5500トン級軽巡「五十鈴」の変身
5500トン級軽巡とは、大日本帝国日本海軍が大正半ばに建造した軽巡洋艦シリーズの通称です。このシリーズのフネは既に「鬼怒」を紹介させて頂いています。記事はコチラ
シリーズ構成
「5500トン級」と一口で言っても14隻も作った艦級ですから、ちょっとづつカタチが変わりました。球磨型(球磨・多摩・北上・大井・木曾)、長良型(長良・五十鈴・名取・由良・鬼怒・阿武隈)川内型(川内・神通・那珂)の3型に大別されます。
このタイプは基本的に水雷戦隊や潜水戦隊を率いて、主力艦の援護や艦隊決戦時の敵艦隊の動向探知・威力偵察・戦闘終了後の残敵掃討…など幅広い任務をこなせる艦として計画設計されていました。
ですから過剰な武装を与えてホルホルするより、速度を重視し、旗艦設備を充実させることに意が用いられました。「旗艦設備」って言うのは艦隊司令長官サマの豪勢なベッド付き専用部屋だけではなく、幕僚たちの個室・通信施設・索敵用の装備などを含みます。
巡洋艦って言うのは、平時にあっては優に「戦略単位」になり得る巨大な軍艦でした。
ここで電脳大本営的な「戦略単位」の説明をしておきます。ご存じの方は多いでしょうけれど。ただ以前、陸の方ですが「師団は戦略単位」って申し上げたところ、「2万や3万の兵員では少なすぎて戦略単位とは言えない」とか抜かす「危機管理の専門家」が沸きましたので。それも某警察大学校教授とかの肩書で。
「師団」って言うのは陸軍の各兵科を内包した単位です、特に補給部門をね。ですから「歩兵連隊10個」とか「砲兵大隊20個」「戦車中隊30個」では不可能な任務が遂行できるんです。
代表的なのが「長期間駐留して治安維持に当たる」なんて芸当です。
巡洋艦も同じことで、元々は大洋の彼方に離れた植民地警備のために、世界中の海洋を巡る(だから巡洋)フネとして作られたんで、海だとコレが最小の「戦略単位」なんですね。
イギリスじゃあ水雷戦隊(駆逐艦隊)の旗艦用に「嚮導駆逐艦」なんてのを造ってますが、これは真っ当じゃない。海軍の元祖にしては目の前の必要しか考えてない発想だと思います。
「五十鈴」の話だった(-“-;A …
いかん、また脱線しました。「五十鈴」の話でしたね。
「五十鈴」は大正12年の就役、5,570トン・36.0ノット、50口径14cm単装砲 7門・40口径8cm単装高角砲2門・6.5mm単装機銃2挺・八年式連装魚雷発射管4基8門・飛行機1機・飛行機滑走台1基・機雷48個。
ほぼ同時代のアメリカの軽巡と言えば「オマハ級」ですが、53口径15.2cm連装速射砲2基4門+単装8門・50口径7.62cm単装高角砲8門・3連装魚雷発射管2基+連装魚雷発射管2基という武装に比べるとずいぶん貧弱です(オマハ級は7000トンありますが)。
しかしながら過剰な武装を我慢して得た余裕こそが、5500トン級に大東亜戦争を走り回る体力をもたらしたのです。
大日本帝国の海軍は5500トン級の後には有力な軽巡を造ることが叶わず、一旦滅びることになります(阿賀野級はあったけれど汎用性は?)。いや5500トン級じゃなくて、「五十鈴」の話でした。
14隻もある5500トン級の中で、「五十鈴」はひときわ光彩を放っているんです(笑)。それはネーミング。
「五十鈴」は三重県の五十鈴川から採ってますからね。五十鈴川とは伊勢神宮の内宮を流れているあの川です。正式な御手洗場もこの川にしつらえてあります。
その神聖な川の名前を名乗ってるんですから、特別なフネでも良い筈なんですが、全くそんな事ありません。私には、この「五十鈴」ネーミングの謎をどうして誰も問題にしないのか?が大きな謎です(笑)。戦艦で言うと「扶桑」みたいなモンかな。
注釈ですが、巡洋艦の「重」「軽」は艦体の大きさではなくて主砲の口径で区別されると思っといてください。
まあ、冗談はこれくらいでヤメ。5500トン級のなかで、「五十鈴」の特徴はカタパルトのテストをしていた、ということであります。
萱場式カタパルト
5500トン級が建造された頃は、軍艦から飛行機が運用できるんじゃねえの?って言う時期でした。
5500トン級の使い方からしても、索敵用の飛行機を放つことが出来れば、これは便利!って事で各艦には水上機が1機搭載されることになったのですが、それがなんと艦橋構造物に収容。
笑ったらあきません!これが5500トン級の艦容の大きな特徴になってるんですから。
まだカタパルトは世界のどこでも実用化されて居ない時期です。搭載機は自分のエンジンでプロペラをぶん回す事と、艦が風上に向かって走ることで起きる「合成風力」だけで飛び立たなければいけなかったのです。
もちろん、搭載機は水上機ですから(じゃないと帰って来れない)海面に下して離水する手もある、っちゃあ有るんですが。それは時間が掛かるし、うねりがあったら飛び立てない。急場の役には立たないんですよ。
フネから直接空に放ちたい!と言う欲求は増すばかりで、艦橋の前に滑走台を設置、滑り台方式で発進させることになったのです。この時は実は陸上機の運用なんですけどね。
そんな時期の昭和4(1929)年3月、五十鈴の滑走台に「萱場式艦発促進装置」の試作機が取り付けられ、初の射出実験に成功したのです。萱場式艦発促進装置とは発条(バネ)の力で加速をつける方式の射出機つまりバネ式カタパルトですね(笑)。
「萱場式艦発促進装置」はこの年の4月には「五十鈴」から「由良」に移設され約4年間に渡る長期実験が行われるのですが、結局実用にはならず、火薬式射出機の実用化で撤去されました。
KYB萱場は今では二輪車・四輪車用ショックアブソーバーや油圧ショベルなど建設機械用油圧機器の大手企業ですが、戦前は「カツヲドリ」やオートジャイロを造った魅力的な企業です。
そうそう、零戦も疾風も降着装置の緩衝装置は萱場にお世話になってます。その経験を買われて戦後になって自動車メーカーがKYBに製品生産を依頼したんですね。
この「バネ式カタパルト」装備が「五十鈴」の一回目の変身です。
大東亜戦争
大東亜戦争の開戦前には「五十鈴」の親戚筋の娘(球磨型)の「北上」と「大井」が「重雷装艦」に改装されました。これは四連装魚雷発射管を10基も搭載(片舷に指向できるのは半分)する一種の変態艦でした。
ただ大東亜戦争の開戦と同時に、海上戦闘のドクトリンが航空主兵主義に移ってしまい、ほとんど出番がありませんでした。後には魚雷発射管の一部を降ろして高速輸送艦に改装され、「北上」は更に人間魚雷の発射母艦へと再改造されました。コチラの出番が無かったのは日本人として幸いな事です。
いかん、「五十鈴」ですね。「五十鈴」は大東亜戦争開戦時にはすでに熟女となりつつあったのですが、劈頭の香港攻略戦に参加。
昭和17(1942)年4月10日、第二南遣艦隊の第16戦隊に編入されて小スンダ列島攻略戦などの作戦に従事します。
やがてソロモン方面でアメリカ軍の反攻が開始されると、「五十鈴」は急遽ソロモン方面に進出。
ガ島ヘンダーソン基地のSBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃で損傷離脱した「神通」に代って臨時の第二水雷戦隊の旗艦となります。
臨時とは言っても「華の二水戦」旗艦であります。司令官は我が国よりアメリカ側の評価の高い「不屈の猛将」田中頼三であります。
ちなみに電脳大本営では、戦後
「僕ァ何もしなかったのだよ、ただ突撃せよと命令しただけだ。あとは残らず部下の駆逐艦乗りの大活躍があったからだ」
とルンガ沖夜戦について述べている事だけを根拠に、田中を高く評価するモノであります。
「五十鈴」はその配置で南太平洋海戦と第三次ソロモン海戦(考えようよってはミッドウェイ以上に深刻な敗北)に参加し、アメリカ空母「エンタープライズ」の艦載機による爆撃で沈没寸前の大損害を受けて一時航行不能に陥ります。
「五十鈴」は復旧後は輸送や救援にその名を連ねる程度で、あまりパッとしません。
昭和18年の末には再びアメリカ艦載機の攻撃で大損害を受け、日本に戻って修理を行います。これが「五十鈴」二度目の変身の始まりとなります。
防空巡洋艦
「五十鈴」をはじめとする5500トン型は、竣工が大正年間(1910~1920年代)であったために大東亜戦争では旧式巡洋艦としての参加でありました。
それでも兵器としての評価は存外に高くて、アメリカ海軍でも「警戒すべき相手」と警戒していたようです。大日本帝国海軍としても、当初の目的(水雷戦隊・潜水戦隊の旗艦)にはあんまり役に立たなかったけれども、使い勝手はとっても良い軍艦だったのです。
しかし、その武装は大平洋の主力に躍り出た航空機に対抗できるモノではありませんでした。そこで帝国海軍は思い切った改造を「五十鈴」で試してみることにしたのです。
その改造とは、なんとなんと主砲を全部取っ払ってしまうというモノ。極論すると敵艦への攻撃は魚雷のみ!
この改造まで「五十鈴」の対空兵装は九六式25粍連装機銃が2基だけでしたが、八九式12.7糎(cm)連装高角砲が3基6門、九六式25粍(mm)3連装機銃11基、単装25粍機銃5基、単装13粍機銃8基と対空兵装がテンコ盛り、対空能力が飛躍的に向上したのです。
撃つだけでは有効な対空戦闘は出来ませんから、電波兵器も21号電探(対空用)が艦橋上に、22号電探(対水上用)が後部マストに装備されました。
このとき、対空用の13号電探も装備された、とする記述も在りますが、残っている写真からみると、13号電探の装備はレイテ沖には間に合わなかったようです。
対潜兵器も水中聴音機や爆雷投射機など新式のものが装備され爆雷90個を搭載。
低下した水上戦闘能力を補うため、後甲板の2基の「八年式連装魚雷発射管」を「九二式4連装魚雷発射管」に交換。これで帝国海軍の秘密兵器「酸素魚雷」を発射できるようになります。
前部の2基の発射管は撤去され、ウェルデッキも廃止。この部分は兵員室が造られています。
対空装備は重巡並み、対潜装備は他艦の追随を許さないほどの徹底ぶり、電探装備量は他を圧倒するほど。「五十鈴」は元はホントに軽巡洋艦か?と疑われるほどの大変身を遂げたのであります。
大変身を遂げた「五十鈴」は「レイテ沖海戦」へと出撃します。追い詰められた帝国海軍が遺された全戦力をつぎ込んだ、乾坤一擲の大博打です。
サブマリン・ハンティング・フォース
帝国海軍は大東亜戦争の期間中、アメリカの潜水艦による被害に苦しめられていました。
自分は潜水艦による漸減作戦を標榜しながら、コッチが同じ手でやられるとは事前に想像できない「オマヌケ」ぶり(潜水艦乗りや駆逐艦乗りのせいではないぞ!)でありますが、ずっと手をこまねいていたワケではありません。
対策の一つが昭和19(1944)年8月に編成された「第31戦隊」です。これは積極的にアメリカ潜水艦を狩りたてよう、という目的で編成された艦隊で、この年の9月14日に改装なった「五十鈴」がその充実したソナーを評価されて「第31戦隊」の旗艦に抜擢されるのです。
主砲は無くなったとは言っても、もともと「五十鈴」が属する5500トン級軽巡は水雷戦隊、つまり駆逐艦隊の旗艦用に建造されたモノですから、これは「本来の任務」と言えなくもありません。
旗艦以下は旧式駆逐艦の第30駆逐隊5隻・新造だけど急造の松型の第43駆逐隊4隻・対潜が得意の海防艦5隻の混成(のちに基地航空部隊なども配属されます)。
これでシーレーンをパトロールしたり、要港を警戒したりして機動的に敵潜を追い詰める「対潜狩猟部隊」。しかし、帝国海軍の戦力枯渇と急激なアメリカ軍の増強、戦況の悪化はそんな悠長なモクロミを許してはくれませんでした。
フィリピンに上陸中のアメリカ軍に大打撃を与えるため、帝国海軍は最後の戦力を振り絞って壮大な作戦を決行します。
すなわち、先のマリアナ沖で航空決戦能力を喪失してしまった小沢治三郎提督の「機動艦隊」を囮に、栗田建男提督の「第一遊撃部隊」をアメリカ軍が上陸しているレイテ湾に突入させようというモノ。
電脳大本営的には「作戦はシンプルであるべし」と考えますが、帝国陸海軍の参謀本部・軍令部はスーパーエリート集団ですから、また別の判断もあるのでしょう。
「五十鈴」以下の第31戦隊はこの囮になった小沢艦隊の護衛役。
囮に護衛が要るのかよ!とか細かい事は言いませんが、第31戦隊が居ない1YB(第一遊撃部隊=栗田殴り込み艦隊)に潜水艦と空襲の被害が続出したのはご存じの通りです。
盾にはなり切れず
「五十鈴」の仕事は対潜だけではなく、対空能力も大いに期待されていた筈です。実際に「五十鈴」はその対空砲と機銃の威力を存分に発揮しています。
「レイテ沖海戦」と総称される一連の日米対決のうち、小沢囮艦隊がハルゼー提督の機動部隊の航空攻撃にさらされた「エンガノ岬沖海戦」(昭和19年10月25日)で、襲い来るアメリカ機13機を撃墜(確実9機)しています。
しかしながらこれは「個艦防御」の結果で、期待されていた「艦隊防空」までは手が回っていません。「五十鈴」の奮闘も虚しく貴重な空母は一隻また一隻と沈没していきます。
ついに「五十鈴」自身も潜水艦の魚雷攻撃で損傷を負い、戦場からの離脱を余儀なくさせられてしまうのです。
ソナー充実と言っても、帝国海軍のそれはレベルが低かった、と言わざるを得ません。
また、せっかく敵潜を探知しても、艦長は増速を命じる(海面をかき乱して聴音の支障が出ます)など、潜水艦探知に対する理解の無さも深刻だったと言えるでしょう。
レイテ沖海戦の結果、栄光の大日本帝国海軍連合艦隊は組織的な継戦能力を喪失したと言っても良いでしょう。
「五十鈴」は10月29日には本土へたどり着き、呉工廠で修理をおこないました。
連合艦隊は敗れ去ったとはいえ、帝国陸軍(と海軍の陸上部隊)はレイテ島で米軍と激戦を繰り広げていました。
海軍はレイテ島に増援部隊と補給物資を届ける「オルモック湾輸送作戦(多号作戦)」に力を注ぎます。
第31戦隊もこのオルモック作戦に投入されました。 「五十鈴」は11月19日、コレヒドール島沖でまたしてもアメリカ潜水艦「ヘイク」に雷撃され、艦尾に命中。
舵を喪失するなど大破し、駆逐艦「桃」に付き添ってもらってシンガポールへ。
この修理の間に、第31戦隊司令部は秋月型駆逐艦「霜月」に旗艦を変更して出撃したのですが、潜水艦に撃沈されて江戸兵太郎司令官(少将)以下全滅。
「五十鈴」はスラバヤに移動して修理継続。思いのほかの大修理となり、昭和20年の3月いっぱい「五十鈴」は動けませんでした。
最後
修理が完了してわずか3日後の昭和20年4月4日、「五十鈴」はスンダ列島(ティモール島など)に残っていた陸軍部隊を救う撤退作戦に投入されます。
潜水艦に探知され、オーストラリア空軍爆撃機(B25)に攻撃されます。このときは附近に展開していた陸軍の一式戦闘機「隼」の援護もあって、舵故障の損害はあったものの、なんとかその場を切り抜けて助けた兵士をスンバワ島へ送ることができました。
しかし4月7日早朝。スンバワ島を出港した「五十鈴」はアメリカ潜水艦「ガビラン」と「チャー」に発見されてしまいました。
両潜水艦はそれぞれ魚雷を発射、「五十鈴」はこれを回避することができません。
帝国海軍でも最高レベルの対潜装備を搭載していた「五十鈴」でしたが、最初に受けた一発(「ガビラン」発射)で速力が低下してしまい、「チャー」からの3本を立て続けに喰らってしまったのです。
艦長以下は多くが救助されたものの、助け出した陸兵の多くが水没してしまったのは、「五十鈴」の心残りであった事でしょう。
戦艦「大和」と同じ日に撃沈された帝国海軍唯一の「防空巡洋艦・五十鈴」の最後を語る人は、多くはありません
大日本帝国の敗北が目前に迫る時期に改装されて「防空巡洋艦」として十分な能力を発揮しながら、もう一方の「対潜艦」としては今一つの性能だった「五十鈴」。
旧式艦ながら長きに渡り多種多様な任務をこなした功労艦であることは忘れてはいけません。
また、5500トン型軽巡の無理をしない設計思想からくる優秀さも。
「五十鈴」の歴代艦長には堀悌吉・山本五十六・高須四郎・松永貞市・山口多聞など後に出世する、特に航空関係の「名提督」が名を連ねています。