駆逐艦「野分」、逃げまくる

雪風

駆逐艦とは、フランスが整備を進める小型で敏捷な「水雷艇」から味方の大型艦を防護するため、大英帝国海軍が採用した小型艦でした。

甲型駆逐艦

駆逐艦は安価で使い勝手が良かったため、「水雷艇駆逐」だけではなく、様々な任務に使われるようになります。

最初の駆逐艦ハヴォック

最初の駆逐艦ハヴォック

 

大日本帝国海軍では仮想敵国に比べて、隻数で見劣りする主力艦を補佐するために駆逐艦を重視して、世界的に見ても重武装で航続距離の長い優秀な駆逐艦を多数建造しました。

その「大日本帝国型駆逐艦」の集大成とも言えるのが「陽炎型駆逐艦」です。「陽炎型」の小改良版と言える「夕雲型」をあわせて「甲型駆逐艦」と呼ばれています。

陽炎型は19隻が建造されましたが、竣工したのが昭和14(1939)年~16年。長らく帝国海軍の頭上に漂っていた暗雲の「軍縮条約」の束縛を脱し、復元性能や船体強度にも留意した艦隊型駆逐艦の「完成形」であります。

全力公試の嵐

全力公試中の「嵐」
昭和16年

大東亜戦争では最新鋭の駆逐艦として常に危険な戦線に投入され、無事に敗戦を迎えたのは甲型とその前身である「朝潮型駆逐艦」(10隻)合計全48隻のうち幸運艦として有名な「雪風」だけでした。

基準排水量:2000トン、全長:118.50m、最大幅:10.80m、速力 35ノット、航続距離:18ノットで5000海里、計画乗員:239名。
兵装:50口径12.7cm連装砲×3基(6門)、25mm連装機銃×2基(4門)、九二式4連装魚雷発射管×2基、九三式魚雷×16本、九三式探信儀(ソナー)

今回は、その「陽炎型」から数奇な最期(だと電脳大本営が思っている)を遂げた「野分」のお話です。

名前が変?

大日本帝国海軍の軍艦には、艦種に応じて命名基準が決まっていました。その基準内で海軍大臣が艦名を決定し、天皇陛下に報告申し上げるのが決まり。
「陽炎型」は一等駆逐艦ですから、「天候・気象・季節の用語」から命名されるワケですが、同じ型には同じ系統の艦名を付ける習慣のようなモノもありました。
たとえば「睦月型」ならネームシップの「睦月」から「如月」「弥生」・・・まあ、「師走」は無いけどね(笑)

1927如月

睦月型「如月」
ダブルカーブドバウがカッコよいですぅ。

 

で、陽炎型は「海で起こる事象」を艦名としました。「陽炎」「不知火」「黒潮」。4番艦「親潮」5番艦「早潮」6番艦「夏潮」。そして7番艦の「初風」からは風シリーズ。
「雪風」「天津風」「時津風」「浦風」「磯風」「浜風」「谷風」
と来て「野分」が15番艦。
お次は「嵐」「萩風」「舞風」、最終19番艦のみ「秋雲」(この艦は「夕雲型」に分類されるべきとの意見もあります)。

ねっ、ヘンでしょ?「野分」だけ風の字が付かないのね。次の「嵐」も危ないけど、風は入ってるって言うのに。
軍艦って不思議なモノでして、変わった名前は一風変わった運命をそのフネにもたらすんであります。

さて、野分はその変わった運命もまだまだ先の昭和16(1941)年4月28日に竣工、一か月前に編成されたばかりの「第四駆逐隊」(「嵐」「萩風」「舞風」)に編入されます。この駆逐隊の司令は有賀幸作大佐、戦艦大和の最後の艦長になる人ですね。
「野分」はこの配置で大東亜戦争に突入し、開戦当初はカムラン湾にあって南方作戦を支援することになります。

夕雲

「夕雲」

やっぱりミッドウェイが分岐点

勝ち戦の間は敵の小艦艇や油槽船を沈めたり、拿捕したりの駆逐艦らしい戦いを続けた「野分」でしたが、運命はすぐに暗転してしまいます。
「野分」の第四駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊の一部として昭和17年6月、ミッドウェー占領に出撃します。配置は主力の4空母の直衛警戒艦。
被弾して燃えだした空母「赤城」から南雲長官や参謀長を救助する大役を果たします。戦史叢書によれば長官たちは「野分」に直接移乗したのち、警戒隊旗艦の軽巡「長良」に移ったようですが、内火艇で移乗したとの記述もあり、混乱ぶりが伝わってきます。

爆撃を回避する赤城

爆撃を回避する「赤城」とされる画像

 

司令部が逃げ出した後、「赤城」は懸命に生き残りを図ります。しかし水兵さんたちの努力もむなしく、赤城艦長の青木泰二郎大佐は総員退去を下命。
青木泰二郎(電脳大本営が呼捨てにする理由はコチラ)を収容すると、連合艦隊司令長官名で赤城の処分が命令され、「野分」は味方空母に向けて自慢の酸素魚雷を発射するハメに陥ってしまいました。

ミッドウェイを境に、大東亜戦争の太平洋戦域は攻守所を変えてしまいます。守勢に立たされた大日本帝国はソロモン海域で、強大化してしまったアメリカ軍を懸命に喰いとめます。

しかし、この果敢な抵抗が一大消耗戦となり、大日本帝国惨敗の大きな原因になってしまったのは皮肉というか、先見の明の無さというべきか?
ともかく「野分」は建造された目的には無かった「鼠輸送」や輸送船団の護衛に奮闘することになったのでありました。

鼠輸送のために駆逐艦に乗り込む陸兵

鼠輸送のために駆逐艦に乗り込む陸兵

 

大東亜戦争の開始時点では、大日本帝国海軍は間違いなく(ラグビーで言う所の)世界ランキング2位、それもトップの大英帝国に僅差まで迫り、3位以下の追随は全く許さない「太平洋の帝王」でした。

ランキングは表面的な戦力だけじゃなくて、戦力の養成・兵員の素質・国民の理解・国力・過去の実績などが加味されて決まるモノですからね。強敵と戦わない飴公なんざ、過去の実績が無いからねぇ、この時点では。

ただ嘆かわしい事に、帝国海軍は自らの過去の栄光にこだわるあまり、其処に内包されている「耳に心地よくない」戦訓を汲むことは怠ってしまいました。

「海洋国家の海軍」としてのもっとも基本的な任務である「シーレーン保護」ってモンが、海軍の思考からも予算配分からも水兵さんの訓練からもスッポリと抜け落ちていたのです。

「野分」をはじめとする帝国海軍の駆逐艦や潜水艦、それら小艦艇の「司令艦」となる軽巡洋艦たちはその海軍の怠慢(ここで私が言う「海軍」とは牛耳っていた官僚どもだぞ、海大出たって糞役人じゃ!水兵さんとは認められん)のケツを拭いて回らされることになってしまったのであります。

海軍丁事件

済みません、またまた冷静さを失いました。話を戻します。

「野分」はトラック~ラバウル間の輸送船護衛を中心に活躍を続けました。
駆逐艦・徴用貨物船の奮闘もアメリカ軍の空中・海中からの攻撃は激しく、損耗は激しさを加えていきます。

船舶の消耗よりもっと痛かったのは軍民問わずベテラン船乗りの戦死で、ついにガダルカナルはおろか南東方面最大の根拠地であるラバウルも補給が途絶えがちとなります。

昭和18年末ごろから、さしものラバウル航空隊も防戦一方となり、海軍はトラック島に戦力を集積して、激戦続くラバウルへの輸送の機会を窺っていました。

トラック島は大環礁を持ち(って言うか、環礁の海上部分に基地がありました)環礁内は潜水艦からの攻撃を心配しないで艦隊訓練が出来る程。
石油の産地にも近く、来寇するアメリカ艦隊に一撃カマしてやるには絶好の基地でありました。

昭和19年2月の初め。トラック島には旗艦の大戦艦「武蔵」、僚艦の「大和」以下連合艦隊の主力が30隻以上、工作艦「明石」や補給艦も多数在泊しており、それ以上の徴用輸送船と護衛に当たる駆逐艦や海防艦も多数が出入りしていました。

武蔵手前と大和

「武蔵」手前と「大和」

 

練成中の部隊も含めて、航空機も150機以上がトラックに集結し、其処に100機を越える「零戦五二型」が内地から到着していました。

五二型は速力・上昇力向上を図った零戦シリーズの新作で、ラバウルのベテランパイロットたちが到着を頸を長くして待ちわびていたモノです。

2月4日、このトラック根拠地にアメリカ軍の偵察機が飛来しました。米軍は潜水艦による監視も行っていたようですが、連合艦隊司令部は潜水艦には気付いていません。

それでも連合艦隊司令部は「ヤバイ!」と思ったようです。

この戦術感覚は大いに評価してあげなければなりません。
実際にこの(とそれに続く)偵察を根拠として、アメリカ軍は「トラック大空襲」を行うのであります。

連合艦隊司令部(の役人ども)は珍しく機敏に反応しました。

隷下の主力部隊をトラック環礁から退避させたのです。
戦艦「武蔵」以下、空母2隻・巡洋艦10隻・駆逐艦20隻・潜水艦12隻がトラックを逃げ出しました。

表現が悪いでしょうか?

零戦52型(元山空)

零戦52型(元山空)

 

攻撃されることを察知して事前に所在を変えることは、決して悪い事ではありません。

でもね、50隻以上にも上る補助艦艇は放置して、トラックへ向かっている護送船団にも連絡なし。
トラックの防衛部隊にも警告なしで、コソッと何処かへ行っちゃったら、それは「逃げ出した」で間違いないでしょう。

このトラック大空襲はのちにその対応の拙さが問題視されて、現地の司令官だった小林仁中将が責任を取らされることに(海軍丁事件)なります。

小林中将も危険が迫る中(軽巡阿賀野が環礁の出入り水道で潜水艦に撃沈された直後に)司令部を離れて釣りをしているなど、褒められたものではありません。が、これほど「下に責任を押し付けた」醜い軍事行動も珍しいでしょう。

一方のアメリカ軍側。

新造艦が続々と竣工し、航空機の生産も性能も跳ねあがり、大日本帝国海軍に大きな戦力差をつけて圧倒できる自信を持ち始めていました。
この戦争を「鮮やかな勝利」とするために、彼らが先ず目指したのは「真珠湾の報復」でした。

太平洋上に浮かぶハワイと同じ、日本にとっての「真珠湾」として奴らが目を付けたのがトラック環礁だったのです。

アメリカ海軍は真珠湾の南雲艦隊以上の大艦隊を準備しました。空母9隻、戦艦6隻を中心とする機動部隊。

1942末、魚雷発射訓練中の阿賀野。トラック環礁か

魚雷発射訓練中の阿賀野
昭和17年のトラック環礁かと思われます。

加えて潜水艦9隻でトラック環礁を包囲し(環礁と外海を結ぶ水路は10ありますが、大型艦船はエバリッテ水道・北東水道・南水道しか通れません)脱出する日本艦艇を打ち取ろうとしていたのです。

早くも2月16日に軽巡「阿賀野」がアメリカ潜水艦に撃沈されたのは前述の通りです。

逃げ遅れた

「野分」もこの時トラックにいました。

練習巡洋艦の「香取」(本土帰還後、護衛総隊の旗艦になることが決まっていました)、トラック島から内地へ帰る一般人を乗せた「赤城丸」を、開戦からずっと一緒に行動してきた駆逐隊の僚艦「舞風」と2隻で護衛して内地へ向かおうとしていたのです。

本来「舞風」も「野分」も優秀駆逐艦でありますから、「逃げた」連合艦隊主力が連れて行きそうなモノですが、一般国民を乗せた貨物船を護衛ナシで放り出すことは流石に出来なかったんでしょうね。

全力公試の野分

全力公試中の「野分」

こうして、「野分」の運命の第一幕が開いたのでありました。

実は「野分」艦隊の出発は一日遅れになっていました。連合艦隊主力が「逃げた」んですから、あせれば良さそうですが。
まあ、警備司令官が釣りに行っちゃったせいでしょうか?乗員には上陸許可が出されて、艦上では映画が上映されるなど、前線の駆逐艦の対応ではありませんでした。

2月17日の04:30、「野分」は僚艦3隻とトラックを出港して北水道から外海に出ようとします。第27駆逐隊(「時雨」「春雨」)が30分程先行していました。この2隻は北水道を通過した後に米軍機に攻撃されます。
行動自由な外海に出たこともあって、2隻とも被害を受けながら逃げ切りに成功。

30分遅れの「野分」艦隊は水道通過中から米軍機に捕捉されてしまいました。身動きままならぬ水道で4時間以上にわたって米軍機の攻撃を受け、4隻は何とか外海への脱出に成功するのですが、「赤城丸」がついに力尽き沈没。

軍艦3隻は流石に各艦長の操船よろしく、損傷を受けつつも沈没は免れました。

「野分」はほぼ無傷で空襲を切り抜けるのですが、「香取」「舞風」は「赤城丸」の乗客救助で速力を落としたこともあってほとんど航行不能状態に。

ところが、この逃げようがなくなった小艦隊を放置して米軍機の攻撃が止まったのでした。

これで「助かった」と思ったのは早計でありました。空母艦載機よりも何倍も恐ろしい敵が迫りつつあったのです。

艦砲フェチ

アメリカ海軍第50任務部隊の司令官レイモンド・スプルーアンス大将は大砲、って言うか戦艦の主砲が大好きであったようです。もちろん、儂も好きですけどね、大砲。

海戦の主役は、すでに航空母艦とその艦載機に移っており、かつての「主力艦」である戦艦は、その巨体に対空砲火をいっぱい積んで空母を護衛するくらいしか使い道が無かったのです。

レイモンド・スプルーアンス

砲撃大将、レイモンド・スプルーアンス

 

しかし、スプルーアンスの大将は主砲が撃ちたくて仕方なかったようなのです。
真実は判りませんが、大将は航空隊に『あの艦隊(「香取」「野分」「舞風」)を撃沈するな』と電文を送ったという説があります。

実際の行動としては、任務部隊から最新鋭のアイオワ級戦艦2隻を分離、自分が乗艦して外海に逃れた3隻の追撃を開始したのです。

スプルーアンス大将が直率した戦力は戦艦「ニュージャージー」(大将座乗)戦艦「アイオワ」重巡洋艦「ミネアポリス」「ニューオーリンズ」と駆逐艦「イザート」「シャレット」「バーンズ」「ブラッドフォート」。

傷ついた練習巡洋艦と駆逐艦1隻に、無傷だがたかが駆逐艦の「野分」相手に、最新鋭戦艦2隻と重巡2隻、駆逐艦4隻。

日本人の感覚だと「卑怯者め」と言ってやりたくなる戦力ですが、世界で戦うというのはこんなモノ、スプルーアンスの選択が正しいのです。

アイオワ

戦艦「アイオワ」

「獲物」を目指して猛進するスプルーアンス艦隊は特設駆潜艇「第15昭南丸」「第24号駆潜艇」を腕試しのように撃沈。

12時16分、「野分」の乗組員は水平線上に2隻のアメリカ戦艦が接近してくるのを発見。

もっと前からレーダーで把握していただろう「アイオワ」が香取に対して7分後に発砲、これは12時25分に着弾しました。

スプルーアンスは戦艦2隻と駆逐艦2隻で逃げる「野分」を追いかけ、重巡と駆逐艦に「香取」と「舞風」を攻撃させます。

アメリカ重巡2隻は距離17~15kmで砲撃を開始し、駆逐艦の方は「香取」に接近して魚雷6本を発射。この魚雷は命中しなかったようです。

動けない相手に、下手糞め。

アメリカ艦隊はのちに「香取」(艦首を海面下に突っ込んでいたんですよ)から魚雷・主砲・高角砲による反撃があったと言い訳してますが。

満身創痍の「香取」に有効な反撃のデキようはずもなく、アメリカ艦隊にメッタ打ちにされる事13分。
12時37分に転覆・沈没。トラック諸島の北西75kmの地点でありました。

生存者は知られていません、赤城丸の生き残り、すなわち民間人も含めてです(私は、冷たいようですが、民間人を殺したスプルーアンス以下を非難してるんではありませんよ。一義的には守れなかった帝国海軍が悪いのです)。

整備中の「野分」

整備中の「野分」

 

「舞風」もアメリカ重巡洋艦に撃沈され、コチラも生存者ナシ。

沈没する香取から3隻の救命艇が脱出した、との記述もありますが海面に多数が漂流していただろう「舞風」「香取」の乗員と同様に「フネへの手だしを禁止された」アメリカ軍機の銃撃で全没したと思われます(アメリカ軍の記録)。

全速退避

当然「野分」もアメリカ艦隊に捕捉されていました。
スプルーアンスの大将が座乗する戦艦「ニュージャージー」の40センチ主砲弾が「野分」を狙っていました。

40センチ砲弾の威力はすさまじく、海面に着弾すると水柱が100メートル以上も上がったと言います。
「野分」には、「香取」から救助命令が来ていましたが、とてもそんな余裕はありません。常識で考えろよ、ってところですね。

「野分」に出来るのは全力で逃げることだけ。

燃料消費のことなどまったく考える暇もなく(トラック環礁はこの攻撃で出入り不能になっています。つまり帰れません)、全缶フル出力・限界速力(36ノット)で砲弾を回避し、かろうじて戦場を離脱したのでありました。

トラック大空襲の様子

トラック大空襲の様子

 

アメリカ軍はこの後2日間にわたってトラック基地を蹂躙し続けています。
その攻撃によって、大日本帝国海軍の損害は軽巡3隻を含む艦艇10隻が撃沈され、31隻20万トンもの輸送船も沈没。
航空機の喪失は270機に及びましたが、基地の修理施設・石油貯蔵施設も破壊されて再建不能。輸送船に乗った陸軍の兵隊さんを含む8000名以上が戦死。

一方アメリカ軍機の損害はわずか25機。アメリカ海軍はココに「真珠湾」の仇を取ったと言えるでしょう。

これによりトラック基地は基地機能を喪失(40隻に及ぶ沈船で入泊も不可能)してしまいます。

トラック基地の機能喪失はその前方で懸命の抵抗を続ける「ラバウル航空隊」にも引導を渡すことになってしまいました。

ココに至り、大日本帝国は戦勢傾いてからも2年近く戦い続けたソロモンをついに明け渡さざるを得なくなったのであります。

海軍は戦後もトラック大爆撃(海軍丁事件)から国民の目を背けてやろうとしていますが、大東亜戦争の行く末に影響を及ぼしたこと、ミッドウェイに勝るとも劣らぬ、と言って間違いないでしょう。

ラバウルの52型

ラバウルの零戦52型

 

帝国海軍は内南洋のマリアナ諸島に後退して反撃を企図いたします。

マリアナの七面鳥撃ち

昭和19年6月19・20の両日「マリアナ沖海戦」が生起しました。

ソロモンの激闘を制したアメリカ軍の矢継ぎ早の侵攻に、全くついていけない帝国海軍、という図式であります。

「野分」もこの海戦に第二航空戦隊(「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」)の護衛として参加しています。

指揮を執った小沢治三郎は「アウトレンジ」を標榜し、航続距離ギリギリから航空機を発艦させて完勝を狙いました。
しかし訓練未了の搭乗員にはロングフライトは余計な負担でしかありません。

敵艦隊上空にたどり着くのが至難となり、辿り着いても優勢な敵護衛戦闘機群と帝国艦隊では想像もつかないほど有効な対空射撃に阻止されてしまいます。

バタバタと落ちる帝国海軍機に、アメリカ軍のヤツら、この戦いを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼びやがるんであります。

マリアナに向けてサンベルジノ海峡を抜ける最上

マリアナに向けてサンベルジノ海峡を抜ける最上

電脳大本営の考えるところ、とことん追い詰められたら指揮官は部下に死を命じても宜しい。
ただし、必ず戦果を上げられるように条件・状況を造ってやらねばなりませぬ(芙蓉部隊長・美濃部大佐の受け売りです)。

小沢治三郎はこれが全くできていません。電脳大本営が「大愚将」と評価する所以であります。
そもそも、小沢の代名詞の「アウトレンジ」って、航空機が主戦力になる前から、念仏のごとく唱えてるんですよ、この「迷」提督。
つまり、大艦巨砲の名残なんですよ、アウトレンジ戦法はね。

「野分」は数名の空母乗員を救助しただけで、この海戦も無事?に切り抜けました。

レイテ突入…せず

マリアナで翼をもがれた帝国海軍は、敗残の小沢空母部隊を囮に使って乾坤一擲の大博打に出ます。

すなわち、フィリピン奪回のためにレイテ湾に来寇しているアメリカ輸送艦隊に、戦艦部隊で殴り込みをかけようというモノです。
詳細はまた他の機会に譲りましょう。

捷一号作戦の海戦図

捷一号作戦の海戦図

「野分」は、主力の「栗田艦隊」に加わっています。
10月23日、早くも栗田艦隊はアメリカの潜水艦「ダーター」と「デイス」の攻撃で重巡「愛宕」と「摩耶」を撃沈され、「高雄」も傷ついてしまいます。

「決死の出撃」の緊張状態ではありませんよね。
海中への警戒感は0かよ!私ならこの時点で作戦中止、再度訓練なるまでは海に出ませんよ。

しかし栗田提督は進撃を続けます。この間の栗田の心境は電脳大本営的に考えるところ(栗田さんに好意的ですよ)がありますが、これも他の機会に譲ります。

24日、栗田艦隊はアメリカ機動部隊を発進した艦載機の空襲を受けます。この時「野分」は輪形陣(第二部隊)の先頭に配置されていました。
耐え続ける帝国艦隊。
25日7時になると、栗田艦隊はアメリカ護衛空母部隊と遭遇します。栗田提督は攻撃を命じ「サマール島沖海戦」が始まるのでありました。

連合艦隊砲撃

連合艦隊の砲撃
ついに太平洋では火を噴かなかった(涙)

 

「野分」の所属する第10戦隊も護衛空母部隊を追撃し、酸素魚雷多数を発射。ただ、この雷撃は遠距離に過ぎて1本も命中しませんでした。

追撃戦で効果は少なかったのに、損害は大きく出てしまいました。この記事の主人公「野分」関連だと、重巡洋艦「筑摩」が被雷して航行不能になっていたのです。

「筑摩」の救援には幸運駆逐艦の「雪風」が向かう予定だったのですが、何故かその任務が「野分」に変更されました。

「筑摩」の同型艦「利根」

「筑摩」の同型艦「利根」
ミッドウェイ海戦時だと思います。

 

「野分」は11時20分に艦隊司令部に「筑摩」の現在地を問い合わせた上で「筑摩」の乗員救助に向かいます。
沈みつつある「筑摩」の乗員を救助の後、「野分」には「筑摩」雷撃処分することも命じられていました。

「野分」は単艦で危険な戦場に引き返し、大破した「筑摩」の乗員を約百名救出、生き残った乗員が見守る中で「野分」による「筑摩」の雷撃処分は実行されたのでした。

使命を果たした「野分」は、栗田艦隊に合流する為に増速、周囲が暗闇に包まれる深夜の事とて、「野分」は本隊に追いつくべく足早に進んでいて、やや油断があったと言えなくはありません。

迫る戦艦、残ったミステリー

暗夜のレイテ沖をひた走る「野分」に、密かに迫る巨大な二つの影がありました。

アメリカの誇る高速戦艦、「ニュージャージー」と「アイオワ」であります。2巨艦は軽巡(「ヴィンセンズ」「ビロクシー」「マイアミ」)3隻と駆逐艦8隻を引き連れていました。

なんとトラック大空襲の時に逃げ切って見せた、あの2大戦艦がまたまた「野分」に迫って来たのであります。これはもう運命としか言いようがありませんね。

昭和19年10月26日、運命の日。

アメリカ艦隊は「野分」をレーダーで捕捉、この時は「野分」を巡洋艦もしくは大型駆逐艦であると認識したようです。
「野分」も敵艦隊を視認して攻撃回避を指向しますが、避けられない程の集中砲火が一斉に襲い掛かってきました。

サマール沖の大和

サマール沖の「大和」

 

トラックの時、スプルーアンス大将は感情を抑えきれずに自ら砲撃の指揮を執って「野分」を逃がし、後に部下から(こっそりと)「混乱させただけだった」と批判されています。

今回は「砲撃大将」抜きですから、正確な攻撃が「野分」の艦体を次々に射抜きます。

野分は大破炎上。ちなみに、駆逐艦の装甲はペランペランで無いに等しいですから、戦艦の分厚い装甲を突き破る徹甲弾だと、ホントに「射抜く」んです。

そこへ駆逐艦の大群からの雷撃が迫ります。

北緯13度0分 東経124度54分。
つい先ほどアメリカの護衛空母艦隊を追いかけまわす「歓喜の時」を味わった、サマール島北方で「野分」は海中に消えていったのであります。

とどめは駆逐艦「オーエン」の発射した魚雷だったようですが(アメリカ側記録)、「野分」は歴戦の守屋艦長・高橋砲術長以下乗員272名、救助した「筑摩」の乗員120~130名がすべて戦死したと言われていて、もちろん戦闘詳報も残っていません(1名がアメリカ軍に救助されたとの記述もあり)。

ところが、であります。

ここに「駆逐艦『野分』物語」という戦記実録があります。著者の佐藤清夫さんは海兵71期、戦艦「大和」甲板士官を経て「野分」航海長、レイテ沖海戦の直前に水雷学校に入学のために「野分」を退艦。戦後は護衛艦「ありあけ」の艦長を務められた方です。

この佐藤清夫さんによりますと、敗戦後何年かした時に、フィリピンの何処やらでアメリカ軍が用地買収をしたことがあったそうです。
その土地に墓標があり「海軍少佐高橋太郎」と彫ってあったというのです。
アメリカ軍はこの墓を丁重に掘り起こし、中の遺骨を復員局を通じて高橋太郎少佐の遺族に返還したそうです。
高橋太郎氏は、佐藤清夫氏も良く知っている「野分」の砲術長であります。
ひとりの生存者もいないとされる「野分」の砲術長は、脱出に成功したのでしょうか?
さらに、正確に官姓名を記した墓標が残されている、という事は他にも生存者が居たという証拠ではないでしょうか?

佐藤清夫氏は高橋砲術長の墓標の場所をアメリカ政府やフィリピン政府に問い合わせたそうですが、ついに判らなかったそうです。

一度はアメリカの巨大戦艦を振り切って見せた、大日本帝国海軍の誇る優秀駆逐艦。

最後まで必死で乗組員を守ったんだろうと、私は信じております。

以上、駆逐艦「野分」の数奇な運命でした。

 

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