捕虜はグライダーを飛ばしたか?
好きな戦争映画は?と問われると「大脱走」だと答える方も多いのではないかと存じます。戦闘シーンはほぼありませんが。
年齢にもよりますけど「西部劇」ってジャンルをご存じの世代なら、お判り頂けるんじゃないでしょうか。
大脱走
ちなみに、儂は「西部劇」なら「シェーン」推しですが、変わったところだと「ソルジャー・ブルー」。
キャンディス・バーゲン綺麗かった(笑)。
映画「大脱走」の舞台は「スタラグ・ルフト北捕虜収容所」だとパンフレットに書いてあります。
「大脱走」は架空のドラマでありますが、「スタラグ・ルフト北捕虜収容所」は実在の収容所です。
原作は実際の脱走計画をもとにした(作者は計画に加わって準備に参加したが、脱走はしていない)そうです。
余談ですが、スティーブ・マックィーンがカッコ良すぎましてね。
特に逃げきれずに独房に放り込まれ、寝転んで壁に向かって一人でキャッチボール(壁打ちって言うんですか?)するラストシーン。
生まれる前からラグビー一筋だった儂ですら、野球に転向しようかな、と思ったモノです。
それは嘘ですけど、チノパンにトレーナー姿には憧れました。
親に頼み込んで、VANジャケット(若い人はご存じなかろうなぁ)の生成り(オフ・ホワイト等とは言いませんでした)のコットン・パンツ(チノパンなんて言葉はありませんでしたね、特に滋賀の田舎では)と茶色のトレーナーを買って貰って、年がら年中着てました。
今は少なくなりましたねぇ、裏がタオル地になってるトレーナーです。
この映画は昭和38年公開ですから、そのとき7歳の儂が封切りで見てるワケないんですけど、何処で初めて見たんだったか、もう記憶にはありません。
脱線が過ぎました。
この記事では「コルディッツ城」という捕虜収容所の囚人たちの話をさせていただきます。
先日紹介させて頂いた大英帝国のダグラス・ベーダーさんと、ドイツのハンス・ウルリッヒ・ルーデルさん(地上に落ちても、暗黒面には墜ちないエース)の記事で、画像を載せておいた「コルディッツ城」、ベーダーさんが最後に収容されていた捕虜収容所です。
ベーダーさんは何度も脱走を試みて失敗し、このコルディッツ城に送られたのでありました。コルディッツ城はドイツ軍の捕虜収容所のうちでも、もっとも脱走の難しい収容所とされていたのです。
その割には何度も捕虜の脱走があったようですが、一方では「有名人捕虜」の特別区画もあったようで、ちょっと一般の収容所とは違っていたようにも思えます。
そのコルディッツ捕虜収容所の、ある驚くべきというか愉快というか、のお話をさせて頂くつもりなのでありますが、その前に我が「大日本帝国の兵隊さんが捕虜になって脱走する」という話を聞いていただきたいと存じます。
カウラ事件
昭和19年8月5日、オーストラリアのニューサウスウェールズ州のカウラという所にあった捕虜収容所(イタリア人捕虜とか、インドネシアの独立活動家もいたようです)で、暴動が起こりました。
一般には「カウラ事件」と呼ばれ、「日本兵捕虜の大量脱走」とされていますが、映画の「大脱走」から想像するような脱走事件では、全くありません。
どちらかと言えば捕虜の暴動ですかね。
この事件のキッカケは収容されていた4000名の捕虜の内(日本軍将兵は1100名余り)、日本軍の兵700名を下士官・士官と分離しようと計画したことです。
その前段として「朝鮮人日本兵捕虜(Wikiの表現)」から「日本軍の捕虜が脱走を企てている」と密告が為されていました。
ユルユルの警備しかしていなかったオーストラリア軍は武器増強などとともに、兵士だけを指導者から分離すべく、他の収容所へ移送することにしたとされています。
この計画は事前に日本軍捕虜の幹部に通達され、幹部たちは
「日本軍の士官・下士官・兵は信頼関係で堅く結ばれている。全体を移送するならともかく分離には抵抗すべし。」
とか言って「叛乱」を計画・扇動したらしいのです。
近代から現代の捕虜収容所って言いますのは、結構な自由が認められているところでありまして、捕虜の日常生活はほぼ自治に依っています。
(コチラの記事で、日露戦争時の捕虜のようすをどうぞ。)
自治組織の偉いサンは、どの収容所でも捕虜になる前の階級か捕虜になった順番によって決められたようです。あとは言語ですね。
警備側との意思疎通が上手くいくかどうか、は重要なポイントだと思います。
カウラ収容所では日本軍捕虜の間での指導者選挙も認められていましたし、レクリエーションも充実。
日本兵の人気は野球・麻雀・相撲などで、野球を楽しむ捕虜たちの写真が残っています(豪軍のヤラセ撮影みたいですけど)。
このかなり優遇されていた捕虜たちですが、日本軍捕虜は「鬱々として楽しまず」という人が多かったようです。
脱走を奨励vs.捕虜教育ナシ
何故、「捕虜生活」を楽しめなかったか、と言えばもう皆さんお判りでありましょう。
悪名高き?「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓の存在です。
この東条英機さんの手になる文言は、実は日清戦争における山縣有朋の言葉のほぼ丸パクリに近いモノでありまして、巷間(特にパヨチンや日本dis論者の)言われるほどの「生命軽視」ではありません。
日清戦争に続いて、日支事変という野蛮人相手の戦争中に出された文言である、ってことを考えればよく理解できます。
この野蛮人相手の戦いでは我が軍兵士が捕虜になった場合に、欧米や日本における捕虜のような待遇は期待できませんでした。
実際に海軍の「渡洋爆撃」においては、途中不時着した搭乗員が虐待を受ける(手を切断される・首枷をして晒しモノにされるなど)事例が良くあったのです。
そのために、「捕虜になって、人間としての尊厳を冒されるよりは…」というアドバイス的な要素が多分にあったのです。
もちろん、東條さんや陸海軍幹部は
「アメリカやエゲレスやオーストラリア相手に戦うときは別に考えようね」
と言うべきだったので、東條英機や当時の陸海軍首脳に非があった事は否めませんけれど。
そんな事もあって、日本人捕虜のうち兵隊さんはジュネーヴ条約の条文をほとんどご存じなく、士官たちもしっかり理解していませんでした。
国内でも
「捕虜になったときはコレコレの情報は喋っても良い、コッチの情報は駄目、この程度の待遇を要求すべし(捕虜の待遇は相手国の捕虜とバーターですから)」
などと言った教育は一切ありませんでした(と私は考えています)。
ただ、カウラ収容所の自治組織(団長をトップとして数人が補佐役、40名の班長がその下部組織を構成)のエライさんたちは豪軍との接触・交渉もありますので、自分たちの待遇の法的根拠も判っていた筈です。
それを一般収容者に説明してあげる努力は、私の知る限りでは為されていません。
また、捕虜になった方たちも国に残した家族の立場を考えると「自分だけ楽しむ」など、できる訳がない事だったでしょう。
ですから日本軍捕虜の大部分は、オーストラリアを含む欧米流の「国を代表して全力で戦い、武運拙く名誉ある捕虜となった」という認識とは相当の乖離があったのは間違いありません。
この事がカウラ事件の大きな誘因になったのではないか?と私は思っています。
カウラ収容所では、脚の悪い兵を自決させた後、士官を除く兵のみ約900名がナイフやフォークと野球のバットで武装して強行脱出を試みました。
70名ほどが脱出に成功したものの、その後の計画が無くてほどなく投降。
警備兵や近隣住民に230名が射殺されたり、撲殺されたりした上に負傷者も100名超。
大半の兵隊さんは、収容所の敷地から一時的にすら出ることが出来ずに終わりました。
一方で、戦っている相手のアメリカ・イギリスはじめ連合軍側は捕虜になることをさすがに推薦まではしていませんが、
「捕虜になったら、脱走の努力をしてね!」
って言う教育をしているのです。
大脱走 コルディッツ収容所
コルディッツ城からの脱走を描いた映画「大脱走 コルディッツ収容所」という作品があります。
題名は本家「大脱走」をパクってますが、ドイツの収容所から英軍兵士たちが逃走する物語です。
脱走の様相ばかりじゃなく、脱走に成功したマクグレイドって言う兵士が、一緒に逃げて捕まっちゃったローズ君から託された伝言を、ロンドンに住むローズ君の恋人リジーちゃんに伝えるって言う話も描かれたりして、なかなか魅力的?なストーリーなんです。
ネタバレと密林さまのお怒りを恐れずに申しあげちゃいますと、このマクグレイド君、出会ったリジー嬢に一目惚れ。
マクグレイド君は初めて収容所から脱走成功したって事で「M19」という特殊機関に配属されて中尉になっていました。
で、リジー嬢に迫っても相手にして貰えぬマクグレイド君、立場を利用してローズが死亡したと嘘の通知を渡すんでありますな。
まったく、半島民族みたいな奴ですわ。
で、リジー嬢は犯島民族みたいなマクグレイド君に処女を捧げる、と。
このネイティブ・ライヤーのマクグレイド君の任務が、ドイツ軍捕虜収容所の情報収集と、発明家が装備品を開発することのアドバイスなんです。
装備品と言ってもスパイが持つようなのではなくて、捕虜の脱走を手助けできる秘密道具という都合の良さ、さすが映画。
開発した装備品はクリスマスプレゼントにこっそり隠してドイツの捕虜収容所へ送られる手筈。
嘘つき男が手助けして開発した脱走道具でも、どうやらホンモノだったようで、何度も失敗していたローズ君がついについに脱走に成功。ロンドンへの帰還が迫って…
てな内容でありんした。
私にとっては、映画のストーリーはどうでも良くって、先に紹介いたしましたカウラ収容所からの日本兵の脱走と比べて、あまりにも違い過ぎる「脱走のあり方」に驚愕しちゃうのです。
カウラ収容所の日本の兵隊さんたちは、たった一度の脱走チャレンジに命懸けで、みんなで一緒に隠蔽することなく警備隊に襲い掛かりました。
それも、「士官と別れるの厭!」とか、自分たちが言い出したんじゃないような理由で、肝心の士官は参加してないって言うのに(一部参加者あり/兵とは別棟の収容って言う理由もあります)、みんな命懸け。
ところがコルディッツでも本家「大脱走」でも一部の捕虜が脱走するために、他の捕虜が協力しています。
綿密な計画の下、ドイツ軍側とまるでゲームでもしているようです。脱走も一つのレクリエーションであるかのように。
まあ、この話は「映画」なんですけど、あくまでも実際に何度もあった脱走を下敷きにしています。
そして、実際のコルディッツ城の捕虜たちはこの程度の映画なんぞよりも、もっともっと奇想天外驚天動地?の計画を進めていたのであります。
コルディッツ城、改造される
ドイツ軍の管理下にある捕虜収容所では、映画ばりの「脱走」が良く起こっていたようです。
捕虜が脱走したら、追いかけて捕まえなきゃいけません。その分、人が要ります。大戦争遂行中の国は、慢性的な人手不足なのに。
じゃあ脱走できない収容所を、って訳でドイツ軍はコルディッツ城を警備厳重な「将校専用特別収容所Oflag‐IV-C」に改造することにいたしました。
それまでドイツ各地の捕虜収容所から脱走に失敗して、捕まった英仏蘭などの士官などをコルディッツ城に集めたのです。
さらに、いろんな意味での著名人で捕虜になった者もココに収容されました。代表的な人物がウィンストン・チャーチルの甥で、著名人たちは特別区画に収容されていたようです。
「脱出不可能」な収容所に放り込まれてしまった捕虜たち。でも、逆に考えると彼らは「脱走のプロ」でもありましたので、集められた捕虜たちはまたまた脱走計画を練るのであります。
コルディッツ城で企画された脱走計画はなんと300以上!じつにさまざまな脱走が実行されたそうなのです。
以下の脱走については、コルディッツ城を訪問(旅の途中でついでに)して一泊(2007年には格安ホテルみたいになってたそうです)しやがった、私の友人が見てきた案内看板の記述と、戦後に出版された「コルディッツ城物語」という本(著者は実際にコルディッツ城から脱出した英軍人のパット・ リードさん)に依っています。
城の中庭にはドイツ軍の「管理棟」があったそうです。
城(収容所)全体は鉄条網で囲まれていて、捕虜たちの収容スペースは旧領主の居住区画であり、監視兵の巡回も厳しいモノがありましたが、捕虜の士官たちは比較的恵まれた日常を送っていたようです。
300回(たぶん大量の「計画のみ」を含む)に及ぶ脱走チャレンジの末に、連合国支配地域や中立国のスイスまで逃亡に成功(Home Runsと呼んだそうです/ドイツ語では単にErfolgreiche Fluchten)したのは僅かに31名。
ドイツ、洒落っ気が足らんぞ(笑)ってか、話はそっちに行っちゃいけない。
その31名の内訳はイギリス11名・フランス12名・オランダ7名・ポーランド1名です。
失敗した数はもちろんもっと多くなって155名。その内訳もわかっておりまして、イギリス109名・フランス12名・オランダ17名・ポーランド17名となっています。
ただ、失敗した人たちがその場で射殺されたのか、処刑の対象になったのか、連れ戻されて独房に入れられたのか、そこが良く判りません。
空飛んで逃げようぜ!
コルディッツ城では脱走するために、さまざまな「術策」が巡らされました。
手製のミシン(どうやってミシンを作ったかは不明)でドイツ軍の軍服を作り、ドイツ兵士に化ける。
定時点呼のときは人形を使って人数をごまかす。
城内の鐘楼の地下室(ワインセラーだった)から東側の城郭までトンネルを掘る。
ココまでは「大脱走」に出てきたような気もしますし、他の「脱走映画」だったかも知れませぬ。
しかし、「グライダーを造り、これに乗って脱走する」と言う計画はなかなか映画にも出てはこないでしょう(イギリスのTVドラマで題材にされたことはあるようです)。
実際の話ですよ、造ったグライダーの写真(米軍撮影)も残ってるんですから。
礼拝堂の屋根裏部屋を細工して「秘密工場」を作り、グライダーを作り上げて礼拝堂の屋根から滑空しようという計画がコルディッツ城収容所で立てられ、実行されたんです。
「グライダーを作る」アイデアはトニー・ロルト中尉による発想でした。
ロルト中尉は航空機の搭乗員ではありませんでしたが、娑婆では著名なレーシングドライバー。つまり、当時の事ですから「そこそこ」の技術者・エンジニアだったって事ですね。分野は違いますけれど。
ロルト君は戦後もレーサーとして活躍しています。F-1のドライバーは「パイロット」って言われるもんね、ちょうど良いでしょう(笑)
笑っててはいけませんね。ロルト中尉は一応ヒーローなんです。
RMC(Royal Military College)をお出になって、1939年にライフル旅団配属。
翌年、大陸に派遣されたロルト君は偵察小隊を指揮して「ダイナモ作戦」に参加。
「ダイナモ作戦」とはダンケルク撤退戦のことです。ロルト君はカレーでドイツ軍第10装甲師団の前進を、一瞬だけ喰いとめる戦闘を展開してダンケルク橋頭堡の確保に貢献したのですが、その代償として捕虜になっちまったのです。
捕虜になったときのロルト君は、負傷した部下をかばってブレンライト機関銃を乱射していたそうです。
ロルト君はとっても積極的な捕虜で、7回もの脱走を計画してそのたびに取っ捕まり、ついにコルディッツ城に送られたのであります。
ココでも逃げ出す算段を考えるのがロルト君の性分でありました。
ロルト君は城の礼拝堂の屋根が、ドイツ軍の監視の目から死角だということを発見します。
いや、普通は屋根の上なんぞ監視しないからな。
しかしロルト君はグライダーさえあれば、屋根が60メートルほど下のムルデ川を飛び越えるための離陸台になることに気付いたのです。
ロルト君は捕虜仲間のビル・ゴールドフィンチさんとジャック・ベストさんに「グライダー計画」を持ち掛け、お二人は密かにチームを結成したのでした。
チームは「使徒」と呼ばれる12名のサポーターからなり、使徒たちは収容所内の図書館でC・H・ラティマー・ニーダムさんの著書『Aircraft Design』(上下2巻組らしいっす)を見つけました。
ニーダムさんと申しますのは、ホバークラフトのスカートに関する特許をお持ちの方で、まあまあ有名な「航空機デザイナー」であります。
この本から航空機に関する物理学や工学の智識が得られたばかりでなく、主翼構造の基本・詳細な図面まで学んだ「使徒チーム」は、いよいよグライダーの制作に入って参ります。
グライダー完成?
使徒チームは屋根裏部屋の一角を偽の壁を作って隠し、そこをグライダー工場としました。
警備側のドイツ兵たちはトンネルを探すことが習慣となっていたせいか、このグライダー工場の存在には全く気が付かなかったようです。
グライダーは捕虜たちがパクってきた材料で作られました。
主翼の桁やリブは主に使徒たちが使っているベッドの床板で。操縦の制御索は電線を盗んで作られたようです。
鋸やカンナなども当然自家製でした。たとえば鋸なら、窓にハマっている鉄格子をフレームに利用し、発条のコイルを延ばして、鋸刃にしています。
桁やリブが出来たら、翼面をどうするか?これはもう「羽布張り」しかなかったようです。
この時期のちょっと前まで、軍用機でも「羽布張り」構造は普通に使われていましたが、ソレは骨組みにタダの布切れを張り付けただけのモノではありません。
航空機に使う布は「ドープ塗料」と言われる特殊な塗料で塗装されているんです。この塗料を塗布することで強度を飛躍的に高めるとともに、気密性を高めているのです。
捕虜たちがまっとうなドープ塗料を手に入れる方法はありませんから、一工夫が必要になります。
使徒たちは食糧として支給された雑穀を煮詰めてドープ塗料としたそうです。
まあ、我が帝国の誇る風船爆弾(気球爆弾)も蒟蒻ノリ仕様だからな。捕虜が乗るグライダー程度なら、雑穀ノリでも飛びそうな気はする、二人乗りだったし。
ただし、幾ら偽壁を作ってある、と言ってもこっそりやることですから時間が掛かりました。って言うか、このグライダー計画がいつ始まったか?がイマイチ良く判らないんでありまして、誠に申し訳ないと思います。
ただ、いよいよグライダーが完成し「離陸」が視野に入ってくる頃、世間は1945年の春になっていました。
使徒(とその他の支援者)たちは計画に没頭するあまり、「隠れてグライダーを作ること」がライフワークのようになっていたようです。
もともと「脱走する」ことが目的だったことは言うまでもありません。グライダー造りはその手段を作る作業だったはず。
しかし、目的を忘れ去って、ただただ「秘密裏にグライダーを造る事」が人生の目的のようになっていた一部の人たちがいたのでした。
完成に近づいたグライダーは高翼単葉の複座機で、翼幅が9.75メートル・全長6メートル・重量109キログラム。
主翼に(胴体も)張ったのは捕虜用のベッドに使われていた青と白のチェックの木綿でした。ちょっと可愛いかも。でも雑穀ドープが塗りたくってあるから、汚いのかもね。
さらに、確実に屋根から飛び立つためにカタパルトも計画されました。バスタブをちょろまかし、その中にコンクリートを充填して錘とします。
それをグライダーに引っ掛け、屋根から投げ落として離陸時の推進力とするモノであります。
こうしてグライダー(戦後になって「コルディッツ・コック」と名付けられました)による脱走計画が煮詰まったころ、コルディッツ城にも連合軍の砲撃音が聞こえるようになっていました。
外部と遮断された捕虜たちにも、自国の勝利で戦争が終わりになりそうだってことはハッキリと判りました。
そうなると、グライダーの必要は無くなってしまいます。
ただ、捕虜たちには一つの心配がありました。
それはコルディッツ城にもいた「親衛隊」が、捕虜たちを連合軍に渡すよりも殺してしまう事を選ぶんじゃないか?ということです。なにしろ、「不良捕虜」ばかりが収容されているコルディッツ城ですからね。
砲撃音は日に日に近づいているようでしたが、それとともに捕虜たちの心配は大きくなっていました。そこで捕虜たちはグライダーを
「もし、殺害命令が出たら、近くの連合軍(アメリカ軍でした)部隊に急を知らせる為に使う」
と決定、当面は友軍の救出を待つことにしたのでした。
ところが、グライダー制作チームの一人がこの「決定」に反発したのです。
彼はとどろく砲撃音の中を
「良くない事だ、良くない事だ」
と呟きながらフラフラと城門へと向かって行きました。
ドイツ兵の制止も聞かずに城門にたどり着いた彼は、何の抵抗も見せずにあっさりと射殺されてしまったのでした。
コルディッツ城捕虜収容所がアメリカ軍に解放されたのは1945年4月15日だったそうです。コルディッツ・コックは結局飛び立つことはありませんでした。
でも戦後になってレプリカを飛ばしたそうですし、TVドラマでは「飛んで逃げた」事になってるそうです。使徒たち、以て瞑すべし。
グライダーの発案者トニー・ロルトは復員するとレーシングドライバーに戻り、1950年・1953年・1955年のイギリスF1グランプリに出場。
ルマン24時間レースにも参戦。1953年のレースではジャガーCタイプを駆って見事に優勝しています。
前年に同じCタイプでルマンに出場してリタイアした名ドライバー、スターリング・モス氏によると、ロルト君は「出場を続けていれば、F1でもチャンピオンになれる逸材」だったそうです。