松型駆逐艦は帝国海軍最後の傑作~雑木林級などと呼ばないで~

旭日旗イラスト

今の日本海軍(海上自衛隊と仮称中)は水兵さんと士官の錬度の高さと艦艇の質の高さで下朝鮮や支那を圧倒しています。
でも、それが戦争の勝利に直結するとは限りません。

大東亜戦争に参戦した駆逐艦は世界中の海軍が憧れる優秀艦が揃っていました。

最後の奮戦

もう逆転の目処は立たず、国民の命も守りきれなくなってしまった昭和20年。
燃料すら満足になく、訓練も出来ず全国の港に形ばかりの「防空艦」として「配備」されていた駆逐艦はけっこうありました。

そんな中で函館に配備されていた駆逐艦「橘」の鎮魂碑からご覧いただきましょう。

昭和20年7月14日午前5時、米海軍機動部隊より約100機の敵艦載機が函館港停泊中の青函連絡船及び船舶を目標に来襲した。

これら船舶の護衛の任務にあった駆逐艦「橘 1260トン」は単艦よく敵艦載機の襲撃を一手に引き受け、湾内湾外に勇戦奮闘し、在泊船舶の損害を最小限に食い止め其の任務を遂行した。

敵機6機撃墜、1機撃破して午前6時53分葛登支灯台の90度2分3000mに沈んだ。
乗組員280名中、戦死者 140名、戦傷者31名

平成三年七月十四日 建立

祭主
元橘乗組生存者一同

橘鎮魂之碑

函館護国神社にある「橘鎮魂之碑」 「帝国海軍駆逐艦」の文字が誇らしげです

写真の碑の裏側の文章です。
読みやすくするために、電脳大本営の責任で改行・段落分けをしています。

訓練もせずに大事に取っておいた重油を炊いて「湾内湾外に」動いたのは、戦闘のためじゃなくて、自分に敵機をひきつけて市街地や船舶の被害を防ごうとした…と思われます。

英霊と、ともに戦ってくれた戦友に感謝申し上げます。

急造駆逐艦は粗製乱造品だったのか?

駆逐艦「橘」は「松型」とよばれる帝国海軍が最後に計画・建造した駆逐艦の改良派生型で、「橘型」のネームシップです。

あまり大きな違いはありませんので、ここでは松型として扱います。

「陽炎」「夕雲」型を甲型、「秋月」型を乙型、「島風」(同型艦なし)を丙型と呼ぶことがありますので、「松型」は丁型とも呼ばれていました。

昭和17年後半、ミッドウェイの敗北に続き、ソロモンでの戦いが激しくなると、帝国海軍の誇る大型駆逐艦は護衛に、高速輸送に八面六臂の活躍を続けました。

しかし、その戦闘は戦前に考えていた艦隊同士の決戦などではなく、輸送途上の遭遇戦であり、護衛戦であり、海対空の一方的な戦いであったりしたのです。

その戦いでもっとも働いた駆逐艦は大きく損耗してしまいました。

海軍は大東亜戦争に入る前から、駆逐艦が足りなくなることを予測はしていたようですし、ミッドウェイ後には急ぎ30隻を超える駆逐艦の大造成計画(改⑤計画)を立てています。

しかし、これは当時のわが国の造船能力をはるかに超える「取らず狸の皮算用」計画でした。
その上、打ち続く戦闘で傷ついた艦艇がドッグを塞ぎます。戦い続ける艦艇の整備もしなければなりません。

1940公試に出動する雪風

大型優秀駆逐艦で幸運艦として有名な「雪風」

改⑤計画による「島風」型や「秋月」型(改型含む)などの優秀大型駆逐艦を大量生産する余裕など日本にはとても無かったのです。

戦時設計

すぐに使える駆逐艦が欲しい海軍(軍令部)は、それまでの高速・長距離性能や重武装をあきらめて、限られた資材と少ない工数で短期間に大量建造できる駆逐艦を要求するようになりました。

これは大日本帝国海軍が伝統としてきた「個艦優秀主義」からの脱皮であり、実に画期的な出来事でした。

この要求に対して艦政本部(艦艇の設計担当部署)は9つもの案を考え出し、何度も摺り合わせして決定された駆逐艦が、この「松型」でした。

松型駆逐艦は昭和19年より建造を開始して、敗戦までの短期間で初代の神風型駆逐艦と同じ32隻もの量産を見ています。
約5ヶ月と言う最短建造記録も樹立した「帝国海軍最後の量産駆逐艦」なのです。

急速建造優先の設計方針

松型のもっとも大きな特徴はその「生産性の高さ」にあります。

そのために簡略化、粗製乱造などと誤解されることも多いのですが、実際にはどうしても必要な性能に絞り込んだ、よく考え込まれた設計であったことは見逃すことが出来ません。

 

水雷艇「鳩」

水雷艇「鳩」 「鴻」の同型艦、860トン

艦艇建造で一番の隘路となるのは推進機関でしょう。

松型でも機関について3案ほどが検討されたのですが、もっとも製造が容易な(すでに生産ラインが稼働中だった)「鴻型水雷艇」と同じタービンを2基2軸搭載(19000馬力)とされました。
これによって従来の高性能駆逐艦より、航続距離や最高速度は大きく劣ることになってしまいましたが、優先されたのは「早く沢山出来ること」でした。

フネを作る材料の鋼材も艦船用のDS鋼という特殊鋼を出来るだけ使わず、上甲板には高張力鋼(HT鋼)を、艦底には普通鋼板を使用しています。
これらの材料は調達が容易ではありましたが、重量は過大となってしまいます。
今までは船殻の軽量化に気を使っていた海軍も戦局の逼迫に現実を見る他になかったのです。

建造技法でも第四艦隊事件から取り止めていた溶接を多用して急速建造を実現しました。
この経験と技術が戦後日本の「造船王国」に大きく寄与し、現在においても支那や下朝鮮に品質では追随を許していません。彼らに作れるのは安物だけです。

船型も大型化を避け、水線長で100mに満たない小型とされ、今までの大日本帝国海軍の駆逐艦の特徴である優美な曲線(雪風の画像をご覧下さい)はありません。

シアーラインは直線でフレアも少なく、ビルジキールは厚板2枚で済ませてしまうなど、出来る限り鋼材の使用量と建造にかかる工数を抑える設計となっています。

1945樺進水準備中

進水準備中の「樺」
直線的な造型が良く判る一枚です

外見からは判りませんけれども、航海用の艤装もかなり省略されているようです(装備表が無いので、経験談や戦記などから推測)。

簡略化だけじゃなかった

兵装についても、慎重に検討されています。

主砲は12.7cm高角砲の単装・連装各1基とされ、射撃指揮装置も軽量の簡易型とされました。
対空機銃も統制装置なしで装備、つまり主砲も機銃も砲側照準でぶっ放すわけです。

原始的なようですが、当時の海軍の対空照準装置は信頼性に欠けるものだったので、重量や工数削減の意味からは理に適ったものでした。

雷装は61cm四連装発射管1基ですが、予備魚雷も帝国海軍自慢の次発装填装置も無し。
艦隊で魚雷戦をすることなどは考えていない、って言うことでしょう。

1945年8月27連合国艦隊に連絡のため航行する初桜

1945年8月27日、連合国艦隊に連絡のため航行する「初桜」

これらに対して、敵潜水艦を探知する九三式探信儀と九三式聴音機はどちらも標準装備とされています。
水中兵器は「秋月型」などの新造艦でも「後日装備」と言う名目で軽視されていましたが、松型は戦訓を急いで取り入れたモノといえます。

惜しまれるのは爆雷の搭載数で、わずかに36個です。
鵜来型の海防艦は120個もの爆雷を持って出撃したことを考えると、この数では長時間の輸送船護衛には不安が残りますね。

戦訓を取り入れたもっとも大きなものは機関の配置です。

日本の駆逐艦は2軸推進(タービンが2基)なんですが、その配置は前方に罐(3~4基)を並べ、後部に機械(海軍ではタービンを「機械」と言っていました)を置くというものでした。
これは機関全体の前後長が短くてすみ、船体を小さく抑える利点がありました。

しかし、設計陣は強力に「シフト配置」を主張し採用されました。

これは缶室と機械室を一つのペアとして、このペアを前後に配置するというものです。
前部罐室+前部機械室(左舷用)→後部罐室+後部機械室(右舷用)です。
この配置にするとスクリュー軸の取り付け位置が左右で異なりますから、その角度も左右非対称になって工数が増大してしまいます。

それまでの駆逐艦の計画でも提案されましたが、却下されてきたものなのです。
それでもしつこく設計陣が強く主張したのは、シフト配置にするとどちらかの機械に被弾しても、残った機械で航行できる生残性の高さがあったからです。
現代では、軍艦のほとんどがシフト機関方式を採用しています。

松型の機関は前部罐室と後部機械室が被弾しても、残った罐とタービンで片軸航行可能でした。
実際に「竹」では機械室被弾も片舷の軸系が生き残り、航行不能とならずに済んだ戦訓があります。

松型は兵装も簡略にしたのに、生き残り性能には気を配り、さらに実用的な装備として2艘の「小発」を搭載しました。
離島への輸送・撤収などの任務に対応したものです。

このように松型駆逐艦は急造ではあっても、決して粗製乱造艦ではありません。

結果として、本格的な艦隊決戦にはいささか力不足(速力・航続距離から、主力に随伴することが難しい)でしたが、大東亜戦争末期の苦しい海軍の屋台骨を支える傑作駆逐艦となりました。

ちょっとヘタレだったネーミング

松型は、本来は二等駆逐艦(基準排水量1000トン以下)に付けられる樹木の名前が与えられました。
基本的には「一字名」なんですが、竣工席数が増えるに連れてネーミングに窮してとんでもない艦名が付けられ、「雑木林級」と呼ばれるようになってしまいます。

この経緯には昭和海軍軍人の本質的な欠陥が影響しているのですが、それはまた、別に論じることにして、ここでは傑作駆逐艦松型のヘタレな名前を見ていきましょう。

ネームシップの松:1944年4月28日竣工、竹:1944年6月16日竣工、梅:1944年6月28日竣工、桃:1944年6月10日竣工、桑:1944年7月25日竣工、桐:1944年8月14日竣工、杉:1944年8月25日竣工、槇(まき):1944年8月10日竣工、樅(もみ):1944年9月3日竣工、樫(かし):1944年9月30日竣工、榧(かや):1944年9月30日竣工、楢(なら):1944年11月26日竣工、櫻(さくら):1944年11月25日竣工、柳(やなぎ):1945年1月18日竣工、椿(つばき):1944年11月30日竣工、檜(ひのき):1944年9月30日竣工、楓(かえで):1944年10月30日竣工、欅(けやき):1944年12月15日竣工

(以下は橘型とも)

橘(たちばな):1945年1月20日竣工、柿:1945年3月5日竣工、樺(かば):1945年5月29日竣工、蔦(つた):1945年2月8日竣工、萩(はぎ):1945年3月1日竣工、楠(くすのき):1945年4月28日竣工、初櫻(はつざくら):1945年5月28日竣工、榎(えのき):1945年3月31日竣工、椎(しい):1945年3月13日竣工、雄竹(おだけ):1945年5月15日竣工、初梅(はつうめ):1945年6月18日竣工

建造停止

八重櫻(やえざくら)、矢竹(やだけ)、葛(くず)、桂(かつら)、若櫻(わかざくら)、梓(あづさ)、栃(とち)、菱(ひし)、榊(さかき)

未成艦

早梅(はやうめ)、飛梅(とびうめ)、藤(ふじ)、山桜(やまざくら)、葦(あし)、篠竹(しのだけ)、蓬(よもぎ)、葵(あおい)、
白梅(しらうめ)、菊(きく)、柏(かしわ)、黄菊(きぎく)、初菊(はつぎく)、茜(あかね)、白菊(しらぎく)、千草(ちぐさ)、若草(わかくさ)、夏草(なつくさ)、秋草(あきくさ)、薄(すすき)、野菊(のぎく)

いかがでしょうか?特に太字にした二文字艦。
「山桜」や「篠竹」ならまだしも、「飛梅」じゃあ天神様の伝説じゃあないですか。
夏草や秋草では特定の植物じゃないしねえ。

文句ばっかり言っても仕方ありません。
このリストからわざと外した艦があることに、マニアの方ならお気づきだと思います。

梨(なし):1945年3月15日竣工です。

護衛艦「わかば」 旧駆逐艦「梨」と同じ軍艦旗が似合います。

梨はこの年7月28日山口県柳井沖で撃沈されましたが、戦後調査したところ状態が良く、浮揚修復されて護衛艦「わかば」として再就役しました。

旧海軍・現海軍の両方に在籍した稀有な駆逐艦となったのです。

松型的な護衛艦を

駆逐艦「梨」/護衛艦「わかば」の存在は、極端な強武装や先鋭的な性能を狙わず、堅実な設計と高い実用性を誇る現海軍の「護衛艦」の直接のご先祖として、とてもふさわしいのではないかと思います。

最近はイージス艦や大型のヘリ空母の進水・竣工・就役ばかりが話題を集めます。
もちろんこれらの艦が、やがて来る支那の侵略を防ぐ戦いで主力を務めてくれることは間違いないでしょう。

しかし大洋を巡る戦いでは、必ず「数」が必要なときがやってきます。

新たな「松型護衛艦」も準備しておいたほうが良いかもしれません。

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