鳳翔、外輪式空母に敗れる

ウルヴァリン

大東亜戦争は工業力と技術力の競争だったと同時に、兵員の損耗をいかに補充するかの戦いでもありました。それはパイロットで顕著に現れています。

航空戦力は1対2だった筈

航空機の「大量生産」はアメリカ軍のお得意の工業力の発現で、大日本帝国がいくら頑張ってもとても及ばないモノでありました。

日米航空機生産比較(重量ベース)

日米航空機生産比較(重量ベース)

しかし、当時の航空機を戦力化するためには造るだけではダメで、それを操るパイロットが必須。人口比較なら大日本帝国はアメリカの半分ですから、同レベルの熟練度合いのパイロットをアメリカの半分は養成できた道理です。

つまり、養成できたパイロットの数だけの航空機さえ作れば、アメリカとの航空戦力は1:2以上に開くことは無かった筈なのであります。

しかし、現実には皆さん良くご存じの通り。

第二次大戦中の航空機生産数(ウィキペディアより)

Country 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 Total
U.S. 2,141 6,068 18,466 46,907 84,853 96,270 45,852 300,557
Germany 8,295 10,862 12,401 15,409 24,807 40,593 7,540 119,907
USSR 10,382 10,565 15,737 25,436 34,900 40,300 20,900 158,220
UK 7,940 15,049 20,094 23,672 26,263 26,461 12,070 131,549
Japan 4,467 4,768 5,088 8,861 16,693 28,180 8,263 76,320
Total 33,225 47,312 71,786 120,285 187,516 231,804 94,625 786,553

*日米開戦は1941年年12月ですから、実質1942年からの参戦になります。1942年のアメリカの生産数の跳ね上がり具合にご注目。

特に大東亜戦争の主力艦艇となった「航空母艦」搭載機のパイロットは通常以上に熟練が求められていました。大日本帝国は空母に載せる飛行機が無い以上に離着艦できるパイロットを養成できなかったのです。

航空機をハードウェアであるとするなら、それを操縦するパイロットはソフトウェアで、大日本帝国も十分に対抗出来た筈だったのに。

空母搭乗員は特殊技能

艦上の滑走路たる航空母艦の飛行甲板は艦の大きさにもよるんですが、長さ200メートル・幅は30メートルもありません。
通常の航空基地の滑走路が1000メートル以上あったことを思い浮かべると、空母に着艦するのはかなりの技量を要する事がすぐに判るでしょう。
離陸(発艦)することも同様、いや発艦の際には狭い飛行甲板に戦闘機を先頭に爆撃機・攻撃機(雷撃機)とズラッと並べて発艦するんです。
戦闘機隊の指揮官機など燃料弾薬を満載した状態で、50メートル位の滑走距離で発艦しなければいけませんでした。

真珠湾攻撃準備中の瑞鶴、後方翔鶴

真珠湾攻撃準備中の瑞鶴の艦上。こんなに並べるんです。後方は翔鶴

 

航空機はパイロットなら誰でも操縦できるでしょうが、パイロットであれば誰でも空母に着艦できるとは限らないのです。
空母搭乗員というのはそれだけでパイロットとして一定以上の技量の持ち主であるという証明であり、海軍パイロットの中でも、空母乗り組みは一種のエリートであったのです。

消耗

大日本帝国海軍の空母搭乗員の養成は、特に特別コースがあったわけではありません。ある程度経験を積んだパイロットが空母に「転勤」させられて、その航空隊で訓練を受けていたようです。

そもそもパイロット、特に空母の搭乗員は毎日の訓練でその技量を練成するとともに技量の維持をしていたようなのです。それは空母の行動が長引くと(訓練できない分)技量が落ちる、と言われたほど。
一回乗れたら何時までもカラダが覚えている自転車の乗り方とはワケが違うんですね(笑)

それでも支那戦線以来のベテランがいっぱい居た間は何の問題もありませんでした。
大日本帝国海軍の航空母艦搭乗員は大東亜戦争の初期には無類の強さを誇っていました。日支戦争での「加賀」の活躍に見られるように経験を積み、6隻の主力空母から350機に近い航空機を集中運用。
真珠湾からセイロン沖まで、当時のどの国の飛行隊と比較しても、頭一つ抜けて世界最強だったでしょう。

九九艦爆スラバヤ上空

スラバヤ上空の九九艦爆
この機が命中率88%を記録しました。

 

たとえば、急降下爆撃の命中率。細かい数字は諸説ありますが、ベテランクルーで通常25%程度と言われるのですが、セイロン沖海戦では日本の爆撃隊の命中率・なんと88%!の記録をたたき出しております。
この数字だけでも当時の空母搭乗員の練度がどれほどのものだったか?想像できると思います。

この大日本帝国海軍の誇る「無敵搭乗員」でありますが、実は大きな欠点を内包しておりました。
それは「補充が利かない」という弱点であります。平時なら大きく目立つことはありませんが、いったん戦争が始まるとパイロットは「消耗品」となります。出撃する度に徐々に損害を受けていきます。

搭乗員(戦士はどんな分野もそういうモノですが)は「持って生まれた質」で一流になれる人もいます。私はこういう人たちを「天然モノ」と呼んでおりますが、「天然モノ」は極少数しか獲れません。

大戦争を戦い抜くには「養殖モノ」に頼らざるを得ないのです。

練習空母「鳳翔」

山本五十六の焦りが生んだ(その元はご本人の軽率なる戦術偏重です)ミッドウェイの大敗、その後に続く戦略眼が欠如したソロモンの大消耗が「空母搭乗員」いや空母に限らず搭乗員の不足を招来してしまいます。

そもそも大日本帝国海軍のパイロットの育成には大きな問題がありました。帝国海軍にとってパイロットというモノは一種の工芸品で、一朝一夕に造れるものではなかったのです。

飛龍の最後

航空母艦「飛龍」の最後

 

大日本帝国の搭乗員は丸2年近い歳月をかけて養成し、各部隊に配属されました。しかし、これはやっとパイロットとしてのスタートラインに立ったという事で、ココから実際の訓練が始まると言っても良い段階です。

海軍は大東亜戦争の開戦後に急遽「予科練」というパイロット育成システムを急造しますが、焼け石に水でした(予科練ご出身の搭乗員をディスる意味じゃないぞ、数の事じゃ)。

海軍搭乗員は高品質なハンドメイドの製品であり、一定レベルの質を持つパイロットを大量に生産する大規模な育成システムがなかったということです。

このシステムの不備が徐々にパイロットの配備数の差となって戦場に影を落とします。普通の滑走路を使うパイロットもこのありさまですから、空母搭乗員となればもっともっと練習しなければいけません。
この単純な事実に、帝国海軍は「不足」が現実になってからやっと気づくのであります。

ラバウル航空隊の列線

ラバウル航空隊の列線
基本的にはラバウルにも「行ったきり」です

 

実戦で空母から発艦し空母に帰ってくるためには、事前に専用の空母で練習しておくのが良い事は誰でも判ります。

追い詰められた帝国海軍が目を付けたのは「世界初の新造航空母艦」である小型空母「鳳翔」でありました。

昭和19年1月1日付けで「鳳翔」は第51航空戦隊に編入され途中編成替えを経て、春には飛行甲板を延長して新型機に対応します。

竣工時の鳳翔を上空より

竣工時の鳳翔を上空より

 

これで復元性が大きく損なわれてしまって、外洋航海はほぼ不可能となりますが、訓練用空母となった「鳳翔」は敗戦まで瀬戸内海に留まりましたから問題ナシ。
「トンボ釣り(着艦に失敗したパイロットを救出する随伴艦)」の駆逐艦「夕風」をお供に、離発着の訓練だけでなく、自らを標的にした雷爆撃訓練も行っていました。

帝国海軍はマリアナ沖海戦の直前、アメリカ潜水艦の攻撃に怯えて(実際に大損害を出すわけですが)空母艦載機の発着訓練が行えませんでした。この事を考えると、安全な場所で訓練を行うことは非常に効果的な事であったろうと思います。

敗戦時の鳳翔精一杯飛行甲板を拡大

敗戦時の「鳳翔」
目一杯飛行甲板を拡大した姿が痛々しい

 

しかし、これも8か月ほどの事でしかありませんでした。昭和20年に入ると「鳳翔」は燃料不足で動けなくなり、呉の外港で対空偽装して繫留しっぱなしになってしまいます。

「鳳翔」は呉空襲などは無事に切り抜けて復員輸送艦を務め、4万人以上の戦士と民間人を故郷へ連れ帰りました。

アメリカも苦労したのだ

大日本帝国海軍が空母搭乗員の養成に長い時間をかけていたのに対して、アメリカは「促成栽培」主義でした。わずか1年ほどで空母への発着ができるレベルまで叩き込むスピード教習でパイロットを育成したのです。

訓練空母ウルヴァリン左とセーブル

訓練空母「ウルヴァリン」左と「セーブル」

 

しかし、これも全くスムースに行えたわけではありません。大東亜戦争の序盤、不意打ちを喰らったアメリカ軍は空母が不足してしまいました。

持てる空母はすべて作戦に投入してしまったので、訓練に使う空母が無くなってしまったのです。一方で大西洋にはUボートがうろついていましたので、訓練中に貴重な空母が撃沈される心配がありました。

ダイアモンドヘッドを背景にレキシントンとサラトガ

ダイアモンドヘッドを背景に「レキシントン」と「サラトガ」
緒戦期の太平洋戦線を支えて奮闘

 

太平洋側でもジャップの潜水艦から本土を砲撃されたり、搭載機に爆弾を落とされたりの建国以来の危機。のんびり着艦訓練などやっていられる環境ではありません。

そこでアメリカ海軍の首脳はトンでもない策を考えます。
「海で出来ないなら湖でやったらええやん!」

訓練空母セーブル

訓練空母「セーブル」

 

さすが自由の国、発想が自由で何処かへ飛んで行っていますね。しかし、大きな湖でないと「空母」が全力で走れません。そもそも、湖には空母なんていませんからこれを準備しなきゃいけませんけど。

その点、流石にアメリカは大国(いろんな意味でね)でありました。隣国カナダとの国境地帯に「五大湖」があるじゃん!

五大湖地図

五大湖地図

 

後醍醐じゃない、五大湖とはスペリオル湖・ミシガン湖・ヒューロン湖・エリー湖・オンタリオ湖が河川でつながっている巨大水系です。悔しいが我が琵琶湖と霞ヶ浦が協力したって及びもつかねぇ。

そして当時の五大湖には「グレーター・バッファロー」と「シー・アンド・ビュー」という2隻の豪華遊覧船が浮かんでいたのであります。

アメリカ海軍は「グレーター・バッファロー」を「セーブル」、「シー・アンド・ビュー」を「ウルヴァリン」という名前に改め、船上構造物を撤去して大きな飛行甲板を新設。「訓練空母」に改造して就役させたのであります。

画像を見てお判りのように、この2艦は7000トンほどしかありません。空母としての機能、たとえば兵装やら防弾設備などの「戦闘艦」としての装備もまったくありません。

改装前のウルヴァリン

改装前のウルヴァリン(シーアンドビュー)

 

またあくまで「訓練用」なので飛行甲板は元々の船体から大きくはみ出てた大胆な設計で、もちろん実戦では全く使えない代物でありました。
一応は飛行甲板が設置してあるので空母搭乗員の一番重要な訓練、つまり発着艦訓練を行うことが出来たのです。

この飛行甲板は途轍もない負担になっていましたが、外洋に比べれば波は穏やかで外的な脅威も無く、五大湖での離着艦訓練は順調に進められたようです。

五大湖で訓練を進めたおかげで、アメリカ軍は日本の伊号潜水艦にもドイツのUボートにも襲われる危険もなく、肝心な一番難度が高い空母への着艦訓練を思う存分行うことができました。

セーブル艦上のT-6テキサン

「セーブル」艦上のT-6「テキサン」練習機
もしかしてパパ・ブッシュが搭乗してたりして(笑)

 

第二次大戦が終わるまで「セーブル」と「ウルヴァリン」は働き続け、17820名ものパイロットが着艦訓練を行うことができたのです。この間、2艦に着艦した練習機は延べ116000機にも上るのです。

史上唯一!外輪推進の空母だった

さて、この2艦の「練習空母」のうち、「ウルヴァリン」になった観光船「シー・アンド・ビュー」ですが。このフネはなんとなんと外輪船なんであります。

我が琵琶湖には未だ現役の外輪船が居りますけどね(もちろん観光船です)。

琵琶湖の外輪船ミシガン

琵琶湖の外輪船「ミシガン」

 

ですから五大湖に外輪推進式の観光船が浮かんでいても、滋賀県人の私がとやかく言う筋合いはありません。

しかし、それが曲りなりにも「空母」になったとなれば、ご紹介しなければおられませぬ。映像がありますのでご覧ください。

「ウルヴァリン」での訓練の様子

ちなみにパパ・ブッシュ大統領もこの訓練空母に着艦しています。「生涯で最も寒い経験であった」そうですよ。冬のミシガン湖の寒さはよっぽど堪えたんでしょうね(笑)
儂らはパパがクリキントンに負けた大統領選挙の方が、よっぽど寒かったけどな。

外輪船?一番丸

これも琵琶湖って言うか瀬田川の観光船、なんちゃって外輪船の「一番丸」

 

ともあれ、五大湖の空母「ウルヴァリン」は史上唯一無二の外輪推進式航空母艦、電脳大本営が大好きな「超マイナーな世界でコレだけ兵器」なんであります。

ウルヴァリン、外輪がよく判る

ウルヴァリン、外輪がよく判る

 

「航空機は砲弾」と言った大日本帝国の名?将

我が「鳳翔」にしろ彼の「ウルヴァリン」にしろ、貴重な空母搭乗員を定数(以上に)維持するためにそれぞれの海軍に貢献しました。

日米ではこの「パイロットの定数」にも考え方に乖離がありました。大日本帝国、特に海軍では飛行機の数=パイロットの数でしたが、アメリカ軍の場合は飛行機の数の倍以上、三倍近いパイロットを準備していました。
一定期間前線で戦うと、後方に下がって休養。その後初心者の指導に当たりつつ技量を回復して前線に戻るって言うローテーション勤務です。

テニアン島の航空隊指揮所(見張り所兼用か)搭乗員がポーズをとる

テニアン島の航空隊指揮所(見張り所兼用か)
ポーズをとる搭乗員は待機中、これでは元気が回復しません。

 

我が方は前線にでたら出っぱなし。出撃と出撃の間に休養できるじゃん!というのは、現代のプロスポーツにも必ずシーズンオフがあることを思い起こせば「愚論」であるとお判りになるでしょう。

彼我ともに搭乗員は消耗品ではありましたが、その扱いには大差があったのです。資源に恵まれず、資源を大切に使わなければならない筈の大日本帝国が資源の使い方に雑だったのです。
人的資源は別だとおっしゃいますか?これは「特攻肯定派」の方が良く使われる論理です。
「大日本帝国は人的資源は不足していなかったから、特攻徒いうカタチで有効に利用したのだ」と。

倫理面は別にしても、これは全く成り立たない論議です。たとえば、航空機の生産でもっとも隘路になったのは熟練工の不足でしょ?

川西姫路工場の紫電生産ライン2

川西航空機姫路工場の生産ライン
「紫電」を造るこの頃は中学生や女性が中心

 

兵隊さんに適する年齢層が不足するから、基幹工業の従業員まで動員する。代わりに家庭の女性やら中学生やら工場で使う、結果品質が落ちる。人が足らんのですよ。

さて、この事が判っていなかった象徴的な人物を挙げて、この記事の締めくくりにしておきましょう。
それは小沢治三郎。

「未来の連合艦隊司令長官」の最右翼だった彼は「アウトレンジ」が持論でした。アウトレンジ戦法は何もマリアナ沖海戦に当たって持ち出してきたモノではありません。

小沢治三郎

小沢治三郎
「決戦場」へは自分で行ってますから、大東亜戦争中のGF朝刊よりはマシか?

 

従来の戦艦同士の砲撃戦でも「敵の圏外から我のみ攻撃を加える」が小沢の持論で、航空機が戦場の主役に踊り出すと「航空機は砲弾」と言ってはばからなくなっています。

確かに、航空機は空母から出撃して500㎞先の目標に爆弾を落として母艦に帰ってきます。「500㎞の射程を持つ長距離砲弾」だと言えないこともありません。
しかし、大砲の本体は砲弾を撃ってもなくなりませんが、撃たれた砲弾は必ず無くなってしまいます。すなわち航空機が砲弾なら、搭乗員は飛行機もろともに使い捨てです。

空母エセックス艦上

空母エセックス艦上
昭和18年3月撮影

 

これが山本五十六亡き後の大日本帝国海軍の「名将」の正体なんです。大日本帝国海軍には、もっと上手に部下を使う提督がちゃんといたのに(´;ω;`)

大日本帝国はただでさえアメリカに比べて資源力も生産力も劣っていました。大東亜戦争中に正規空母をエセックス級だけで17隻も建造したアメリカに対し、我は合計でわずか5隻(大鳳・雲竜・天城・葛城・信濃)しか建造できませんでした。
そしてその5隻の艦載機のパイロットすら足りないような状況にまで陥っていました。

解体中の葛城

解体される空母「葛城」

 

日本人はよく言われる兵站を含め、こういった細かく地味で継続がキモになる作業が苦手なように思います。
そのおかげで、私が「龍驤」の次に好きな空母「鳳翔」は育てたパイロットの数で、外輪式空母に負けちまったじゃないか!(笑)

先人が遺して下さった貴重な戦訓を活かさなければ、我が国はまた負けますよ。

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