地上に落ちても、暗黒面には堕ちないエース

シュツーカ

颯爽と戦場を往来し、傷つきながらも勇敢に戦い続ける。一度は倒れても、戦傷を克服してふたたび強大な敵に立ち向かっていく・・・
圧倒的な「強者」も私たちを魅了しますが、粘り強くどこまでも戦い続ける戦士もまた国を守るためには大切な人です。

大英帝国

電脳大本営は、我が身を傷つけながらも戦い続けた軍人って重視してまして、既にフィンランドの撃墜王ロシア帝国陸軍軍人→イスラエル建国の立役者大日本帝国海軍の駆逐艦長を紹介してきました。

今回は英独の二人のヒーローを紹介させていただきます。

ハリケーン

ハリケーン
旧式なのに、「バトルオブブリテン」ではスピットより沢山ドイツ機を墜としてます。それは、スピットが敵戦闘機を爆撃機から離す役目を果たしたから。

 

まずは大英帝国のエースの「ダグラス・べーダー」大佐です。スコアは23機を数え、イギリス人では第6位かな?

RAF(ロイヤル・エア・フォース/英空軍)は南アフリカやカナダ・オーストラリア・ニュージーランドなど、「大英帝国圏」の、つまり「イギリス人」じゃない人もパイロットにしています。この人たちの中にも大エースが一杯いるから、RAF全体で見るとベスト10には残れないかもね。

ダグラス・ベーダー

お行儀の宜しくない、ダグラスベーダー大佐

だけどダグラス・べーダーの真価は撃墜機数ではとても測れません。ダース・ベーダーじゃないからね(笑)この記事のタイトルの元ネタだけど。

ダグラス・べーダーさんは1928(昭和3)年にイギリス空軍に入隊して1930年にパイロットになります。
1931年、曲芸飛行中の大事故により両足を切断。当時、危険なために禁止されていた超低空飛行に挑戦したのですが、そのとき地面に接触、墜落してしまったのです。
ベーダーは瀕死の重傷を負いました。高度が低かったので即死だけは免れた、と言った方が良いかも知れません。
病院で意識を回復したベーダーの両足には、ヒザから下がありませんでした。ベーダーは奇跡的な回復ぶりを見せ義足で練習機に乗り込むようになります。

そのまま訓練飛行を再開したのですが、医者はこの行動を良しとせず、退役させられてしまったのでした。

しかし、大空への思いが立ちきれぬベーダーさんに願ってもないチャンスが巡ってきます。第2次世界大戦が始まる気配が、ヨーロッパ中に漂い始めたのです。

今回の大戦争はどうやら空が主戦場になりそうでしたし、イギリス空軍は訓練されたパイロットが幾らでも欲しかったのです。

武者風ダースベーダー

武者風ダースベーダー

 

ベーダーさんは、イギリス空軍にパイロットとしての復帰を申請します。イギリス空軍は呆れ果てたそうですが、強敵ドイツとの戦争は切迫していました。しかもパイロットは大いに不足。そんなわけでベーダーさんはイギリス空軍に復帰できたのでありました。
前代未聞・空前絶後の「両足に義足を装着した戦闘機乗り」の誕生であります。

ベーダーは翌年のダンケルク撤退戦で初の撃墜を記録、初期のバトル・オブ・ブリテンでも活躍。その過程で抜群の統率力と操縦技術を見せたべーダーは、第242飛行隊の隊長(空軍大尉)に任命されます。

第242飛行隊は「ホーカー・ハリケーン」装備。パイロットはカナダ人を中心に構成されていました。いや、カナダ人だからってワケではありませんが、新しい部下たちは大英帝国の戦況から士気が落ちていました。
当然ですね、宗主国の求めに応じて大西洋を渡ってきたものの、盟邦フランスはあっという間に崩壊。陸軍は何とか逃げ延びてきたものの、とても戦勝など期待できそうもない島国に押し込められてしまったんですから。

ホーカー・ハリケーン戦闘機だって戦闘力が一流って訳ではありません。当時のイギリス工業界にとって、手慣れた構造で作り易かったので、数合わせで作られたようなモンですからね(ちょっと厳しすぎるかな)。

そんなところに「両足のない司令官」が赴任してきたのです。パイロットたちは「こんなのが俺たちにはお似合いか」と一層モチベーションが低下してしまいました。

ダースベーダー

ダースベーダー 「こんなの」が諸君の指揮官だったら(笑)

 

しかしべーダー隊長は彼らのその口を、自らの操縦技術を見せつけることで一瞬で封じてしまったのであります。
べーダーは第242飛行隊を精鋭部隊にすべく、容赦なく鍛えあげ始めました。確かな技術に裏打ちされた指導はダメ部隊を次第に精鋭へと変えていきます。

また、べーダーは部下を大切にする部隊長でした。「条件が整わなければ自分の部下を戦場に行かせない」と言うのが日ごろからの主張。部下たちははじめは馬鹿にしていた「足のない司令官」を強く信頼するようになっていました。

1940年8月13日、ドイツ空軍の攻撃が始まりました。「バトル・オブ・ブリテン」の開幕であります。
ここからドイツ空軍は2週間に渡ってイギリス南部を爆撃することになります。グレート・ブリテン島の南部を飛び回る戦闘機の数は攻撃側3対防衛側1(おおよそ、ですからね)でドイツ軍が圧倒していました。

8月20日、ベーダーさんの第242飛行隊にスクランブルの指令が出ました。
第242飛行隊はベーダーさん以下わずか9機で100機に及ぶドイツ戦爆連合に対峙。
戦爆の割合がハッキリ判らないのが無念ですが、ドイツの戦闘機は「メッサーシュミットMe109」。マイナーチェンジを繰り返して、第一線の力を保ちつつ大戦を戦い抜く名機であります。

対するベーダーさんの乗機(部下もです)は性能でかなり見劣りする「ホーカーハリケーン」でした。
ハリケーンの性能はホントはそんなに酷くはない、と思うんですけどね(笑)今回の話に都合が良いので、一般常識に反撃せずに流しちゃいます。

結局、足無しの隊長さん以下の9機は1機も失う事なく、ドイツ機を12機も撃墜したのです。士気がほとんど崩壊していた飛行隊を、義足の司令官がわずか数週間で精鋭部隊に生まれ変わらせていたのです。

スピットファイア

スピットファイア

 

1941年3月、べーダー卿は空軍中佐に昇進して「タングリア航空団」の司令官に任命され、スピットファイアに乗り換えます。
さすがべーダーさんで、新鋭戦闘機も見事に操縦して見せます。フォースの力をどのように使ったかは不明ですが(笑)。

しかしながらベーダーさんの幸運はココまで。1941年の8月、フランスで作戦行動中に撃墜されてしまいます。ベーダーさんは墜落前に脱出・降下したのですが、そのときに義足が外れてしまい、あっけなくドイツ軍の捕虜に。

武士道

監禁しておかなくても、逃亡不可能な敵の「エース」を捕虜にした、という情報はドイツ空軍内でちょっとした話題になったようです。

拘留中にアドルフ・ガーランドさんが面会を求めてきて、其処は大空の戦士同士、大いに意気投合して親交を結ぶ事になります。
義足を無くして身動きの取れないベーダーに同情したガーランド中将は、赤十字社を使ってベーダーさんの義足をイギリスから取り寄せてくれるなど、大いに気を使ってくれたのであります。

これぞ文明国同士の戦争、西洋にも武士道が息づいていた、って事でありましょう。いや、騎士道精神って言うのかいな(笑)

アドルフ・ガーランド

アドルフ・ガーランド中将

 

こうして歩くことができるようになったベーダーさんは、しかし武士道よりジョンブル魂の人?でした。ガーランド中将の寄せる友情など屁とも思わなかったのでしょうか。何と、捕虜収容所から脱走しようとしたのであります。それも複数回試みて、そのたびに失敗。
ベーダーさんはドイツが戦争に負けるまで、義足をガチャガチャいわせて(ガチャガチャしたかどうかは知りませぬが)脱走を試み続けるのであります。

何度も脱出を試みて全て失敗するのですが、そのたびにベーダー卿は「これは祖国のために、捕虜となったイギリス軍人の義務である」とか抜かしていたそうです。

コルディッツ城

コルディッツ城
米軍撮影実はこの城はある事で有名なんですが、ご存じでしょうか?捕虜に関することですよ。

 

模範的とは言い難い捕虜だったベーダーさんは捕虜収容所を転々とし(させられ)、最終的にザクセン州はライプツィヒ郡のコルディッツ城に送られ、1945年4月にアメリカ陸軍第1軍によって解放されることになるのであります。

大英帝国のヨーロッパ戦線での勝利で自由を勝ち取ったベーダー卿は、その直後にある重大な事をやっているのですが、それを吹聴して歩くでもなく、翌1946年2月にイギリス軍を退役。

戦後は石油元売りの会社で働きながら、障害を持つ人々への支援活動を行いました。パイロットも趣味として続けていたそうです。
1976年には障害者支援の功績によって勲章を授与され、1982年9月5日、心臓発作により死去、享年72歳でありました。

盟邦ドイツ

ドイツの脚無しエースは、もう皆さんご存じであろうハンス・ウルリッヒ・ルーデルさんであります。
えっ、ルーデルさんは別名シュツーカ大佐、戦車キラーの急降下爆撃機乗りだろ!撃墜王じゃないだろ、ですと?

ルーデルさんは戦車以外にも色々と戦果を上げていて、ついでみたいに戦闘機2機、爆撃機5機とか墜としてますから、エースで良いんですよ。戦闘機乗りじゃなくても、エースにはなれるんです。大日本帝国の「非戦闘機乗りエース」についてはコチラの記事をどうぞ。

_Hans-Ulrich_Rudel

ルーデル大佐
後方は相棒ガーデルマンさん

 

初っ端から横道にそれちゃいますが、ルーデルさんのやった「雑魚」(主目的=戦車・装甲車など以外の戦果)で、出色なのは「戦艦マラート」でしょう。
戦艦って言っても1914年就役の「老兵」なんですけどね。それでも23000トンもありますから。
これを1トン爆弾抱えて急降下一撃!大破着底させてしまうのであります。もっとも、停泊中でしたけど。1941年9月23日の事でありました。

さて、このルーデルさんは1936年12月に士官候補生としてベルリン近郊のヴィルトパーク・ヴェルターという所にあったドイツ空軍学校入学。なんと競争率100倍超だったとか。

1939年撮影の戦艦マラート

1939年撮影の戦艦マラート

空軍学校での初等教育を終わると、機種別の専科教育に進みます。ルーデルさんは他の多くの生徒たちと同様に戦闘機乗りを希望していたそうです。

ところが卒業を間近に控えた時期にバルト海沿岸の高射砲学校を訪れたルーデルは偶然その場に居合わせたゲーリングさんの演説を聞いてしまいました。

曰く「諸君、ドイツは新しく編成される『シュトゥーカ爆撃隊』のため青年将校を必要としている!」

もともと学校では「卒業生は全員爆撃隊に編入されることになる」という噂がまことしやかに囁かれていました。ルーデルさんはこの演説で噂を信じ込み、急降下爆撃隊に志願します。
新しい進路が確定してみると、卒業生の大部分は希望どおり戦闘機隊に配属されてたりして。ルーデルさんは陰謀には向かないんですね。まあ、それが良かったんですけどね。

ルーデルさんは1938年6月に第168急降下爆撃航空団第I飛行隊に配属されたのですが、あまり優秀なパイロットとは評価されなかったようです。半年もしないうちに第121長距離偵察飛行隊に転属させられ、写真偵察の訓練を受けたりしています。

第二次世界大戦が勃発したときはルーデルさんは少尉。第121軍第2軍地区偵察大隊でポーランド戦線の遠距離偵察要員。辛うじて(偵察機乗りの皆さま、表現ご容赦です)戦闘に参加させてもらいました。しかし、1940年5月のフランス侵攻開始では戦線には投入されず。
短い対フランス戦が終わる頃、ようやく第3急降下爆撃航空団第1飛行大隊へ転属して急降下爆撃機パイロットへの転換訓練に入ります。このためにバトル・オブ・ブリテンには参加出来ませんでした。

これに続く第三帝国の攻勢のバルカン侵攻、クレタ島侵攻には参加したと言っても予備パイロットとして基地で待機していただけ。

ヘルマン・ゲーリング

愛娘を抱くヘルマン・ゲーリング

 

この時の悔しさが、後々の「出撃したがり」のルーデルさんを作っていきます。ルーデルさんの「急降下爆撃機乗り」としての初陣はバルバロッサ作戦の1941年6月23日まで持ち越しとなっていました。
ここから、「ルーデル伝説」が幕を開け、ルーデルさんはユンカースJu87「シュトゥーカ」を駆ってドイツの敗戦まで東部戦線を戦い抜く事になるのです。

伝説

ルーデルさんはベーダー卿とは挙げた戦果が桁違い(それも一桁じゃなく)ですので、さまざまな伝説に彩られています。そのどれもが、「ルーデルは休暇よりも戦い続けることを好んだ」って言う方向で語られるモノですが、ちょこっと例を上げておきましょう。

〇出来る限り休暇を減らして出撃回数を増やすよう上司に嘆願し、その為に書類の偽造に手を染めた
〇撃墜されて満身創痍で基地に帰りつき、そのまま再出撃しようとした

などなど。
伝説に彩られ、とは申しましたけれど、実際に認定された戦果もすさまじくて、2530回もの出撃でソ連軍戦車を519輌も破壊。装甲車やトラックは800台以上、100粍口径以上の火砲150門以上。装甲列車も4両を屠っています。

ルーデルさんの戦果は陸上にとどまりませんでした。最初に申し上げたように、戦艦マラートに加えて嚮導駆逐艦(駆逐艦数隻を指揮する少し大型の駆逐艦)1隻、駆逐艦1隻、上陸用舟艇に至っては70隻以上。航空機は戦闘機2・爆撃機5その他2の合計9機。

草原で運用サレルシュツーカ

草原で運用されるシュツーカ

 

1943年度のソ連の戦車生産数は約1万輌、T34/76だけでも6000輌(諸説あります)と言われるので、焼石に水っちゃあ水なんですけど。(シュトゥーカは2人乗りですから、個人って言うとナンですが)個人の戦果としては空前絶後と言っても大きな間違いではないでしょう。

ルーデルさんはその功績によって「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授与されています。この長ったらしい名前の勲章をもらったのは数ある国防軍の将兵でもルーデル大佐だけなのです。

ルーデルさんが偉大なのは、こうした栄誉を貰うのにコッチから条件を付けた点でして、その条件が「俺に二度と地上勤務しろ、とか言うなよ」ってモノなのであります。
実はルーデル大佐、勲章に至るまでの大活躍で赤軍から「ソビエト人民最大の敵」という願ってもない尊称を奉られていました。別名「シュツーカの悪魔」とも。

T34-76_1940年生産型

T34-76

第三帝国の総統閣下は、この愛おしい部下が万一にも戦死してアカどもを喜ばせてしまうことを、いたくおそれておられたのです。
総統閣下(と取り巻きたち)は折に触れてルーデルさんを安全な地上勤務に就くようにと説得していました。総統閣下のご心配はもっともで、ルーデルさんは任務の危険な事もあって、30数回も撃墜される「被撃墜王」でもあったのです。

墜とされても落とされても、そのたびに何とか味方の支配地域まで逃げ延びて、再び空を舞って赤い猛獣退治。電脳大本営は大好きですわ、こういう「戦い続ける人」って。

だからこそ、ルーデルさんは「勲章貰っちゃるけん、儂に地上勤務とか言うな」という態度にお出になったワケであります。

片足失くしても

1945(昭和20)年2月8日でありました。ルーデルさんはこの時までに4回の戦闘中の負傷を経験していました。

電脳大本営がほれ込むほどの「武闘派」のルーデルさんでありますから、負傷したってお休みにはなりません。
対空砲で撃墜されたあるとき、ルーデルさんは重傷を負ってしまったのであります。後席に乗っていた銃手のガーデルマンさんも肋骨3本を折って一足先に味方に収容されていました。
そこへなんと自分で歩いて帰ってきたルーデルさん。治療を受けるガーデルマンを見つけるや

「なに休憩してんねん、ガーデルマン。出撃やでぇ」

と治療中の相棒を引きずって新しい機に放り込み、離陸しちゃうんです。いや、休憩じゃなくて治療なんですってば。

急降下するシュツーカ

急降下するシュツーカ

 

それで先ほど自分を撃墜しやがった対空砲を破壊しちゃうのが、ルーデルさんのルーデルさんたる所以であります。
余談ですが、この相棒のガーデルマンさん、「娑婆(しゃば)」にいた時はお医者さんなんですよ。適切な治療の大切さを教えてやれよ、相棒に(笑)

ところが、この1945年2月8日だけはルーデルさん、マジで死にかけちゃったのであります。例によって対空砲で撃たれたルーデルさん、右足が吹っ飛んでしまったのです。
ここから、ルーデルさんの相棒の対応に大きく分けて2説ありますが、私の好きな方から紹介しましょう。

①後席のガーデルマンさんに「足が無くなってもうた」と言ったら
「そんな事より左翼が燃えてんでぇ。不時着せんかい!」と言い返された。
治療中を引っ張り出して出撃した意趣返しをされたワケですな(笑)

もう一つは

②ガーデルマンさんは「気絶してる間があんのやったら、操縦桿引かんかい!」と怒鳴り続けてなんとか不時着させた。

まあ、どっちでも良いか。
流石のルーデルさんもこれは病院送りであります。見舞い客がビックリしたそうなんですね。
なんと「シュツーカの悪魔」が泣いていたと言うのです。流石に片足を失った衝撃は大きかった…そんなワケないですやん。

「まだ一本残ってるから脚はどうでもええわ。この祖国がピンチだ、ってぇ時にイワンどもの戦車を撃破出来ないのが悔しいんじゃ。え~ん」

そしてわずか6週間の治療の後、鋼鉄製の義足を装着したルーデルさんは戦線に復帰しちゃったのです。

離陸するシュツーカ

離陸するシュツーカ

 

いや、書類上はまだ入院していることになっていたんです。ルーデルさんは書類を偽造したんですね。偽造捏造もルーデルさんがやらかすと爽快な気持ちになるのは何故なんでしょう?
相も変わらずにイワンの戦車に急降下爆撃してるだけなのに(笑)

休暇いらん、出撃したい

ルーデルさんの超有名なエピソードに、「自分の戦果を他人に譲っていた」というモノがあります。

このエピソードがホントなら、実際の戦果は公式記録よりもっともっと多いことになります。仲間の評価を上げてやりたかった、みたいな理由がまことしやかに語られるのですが、電脳大本営はどうも納得できません。

ドイツ空軍では、一定の戦果を上げれば休暇が貰える、というシステムがあったようです。
とすれば、ルーデルさんの「戦果譲渡」はこのご褒美休暇を回避する為だと考えた方が宜しいのではありませんか?

まったく現代日本の勤労者に見習わせたい働き者です。と言って儂はブラック企業が良い、と言ってるんじゃありませんからね。

敗戦

ルーデル大佐の休むことを知らぬ奮戦にも関わらず、祖国ドイツの戦勢は日ごとに傾いてしまいます。ルーデルさんは出撃ごとに赤い猛獣を退治しますが、一匹屠れば二匹増える状況は好転することなく、可愛がってくれた総統は自決、祖国はついに降伏。

ルーデルさん、ココに至って初めて「自身の安全」を考えたのでしょうか?西に向かって英米に降伏する、という当時のドイツ軍、いやドイツ人みんなが選択した方法をお取りになるのです。

だってイワンの暴虐はみんな判ってるし、ましてルーデルさんは「ソ連人民最大の敵」ですから。
既にルーデルさんたちはイワン軍、じゃないソ連軍に攻囲されていたのですが、そこは空から脱出。妨害してくるイワン機を「昨日と今日で、そう急に変わってたまるものか」と言って撃墜して逃亡。

見事に西への脱出を果たしてしまいます。

ルーデルさんはドイツ軍にあっては超有名人の大ヒーローでありますから、降伏していたドイツの兵士たちは敬礼で迎えてくれました。

それを見ていた連合軍の反応は
「ドイツ式の敬礼はやめてくれないか? 会話も英語が話せたら英語で頼む」
巷間言われるように、高圧的な態度ではなかったようです。しかしルーデルさんの気持ちを逆なでしちゃったみたいです。

「ここはドイツだ。英語が話せたって、ドイツ語以外は喋ろうと思わない。」
「どんな敬礼をしようと君らの知ったことではあるまい。我々はドイツ軍人としての敬礼法を教わり、それをそのままやっているだけの話だ。」
「シュトゥーカ隊は空の戦いで敗れはしない。我々は囚人ではない。ドイツ兵は全ての戦闘に負けたものではなく、ただ物量の重圧に屈したに過ぎぬ。」
「我々がここに来たのも、ソ連地域にとどまるのを欲しなかったからだ。」
「ま、そんなことはどうでも宜しい。身体を洗わせてくれ。それから何か食べ物が欲しい」

有名なお言葉でありますが、これは1945年5月7日に降伏時にアメリカ軍将官と対面した際、英語を話せるかと通訳に問われたときの返答だそうであります。

こんな事を堂々と言っちゃうからでしょうか、米英軍側にはイワンの要求に応じて、ルーデルさんをソ連軍に渡しちゃおうって動きもありました。しかし、それに強力に待ったを掛けたお人が有りました。
大英帝国の「脚無しエース」ことダース・ダグラス・ベーダーさんだったのであります。

ベーダー大佐は、ルーデルさんをソ連引き渡しの危機から救うだけではありませんでした。
前線で作らせた間に合わせの義足をつけて、不自由そうだったルーデルさんの為に、わざわざロンドンから義足屋を呼びよせ、新しい義足を作らせたりしたのです。もちろん無償です。

ベーダーさん、ガーランド中将の厚誼に、ちゃんと報いたのでありました。

最後に、ルーデル大佐のお言葉を借りて一言。
「ここは日本だ。日本語の案内が読めない民族に来てもらいたいとは思わぬ。」

 

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