国産巡洋艦「秋津洲」の誕生

威海衛海戦のイラスト

明治27(1894)年の日清戦争を前に、帝国海軍は着々と戦力の整備を進めていました。特に意識されたのは清国がドイツに注文して建造した2隻の巨艦、「定遠」と「鎮遠」でありました。

フランス式

「定遠」と「鎮遠」はドイツのフルカン・シュテッティン造船所が建造した7000トンを超える世界的な大艦で、これもドイツのクルップ社製の20口径30.5cm後装砲を連装で2基、4門も装備しています。

装甲も分厚くて、お金も港湾設備も技術もない当時の大日本帝国海軍にはとても対抗のしようがないと思われました。

実際に「定遠」と「鎮遠」は明治19(1886)年8月、「修理」を名目に長崎に入港し、上陸したChina人水兵どもが乱暴狼藉の限りを尽くした「長崎事件」を引き起こしています。

清国装甲艦「鎮遠」手前と「定遠」、清国への廻航時の姿

清国装甲艦「鎮遠」手前と「定遠」、清国への廻航時の姿

 

対抗できる軍艦を持っていなかった帝国海軍は切歯扼腕し、フランスに頼ってこれに対抗しようとします。
「海軍は創立以来ロイヤルネイビーを手本に…」とよく言われるのですが、身近に清仏戦争の結果をみて、この時期はフランスに傾倒していたようなのです。

「著名」な造船技師、ルイ・エミール・ベルタンを招請してフランス式の海軍を目指しているのです。

横道に逸れますが、海軍の「鎮守府制」もフランスの影響だろう、と電脳大本営では考えています。
だって、鎮守なんて機動力がウリの海軍の言葉じゃないですよ。大陸国の影響に決まってます。

ルイ・エミール・ベルタン

ルイ・エミール・ベルタン

 

「我海軍二於イテモ艦船構造ノ計画ハ最モ肝要ノ義二候間、欧州ヨリ精熟練達ノ造船家ヲ招聘シ…」(海軍卿川村良純から太政大臣三条実美あてに出された伺書)
って言う割には、この人フランス海軍の技術応用学校卒、英国留学後に大砲製造とか艦船の通風法を研究していたようで、大型船の建造は素人だったみたいですよ。

このベルタン技師はいろいろ海軍の「改善」を提案してきました。彼は特に教育に関心を持っていたようで、「造船学校」や「水雷学校」などを提案創設しているのです。

ただ(先走りますが)これは帝国海軍の体質とは合わないアカデミックなモノでありました。

フランス流が避けられるようになり、英国流を取り入れるようになると、ベルタンさんが構想したものとは全く異なる教育に変貌していきます。

「造船学校」は実際の現場で作業に当たる技術者(技手)を養成する「技手養成所」に代り、水雷学校は座学より練習船に乗艦しての実技が重視されるようになります。

明治17年~18年のベトナム支配をめぐる清仏戦争に影響(冷静に見ると、ヘタレの清国に手こずる強国?フランスの図式なんですが)された帝国海軍は、フランスにならった(すなわち海にへっぴり腰の大陸国的)軍備を進めたのです。

海防艦・水雷艇など小艦艇の強化、海岸防備の充実と言った、海上強者のイギリスに対して、ブルーウォーターに出てしまっては絶対にイギリス艦隊には勝てないフランスを真似た、過剰に防衛的な考え方でありました。

誤解なさいませんように、私は防衛的戦備が悪いとは思いません。
ただ、我が国のような海洋国家はある程度海に出ないと国土を守ることは出来ないのです。

明治の地に足の着いた思考能力を持った政治家と海軍軍人は、ちゃんとこの点を理解していました。

大清国と戦うのは朝鮮半島への影響力確保のためですから、半島までのシーレーンは確保しないといけません。海岸防備だけでは国防が成り立たないのです。

定遠イラスト

定遠イラスト

そこで構想されたのが「定遠」と「鎮遠」に対抗できる巨砲を搭載した巡洋艦です。

大日本帝国の当時の国力では、「定遠」「鎮遠」ほどの巨大な軍艦を保有は出来ません。

そこで、半分ほどの艦体に「定遠」「鎮遠」を上回る主砲を一門だけ搭載しようというモノ。これを4隻建造して2巨艦に対抗しようとしたのでありました。

この構想は日本人だけで練り上げられたと思われるのですが、其処へ乱入したのがベルタン先生だったのです。

来日まもなくこの野心的な「戦車みたいな巡洋艦(だって主砲一門!)」計画の存在を知った先生、横須賀海軍工廠で建造しようとする帝国海軍に疑念を表明します。

「而シテ其二隻ハ欧州二於テ一隻ハ日本ニ於テセザルベカラズ。(中略)欧州二於テ製造スル海防艦ニ類スル者ヲ復タ横須賀ニ於テ製造スル時ハ既ニ欧州二於テ調整シタル詳細図ヲ再用シ得ルノ便アリ」(ベルタン口述)

今の私たちから見ると「ほっとけよ!」と言いたくなるようなご意見でありますが、明治の武人たちはとりあえず納得してしまったようなんです。

結局「厳島」「松島」をフランスに注文し、「橋立」だけを横須賀造船所(海軍工廠)で建造することにいたします。

やっぱりダメじゃん

ベルタン先生が企んだのかどうかはハッキリしませんが、フランスは大日本帝国の注文を幸いなことに、せっかくの2隻を「実験艦」にしてしまったように思われます。

契約時には「42口径32センチ砲」搭載だったのに、途中でフランス・カネー社製の「38口径32センチ砲」に変更されてしまいました。
この砲は試作すら出来ていなかったようで、搭載直前の明治24(1891)年1月になってようやく試射が行われる始末。

しかもこの試射では装薬135キロの時に初速695メートル/秒を記録したものの、装薬138キロとすると689メートル/秒に減少すると言う常識外の「迷作」ぶり。

4発連続で発砲すると(原因がハッキリしませんが)発射中止になってしまいます。
帝国海軍の担当者は「大ナル欠所ナキハ復タ疑ヒヲ容レズ」と欠点があるのかないのか、訳の判らん疑念を呈しているのです(以上カネー砲に関しては「海軍雑誌第八号」を参照)。

まあ、常識的に口径(砲口の差し渡しの方ね)が同一で口径(砲身の長さの方ね)が小さくなれば、威力は小さくなる道理でありまして、フランス人め、何を考えてたんだか。

さらに機関については「強制通風法」を採用して、蒸気圧を当時の世界最高の水準に。
このために蒸気の漏洩事故が頻発し、帝国への廻航後に英国製水管罐に変更しなければいけなかった程でした。

「厳島」と「松島」の建造は遅れに遅れて、「厳島」は明治24年9月、「松島」は25年の4月にようやく竣工。
「松島」はさらに機関の不調でセイロン島コロンボで大修理の憂き目に。

厳島絵葉書

「厳島」絵葉書より
戦前の軍艦は良く絵葉書の題材になったのだ。国民共通の誇りだからな。

 

横須賀で建造している「橋立」も契約していたフランスからの鋼材が輸入遅延。造船所の火事(この時はベルタン先生が消火活動の指揮に活躍しました)もあって明治27年6月に竣工。6年がかりの大工事となったのでした。

しかも公試に入ると汽罐の故障が多発、本来「総とっ換え」でしたが、清国との開戦も近くなっていましたので応急修理だけで戦列に加わっています。

ベルタン氏は足掛け4年も大日本帝国に滞在して、各地に出かけてはいろんな事に口を出して、海軍のいろんな政策をひっかき廻して下さいました。

ベルタン氏はバカ高い給料をもらっていた事もあって、大日本帝国に悪意があったわけではないと思います。

ただ近代化の途上にあった、能力と自立の精神に富んだ民族が良く理解できなかったのでしょう。
フランスの海軍技術についても、どうやら一流とは言い難いモノだったようです。

ちゃんと気づいた帝国海軍

同型艦とはされていましたが、実は「松島」と「橋立」「厳島」には大きな違いがありました。

それはたった一門だけ搭載した主砲の据え付け箇所。肝心の巨砲が「松島」だけは後甲板に配置されているのです。つまり、主力兵器は後向き。
まだ少壮士官だった東郷平八郎元帥(のちに神さま)はこれをどうご覧になっていたのでしょう(後年、元帥は「前方への火力は強大でなくってはならぬ」と宣ってますから)?

松島絵葉書

「松島」絵葉書」より

 

なんでこんな変態巡洋艦を造ったのか?

理由はハッキリしています。前述しましたが、当初の「三景艦計画」は巡洋艦4隻を建造する、というモノだったのです。

主砲を前向きに積んだのを2隻、後向きに積んだのも2隻造り、前向きの艦と後向きの艦がペアを組むんですね。コレが二組。

たしかに2隻を合わせれば8千5百トン、32.5cm砲が2門ですから鎮遠級に匹敵?するんですけどね。

最初から1隻にしとけよ、っておっしゃいますか。当時の日本の造船施設では、そんな大艦を常時修理できるだけの施設が足らなかったんですよ。

橋立絵葉書

「橋立」絵葉書より

 

で、何故に4隻目が建造されなかったかというと、この艦のコンセプトがヘンであることに大日本帝国海軍の偉いサンたちが気づいた事が一つ。

ベルタン先生って言うか、フランスのお節介が無茶苦茶であるのにも気づいたのがもう一つ。
三隻で止めといて日本三景の名前を付けたらカッコ良さそう、って言うのは3つ目の理由では…無いと思います。

で、4番目に予定されてた巡洋艦がどうなったか?は後回しにして、三景艦とライバル2隻の運命を見ておきましょう。

第一次黄海海戦

ちょっと横道ですが、「黄海海戦」と呼ばれる戦いは日清・日露両戦役で惹起されました。

私はいままで「黄海海戦(日露の方ね)」みたいな使い方をしてきましたが、最近の世界情勢の緊迫ぶりを見るにつけ、近々日米vs中朝(韓)の間で黄海・東シナ海のシーレーンの争奪が起こりそうな気がしてなりません。

そうなれば「三度目」が起こる可能性が高くなります。
いちいち断りを入れるのは面倒なんで、第一次・第二次・第三次と呼ぶことにしませんか?

閑話休題。

何しろ最強の武器である32.5cm砲がデカすぎ(というよりも艦体が小さすぎ)た三景艦。
横に向けると艦が傾いてしまいますので、照準に時間が掛かって仕方がありません。

やっとのことで発射すれば、その反動で艦首(艦尾)が回ってしまいます。そのたびにいちいち舵を取り直さないと転覆しかねないのです。

豊島沖海戦の浮世絵

豊島沖海戦の浮世絵

 

艦体が小さすぎるので弾丸の搭載数も少なく、弾込めにも手間が掛かります。

巨砲の過大な重量のせいで他の武装は貧弱ですし、装甲は紙より薄い(ことは無いけど)ペランペラン。

しかし、大日本帝国海軍には時間がありませんでした。ともかく出来てしまったものは使うしかありませぬ。
明治27(1894)4年7月に日清戦争が起きますと、大日本帝国海軍は三景艦を主力として清国海軍との戦いに臨む事になります。

連合艦隊の旗艦は変態艦「松島」。

豊島沖海戦のような遭遇戦はあったものの、フリート・ビーイング戦略を取る李鴻章と清国海軍北洋艦隊の丁汝昌提督は積極的には出撃せず。

「松島」以下の連合艦隊には決戦の機会がなかなか巡ってきませんでしたがようやく9月17日。
両国海軍はついに衝突することになります。これが「第一次黄海海戦」であります。

戦前の予想通り「定遠」「鎮遠」の両艦、日本側の砲弾を弾きかえし、その巨砲は猛威を振るいます。

30センチの巨弾は単縦陣の先頭を行く旗艦を襲います。「松島」は大穴を開けられ、一挙に98人もの水兵さんが戦死する惨劇となります。

この時、瀕死の水兵・三浦虎二郎が「まだ沈まずや定遠は」と副長に尋ね、「煙も見えず雲もなく」の勇壮かつ悲壮な軍歌『勇敢なる水兵』が作られました。

しかし三浦水兵の祈りも空しく、「定遠」と「鎮遠」は数百発の命中弾を浴びながら、その装甲はビクともしませんでした。

対する三景艦の巨砲は屁の役にも立ちません。

4時間30分にわたる海戦で発射した三景艦の主砲弾は「松島」4発・「橋立」も4発・「厳島」は5発。

三景艦の合計でもたったの13発です。3艦ともに1時間あたり1発撃ったか?でありますから、当たるはずがありません。

発射ベースも目標も動揺する海上での射撃は「確率」ですから、4発5発では当たる筈もなく、見事なほどの「ダメっぷり」というべきでしょう。

それでも大日本帝国海軍の連合艦隊は鮮やかな勝利をあげます。

大日本帝国側は、大英帝国製の新式快速巡洋艦を単縦陣で運用。軽快な運動性を活かして清国艦隊を翻弄する「ミスター単縦陣」こと坪井航三少将の戦術を採用していたのです。

これに対し、巨体ゆえに運動性能では見劣りする「定遠」「鎮遠」を中心とする北洋艦隊。

丁汝昌提督が旧来の「ラム戦法」にこだわった(らしい)こともあって、戦場を動き回る連合艦隊をとらえきることは出来ません。
連合艦隊は北洋艦隊よりも高速で走り廻り、北洋艦隊より門数で勝る中小口径の速射砲が巨艦以外の軍艦を叩きのめしたのです。

丁汝昌

丁汝昌

 

北洋艦隊に乗り込んだのは「大陸国」の将官たちでしたが、名将丁汝昌の薫陶よろしく勇敢に戦いました。

「済遠」「広甲」「経遠」のように近代海戦史上まれにみる「敵前逃亡」を図ったフネもあった事はありましたが、装甲巡洋艦「経遠」・防護巡洋艦「致遠」・「超勇」が撃沈され、巡洋艦「揚威」・「広甲」が追い詰められて座礁、沈没。その他多くの艦船が大中破して戦闘力を喪失してしまいました。

連合艦隊には沈没艦は無く、いかに巨艦が残っているとは言っても、北洋艦隊は戦意を失って威海衛軍港に退却して行きました。

結局、威海衛の軍港を夜襲した水雷艇隊によって「鎮遠」は討ち取られてしまいます。重装甲の巨艦も「艦底部の薄い防御」という弱点を最新兵器「魚雷」に衝かれたのでありました。
北洋艦隊司令官・丁提督は日本海軍に降服を申し出ると毒杯を仰いで自決、ここに大日本帝国最大の脅威は滅び去ったのでありました。

鈴木貫太郎

鈴木貫太郎
この方は水雷屋さん出身、もちろん威海衛襲撃でも活躍

 

生き残った「定遠」は大日本帝国海軍に捕獲され、しばらく日本の軍艦として使用されました。

日露戦争にはかつてのライバル三景艦と共に参戦したのですが、10年間の技術の進歩はこれらの軍艦をあっという間に三流以下の老朽艦にしていました。

「松島」は明治41(1908)年に事故で沈没したのですが、残りの艦はすべて天寿を全うし廃艦となりました。

明治日本の生存を賭けた2度の戦争に参戦して生き延びたのは、幸運艦というべきか?失敗作故の長命というべきか?私には何とも申し上げようがありません。

これ以降、大日本帝国海軍に「フランス式軍艦」が導入されることはありませんでした。

三景艦型4番艦

いわゆる「三景艦」は4隻計画されていた、と申し上げました。

当時の大日本帝国の財政は逼迫していまして、しかも帝国海軍の拡張計画は発足したばかりの帝国議会の一大争点でした。

初めての選挙で選ばれた議員は海軍の拡張に軒並み反対。
やむなく帝国政府は軍艦の建造費を捻出する為に全官僚の給与を1割削減することで、議会の反対を切り抜けたほどでした。

そんな状況で大駄作を3隻も作ってしまった帝国海軍。
建造が認められている4隻目を「やーめた」と言うワケにも行かず、もう1隻駄作を造るも出来ず。

秋津洲竣工時

秋津洲竣工時

この4隻目は「秋津洲」と名付けられるのですが、まだ日本に居たベルタン先生が「改設計」を担当すると言い出し、基本計画を練りました。

しかし、其処へ英国留学経験のある技術者の佐双左仲が横須賀鎮守府の造船部長に着任します。

佐双はベルタンの計画の問題点を次々に指摘して、ベルタン案を潰してしまいます。
佐双は「秋津洲」の基本計画を英国のアームストロング社に委託し、設計そのものは自分の部下たち、すなわち横須賀造船所艦政局造船課が担当することにいたしました。もちろん、建造は横須賀造船所です。

こうして大駄作「三景艦型」の4番艦は「初めて日本人が設計し日本で建造した巡洋艦」となったのであります。

秋津洲模型

秋津洲模型

 

4番艦は明治25(1892)年7月7日、明治大帝の臨御を仰ぎ進水式を挙行、「秋津洲」と命名されるのであります。

船体も機関も国内で設計・製造された快速巡洋艦の誕生でした。

主砲は「アームストロング式1892年型40口径15.2センチ速射砲」単装4基4門、副砲に同じくアームストロング社の40口径12センチ速射砲単装6基6門。

速力は19ノット、装甲は司令塔と防護部114ミリ、甲板76ミリと充実し、豊島沖海戦・第一次黄海海戦・大連、旅順攻略戦・威海衛攻撃・澎湖島攻略戦と歴戦。

日露戦争でも第二次黄海海戦・旅順攻略戦・日本海(対馬沖)海戦・樺太作戦などに参加、更に第一次大戦でも青島攻略戦・フィリピン、シンガポール方面警備を担当するなど、帝国海軍の栄光とともにあり続けました。

フランスに頼んで大失敗作となり、我が国で設計・建造して傑作となったのは、背伸びしないバランスの取れた設計思想が一番、という事なのでありましょう。

最後に、ベルタン先生の悪口をいっぱい言ってしまったので、ちょっと名誉回復を図っておきましょう。

軽巡エミール・ベルタン

軽巡「エミール・ベルタン」

なんと!巡洋艦に名前がついとるぞ(笑)

それなりに功績があったんじゃな。

ついでに、第一次大戦のころは、我が大日本帝国はお仏蘭西に駆逐艦を輸出しています。おフランスが泣きついてきたんでね(笑)

諸般の事情があるとは言え、電脳大本営的には

「そりゃ、そうでしょう。」

ってところです。

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