女性が戦うってこと
大日本帝国は大東亜戦争に総力を注ぎ込みました。
総力ってことは、女性も戦ってくれてたんですね。男どもが出征したあとの産業を支えるって形で。
近代化と女性
大東亜戦争になる前から、大日本帝国では女性も様々なところで働いていました。
タイピスト・電話交換手・エアガール(キャビンアテンダント)といった女性専門の「花形人気職業」もありましたが、近代日本の産業を担ったのは製糸業の女性たち。
明治の初めに、近代化のトップランナーの製糸業で働いていたのは旧士族の子女(工女さんと呼ばれていました)ですが、明治10(1877)年くらい以降になると、工場には貧しい農家の女性が多く勤務するようになっていました。
日本の製糸業は発展初期の日本産業の中心となりました。輸出の主力を担い、松方正義大蔵大臣が
「帝国の軍艦は総て生糸を以て購求するもの 」
と演説するほどの収益をもたらすのですが、工場の労働条件はそれほど良いものではありませんでした。
よくパヨクが言うように、大日本帝国政府はコレを放置していたワケではありません。
たとえば、農商務省が工員さんたちの労働事情を調べた「職工事情」には、深夜の労働や粗末な食事・狭く不衛生な寄宿舎などが問題として記載されていますが…
大日本帝国は発展しつつありましたが、同時に過重と思われる軍備を整えなければ生き抜けない時代。
帝国の富を全て「職工事情」の改善に振り向けることは残念ながら出来なかったのであります。
昭和恐慌の影響もあって、帝国の工業は「重工業化」の道をたどり始めます。もちろん軍需工場もたくさん建設され、女性の「働き方」も少しずつ変化していきます。
重工業は文字通り重たいものも多く、男性中心の職場であったのです。
女性の「花形人気職業」が注目されるようになるのも、この前後でありました。
そして日支戦争が始まります。軍需産業を担っていた男性工員が次々に出征するようになると、生産現場は女性が穴埋めをしなければならなくなりました。
コレは我が国だけのことではなくて、米英独ソをはじめ、どこの国も大戦争中には、女性の手を借りることになっています。
ただ、列強諸国の中でも我が国が特徴的だったのは、未婚女性「だけ」に生産現場への参入を求めたことでありましょう。
どれくらいの「強制」だったのか
昭和16(1941)年8月の「労務緊急対策要綱」(アジ歴.A03023597300)で満16歳以上25歳未満の女性を「動員」する労働力不足対策が進められました。
ココで注意しておいて頂きたいのは、「動員」と言い「徴用」というと強制的に労働させるんだろ?というパヨ/お花畑的認識が世を覆ってしまっている現実であります。
この後ちょっと出てきますが、女性たちはあくまでも自分の意志による労働であり、労働力のミスマッチが起きた(恒常的に起きてました)時に、あるいは起きる前に、政府(または身近な自治体)が就業場所・職種・業種の調整を行った、それが「動員」「徴用」の実態です。
女性の生産戦士の年齢は戦況の悪化とともに引き下げられてまいります。昭和18年9月の「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」という通達(アジ歴.A06050929800)では満14歳以上25歳未満の女性、昭和19年3月には「女子挺身隊制度強化方策要綱」で満12歳以上40歳未満の「無配偶者」が「動員」対象となりました。
一方で「労働動員」には「国民登録」が必要でした。ココでいう国民登録は国家総動員法に基づいて、国民の身体・精神の状況まで細かく調べて能力に応じた労働を割り当てようとしたモノです。
コレもパヨのバイアスがかかると「国民を効率的に強制労働させるため」ってなことになってしまうのですが、労働力が足らぬときに、個人の能力(生活の実態まで含めて)に合わせて動員しようってのが、どこが悪いのか?私にはまったく理解できません。
少し脱線しますが、「徴用」やら「動員」が如何に国民目線で運用されていたか、の実例を挙げておきましょう。(この例の対象は男性徴用者です)
鳥取県大山村のAさんの例
Aさんから大山村役場への手紙
偖(さ)て小生等の任勤期間も折迫致後十日位の折柄、昨日舎監より後一ヶ月の延期云々の座談的申渡之有り(中略)隊員(所子、庄内、名和、高麗、淀江、宇田川)各人共非常に困却致居り(中略)何等かの理由によって一旦小生を帰して貰って話をすれば好都合と思いますので、小生宛事故名義か何かで帰して貰う方法を取って戴け(後略)
Aさんは大山村から福岡県の炭鉱へ、坑夫として送り出されていた「勤労協力隊」の隊長でした。
Aさんの協力隊は無事に任期を終えたのですが、交代要員が決まらなかったのでしょうか。そのため炭鉱会社から期間延長の要請が出たようです。
直ぐに帰れると思っていた隊員は困りますので、Aさんが、「一度村に帰って交代要員を見つけ、現隊員を帰村させてやりたい」と村役場に援助を頼んでいるのです。
この後、Aさんたちは会社と延長取消しの交渉を行いました。その結果、村役場が必要と認めれば止むを得ない措置として帰す、との回答を得ています。
そのため、村からの電報を送ってほしい、といった2通目の手紙を役場に送っています。
五月末迄延期との云渡を受るも当山としては役場より家事上是非必要と認められ五月九日迄是非共帰還方申請さへあれば帰すとのことです。(中略)皆其々各町村より打電して貰って帰って居ります状況で真面目に勤めたら又々でも延期致す間敷き状況です。
大山村役場もそれに応えて、5月1日付で会社側に以下の電報を送っています。
トットリケン サイハクグン ダイセン ソンテフ(村長)』如何です?
確かに会社側は「動員期間」をウヤムヤのうちに延長してやろうとしてるんですが、A隊長ったら
「真面目にやってたら何時まで経っても帰れへんやん」
とか言っちゃってますよね。
地方自治体は自分の所の住民の味方をしてますし。コレが「強制動員」ですか?左ねじりアタマのパヨちゃん。
空襲対応要員
女性の話に戻りましょう。女性の場合「国民登録」は男性の場合よりも重視されたようです。
当初は満16歳以上25歳未満の未婚女性に「自願登録」を求めています。
男性は市区町村で任命された「国民登録指導員」が各家庭を訪れて登録書類の記入を指導するのが普通でした。
戦局が逼迫の度を加えてくると、さすがに暢気なことを言ってられなくなって、昭和19年2月、「国民職業能力申告令改正」では満12歳以上40歳未満の女性が登録の対象となりました。
この年の8月には「女子挺身勤労令」(アジ歴.A03022306600)が発布され、国民登録をした未婚女性は職場で働くことが義務化されました。
やっと、ですよ。昭和19年8月です。
コレで大日本帝国内の全女性が「動員」対象となりました。台湾・朝鮮でも公布されてますから、帝国内すべての女性です。地域差別はありません。
ただ、同じ女性でも既婚者は「差別」されました。既婚者は動員の対象外で、家庭を守ることが「強要」されてしまいました。
儂にはこれって当たり前に思えるんだけど、パヨの感覚ではイカンことなんだろうなぁ。結婚してる女性は働けないんだよ、すっごい差別じゃん(笑)
一方で、もっと積極的に国防に関わった女性たちがいらっしゃったことはあまり知られていません。
儂、実はこっちを書きたかったのね。その女性たちは「東部軍司令部女子通信隊員」さんと言うのであります。
「女子通信隊員」の仕事は防空監視所からの電話連絡への対応と、その連絡内容を情報室の「情報台」に入力して、作戦室の「地図板」に敵機の来襲情報を表示させる、という重要なモノでありました。
女子通信隊員の身分は「軍属」でしたが、何時から募集を始めたのか?ちょっと判りません。アサヒグラフの記事だと「東部軍司令部が初の試みとして、全国から募集した」となっています。
実際に通信隊員として勤務された方の手記だと、「隊員は飯田橋職業紹介所・ポスター・新聞広告などで募集され」た、となっています。
この手記の方は東京の親元から東部軍司令部に通勤されていたので、飯田橋職業紹介所なんてのが出てくるんでしょうね。市原悦子が紹介所に居たかどうかは不明です。
応募条件は班長が専門学校卒、25歳以上の独身者で、通信員が女学校程度の学力ある25歳以下の独身者です。
アサヒグラフの記事によれば、学科・面接試験と体格検査で選抜された上で、教育期間を経て18年3月から任務についています。
基本は寮生活で、非番の時には、6時起床で21時就寝。生け花・裁縫・料理などの講習がありました。
「婦道の練磨を怠らない」とのことですが、朝日珍聞の出してるグラフ誌が書くと何故か腹が立つんです(笑)
女子通信隊員のお仕事
女子通信隊の人数は証言によってバラツキがあって良く判りません。初期には180名。敗戦まで次々と増員され、最終的には370名~800名。
いっぺんに勤務したわけではなくて、交代勤務でしょうから800名くらいは在籍していたかもしれません。
4交代24時間勤務に非番の日がありますから、4組に分けると、1組200名。
そんなに不思議な人数ではありません。
200人のお嬢さん方の業務内容をわかる限りですが、書いておきましょう。
東部軍司令部には管区内に展開している監視哨での肉眼監視と電波警戒機による敵機の襲来情報が集約されました。
女子通信隊はそのうち「監視哨から監視隊本部に集約された情報」を電話で聴取するのが一つ目の役割です。
情報は、1.監視哨名・2.発見時刻・3.発見方向・4.敵味方の別・5.機種と機数(確認出来ない時は爆音の大小)6.高度・7.進行方向、の順で伝達されてくる決まりでした。
その情報を聞き、復唱しながら「情報台」を操作して作戦室に送るのが二つ目の役割。
情報台についての資料がありませんが、残されている画像から大いに想像力を働かせつつ、お嬢さんたちの仕事ぶりを再現してみましょう。
まずは監視隊本部から電話がかかってきます。お嬢さんは受話器を取りつつ「情報」。
相手とやり取りして「二番、大原」と復唱しながら「情報台」上の監視哨のボタンを操作→作戦室の地図盤のランプが点灯、地図盤横の表示盤に地名が表示される?
「10時12分」で時刻のボタン→「南東」→「敵」→「小型、5機」(機種と機数のボタンを操作→表示盤に機種・機数表示)「高度、100」「北西」「諒解」「通信終わり」
うーん、面倒なんで「ボタン→表示」って書かなかったけど、すべての情報でボタン押して作戦室の地図盤のランプを点灯させてたんだと思います。
これらの情報が情報室隣りの作戦室に伝達されて検討の上で警報発令が決定されると、今度はそれを各監視隊本部に電話で伝達。すべての監視隊本部に伝達完了を確認して、ひと流れ終了だろうと思います。
たぶん、警報発令したあとも、敵機の進路が変わることもあるでしょうし、実際に爆撃を受けている間とかの警報解除まで、監視隊本部とのやり取りがあると思うのですが、これに関しては記述がありません。
憧れだった?
東京出身の方は、すでに書きましたように自宅から通勤していましたので、「婦道の練磨」は無かったようであります。
地方出身の方だと、この「婦道の練磨」は大きなアピールポイントになったようで、
「生け花や茶道も習えるって書いてあって“これはいいなぁ”って思ったんです」
という応募の思い出を語ってくださる方もおられます。
宜しいですか?特にパヨ思想のみなさん。「徴用」だ、「動員」だとかほざいてるお花畑ちゃん!
何処の世界に花嫁修業(こんな表現は他ではもうお目にかからんだろうけど)させてあげることを条件に、防空監視隊員を募る「強制動員」があるんだよ。
さらに言ってやるが、女子通信隊員の制服に憧れて入隊した方も居たようなんですよ。
コッチは元隊員さんの直接のお話ではありませんが
「イギリス軍式の制服をまとった隊員のりりしい姿にも憧れた」
みたいな記述には結構突き当たるのです。
確かに、ダブルの上着の左胸に荒鷲(それも「防」の字のマーク付き)の徽章、右腕には「大和撫子」のマーク。
キュロットスカートにショートブーツで行進している女子通信隊員は格好良いと思います。
勤務そのものは、現在の私たちから見れば過酷かもしれません。6時間任務について6時間の待機を繰り返す24時間勤務。明けは1日休み。
戦局が悪化してくると待機時間は6時間も取れなくなり、空襲警報が鳴れば休日でもすぐさま本部へ駆けつけなければいけません。
「任務中は水を飲むことも、トイレに行くこともできません。B29が大編隊で来ると情報が錯綜(さくそう)して作戦室はもうパニック。監視哨が敵機を数えられないんですよ。“敵機多数”と上官に伝えると“そんなに来るわけがない!”なんて怒鳴られたことも」
うーん、コレはブラック職場やな。水は飲めぬ・小便出せぬ・上司は自分の希望的観測を押し付ける…パワハラやん。
でもね、情報室は女性ばかりだから、用もないのに何かと理由を付けて部屋に顔を出す男もいっぱい居たようですよ。
とうぜん、ほかの隊の男性と文通したり、交際する人もいた筈ですな。今みたいにおおっぴらに、ではなかっただろうけど。
ココさ、東部軍司令部の情報管理室だから、当時のエリートが集まってるよね。ヘンな例えだけど、「社長室」とかに配属になった女性社員がエリート社員に手ぇ出す(出させる?)みたいなモンじゃねえのかい?
儂ら年寄りからすれば、どちらの立場から見ても微笑ましい限りやけどな。
隊員数は増加の一途…じゃなかった
こういった隊員個人の「楽しみ」の他に、大戦争遂行中ならではの「役得」も隊員にはあったそうです。
それは物資の配給。特に兵隊さんや士官たちの体力維持のために、食料は優先的に隊に届けられます。
女子通信隊員だって「帝都防空」を担う大切な戦力(身分は軍属ですけどね)ですから、隊の食糧や日用品などの分配を受けたようです。
コレは当然のように各家庭に持って帰られて、家族の生活をちょっとだけ豊かにしたのであります。
配給遅れや、そもそもの配給量の少なさに悩んでいた家族は大喜びだったことでしょう。
その上、例のカッコ良い制服を着て職場と自宅を行き来してますし。大東亜戦争の開戦前から「精動運動(国民精神総動員)」で女性の装いまで型にはめられちゃっている時代ですからね。
女性はモンペが推奨されていた時にこの格好だもんな。しかも、髪型もこの時代にしちゃあえらいことになっているんです。
写真の髪型をご覧いただくと、なんていうかカールさせてますよね。精動運動ではモンペ推奨と同時にパーマも禁止されています。
まあ、パーマ以外でもこれくらい髪の毛クルクルする方法はあるんでしょうけど、この髪型・この制服でさっそうと通勤する隊員たちは都内の少女たちのアイドルになっていても可笑しくないと思いますね。
ところが、そんな恵まれた職業なのに退職する人が後を絶たなかった、というのですね。帝都から空襲を逃れる「疎開」が多くなってくると、地方から親御さんが寮に迎えに来て、通信隊員を連れ帰る事例が続出したそうです。
15次もの増員ってのは、こういった欠員補充の意味もあったのだと思われます。
しつこいようですが、左巻きのお花畑パヨクのみなさん、こういう社会の情況が想像できますか?
防空情報を扱って、厚遇されてる女性通信隊員を、「爆撃されたら危ないじゃん。」とか言って田舎へ連れ帰っちゃう親。
大事な戦力を連れ帰られて困った軍隊は、またポスター貼ったり、飯田橋職業紹介所に頼んだり…コレが貴方たちの言う「軍部の独裁」のホントの姿だよ。
素行不良?
このように、戦中の社会は今までパヨが考えて言いふらして来たような、暗くて何の自由も無いようなモノではありません。
でも、今ほど豊かじゃなかったし、いろんな意味で今ほど自由でもなかった、ということも書いておかないといけません。
電脳大本営は大資本にモノを言わせる巨大メディアじゃないから、「書かない自由」は行使しないのだ(笑)
ある女性通信隊員さん(実家から通勤)が経験した事なのですが、ある日近所の交番のおまわりさんに呼ばれて、警察署まで連れていかれた、というののです。
警察署では取調室とおぼしき部屋に入れられ、とりあえずはお客様扱いの体裁の為か「お茶とは名ばかりの出がらし」を出してもらいます。
「みんなモンペはいて一生懸命働いて居るんだぞ」
「そんな服を着て、一体何をやってるんだ」
「空襲警報が出ると慌てて出かけるそうだが」
「小娘だと思って優しくしてもらえると思ったら…」
などなど、時代検証抜きの大河ドラマに溢れていそうな刑事のセリフが並んだそうです。警官のセリフって言えば「おい、コラ」ってことになっている時代でありますから、多少は強圧的なところもあったかもしれませんね。
何しろ彼女は近所の人から「スパイじゃね?」とチクられたみたいなので…
近所の人や警察官にすれば「ハタチ前後の若い娘がパーマに洋装で朝帰り」でありますから、スパイと思うのは致し方無い?
いやいや、諜報関係の方なら、こんなに目立つやり方は絶対にしませんよね。少し冷静に考えろ、ってことです。
まあ、この方は刑事からさんざん説教されて、アタマに来たのか「憲兵を呼んで下さい」と言い立てます。
おそらくあらかじめ部隊で「警察に絡まれたら憲兵を呼ぶように言いなさい」とか言われてたんでしょう。彼女は軍属とは言え、現役の「陸軍兵士」でありますから、本来は警官に捜査権は無いんですね。
軍人の犯罪捜査は憲兵のお仕事です。この一言で彼女は無罪放免となるのであります。
ただ、東部軍も少し悪いですよね。自宅・実家から通ってる女性隊員は近くの警察所・交番などへ保護依頼くらいは出しとかなきゃいけません。大切な戦力なんですから。
家庭へ
ここまで、帝都防空を担った東部軍の通信隊だけ書いていますが、女子通信隊は地方でも結成されていたようです。コチラなどで、確認できますが、もう少したくさんの記述を集めないと、隊の概要すら判りません。
ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご教示のほどを(ご連絡はフェイスブック・ページの「電脳大本営」からお願いいたします)。
彼女たちの奮戦もむなしく、大日本帝国は間もなく戦に敗れます。
戦地を生き延びた男たちが復員し、それぞれの職場に復帰してくると、産業を支えていた女性たちは静かに家庭へ帰って行ったのです。
昭和20年(1945)12月に厚生大臣の芦田均が「女性や高齢・若年者は速やかに男性に職を譲るように」と述べたのですが、政治の介入を待つまでもなく、奥ゆかしい日本の女性は家庭に戻ってしまったのです。
ただ、「働き手」を失った女性もいたわけでありまして、その後の復興の中で女性の雇用は再び広がり始めました。
このとき戦争中の女性の働きぶりから、性別による能力の差がないことがわかったので、男女間の賃金格差が当然ではなくなりました。
昭和22(1947)年に労働基準法が制定されたのですが、その第四条では
「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取扱いをしてはならない。」
と規定されています。これこそが世界で初めての「男女同一賃金法」であります。