長崎事件と明治大帝~「無法国家」支那との付き合い方~

習近平イラスト

支那の無法・傍若無人ぶりは、心ある人たちがあちらこちらで指摘し非難しているところです。
支那人が悪いんじゃない、「共産党が悪いんだ」っておっしゃる方も多いようですので、歴史的に支那人ってこんな悪人ばかりだ、というお話を。

乱暴狼藉

前提として、お話の頃の清国は支配階層だった満州人(女真族)が全く活力を失い、支那人の役人上がりの軍閥に牛耳られていたこと、すなわち「支那人(漢人)の国」になっていた事を頭の片隅にお入れください。

1886年7月、清国の北洋艦隊(代表的軍閥・李鴻章の私有艦隊と思っていただいて間違いありません)は丁汝昌提督に率いられて朝鮮東岸に出動。この帰路で丁汝昌は艦隊を分け、定遠・鎮遠・済遠・威遠の四隻を直卒して長崎に寄港しました。

清国装甲艦「鎮遠」手前と「定遠」、清国への廻航時の姿

清国装甲艦「鎮遠」手前と「定遠」、清国への廻航時の姿

長崎寄港の目的は、表向きは燃料の補給と定遠級戦艦2隻の整備とされていました。
この当時世界的な巨艦であった「定遠級(定遠と鎮遠)」が入渠可能なドックは、東洋では長崎にしかなかったのです。当面の敵国でしか整備できない武器を持つチグハグさは、今も伝統的に支那軍に引き継がれているように思います。

それでも清国北洋艦隊は「定遠(ていえん)」「鎮遠(ちんえん)」といった東洋一の戦艦をはじめとして、質量ともに大日本帝国を圧倒していました。

「定遠」「鎮遠」は共に排水量7000トン。30.5センチ砲4門。
一方、当時の日本海軍は、排水量4000トンにも満たない巡洋艦「浪速」「高千穂」が最大最強。実際にはこの長崎来航は、朝鮮糞半島の支配権を巡って支那とロシアの隙間をうかがう大日本帝国への威圧が目的であったことは言うまでもありません。
巡洋艦浪速

巡洋艦浪速

 明治19(1886)年8月1日、定遠・鎮遠・済遠・威遠の四隻の軍艦が長崎港に入港しました。
北洋艦隊の水兵たち

北洋艦隊の水兵ども

しばらくは大人しくしていた支那の水兵どもですが、8月13日に至り500人ほどが勝手に上陸し始めたのです。
その夜、数名の水兵が丸山遊廓に入り込み、女性の順番をめぐる行き違いから、備品を壊したり暴行を働いたりといったトラブルを起こしたのでありました。

1887年の長崎、1出島2中島川3寄合4丸山

1887年の長崎、1出島2中島川3寄合4丸山

通報を受けた巡査2名が現場に向かいましたが、水兵どもは巡査に暴行を働きました(巡査は帯剣せず警棒を所持)。

巡査は水兵二人を逮捕したものの、他の水兵は逃亡してしまいました。

その後、十数名の水兵が派出所前に現れました。その中に先ほど遊郭で巡査に暴行した者がいたので捕らえようとしたところ、支那水兵たちは日本刀(土産用に買ったと思われます)で切りつけてきました。

丸山の遊郭「金波楼」

丸山の遊郭「金波楼」

巡査は負傷しながらも勇敢に戦い、応援に駆け付けた同僚と協力して刀を取り上げ水兵を捕らえることに成功。後に清国領事館に引き渡しました。

この事件で日本側と清国側で協定が結ばれます。
清国側は集団での水兵の上陸を禁止、上陸を許す時は監督の士官を付き添わせる、というものでした。

流石に翌日は何も起きませんでしたが、15日になると協定に反して約300名の支那水兵が上陸してきました。
その中には、刀や棍棒など武器を所持する者もいたのです。

この無法者どものうち数名が交番の前で嫌がらせを始めました。
巡査はこれを諭して大人しくさせようとしましたが、逆に警棒を奪われそうになり、やむなく抵抗すると他の水兵どももやってきて大きなもみ合いとなってしまったのです。

近隣の交番から2名の警官が来援したのですが、水兵どもは20数名に増えており、さらには100名以上がやってきました。

水兵どもは、どうも計画的に交番を狙ったようです。一方、警察の方は協定が結ばれたこともあって油断をしていたのか人員がなかなか集まりませんでした。
招集された巡査が駆けつけ、何とか総勢30名ほどになった頃、支那水兵はすでに200名ほどに膨れあがっていたのです。

双方は大乱闘になりました。

人数では日本側は圧倒的に不利でしたが、巡査は故郷を守るために大いに奮戦。
ほぼ全員が傷を負いながら、防御に努め、逃げ惑う住民を導き、水兵を捕らえ、なんと清国商人まで救護し、鎮圧に努めました。

さらに、この市街戦を知って悲憤慷慨した付近の住民が、手に手に武器(と言っても農機具や工具ですが)を持って駆けつけ、水兵どもに反撃したのです。

この戦いで支那士官1人死亡、3名負傷。支那水兵3名死亡、50名以上負傷。日本側は警官2名が死亡、19名負傷、日本人住民も十数名が負傷という結果になりました。

これが「長崎事件」の概要です。

李鴻章の難癖

8月20日、事件の報告を受けた清国直隷総督兼北洋通商大臣の李鴻章は、大日本帝国駐天津領事の波多野章五郎を呼び付けます。

李鴻章は「水兵の死者は5名」「我が国の水兵と貴国巡査との間で喧嘩があった」「武器を持たない我が水兵を殺傷した」と犠牲者を水増した上に事実とは全く異なる主張を展開しました。

李鴻章

李鴻章

その理不尽な主張に基づき、李鴻章は波多野領事を恫喝したのです。

「北洋艦隊からは電報を発して開戦しても良いかどうかと問うて来たが、自分はこれを差し止めた。しかし、今戦端を開かんとするのは難事ではない。貴国にある我が兵船は船体銃砲皆使用可能で、自由に開戦することができるからである」

清国巡洋艦「来遠」

清国巡洋艦「来遠」

そもそも、北洋艦隊は大日本帝国に対する威圧目的での来港でありました。300人とか500人とかの水兵が4隻の軍艦から抜け出したとすれば、1隻当たり100人内外ですから、「こそっと抜け出した」レベルでは全くありません。
長崎事件は支那艦隊がわざとやらせていたことに、疑う余地は無いでしょう。

支那とはこういう国であり、支那人とはこういう民族なのです。
自分の力が相手を上回ると思えば、土足で相手の国に上がり込んで無法の限りを尽くす。相手が理を尽くして反論しても、事実を捻じ曲げる。

今も昔も変わることはないのです。

屈辱の決着

その後、日清両国で調査委員会が発足し欧米各国の法律家なども巻き込んで何度も談判が行われ、最終的には政治的決着が図られる事になりました。

井上馨

井上馨

事件発生の翌明治20(1887)年2月8日、井上馨外務大臣と徐承祖欽差大臣(欽差大臣が役職名、特定の事項について皇帝の全権委任を受けた官職)の両名によって条約が締結されたのですが、それは大日本帝国にとって不利で屈辱的な条約だったのです。

当時、日清間には明治4(1871)年に締結された「日清修好条規」が存在していました。その13条には
『両国の人民、若シ開港場ニ於テ兇徒ヲ語合ヒ盗賊悪事ヲナシ、或ハ内地ニ潜ミ入リ、火ヲ付ケ、人ヲ殺シ、劫奪ヲ為ス者有ラバ、各港ニテハ地方官ヨリ厳ク捕エ直ニ其次第ヲ理事官ニ知ラスベシ。若シ兇器ヲ用テ手向イセバ、何レニ於テモ格殺シテ論ナカルベシ。」

ほ~ら御覧なさい。最後の一文。
凶器をもって抵抗したら殺してしまってもOKじゃないですか。
もちろん、「兇徒ヲ語合」ってますから「地方官ヨリ厳ク捕エ」るのも認められています。
「日清修好条規」を尊重する限り、調査委員会も政治的決着も屈辱的な条約も必要無かった筈なのですが…
大日本帝国は清国に対し、軍事的に圧倒的劣勢だった上に、世界的な強国の英独仏3国が清国の肩を持っており、孤立状態でした。

我が国はやむなく清国に有利な条件で「長崎事件」を解決せざるを得ませんでした。
暴動を起こし長崎市街を破壊した支那水兵と、取り締まった警察官たちの行為を「喧嘩」として処理することに同意し、日支両国が基金を出し合い、お互いの死傷者に配分して救済するという案で妥協してしまったのです。

しかも、この妥協案では清国側が被害者?の人数を死亡8名、負傷42名と大幅に水増し(前年8月20日の李鴻章の発言よりさらに増加)、日本から供出する金額の方が大きくなってしまいました。

全く道理にあわないことなのですが、実力が無ければ文句の言いようもないのです。これが国際関係の現実であり、今も昔も変わり無いことは良くお判りでしょう。

ですが当時と今では両国の関係は全く違ってきています。
当時の清国は日本に対して軍事力で圧倒的優位を保っていたのです。国際的にも(自国の権益や領土を切り売りすることと引き換えに、ですが)列強と友好関係にありました。

練習艦「磐手」の軍艦旗掲揚

練習艦「磐手」の軍艦旗掲揚

現在、海軍力を見れば我が海軍は「海上自衛隊」と仮称中ながらも支那水軍より実力ははるか上。国際司法裁判所の裁定でフィリピン勝訴となって、国際的に孤立を深めているのは支那の方。

それにも関わらず、全く弱腰な対応しかできない日本政府はどうなってるんでしょうね。もちろん、欠陥だらけの現在の日本の防衛法制、法整備を妨げるパヨク思想にも大きな原因があるのですが…。

明治大帝のお気持ち

現在と違って軍事的な実力の無いこの時の大日本帝国は、このような対応で耐えることしかできなかったのです。
しかし、現在の9条ボケの日本国民とは違い、大日本帝国の臣民は貧しくとも誇り高い人たちでした。

「長崎事件」の国辱的な解決いらい、支那に対抗できる強力な海軍を持つことが国民的な目標となったのです。同時に沿岸の警備を固めることも明治中期の大日本帝国にとって大きな国家的課題となりました。

つまり、一歩踏み出して外敵を迎え撃つ海軍とともに、日本列島の海岸に砲台を並べて侵略を拒止しようという構想です。
消極的なようですが、まだ日本列島以外の「海外領土」はありませんから、これはこれで有効な考え方でした。

しかし、貧乏国の悲しさで海軍の予算は全て軍艦の建造費に回され、沿岸警備まではとても手が回りませんでした。

砲台が必要な海岸は長大で予算は無く、海岸防備は全く進みません。

この状況をじっと見ておられたのが明治大帝であらせられました。

早くも長崎事件の翌明治20(1887)年3月には「海防費補助金下賜の勅諭」を下され給います。
沿岸防備資金として皇室費をご節約給い30万円を賜ったのです。30万円は現在のお金に換算すると12億円以上になるようで、当時の皇室費の1割以上に当たる金額です。

天皇陛下ご自身の御身を削っての国防へのお気持ちを受け、朝野の日本人は奮い立たったのでありました。

首相の伊藤博文から、全国の地方長官にこのことが伝えられると同時に、全国民に海防費の献金が呼びかけられました。

すると、たちまち200万円余り(80億円以上相当)が集まったのです。

この資金をもとに、軍艦の建造に支障を来すことなく、日本の沿岸の各地要所に212門もの大砲が備え付けられることになったのでありました。

海栗島分屯地

もちろん、対馬の沿岸にも大砲が整備された。画像はその跡地、現在は空自のレーダーサイト、海栗島分屯地

 

長崎事件のあとも、清国北洋艦隊は二度ほど日本へやってきましたが、騒動は起こしませんでした。その間、大日本帝国は冷静に支那水軍の錬度を測っていました。

事件後7年がたち、明治27(1894)年に至りついに大日本帝国は報復の機会を得ました。日清戦争の勃発でありました。この戦争での「黄海海戦」の圧勝劇はコチラで。

清朝滅亡

世界的な評価は「清国軍の圧倒的優勢」でしたが、大日本帝国陸海軍の将兵の猛訓練に拠る戦闘能力は、完全に支那軍のたるみ切った大軍を粉砕して見せたのでありました。

この戦争で正体を見透かされた「大帝国」は凋落の一途を辿ります。
大領土だけに我が国を含めた列強の利権も入り交じり、世界中に迷惑を振りまきながら滅亡へと向かって行きます。

明治大帝

明治大帝

ついに明治の末年に勃発した辛亥革命によって清朝は滅び、支那は群雄割拠の戦国時代へと落ち込んでしまうのです。

この年、明治45年の一月か二月に明治大帝が詠まれた御製が遺されています。

おのづから おのがこころも やすからず 隋の国の さわがしき世は

「隋の国」とはもちろん直接に隣国をあげつらうのを避けられたモノでありましょう。
明治大帝は、貧乏国から世界の列強入りしようかと言う新興帝国を率いる御身となられても、恨み重なる敵国であっても、かつてのライバルの凋落と混乱に心配の御心をお向けになったのでありました。

また、この御製は「隣国の混乱に下手に巻き込まれてはならぬぞ」とのご心配であった、と考えることもできます。

大きなご心配を遺されたまま、御製から半年もたたぬ7月30日。

大日本帝国に近代をもたらし、世界の大国に押し上げた明治大帝は崩御されたのでありました。

軍隊は使ってこそ

自ずから 己が心も 安からず 隋の国の 騒がしき世は

「支那の国が騒ぎを起こすので、安心することが出来ないよ」
現代でも十分に通用する明治大帝のお言葉ではありませんか?

「道理に合わない無理を言われても、軍事力の前には屈さざるを得ない」と言う国際社会の冷徹な原則は、時代がどんなに変わろうと変わることはありません。

支那揚陸艦「崑崙山」

沖縄上陸用

 

安全保障法制の未整備などの国内事情を上げてみても、国際社会では誰も考慮などしてはくれないのです。
使えない軍事力、使わない軍事力など持っているだけ邪魔です。軍事力は維持するだけでも大金がかかるのです。

いつでも使うぞ、と言う姿勢を見せることこそ、本来の軍事力の使い方で、これこそ実際に軍事力を行使する機会を無くすことに繋がるのです。

長崎事件を思うたび、明治大帝がそのようにお教え下されているように思える今日この頃であります。

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