飯野忠男少佐ラバウルに死す~駆逐艦「皐月」の死闘~

睦月カラー化

駆逐艦「皐月」のお話であります。
電脳大本営は、小さくてもあちこち走り回って国を守ったフネが大好きなんです。さらに、何でもいいけど因縁話が好きなんで…

新型ではありません

「皐月(さつき)」は1923年(大正12年)度の計画艦で、睦月型駆逐艦の5番艦。皐月は5月だからね。

因みに、睦月型は1番艦から7番艦までは順番に「月の名前」を付けてます。
ところが、葉月(8月)は無くて、8番艦は9月(長月)、9番艦は「菊月」、10番艦は「三日月」、11番艦「望月」、12番艦「夕月」。

こういうところ、海軍のネーミングセンス、悪いですよねぇ。

せっかく7番艦まで月の名前を付けたんだから、12番まで拘ったら良かったのに。

そんでもってさ、12番艦は司令部施設(っても大佐クラスの個室と通信設備を強化するだけで可)付けて、ちょっと装甲板を奢ってやって、「嚮導駆逐艦」ってことにすりゃ良かったんだ。

嚮導駆逐艦「師走」、先生が走るんやで。
どうや!帝国海軍の華・駆逐戦隊の先頭切って敵艦隊に突入するのにふさわしい艦名ではありませぬか。

まあ、5月、じゃない皐月は大正13(1925)年11月15日に藤永田造船所で誕生しました。

大東亜戦争の開戦時には艦齢16年、「皐月」が誕生した後の駆逐艦の異様とも言える進歩を考えますと、かなりの旧式艦だったといえるでしょう。

T15卯月全力公試

睦月型駆逐艦「卯月」の全力公試 大正15年

 

公試排水量 :1,445トン、全長 102.72m、全幅 9.16m

速力 37.25ノット、乗員 154名

兵装:45口径12cm単装砲×4門、7.7mm機銃×2、61cm3連装魚雷発射管×2基(魚雷12本)、爆雷×18個、機雷or掃海具

なお、福井静夫大先輩によれば、昭和19年(1944年)には12cm単装砲3門、25mm3連装機銃3基、同連装2基、同単装9基、13mm単装機銃5基、61cm3連装魚雷発射管2基。

主砲を降ろして対空兵装を充実させているんですね。

「日本型駆逐艦」の完成型

まずは駆逐艦皐月の属する「睦月型駆逐艦」をもう少し詳しく紹介いたしましょう。

大日本帝国海軍は大正6(1917)年から、それまでの英国型の模倣から脱して、独自設計で太平洋を駆け回るのにふさわしい「日本型駆逐艦」である峰風型の整備を開始します。

この設計はおおむね成功をおさめて、峰風型15隻、小改良タイプの(2代目)神風型9隻が就役して海の守りを固めたのです。

睦月型はこの「峯風/神風タイプ」の更なる改良型として計画された大型駆逐艦であります。12隻が建造され、さらに増える予定でした。

そのため、神風型とともに「付けてやる名前が足れへんで!」ってことで艦名ナシで番号が付けられる予定でした。
ところが建造計画が変更(隻数減で12隻造って打ち切り)となって、大日本帝国海軍の駆逐艦にふさわしい優美な名前をつけてもらえました。

この「睦月型」の建造で、峰風型から始まった「日本型駆逐艦」は一応の完成を見ることになります。

海軍はこの日本型駆逐艦の成功で、オリジナル補助艦艇の建造に大きな自信を得ました。
その自信こそが、世界に誇る強武装の「特型(吹雪型)駆逐艦」の完成へと繋がってまいります。

睦月型の特徴は

神風型(ネームシップ「神風」は米潜水艦との死闘や「最後の水上戦闘」で有名です)からの主な変更点は、魚雷発射管です。

53cm連装魚雷発射管3基六門だったところを、61cm3連装魚雷発射管2基六門に、予備魚雷も8~10本だったのを12本に強化しています。

艦型も若干大型化し、艦首がスプーン・バウからダブルカーブド・バウに変っているのが識別点です。下の画像で確認してください。

ほら、上の画像とは、艦首の形が全然違いますよね。

「ダブルカーブド・バウ」はこの「睦月型」から帝国海軍のアイデンティティみたいな存在になっていきます。

T9峰風全力公試

参考画像 全力公試中の峰風(大正9年)

 

電脳大本営的なこのクラスの弱点は搭載爆雷で、その数たった18個。

対潜装備の軽視は大日本帝国海軍の慢性病みたいなものなんですが、帝国海軍ちゃんったら、ひょっとすると駆逐艦のことを「対潜艦艇」とは思っていなかったんじゃないでしょうか?

『水雷艇』駆逐艦だからなぁ、もともと駆逐艦は。
でも、この頃の潜水艦だって「可潜水雷艇」みたいなモンだしなぁ。

ってか、帝国海軍は駆逐艦を「艦隊決戦用の補助戦力」と考える悪弊から、ついに抜け出せなかった…

駆逐艦「皐月」の戦歴

大東亜戦争の開戦時には峰風グループ(峰風型・神風型・睦月型)はいささか旧式化していたのですが、睦月型はその雷撃能力の高さを買われて主力に随伴することになりました。

フィリピン、ジャワ島の攻略に従事するとバタビヤ沖海戦にも参戦しました。

この海戦では連合軍艦隊を圧倒したのですが、魚雷の射程が長過ぎて、護衛してきたはずの味方輸送船を撃沈してしまう失態(どの艦の魚雷かは不明)がありました。

揚陸艦「神州丸」

揚陸艦「神州丸」

 

しかも、そこに陸軍の誇る(たぶん世界初の)揚陸艦「神州丸」が含まれて(神州丸は大破着底、後に浮揚成功)いて、座乗の第16軍司令官、今村均中将が海水浴を余儀なくされる事態となってしまいました。

今村中将は「聖将」と言われるほどのデキた人ですから、陳謝に行った海軍に「敵の魚雷艇もやるもんですなぁ」と海軍の落ち度を責めませんでした。

それを良いことに、海軍は開戦時の隊形(味方艦隊=敵艦隊=味方輸送船団の並びで並走・戦闘してました/敵の方向けて魚雷打ったら、そりゃ味方に当たるよねぇ)など、反省するべき事象を抽出することなんぞ一切しなかのです。

戦勝の続く中で、意外に見落とされているエピソードですが、この作戦の目的は
「上陸部隊を無事に送り届けること」
だったはず。

ここでも、海軍は「自分たちの考え方がおかしい」と気づく機会を逸してしまいました。

「皐月」だけの責任とは思えないところですが、取り上げてみた次第です。

「皐月」奮闘す

昭和18(1943)年になると、米軍の反撃は本格化しました。

多くの駆逐艦を犠牲にしてまで、補給を続けたガダルカナル島からも撤退が決まり、「皐月」も救出作戦に参加。

この段階はまだまだ帝国海軍も、アメリカ海軍を相手に、互角の戦いを繰り広げていたのです。

その後はラバウル周辺海域で補給任務に従事します。

同年7月、ショートランドでの空襲で被弾して内地へ戻り、呉で修理。この呉での修理が「皐月」の最後の里帰りとなりました。

修理なってラバウルに復帰した「皐月」は同型艦「文月」とコンビを組んで輸送船護衛に活躍します。

明けて昭和19(1944)年1月4日。

「皐月」と「文月」は、正月休みもなく護衛任務に付いていたのですが、この日は間が悪く米軍機100機以上の大群に襲われてしまいました。

「皐月」と「文月」は小回り性能と37.25ノットの高速にモノをいわせて船団を護り、米軍機の一割、11機にも上る撃墜を記録します。
しかし、流石に無傷とはいきませんでした。

多くの兵員を失いながら戦闘を続けた「皐月」でしたが、ついに敵弾がその艦橋を捉えてしまいました。

皐月

駆逐艦「皐月」

 

艦橋に飛び込んだその弾は、艦長の飯野忠男少佐の左脚を直撃。
たまらず転倒した飯野艦長の左脚からは大量の出血。

それでも「輸送船と部下を護る」の強い信念に突き動かされる少佐は、指揮を止めませんでした。

米軍機が休む暇など与えてくれるわけもなく、流石に少佐の意識が朦朧としてきます。
艦長の左脚は完全に砕かれていて、出血を止めるには脚を切断するしかないように思われました。

飯野艦長は軍医を艦橋に呼びました。軍医の見立ては艦長の判断と同様です。
飯野少佐はすぐさま軍医に「ココでやってくれ!」
飯野さん、あんたは関羽か?

飯野艦長は、切断手術を受けながら戦闘指揮を続けたのです。

1月6日、ラバウルに帰り着いた「皐月」に重大な損傷はなく、現地修理で戦線に復帰しました。
が、飯野艦長はかつぎ込まれた病院で息を引き取ってしまいました。

駆逐艦長は、大勢としては兵学校などの成績(ハンモック・ナンバー)が下位で、出世コースから外れた人です。
ただ、兵学校とはいえ、学業成績と戦闘能力が(すべての人で)一致するワケがありません。

大東亜戦争の限らず、駆逐艦長の戦闘センスを見ていると、むしろ学業成績と戦闘能力は反比例するんじゃないのか?と思えるほどです。

空襲を受ける文月

空襲を受ける文月(画像中央)

 

この飯野忠男少佐なども、その最たるモノでありましょう。

草加南東方面艦隊司令長官、少佐を見舞う

最近、当時の南東方面艦隊司令長官(敗戦まで同職)だった草鹿任一中将の日記を目にする機会に恵まれました。

草鹿中将は若いころから日記を付けていたようで、兵学校長時代など特に興味を惹かれます。

この日記は昭和17年の暮れに、草鹿が南東方面艦隊司令長官に補せられると、戦地に持って行って書き続けたようです。

しかし、残念なことに敗戦のドサクサで散逸してしまいました。昭和17年以降がほとんど残っていないのです。

敗戦時には「海軍は陸軍の指揮下にあらず」と言い張り、無理やりのように陸軍の今村将軍と肩を並べて降伏文書にサインした気骨の提督です。

昭和20年分が残っていたら、この時の心のありようが判ったでしょうに…

しかし、奇跡的に昭和19年初頭の分が本土に帰還していて、ご家族が大切に保存しておられました。

以下はその中の1月5日の日記です。

一月五日 雨 八十九度
昨夜一寸空襲アリ。夜来豪雨。五時起床。七時病院二行キ文月、皐月ノ負傷者ヲ見舞フ。皐月艦長飯野忠男少佐、左脚切断ノ手術ヲ受ケ乍ラ艦橋二在リテ椅子二坐シタル儘指揮ヲ執リクルハ勇敢ナリ。軍刀一振ヲ贈ル。貧血ノク(タ?)メ一時危険ナリシモ夕方持チ直ス。

(注;翌6日には「飯野皐月艦長遂二今朝逝去」の記述があります)

文月砲術長平柳育郎中尉胸部及腹部貫通銃創ニテ重症入院後間モナク戦死シ見舞二行キタル時ニハ方二火葬場二送ラムトスル間際ナリシガ拝礼ノ後副官ヲ九三九空二派シ級友二通知セシム。佐々木中尉直チニ病院二行キ他ハ火葬場二集ル可ク信号セシ由ナリ。彼レ七十期ノ首席トシテ晴レノ卒業式ノ光景尚ホ記憶二新ナリ(草鹿中将兵学校長時代の教え子)。駆逐隊二於テモ大ニ司令以下ノ信頼親愛ヲ受ケ居リシ由ナルニ惜ム可シ。

飯野艦長、病院でも戦列復帰を目指して闘っておられたんでしょうね。

わが国の海軍に限らず、駆逐艦の艦長には野武士を彷彿とさせる豪傑が多いものです。
しかしこれほどの敢闘を見せた艦長はどの国の海軍にもいないことでしょう。
まことに我が海軍魂の清華、もっともっと喧伝されるべき「もののふ」だと思います。

飯野忠男:福岡県出身、海兵60期。
昭和15年11月15日駆逐艦村雨水雷長。
昭和16年9月10日軽巡川内水雷長。
(?)重巡洋艦熊野水雷長。
昭和18年9月1日駆逐艦皐月艦長。
昭和19年1月6日ラバウルにて戦死、死後中佐に昇進。

大戦争中なのに転勤が多過ぎるぜ、と言う問題につきましては、また考えてみたいと思いますのでここでは割愛。

ついに最後が

飯野艦長を失っても皐月の奮闘は続きましたが、2月に入るとトラック空襲(海軍丁事件)で相棒の「文月」が撃沈されてしまいました。

その後もサイパン方面の輸送と護衛に従事したのですが、9月21日マニラ湾で米軍の艦載機の襲撃を受けたときのこと。

文月の沈没状態(ダイバーズマップ

文月の沈没状態(ダイバーズマップ)

 

左舷にかわしたはずの至近弾で、運悪く復水器が損傷してしまいました。
復水器はタービンを回した蒸気を水に戻してやる装置です。
すぐに戦闘行動がどう、という事はありません。

ありませんが、次第に蒸気ができなくなりますから長時間の行動は出来ません。
米軍の攻撃は何次にもわたって続き、皐月の行動は少しずつ鈍っていきます。
速力も20ノットが出せなくなり、負傷者が続出します。

幸いにもマニラ湾内での襲撃であったために、艦載艇で陸へ負傷者を順次移送します。
しかし、あまりの負傷者の多さに、艦橋に詰める人員は艦長以下3名だけ、という惨状となり、数弾の命中弾を貰ってついに撃沈されました。

「皐月」には150名あまりの乗員が乗り込んでいましたが、この戦闘での戦死者は52名に留まりました。

傷つきながらも水兵さんを護らんとした「皐月」の粘りが判ります。

長月1944、座礁して大破・放棄

長月、座礁して大破・放棄

 

旧式ながらも、大東亜防衛の最前線に張り付いた睦月型駆逐艦は、「皐月」が撃沈されて残ったのは「卯月」と「夕月」の2隻だけ。

その「卯月」と「夕月」も12月のオルモック輸送作戦のうちの第9次作戦に参加して沈没し、「睦月」姉妹の12隻は全て戦没となりました。

「皐月」には先代がいた、それも・・・

駆逐艦「皐月」は実は2代目です。

初代の「皐月」はロシア・バルチック艦隊の駆逐艦「ペドウィ」でした。

M38日本海海戦で捕獲したペドウィ。皐月と命名された

日本海海戦で捕獲したペドウィ。
皐月と命名された

 

重症を負った敵将ロジェストウェンスキー中将を救助して敗走中に捕獲された、あの「ペドウィ」が名前を変えて我が海軍籍に入っていたものです。

飯野少佐などの艦長に恵まれ、粘り強く戦い続けた二代目「皐月」。

その初代も、追い詰められつつある中で必死に戦っていたんですね。

この程度の因縁でも、儂は大好きなので、ついでに紹介させていただきました。

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