上川を開き、その上で開拓の手を全道に広めるべき」
というモノでありました。
明治19年1月、政府は札幌に北海道庁を置き、開拓などの北海道に関わる仕事を道庁に一元化することにし、初代長官には岩村が任命されました。
岩村はついに自らの主張を現実にするための地位を手に入れたのです。我が意を得た岩村の行動は早く、翌2月には早くも北海道へ渡り、「上川開発」のために必要な施策を次々と実行しています。
明治20年10月にはまたしても自ら現地へ足を運び、近文山から上川を視察、また神楽岡にも登っています。
岩村長官はこうして上川開拓を精力的に進めたのですが、明治21年6月、黒田清隆が総理大臣になると、道庁長官から元老院議官へと左遷されてしまいました。
幸いなことに、北海道庁長官の地位は岩村の同志である永山武四郎が任命されました。
永山が「北京計画」の賛同者であることは、黒田清隆首相も判っていたはず(「北京を上川に置くの議」は岩村・永山の連名で建議されています)で、岩村罷免が「北京計画」どうこうよりも、藩閥の力関係か?と思わせるところであります。
それでは永山武四郎第2代北海道庁長官によって、旭川(上川)「北京計画」が順調に進展したか?というと、そうは行きませんでした。
横やりは黒田総理からではなくて、内閣法制局から。
「北海道に東京と並ぶ首都機能を置くことはできない」
という至極もっともな理由でありました。
ただ、永山はこの時点で一介の中央政府役人では無くなっていました。屯田兵司令官をも兼任していて、屯田兵団の兵士たちに絶大な人気を誇り、「実力部隊」に影響力を行使できる立場を築いていたのです。
永山はこの後も陸軍軍人・政治家として生きますが、ついぞこの「影響力」を中央政界で誇示したり、使ったりしたことはありません。ですが、この時ばかりは愛する北海道のために、水面下で…
明治22(1889)年12月28日、黒田から変わった山県有朋内閣は、北海道旭川に「北京」ではなく「離宮」を建設する、との閣議決定を行ったのであります。
「離宮」とは御皇室の別邸を意味していまして、この場合、夏の避暑用行宮と考えれば宜しいかと存じます。
「北京」として政治の中心たらんとした岩村・永山の野心は、一年の1/4だけにはなりましたが、政府の正式な「政策」となったのです。
やはり札幌が
明治23(1890)年には調査委員が北海道を訪れ、「上川離宮」の具体的な予定地を選定いたしました。
土地は現在の旭川市神楽岡公園や上川神社近くで、皇室御料地として10552ヘクタールそのうち離宮造営予定地は33ヘクタールとされました。
しかし、北海道の中心として建設が進んでいた札幌(道庁所在地)では反対運動が起きました。明治25(1892)年に第4代北海道長官の北垣国道が反対を表明。これをきっかけに、翌年には「上川離宮設置意見書」が出されて、離宮は札幌近郊にこそ設置すべし、との意見が出されるのです。
この年に札幌では大火がありまして、その復興が思うように進んでないことに加えて、札幌で地盤を築いていた経済人らが開発の中心が旭川へ移るとして反対していました。
その後日清・日露の戦争もあり、離宮計画は進められないままに次第にどこかへ行ってしまうのであります。
どこかへ行ってしまったのですが、明確に「離宮建設は中止」と発表があったわけではありません。造営の陳情等はその後も細々ながら続けられていました。
明治44年、当時皇太子殿下であらせられた大正天皇が北海道をご視察になられることとなりました。
この際に旭川にもお立ち寄りになられ、離宮予定地の神楽岡にもお越しになられることが発表されます。
当時の旭川町では、コレを受けて現在上川神社境内の「神楽岡碑」の場所に、「お休所」を建設しそこに至る道路も新たに整備する、という大がかりな奉迎をおこないました。
僅かながら残っていた「北京」のメはこの「ミニ離宮」の建設を以て、完全に消えてしまったようです。
北京計画の証
かつて壮大な北方経略の一手として立案された(と電脳大本営は考えています)「北京計画」は、もう今では旭川周辺、それもかつての予定地に建てられた上川神社あたりで記憶されているに過ぎません。
しかし、実現しなかったから忘れてしまってもOK!ってモノでもない、と私は思います。と申しますのは、ちょっとエライことに気づいてしまったのであります。
それは、永山武四郎が屯田兵に大きく関わっていたことから、ちょいと史料を集めた中に転がっておりました。
そもそも「屯田兵」って申しますのは、北方警備+開拓の本来の任務に失業士族を充てる、っていう一石二鳥・三鳥を狙った虫の良い政策でした。
当初は士族だけを対象にしていました。
ただ、当時の内地の人にとっては北海道の寒さもあって、それほど魅力的なモノではなかったようです。
しかし、北海道の開拓とロシアに対する防備を両立させるためには、屯田兵の拡充は絶対に必要とされました。
北海道はまだまだ人口が少なく、「内地」のように徴兵制を敷いて師団を置ける状態ではなかったのです(大日本帝国陸軍は「地元」の兵で各師団を構成することが基本です)。
永山武四郎は屯田兵の責任者としてロシアのコサック兵制を研究し、屯田兵の将来と権利を保障できる方向で法制を変え、募集方法も士族中心を放棄。
約200戸単位で1個中隊として、この人員を同じ村に入植(兵村と言います)させるようにします。
屯田兵に与えられる土地は従来の1.5倍になり、ほかに「兵村」で共同利用する公有地も広大なモノが用意されました。
兵役期間は現役3年・予備役4年・後備役13年の20年。兵村には兵員から選挙で選ばれる兵村会が設けられました。
永山武四郎が主導した「後期屯田」では上川(旭川)へ重点が移され、農民出身者を多く採用したことや良好な土地の選定などの好条件が重なり、経営は好成績を収めたのでした。
永山屯田の第一陣は明治25(1892)年8月の下東旭川兵村の第三大隊第三中隊200戸と上東旭川兵村第三大隊第四中隊の200戸なのですが、この中に京都から入植した加藤鉄蔵さんがいたのであります。
そもそも、京都ってのは「都会」でありますから、屯田兵になることはあまりない地域で、たぶんこの上下の兵村に入植した45戸だけじゃないかと思います。
京都人が評判の良くない屯田に応じたのは、たぶん上川に「北京」計画があった故だろうと私は思っています。
理由?京都人はそういう人種だと思うからです。私は京都人の永遠のライバル、滋賀県人でありますから良く判るんですよ(笑)注:私の友人には京都人も多くいます。決して差別感情はありません、淡々と事実を述べております。
京都人が入植したんですから、たぶん「旭川(上川)北京計画」ってのは屯田兵募集の際にキャッチコピーとして大々的に使われたのでしょう。
北にも京都ができると信じたからこそ、元祖京都の農民が入植したのに違いありません。
「旭川下兵村」(第3大隊第3中隊)
出身県別入植者数
青森県24・秋田県13・埼玉県1・富山県13・岐阜県3・滋賀県7・京都府27・香川県44・愛媛県46・大分県21・鹿児島県1、計府県200世帯
「旭川上兵村」(第3大隊第4中隊)
出身県別入植者数
青森県24・秋田県14・富山県15・岐阜県8・滋賀県9・京都府18・香川県45・
愛媛県7・大分県・20、計9府県200世帯
軍神
加藤鉄蔵さんは入植後、滋賀県出身の屯田兵・藤田五郎氏の娘キミさんと結婚し、農夫也・建夫という兄弟を設けます。
お判りになりました?でも、もう少しだけ黙って聞いてください。
鉄蔵さんは日露戦争に旭川歩兵第27連隊の一等軍曹として従軍し、奉天大会戦で戦死してしまいます(功七級金鵄勲章を受勲)。
藤田五郎さんも歩兵第27連隊の分隊長として旅順の二百三高地の攻撃に参加し戦死。
残されたキミさんは長男の農夫也と三歳の次男建夫をヒザの上に抱き、
「男の子二人は軍人になりなさい。それが父への唯一の孝行です。」
父と夫を戦死させたご婦人の言です。こういう女性こそが日本を支えたのであります。
もうこれだけで、屯田兵集めに先行投資したお国は「モトを取った」と言えるんでしょうが、われらのご先祖の愛国心は、こんなことで止まることはないのでありまして。
農夫也・建夫の兄弟は貧しい生活ながら学業優秀・運動神経抜群。父は日露での軍功と戦死で勲章、という絵に描いたような軍人コース。
農夫也は陸軍士官学校を優等で卒業、砲兵コースで将来を嘱望されたのですが、少尉の時にインフルエンザで早世。
建夫は出来たばかりの航空科に転じて、所沢陸軍飛行学校の操縦学生。卒業時には技量抜群・成績優秀として恩賜の銀時計を拝受、「エース」としての道を歩き始めるのであります。
軍神・加藤建夫少将は旭川の屯田兵の家の子なのです。
加藤建夫少将の空戦技量やファイティングスピリット、戦術眼などは別に語るとして、部下をまとめる心理術・面倒見の良さ・人柄の高潔などは貧しい(失礼ですが)屯田村(兵村)の出身であること、父・兄を亡くして、失意の底に沈んだこともあることなどを抜きにしては理解できないように思います。
屯田兵、第七師団に
明治29(1896)年1月、渡島・後志・胆振・石狩の4ヵ国(北海道は11ヶ国に分かれていました)に徴兵令が施行されます。
屯田兵の入植から11年、北海道の人口も徐々に増えて、徴兵に耐えられるだけの「国力」が付いたと認められたワケです。
北海道の兵は同時に創設された第七師団の隷下連隊に入営することになりました。第七師団の初代師団長には屯田兵司令官の永山武四郎が任じられました。
なお、この師団長任命の際に明治大帝が「第しち師団長を命ずる」とおっしゃったので、第七師団は正式名称「だいしちしだん」です。「なな」ではありません。
明治31年には徴兵制は北海道全域に拡大、旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区でそれぞれ徴募にあたる「4単位師団」(歩兵連隊4個)となります。
しかしながらこの時点ではまだ北海道に一個師団の兵力を抽出する力がなく、東北の兵を入営させたりしています。
初代師団長の永山武四郎は屯田司令官時代から足掛け15年、世紀の変わり目の1900年まで「北の司令官」を務め続けます。
日本の陸軍は基本部隊である歩兵連隊が「郷土部隊主義」ですから、師団長を数年で換えないと「地方軍閥化」してしまう恐れがあります。
大日本帝国はその恐れに当初から気付いていましたので、永山のような長期に同一の部隊の司令官を務め続けたのは異例と言って良いでしょう。
永山武四郎はそれほどかけがえのない指揮官であったと言えます。
第七師団が日露戦争に出征したことは申し上げましたが、大正6年から満洲に駐屯、シベリア出兵にも参加。
その後も数度にわたって満洲駐留、張鼓峰事件にも出動(交戦前に停戦)、ノモンハン事件でもソ連軍と交戦。
ノモンハンでは歩兵第26連隊(須見新一郎連隊長=第23師団に所属して戦闘)が火炎瓶をもってソ連の戦車部隊を83両も撃破するなど、勇名を馳せます。
須見連隊長は23師団長の小松原道太郎中将や辻政信参謀の命ずる無謀きわまる作戦に反対した、として事件後にクビになってしまいました。
大東亜戦の後になって、「国民的出来損ない戦車兵」のインタビューを受け、
「停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね。」
と、貴重な戦訓を汲もうとしなかった陸軍批判を繰り広げます。
須見連隊長はこの戦車兵上がりの人気作家を通じて、もっと多くを語れる筈だったのですが、作家が瀬島龍三と対談した、と聞くと以降の取材を拒否してしまったのでした(それまでの取材結果の小説への使用も拒否)。
瀬島龍三はシベリア抑留を巡って「ソ連スパイ説」もある大疑惑の人。電脳大本営は台湾沖海空戦の「堀栄三修正情報」を握り潰した中心人物では?とも疑っております。
須見連隊長、この臭気フンプンの元参謀と対談したことを以て、「国民的人気作家」の欺瞞性に気づいたんでしょう。
まさに北の武人に相応しい「硬骨の人」です。
大東亜戦争でも、ガダルカナルに上陸した一木支隊、アッツ島で玉砕した北海支隊は第七師団から抽出・編成された部隊でした。
旧陸軍は消滅してしまいましたが、「第七師団」は今でも「北の守り」であり続けています。
私たちがChina・Koreaが気になって、南や西ばかり気にしていられるのも、北の守りがシッカリしているからだと思う今日この頃であります。