華の二水戦~旗艦の務め~
大日本帝国海軍で、「華」とうたわれた部隊。それは最新・最強の戦艦が集う第一艦隊の第一戦隊でもなければ、航空部隊でもなく、「第二水雷戦隊」でありました。
水雷戦隊の誕生
大日本帝国海軍は魚雷(誕生当初は「水雷」と呼ばれていました)を上手に活用して、その経済力の弱さから来る戦力不足をカバーしていました。
日清戦争では明治28(1895)年2月5日午前3時20分、名将・丁汝昌提督の籠る威海衛軍港に、幾多の困難を克復した我が水雷艇隊が侵入。港内を暴れまわり、北洋艦隊の旗艦「定遠」を大破するなどの偉功を記録(9日未明にも襲撃)。
これがキッカケとなって、水兵の叛乱などが起きるようになり、丁汝昌提督は自決し、威海衛要塞と北洋艦隊は降伏するのであります。
日露戦争においても、対馬沖(日本海海戦)では夜を待って執拗な追撃戦を展開して勝利の確定に貢献。
なんと敵将ロジェストヴェンスキー提督を捕虜にする(重傷で身動きできない状態でしたけど)など、大活躍しています。
魚雷(魚形水雷)を主武器とする戦闘艦艇は「水雷艇」から出発して、二方向へ発展していきます。一方が水雷艇の大きさはほぼそのままに速度や操作性を追求した魚雷艇に。
もう一方はその魚雷艇(水雷艇)の攻撃を排除するために整備された一回り大きな「水雷艇駆逐艦」です。駆逐艦は徐々に大きくなって、航洋性と長大な航続力を獲得し、魚雷を積むことによって戦艦さえ一撃で屠り得る打撃力も身に付けることになりました。
大日本帝国はこの「駆逐艦」を重視して、世界的に見ても超優秀な小戦闘艦艇を次々に送りだすことになります。そして、その活用法が確立してくるのは第一次大戦時。
帝国海軍が駆逐艦を集めて「水雷戦隊」を組織したのであります。
対米漸減作戦
第一次大戦で組織された水雷戦隊は、日本の造艦技術が世界のトップレベルをキャッチアップし、ある面では凌駕していくに連れてどんどん強力になって行きます。
第一次大戦後の日英米間の大建艦競争は各国の財政に大きな負担となりました。
大正10(1921)年のワシントン会議によって主力艦(戦艦+巡洋戦艦)と航空母艦を制限したのは良かったのですが、補助艦(巡洋艦以下)はほぼ無制限でした。
無制限を良いことに、優秀な駆逐艦を次々にリリースする大日本帝国海軍。
この状況に脅威を感じた、米英が企てたのがロンドン軍縮会議でありました(と言う見方も出来る、って話ですからね。私は歴史を単純化しすぎる陰謀史観がKoreaやChinaと同じくらい嫌いです)。
ロンドン軍縮会議のとき、アメリカ代表団のある随員が「日本の駆逐艦50隻と我が国の駆逐艦300隻を交換したい」とか言った話は有名ですね。
維持管理の費用と人員を考えなければ、交換して貰えば良かったんですけど(笑)。いや、交換してもらって、300隻分の艦長以下乗員を二セット養成しとく、ってのが大東亜戦争勝利への道だったような気がする。
ロンドン軍縮条約によって、希望した「対米7割」を確保できなかった帝国海軍。
国防には対米7割の海軍が必要、なんて戦術論は論理的根拠が全く無かったんですけど、大声で叫び続けた(予算、すなわちカネをふんだくる為)モンだから、海軍としては何らかの形で「対策」を採らなきゃいけません。
それで2方向の「対策」が立てられて参ります。
また2方向かよ、とか仰らずに(笑)。
まずひとつが「個艦優秀」です。ところがこの方向は攻撃力偏重に陥ってしまい、優秀な軍艦どころか、肝心の「フネとしてのバランス」を崩してしまう痛恨のミスとなります。
貴重な水兵さんの犠牲がありましたけれど、大東亜戦争の前にそのことが判明したので不幸中の幸いと言うべきでしょうか。
電脳大本営流に言わせれば「真摯に努力したからこそ」ですけどね。
もう一方は「漸減作戦」であります。
来たるべき対米戦争は来寇するアメリカ艦隊と迎え撃つ帝国艦隊の一大「艦隊決戦」で決着が付く、と大日本帝国海軍は考えたのであります。
もちろん、ネタ元は日露戦争のバルチック艦隊の廻航です。
ところが、軍縮条約によって主力艦の隻数はアメリカ艦隊に劣ることが確定(日露戦争では、旅順・ウラジオ両艦隊を事前に抑え込んだので、バルチック艦隊とはほぼ同等の戦力)していますから、「最終決戦」の前に何とか少しづつ減らしてやろう!ってのが漸減なのです。
主力艦隊の前に敵艦隊に襲い掛かるのは、武器の発達に伴って潜水艦・航空機なども想定されるんですけど、「水雷戦隊」も「漸減作戦」に使用する部隊として、その当初から一貫してアテにされていました。
水雷戦隊の構成
「水雷戦隊」は通常4隻の駆逐艦で編成される「駆逐隊」を2~4個、隷下に持ち、駆逐艦とは別に軽巡洋艦1隻を旗艦としていました。
つまり軽巡1隻と8~16隻の駆逐艦による大部隊なんであります。
この水雷戦隊は第一から第六までと第十一の7つの部隊が編成されました。
第十一水雷戦隊は昭和18年の4月に編成された練成艦隊(当初は)ですが、他の水雷戦隊は第一・第三水雷戦隊が「第一艦隊」、第二水雷戦隊は「第二艦隊」というように、それぞれがどこかの艦隊に部署されていました。
ちょっと横道に逸れますが、「連合艦隊」は基本的に戦時の臨時編成であって、大日本帝国海軍の実戦部隊は「第一」やら「第二」のそれぞれの艦隊に分れていました。
日本海海戦も「第一艦隊司令長官」の東郷大将が「連合艦隊司令長官」を兼務して全艦艇を率いました。
だから戦争が終れば「連合艦隊解散の辞」を発し、「連合艦隊司令長官」の役職は無くなっちまうんです(私は東郷元帥のこの「連合艦隊解散の辞」が曲者で、その後の帝国海軍(の偉い人)劣化の一因になったと考えています)。
なにせ、神様になるほどの先輩提督が
「百発百中の砲一門は、良く百発一中の砲百門に匹敵する」
とか言うんだもん、馬鹿はすぐ信じるよねぇ。
「勝って兜の緒を締めよ」のとこだけ聞いときゃ良いのに…
いや、ご先祖に失礼なことを。謹んで取り消します、馬鹿のとこだけ。
水雷戦隊の話に戻ります。
帝国海軍においては第一・第二などの艦隊はそれぞれ単独で行動出来るように、さまざまな艦艇が配当されました。水雷戦隊はその中で「主力艦の護衛」が主任務とされていたのです。
その役割が変化を見せるのは「対米戦争」が強く意識されるようになってからです。
前記「漸減作戦」に第二艦隊を投入する事が計画され、それに伴って第二艦隊主力(重巡など)に先立って水雷戦隊が敵艦隊に突撃・雷撃することが「戦勝の秘訣」となってきたのです。
つまり、この時点で防禦から攻撃へと水雷戦隊の任務が大きく変化したワケです。
一方で大日本帝国海軍は次々と新型駆逐艦を作っていました。
その新型駆逐艦は伝統的に第一水雷戦隊の各駆逐隊に配属されていたのですが、第二艦隊が漸減作戦を担うことになると、(第二艦隊所属の)第二水雷戦隊の方に有力な駆逐艦をあてがうべきだとされるようになりました。
華の理由
第一水雷戦隊は一番大事な第一艦隊の第一戦隊(その時の一番強力な戦艦で構成されます)を、敵の潜水艦や魚雷艇などの襲撃から守るのが任務。第三水雷戦隊はそのサブ。
ならば、先陣の中のそのまた先鋒を担う第二水雷戦隊に、一番優秀な駆逐艦を!となってくるのは致し方のないところでしょう。
電脳大本営の読者の皆様なら「それって攻撃偏重だよね」とか仰って下さりそうですけど。もちろん儂もそう思いまする。
第二水雷戦隊には優秀な「艦」ばかりじゃなくて、士官・下士官・水兵さんに至るまで「優秀なモノ」(戦う方向に優秀、って事ですよ。「海軍と言うお役所」の「お役人」として優秀な人は、大艦に乗って箔を付けてから、デスクワークに勤しみます)が集められるようになります。
訓練も他艦隊・戦隊に比べて熾烈を極め、技量は研ぎ澄まされていました。
戦艦・巡洋艦・航空母艦などに比べると、艦が小さいだけにフネの中はアットホーム(だから激しい訓練に耐えられたんです)で全乗員が信頼関係で結ばれています。
艦長も操艦やら魚雷・砲撃やらのセンス抜群で、その代わり出世とは縁遠い「海の武士(もののふ、と読んでね)」とでも呼ぶべき人ばかり。武士と言っても、野武士でありますね。何千石なんて禄はありません。
そもそも駆逐艦長は基本「少佐」ですから、大艦の艦長より若いし、良く出世しても戦隊旗艦の軽巡の艦長まで。
まさに戦うため「だけ」に存在しているような部隊が育っていたのであります。
まあ、こうして二水戦は「華」と呼ばれるようになるのでありましたっと。
ところが、武器・兵器の世界ではたまに時間がとんでもないスピードで流れちゃう事があります。二水戦が「華」となったのはそんな時代でありました。
すなわち、航空機の能力がとんでもないスピードで発展しちゃったモノですから、海の上でも軍艦を圧倒するようになったのです。
航空機なら、軍艦の大砲も魚雷もくらべものにならないほどの遠くから、敵を攻撃できます。
そんな事になると、敵の主力艦隊の勢力をあらかじめ削っといてやろう!って言う第二艦隊の立場が、何処かへ行っちゃったんですね。攻守両面ともに、ね。
その第二艦隊の中でも、先鋒を務める筈の「華の第二水雷戦隊」が、大東亜戦争で「本来の戦い方」をさせてもらえる機会は、そんなワケでほとんど無かったのです。
華の第二水雷戦隊の「本来の戦い方」と申しますのは、旗艦(軽巡洋艦)を先頭に敵の主力艦隊に突撃・肉薄。
旗艦は自らを盾にして麾下の駆逐艦の突入路を啓開し、駆逐艦の酸素魚雷(帝国海軍の誇る長射程・高速力・大威力の秘密兵器)で敵の主力艦(戦艦・巡洋戦艦)を討ち取る、って言うモノであります。
ここまで、長々と「駆逐艦」と水雷戦隊の説明を書いて参りましたが、この記事の主人公は「軽巡洋艦」と「水雷戦隊の本来の戦い方」であります。
軽巡洋艦「神通」
昭和18年7月の事でした。ガダルカナル島の奪回ならず、兵力を引き上げて反撃の機を窺う大日本帝国と攻めるアメリカ合衆国。
その戦場はソロモン海域に移り、戦いはますます熾烈を極めていました。
前月6月の末にレンドバ島(J・F・ケネディ艇長の魚雷艇が出撃した島)に上陸・占領したアメリカ軍に対して、大日本帝国は航空機・水雷戦隊を使って反撃しておりました。
その間に、コロンバンガラ島の防備を強化し、反攻の拠点としようとしていたのです。
ですが…コロンバンガラ島への輸送が、思うようには行きません。
7月4日には輸送部隊がエインスワース少将の指揮するアメリカ海軍第36.1任務群と遭遇してしまって、コロンバンガラ島に行きつけませんでした。
翌5日にも、新型の秋月級駆逐艦「新月」に座乗の秋山少将が率いる三水戦(駆逐艦10隻)が陸兵2400名と物件180トンを輸送するのでありましたが…またまた第36.1任務群と遭遇。
ココに「クラ湾夜戦」が勃発するのであります。
三水戦は何とか陸兵を上陸させて任務を果たしたのですが、物資の揚陸は出来ませんでした。
それどころか、陸兵の輸送と引き換えに旗艦の「新月」が撃沈され、秋山輝男少将以下の第三水雷戦隊司令部も全滅してしまったのであります。司令部全滅、覚えておいて下さいね。
「新月」は駆逐艦とは言いながら3500トン(公試排水量)に迫るボディの秋月級防空駆逐艦。この前後の戦闘ではアメリカ軍からしょっちゅう軽巡と誤認されているクラスです。
帝国海軍は「クラ湾夜戦」の損害でもコロンバンガラ島への増援を諦めたりはしませんでした。
7月12日には「華の二水戦」を投入して輸送を試みるのであります。
第二水雷戦隊司令官の伊崎少将は旗艦の軽巡「神通」に座乗し、戦隊の駆逐艦「清波」「雪風」「浜風」「夕暮」「三日月」を「警戒隊」として、陸兵1100名と100トンの物資を運ぶ「輸送隊」の「皐月」「水無月」「夕凪」「松風」の各駆逐艦を護衛して行きます。
旗艦の「神通」は5500トン型と呼ばれる帝国海軍の傑作軽巡群のうち、川内型の2番艦。
この頃はもうだいぶんお年を召しておりました(1925年就役)が、大英帝国海軍が羨望の眼差しで見つめたほどの高速を誇った、スレンダーな肢体はいささかの衰えすら見せてはおりませんでした。
迎え撃つアメリカ海軍はまたしても第36.1任務群です。
指揮官エインスワース少将は任務群旗艦の軽巡洋艦「ホノルル」に座乗、「リアンダー(ニュージーランド海軍)」「セントルイス」が続航します。その前路哨戒として駆逐艦「ニコラス」「オバノン」「テイラー」「ラドフォード」「ジェンキンス」
軽巡3隻の後方には駆逐艦「ラルフ・タルボット」「ブキャナン」「グウィン」「モーリー」「ウッドワース」が続いています。
つまり、軽巡1(神通)と駆逐艦5の大日本帝国の実戦艦隊(輸送隊は戦闘を避けて確実に荷物を届けるのが「任務」です)に対して、妨害側は軽巡3、駆逐艦10と言う倍以上の大艦隊だったのです。
レーダーVS逆探
昭和18年7月12日22:35。エインスワース提督は索敵機から大日本帝国艦隊発見の報を受信します。
これは「警戒隊」だったのですが、電脳大本営としては索敵してた機種が知りたいぞ。南洋とは言え、夜10時過ぎは真っ暗だろうに(帝国海軍も闇夜に水偵飛ばしてますけどね)。
ともあれ、夜戦となればレーダーのあるアメリカ海軍絶対優位!と思い込んでいるエインスワースさんは28ノットに増速して攻撃に向かいます。
レーダー射撃を優位ポイントとして考えるなら、軽巡を先に行かせて先制パンチを浴びせるのが常道だと思いますし、つい先日の「クラ湾夜戦」ではちゃんと➀軽巡洋艦のレーダー射撃②駆逐艦の突撃・雷撃という戦法を取っています。
ところが、この夜のエインスワース提督は駆逐艦の突撃と軽巡洋艦のレーダー射撃を入れ替えてしまいました。
この理由はよく判りませんが、二戦連続で同じ戦法を取る事を嫌ったのでしょうか?それとも、帝国艦隊が「逆探」を装備していることを察知したのか?
対する二水戦部隊の陣形は教科書通りの単縦陣。
「三日月」を先頭に旗艦「神通」、続航は「雪風」「濱風」「清波」「夕暮」の順です。三番艦「雪風」には開発に成功したばかりの「逆探」が装備されていました。
逆探って言いますのは、敵の発するレーダー波を探知して、発信方向を確認できる装置です。
レーダーの劣化版みたいに扱う人もいらっしゃいますが、敵に探知されたことを悟らせませんから、コレはコレで大変有効なモノであります。
「雪風」は敵のレーダー波を22:30頃に捕捉。逆探が示す敵の方向はスコールが発生して暗く、夜間の視力を鍛えている見張り員でも敵影を視認できません。
伊崎少将は「雪風」から報告される感度に併せて艦隊を誘導します。
22:44、第九三八航空隊(R方面航空隊の後裔)の水偵が4隻の敵艦を発見して第二水雷戦隊に通報。
コレでアメリカ艦隊の存在と接近を確信(逆探の実戦使用はこの海戦が初めてですから)した帝国艦隊は23:00、輸送隊を南西へ分離し、警戒隊6隻だけで単縦陣を組みます。
身軽になった伊崎提督は隷下艦隊を30ノットに増速し「砲雷撃戦用意」を下令して旗艦「神通」を先頭に踊り出させました。
エインスワース少将も前衛の駆逐艦に魚雷攻撃を命ずると、後衛の駆逐艦には前方への進出を下命。
これで日米両艦隊は反航して相対速度60ノットで急速に接近。23:03、日米艦隊は互いの距離2万4千メートルで同時に敵の艦影を確認。
探照灯
「神通」は帝国海軍の水雷戦隊突撃マニュアルどおりに、後続の駆逐艦の雷撃照準を助けるべく先頭に立ち、探照灯(サーチライト)を敵艦隊に照射し、砲撃を開始。
続く「二水戦」の各駆逐艦は「神通」が照射してくれた目標に対し、自らは姿を晒さずに魚雷発射。
「浜風」「清波」「夕暮」は距離6000メートル、「雪風」のみ距離4800メートルまで接近して発射したようです。発射を済ませた二水戦はいったん戦場を離脱して魚雷の次発装填に入ります(「三日月」だけは次発魚雷を持たないため、そのまま離脱)。
発射後およそ8分の23:22、軽巡「リアンダー」の右舷に酸素魚雷1本が命中しました。「リアンダー」はこの一発で停止してしまいます。浸水がおびただしく、ついに戦闘不能になった「リアンダー」。
エインスワース少将は前衛の駆逐艦から「ラドフォード」と「ジェンキンス」を引き抜いて護衛役に付けざるを得ませんでした。
「リアンダー」はツラギ島を皮切りにアメリカ各地で修理を受けることになりますが、大東亜戦争の熾烈な戦場に復帰することはありませんでした。
公式記録ではコレは「軽巡一隻大破」ですが、戦場に戻れなかったのでは「撃沈」と同義でありましょう。いや、各地でドッグを塞いでしまったのですから撃沈以上の戦果と言えるかもしれません。
さらなる攻撃準備を整えた「華の二水戦」の各駆逐艦「雪風」「浜風」「清波」「夕暮」は23:36、戦場に舞い戻ってきました。勇む気持ちをしっかり押さえ、スコールを利用して距離6500~7400メートルまでアメリカ艦隊に忍び寄ります。
アメリカ軍の第36.1任務群の方も、さすが歴戦のエインスワース提督です。
「リアンダー」をやられ、「ラドフォード」「ジェンキンス」を護衛に分離したものの陣形を立て直して、離脱した帝国駆逐艦の追跡を開始していました。
ところが、大日本帝国海軍の魚雷の第一斉射を避けて隊列が乱れた際、前衛の駆逐艦「ニコラス」「オバノン」「テイラー」を掌握しきれ無くなっていたのです。
スコールのベールに守られて、酸素魚雷を抱いた帝国駆逐艦が忍び寄っていた23:56。
「ホノルル」のレーダーが複数の目標を探知したのですが、エインスワース少将には、この「目標」が掌握できないままの味方の駆逐艦か敵なのか、判断することが出来ませんでした。
華の二水戦は23:57、第36.1任務群を視認し、エインスワース少将が逡巡する間に二度目の魚雷発射!
日がかわって7月13日の00:05には砲撃を開始。
二水戦が砲撃を開始したことで、漸く敵味方が認識できたエインスワース提督も砲撃を下命。
その時でした。
華の二水戦の練りに練った必殺の酸素魚雷が第36.1任務群を襲ったのであります。
軽巡「セントルイス」の艦首に先ず1本が命中。軽巡「ホノルル」には艦首と艦尾にそれぞれ1本ずつ命中。
「セントルイス」は艦首下部をもぎ取とられ、「ホノルル」の艦尾の魚雷は不発だったものの、艦首に命中した魚雷で艦首は垂れ下がってしまいます。
第36.1任務群は魚雷回避運動と被雷によって陣形が乱れに乱れます。
駆逐艦「ブキャナン」「ウッドワース」が衝突して「オウンゴール」得点を許し、後衛にいた駆逐艦「グウィン」が速力の落ちた旗艦「ホノルル」の前方に出てしまっていました。
00:14、「グウィン」にも魚雷命中、「グウィン」は大破炎上のあと、浸水が増大して沈没。
00:30には二水戦は戦場離脱にかかります。
これを見たエインスワース少将、テメエは動けないくせに、隷下艦隊に追撃を命じたのでありますが、その追撃命令に従えたのは「ラルフ・タルボット」ただ一隻でありました。
二水戦部隊はこの「追撃」を易々と振り切って7月13日05:15、ブインに帰って参りました。
輸送隊もこの「華の二水戦」の奮闘の間に、コロンバンガラ島のアリエル入江に到着。
輸送物件全ての揚陸に成功します。輸送隊は7月13日11時40分に全艦無事にブイン入港。
輸送作戦は完全なる成功を収めたのでありました。
犠牲
その大成功の陰で、旗艦の「神通」と第二水雷戦隊司令官・伊崎俊二少将はどうしていたのでしょうか。
駆逐艦隊の魚雷攻撃のために、敵艦隊を探照灯で照射し、自分の位置をさらけ出してしまった「神通」は、アメリカ第36.1任務群にとって絶好の目標となってしまいました。
探照灯の照射は諸刃の剣だったのです。
暗夜で危険な駆逐艦群を発見できないため、第36.1任務群は唯一戦場に浮かび上がった「神通」に全艦隊の砲撃を集中しました。
駆逐艦よりはマシとは言っても、軽巡洋艦の装甲などタカが知れたモノでしかありません。
アメリカ艦隊の集中砲火をただ一艦で受け止めた「神通」は一瞬で大破炎上。
特に初弾から艦橋に被弾してしまい、伊崎少将を含めた第二水雷戦隊の幕僚が全員戦死。
クラ湾夜戦に続いて貴重な水雷戦隊の「司令部」二組目が全滅してしまったのです。
この艦橋が壊滅したときの砲弾か、艦尾にも喰らった命中弾のためかは判然としませんが、「神通」は舵故障を起こして、突撃する二水戦の単縦陣の列外に飛び出てしまいます。
それでも「神通」は探照灯の照射を止めず、軽巡3隻と駆逐艦10隻の砲力を一身に集め続けました。
罐室に命中弾多数を貰いながら、燃えながらもヨタヨタと動き続けていた「神通」は魚雷7本を発射した後、二番煙突の後方に魚雷を受けて、ついに航行不能。
停止した「神通」を再び魚雷が襲い、大爆発を起こした「神通」は船体を真っ二つに割られてしまったのでした。
ここまで、第36.1任務群の巡洋艦群が「神通」撃沈のために発射した主砲(6インチ)弾は「ホノルル」1110発、「リアンダー」160発、「セントルイス」1360発、合計2630発にものぼる驚異的な数でした。
これだけの砲弾を「神通」がその身を盾にして吸い上げたからこそ、二水戦の駆逐艦には砲撃が少なく、縦横無尽に戦場を馳駆し、有効な攻撃を敢行し、無傷で帰還できたのです(雪風が一発被弾説もあり)。
しかし「神通」の奮闘はコレに止まりませんでした。真っ二つに割られた「神通」の艦橋より後はすぐに沈んでしまったのですが…
「神通」の艦の前部分三分の一ほどは簡単には沈まなかったのです。
もちろん、既に動くことは出来ませんし、沈没の時が遅れているだけの、フネとはとても言えない状態になっていました。
ただ、この部分には「神通」の一番砲塔がありました。砲塔員(ではなくて、応急員だったかも知れませんが)はこの絶望的な状態の中、2時間以上にわたって激しい砲撃を続けたのです。
一番砲塔員が白鉢巻きで砲撃をしている姿は、偵察に飛んだ日米双方の水上偵察機が視認しています。前半部は2時間以上の砲撃を続け、主砲を撃ちながらコロンバンガラ島の沖に姿を没したのでした。
「神通」はフネとしてはとっくに終わっていたのですが、なお「帝国海軍軍艦」としての生存は続けていたのです。
「神通」が探照灯を照射したのは7月12日の23:05あたりと考えられますから、半身だけになってしまったのは23:15頃でしょうか。もう少し後だったかも知れません。
そこから2時間とすれば、「華の二水戦」が第二撃のために、魚雷の次発装填を終わって海戦場に戻った後です。
「神通」は最初の突撃だけでなく、第二撃、その後の戦場離脱まで部下の駆逐艦を庇い続けた、と言っても良いのではないでしょうか。
「神通」の戦死者は482名とされています。2名がアメリカ海軍の高速輸送艦に救助された、21名が伊185に救助された、などの説がありますが、ほぼ全滅と言っても良い「戦死率」でしょう。
アメリカの著名な戦史研究家サミュエル・E・モリソンも「大東亜戦争中、最も激しく戦った大日本帝国の軍艦は『神通』である」と激賞するほどの「旗艦の務め」の果たしっぷりでありました。
戦術変更
「神通」の壮絶な最期をみて、帝国海軍はその夜戦戦術を変更します。探照灯照射から照明弾の使用へ、です。
これは軽巡洋艦を失ってしまう事を恐れたのではなく、水雷戦隊の司令部が根こそぎ奪われてしまう事を忌避したのだと、儂は考えます。
「コロンバンガラ島沖海戦」の6日前の「クラ湾夜戦」では探照灯を照射したワケではありませんが、第三水雷戦隊旗艦の「新月」とともに司令部も沈没してしまっています。
艦艇の喪失も痛いのですが、第三水雷戦隊・第二水雷戦隊と続けざまに2つの水雷戦隊司令部が壊滅したことは、帝国海軍のソロモンの戦いに大きなハンデとなってしまったのでありました。