モンゴル独立国の夢
昭和20年8月10日、参戦してきたソ連軍の侵攻を興安嶺で阻止すべく、満洲国の第10軍管区(駐ハイラル)部隊はシニヘイ(錫尼河)に到着しました。
草原の2.26事件
指揮官のジョンジョールジャブ(正珠爾扎布)は、ここで日本人士官を殺害してソ連軍へ投降することを決意し、密かにモンゴル系の士官たちに伝えたのです。
翌8月11日午前10時頃、シニヘイ駐屯の各隊で一斉に叛乱が起こり、日本人士官29名が次々に殺害されました。
ジョンジョールジャブと第10軍管区部隊の2000名の兵は、8月13日にソ連軍に投降してしまったのでありました。
これが「草原の2.26事件」とも呼ばれる「シニヘイ事件」の簡単な顛末です。
石原莞爾がたかだかと掲げた「五族協和」の精神のもと、満州人はもちろん、支那人も朝鮮人も日本人も蒙古人も等しく国家建設に力を合わせた筈の満州国の危急の時。
何故こんなことが起こってしまったのでしょうか?
そこには、我が大日本帝国の大きな見込み違いがあったのであります。電脳大本営が考えるところ、歴史をきっちりと見極めれば当時の関東軍にも気づけたはずの巨大な思い違いが。
思い違いなく、蒙古人の思いに正しく応えていたら?今の中華人民共和国と名乗る独裁欺瞞国家の版図は本来の漢人の土地しかなかったかも知れません。大陸には今でも「親日」の大国が「反日」の漢人国家と並立していたかも知れないのです。
私たちはご先祖が遺してくれた「戦訓」を正しく理解して、次なる戦いに備えなければなりません。ご先祖のミスを暴いていくのは、それもご先祖が良かれと思って為したことですから、つらいものがあります。読んでいただくのもお嫌だと思いますが、現在の支那国内の状況も案外理解できるかも知れません。
ぜひお読みのほどをお願い申し上げます。
元が滅びてから
モンゴル帝国、特に支那大陸を支配した大元については皆さまよくご存じでしょう。ここではその元が「滅びて」からをざっと見ておくことにいたしましょう。
一般に、明の攻勢に耐えかねた元は1368年に大都を放棄して北に走り…で歴史の記述から消えちゃいますよね。
高校レベルの歴史の授業だってその程度。
支那を中心と考える「東洋史」だとそうなってしまうんですが、実際には「元」が滅び去るのはまだまだ先の話なんです。
1368年時点ではいわゆる「中原」の支配は放棄したものの、モンゴル高原を中心に支那の北方一帯の支配権は「元」が握り続けていました。この政権を「北元」と言います。
北元では1388年に政変があり、大元の始祖であるフビライ・ハーンの皇統が断絶(一時的に)してしまいます。
この1388年をもって支那南部を支配した明は「北元」の滅亡と宣伝し、以降のモンゴル政権を「韃靼(だったん)」と呼ぶようになります。日本流に言うと「タタール」ですね。
しかし、チンギス・ハーン(別にジンギス・カンでも構いませんけど)の男系の子孫がモンゴル諸部族全てに君臨する形態は17世紀まで連綿と続くんでありまして、この時期まで含めて「北元」と考えてよいのではないでしょうか?
少なくとも、支那大陸が明と北元(韃靼)に分割統治されていたことは間違いありません。
この形、すなわち農耕民族が南に、遊牧民族が北に割拠する姿こそ支那大陸の自然な支配形態であり、統一支配の方が異常事態なのです。
しかも、強力な統一支配は必ず遊牧民族によってなされてきたのであります。
清朝の支配
17世紀(1644年)になると、モンゴルの東隣で遊牧生活を送っていた女真族(満州人)が勃興しました。
女真族はモンゴルと同盟関係を作って南の農耕民族を支配するようになりました。コレが清朝です。
275年にも及ぶ清朝の統治では、少数の女真族が圧倒的多数の漢人を支配するために、モンゴル族を同盟者として扱い続けました。
同じ遊牧民族として効果的な保護政策が幾つも取られていたのです。
清朝はモンゴルの諸部族を四十九旗(「旗」は女真族の行政・軍事単位)に分け、旗の上には六つの「盟」を置きました。
四十九旗の旗長(世襲)には、その勢力に応じて和碩親王(ホショイ・チンワン)・多羅郡王(ドロイ・ギュンワン)・多羅貝勒(ドロイ・ベイレ)・固山貝子(グサイ・ベイセ)などと言った清朝の皇族と同じ爵位を授けています。
この「女真族の同盟者=モンゴル」のすぐ北側には「別に女真とは同盟してないけど?=モンゴル」が、当たり前ではありますが存在してました。
モンゴルにしろ女真にしろ、小部族が離合集散を繰り返しているのが常態で、対外政策も部族ごとに異なっていたのも当然なんですが、清朝の盛期には特にお互いが対立していたわけではありません。
この「別に女真とは同盟してないけど?=モンゴル」が「外モンゴル」と呼ばれるようになります。
地図が無いと判りにくいかも知れません。上のイラストは山川出版の教科書に準拠したドリルからパクりました。
a,bとか1,2は問題なんですが、電脳大本営はカンニングを公認しておりますので、以下に正解を上げておきます。
a:内モンゴル、b:外モンゴル、c:新疆、d:青海、e:チベット
1:ネルチンスク、2:キャフタ、3:アイグン、4:イリ、5:ラサ
(キャフタは覚えといてくださいね。)
それはともあれ、支配種族の故地である満洲と同様に、蒙古地域も「旗」による自治が大きく認められていて、漢人が入植することは一切認められない「禁足地」となっていました。
モンゴル人はこの扱いに十分満足して、草原での牧畜生活をつづけていました(司馬遼太郎大先生に言わせると、清朝はモンゴル人の精悍さを恐れてラマ教をすすめ、貨幣経済で縛り、アヘンで堕落させたって事ですけどね)。
この幸せな時代は19世紀になると激変してしまいます。
アヘン戦争・清仏戦争・日清戦争…と強勢を誇った「清」は敗北が続き、その体制が揺らぎ始めました。
清朝は自己改革の必要を悟り、新政策として行政改革・軍政改革・学校・保健衛生施設の新設など、多岐にわたる近代化政策を実施するのです。
しかし、清の実権は既に漢人に握られてしまっており、その政策は少し的外れというか漢人だけの利益を追求したモノになってしまいました。
この中で満蒙は禁足地の指定を外され、蒙古の地には漢人が大挙して押し寄せ、土地を開墾してしまいます。
土地を開墾することは、モンゴル人の大切な牧草地が回復不能な損害を被ることを意味しています(なお、満州には半島で食い詰めた超汚染人も流れ込みました)。
この事はモンゴル人の漢人に対する反感を醸成していくことになります。
清朝後の外モンゴル
1911年10月10日の夜、清国の南部の武昌の町(現在の湖北省)で起きた反乱=武昌蜂起はたちまちのうちに全国に広がって「辛亥革命」となり、支那の国内は大混乱に陥ります。
その年の12月29日、外蒙古である「ハルハ部」の王公(元の王族の末裔)たちは「ジェブツンダンバ8世」を元首として清朝からの独立を宣言しました。
ジェブツンダンバ8世はお聖人様(ボグド・ゲゲーン)と言われる仏教者でしたので、「ボグド・ハーン」と呼ばれるようになります。
モンゴル人は(一部とは言え)独立国を創ったのであります。
「清朝からの独立」です。
このボグド・ハーン政権はハルハ部以外のモンゴル人からも大きな共鳴を得ます。
内蒙古(つまり女真族と同盟していた)四十九旗のうち三十五旗がボグド・ハーン政権への合流を希望しましたし、内モンゴル各地から多くのモンゴル人がボグド・ハーン政権に参加したのです。
しかし、内モンゴルでは既に入植した漢人が勢力を張り、その支那勢力を張作霖・袁世凱などの支那人軍閥が支配する態勢が出来上がっていて、ボグド・ハーン政権や合流しようとするモンゴル人を圧迫しました。
ボグド・ハーン政権は独立宣言以前からロシアに支援を求めていたのですが、なかなか強力な支援を受けることが出来ませんでした。
それでも、ボグド・ハーンは粘り強く交渉を続けたのですが、ついに1912年11月「露蒙協定」を結ぶにあたって「独立宣言」を「自治宣言」に格下げさせられてしまったのであります。
*電脳大本営は「中国」と言う呼称は実態を表していないと判断し、かの国を一貫して「支那」と呼んでいますが、これからしばらくは、判りやすくするために「中国」と記述します。ご容赦下さい。*
1913年11月の「露中宣言」で、ロシアは外モンゴルにおける中華民国(辛亥革命で成立)の宗主権を認めてしまいます。
つまり、モンゴル独立国を認めず、中華民国の一部と確認しちゃったのです。
その代わりにこの露中宣言で、中国は内政・通商・産業における外モンゴルの自治を認め、露中両国は軍隊を派遣せず、植民を停止することが取り決められました。
その後、1914年9月から1915年6月まで行われた「キャフタ会議」において、ボグド・ハーン政権は必死の抵抗を続けたのですが、露・中が勝手に決めた「中国の宗主権」を外蒙古の自治と引き換えに認める事になってしまいました。
しかも内蒙古は自治すら認められず中国領とされてしまったのです。
中華民国は外蒙古の自治を認めることさえ不本意だと思っていたようです。
支那人(=漢人)のいやらしさと言うか拡大主義と言うか、弱いものには強いと言うか?
1917年のロシア革命で帝政ロシアが崩壊して国内が混乱しているのに付け込み、中華民国は外蒙古の自治まで撤廃しようと企みます。
ボグド・ハーンのテントの宮殿を武装兵士で包囲し、自治返上を迫ったのです。
1919年11月、中華民国大総統令によって外蒙古の自治撤廃が公表されます。
翌年1月2日にはモンゴル人の目の前で自治撤廃の式典が執り行われ、外モンゴルのボグド・ハーン政権は一旦滅亡してしまうのであります。
ところが漢人は強い者には弱い。漢人が強いのは弱い者に対してだけです。
1920年、白軍(ロシアの反革命軍)のウンゲルン男爵(基地外男爵)が外蒙古に攻め込み、モンゴル人と組んで中国軍を追い出してしまいました。
ウンゲルン男爵はボグド・ハーンを復位させたのですが、一方で赤軍や漢人ばかりでなく、ロシア系ユダヤ人をも大量に殺害し軍資金の取り立ても苛烈なものがありました。
暴虐の限りを尽くすウンゲルン男爵に、ボグド・ハーンは恐れをなし密かに北京に救援を願うようになってしまいました。
この救援要請に中華民国(国民政府)は表面上で応じ、張作霖にウンゲルン男爵討伐を命じたのですが、張作霖は何もしませんでした。
漢人は強そうな者には弱いのです。
モンゴル人たちはやむなく1921年3月、キャフタに赤軍の影響下で「モンゴル臨時人民政府」を樹立します。
400人のモンゴル義勇兵でキャフタに駐留していた中国軍を駆逐しただけではなく、北上してきたウンゲルン男爵軍をも負かしてしまいます。
さらに勢力を増したモンゴル義勇兵は赤軍と力を合わせてボグド・ハーンを元首とする連合政府を樹立するに至るのです。
1924年にボグド・ハーンが死去すると、蒙古伝統の君主制は廃止され、ついに世界で2番目の社会主義国「モンゴル人民共和国」が成立しました。
ソ連の巨大な影響下とはいえ、こうして外モンゴルでは一応の「独立」が達成されたのでありました。
先走りますが、外モンゴルはソ連の崩壊を待って「人民共和」ナシのモンゴル国となりました。
内モンゴルでは
辛亥革命の前年、外モンゴル(現在のモンゴル国)はジェプツンダンパ8世(ボグド・ハーン)を君主にして独立を達成し、曲折を経てモンゴル人民共和国(現在のモンゴル国)となりました。
一方の内モンゴルは曲折を経ている間に「中華民国」の一部にされてしまい、独立どころか自治権さえ認められませんでした。
中華民国が人民共和国に変わっても「内モンゴル自治区」のままであり、「自治」も名ばかりで支那人に支配されたままです。
漢人は弱そうな者には強いのです。
その内モンゴルには一人の男がいました。名前を「徳王(デムチュクドンロブ)」といいます。
徳王は内モンゴルのチャハル部の王公の一人でしたが、内モンゴル・外モンゴルどころかロシア領になっていた北蒙(ブリヤート)まで統一して「大モンゴル」を再興する「汎蒙古主義」を夢見ていました。
ブリヤートはコサックの火力に屈してロシアに取られましたが、最もモンゴルらしい気風を残した地である、されていました。
「モンゴル独立」は3つに分けて考える
ここで少しお断りしなければなりません。
私たち日本人が「蒙古独立」を考える時、蒙古を3つに分けて考えなければ理解しがたいと思うのです。
一つ目は、たぶん一番幸せだった外蒙古。清朝が出来たとき「別に女真とは同盟してないけど?」だった人たちです。
この人たちは苦労はしましたが、早くから独立を達成して、今や赤い呪縛からも解放されたことは既に書きました。
二番目がいまお読みいただいている内蒙古、「女真と同盟してた」人々。
この内蒙古の人たちが、住んで(遊牧して)いた場所の関係で三番目の「満州国内の蒙古」と分断?されてしまったのです。
三番目が「満州国内の蒙古」で、冒頭のジョンジョールジャブたちがその代表です。
二番目と三番目の蒙古はあまり分けて考える人は少ないのが現状です。
時期も限られてますし、大東亜戦争が終わってしばらくすると支那共産党の魔の手に絡められてしまうのは同じですので、致し方ありません。
「中国」からの独立
その「中華民国内の内モンゴル」で独立を目指した徳王は、1934年に「百霊廟蒙政会」を組織し、国民政府(中華民国)に対して完全独立の前段階である「高度な自治」を要求します。
しかし蒋介石率いる国民政府は様々な屁理屈をつけて「百霊廟蒙政会」の自治を認めませんでした。
徳王は1931年の満州事変をきっかけとし、かつての「同盟者」である女真を主人公にして、支那大陸に勢力を築きつつある大日本帝国と結び、「中国」からの独立を勝ち取ることを考えます。
大日本帝国と連絡を取った徳王と内モンゴルの指導者(雲王など)たちは1936年2月10日、関東軍の支援を受けて「蒙古軍政府」を樹立します(翌年には蒙古連盟自治政府と改称)。
徳王は総司令・総裁に就任して支那軍と戦闘を交えますが敗退しています(綏遠事件)。
この時、内モンゴルには同じく日本の支援の下に、察南自治政府・晋北自治政府が樹立されましたが、1939年に三つの自治政府は統合して「蒙古連合自治政府」になりました。
「蒙古連合自治政府」は独立国への第一歩を踏み出した…ように見えたのでありました。
盧溝橋事件の後に大日本帝国は内蒙古方面への進出を本格化しています。
昭和12(1937)年10月17日に包頭を占領、徳王や雲王はこれに呼応して10月28日に厚和(綏遠を改称した町)で「蒙古連盟自治政府」を成立させます。
雲王が主席となりましたが翌年3月に病没すると、徳王が後任の主席として独立運動を推進することになります。
昭和13(1938)年10月に徳王は準国賓待遇として訪日し、天皇陛下に拝謁したうえ、勲一等旭日章を受勲しています。
「蒙古連合自治政府」の首都は張家口に置かれ、カタチの上では汪兆銘政権(蒋介石政権に対抗する親日政権)下の自治組織でした。
大日本帝国は英米から援助を受ける蔣介石の抵抗に手こずり、安易にモンゴル人を漢人から独立させることができなかったのです。
直接モンゴル人を援助している関東軍の現場の将校たちの間でも、独立支持派と「自治程度で十分じゃん派」がありました。
昭和16(1941)年2月に至り、徳王は二度目の大日本帝国訪問を行いました。
目的は「蒙古連合自治政府」を国として承認してもらうことでしたが、日本の同意は得られぬまま帰国。
1943年11月、東條首相は大東亜共栄圏の首脳を招いて「大東亜会議」を開催するのですが、徳王は招待されることはありませんでした。
バボージャブ将軍
冒頭の「叛乱」の首謀者、ジョンジョールジャブ(正珠爾扎布)は「満蒙独立運動」の軍事指導者だったバボージャブ将軍の3男です。
外モンゴルでボグド・ハーン政権が樹立され、内モンゴルの人たちも政権へ合流した事は前述しました。
バボージャブもその内の一人で1912年8月28日の夜、一家と数十名の兵士たちを連れて内モンゴルを脱出。
ボグド・ハーン政権のもとへ合流し、南方方面営長(大隊長)となりました。
1913年にボグド・ハーン政権は内モンゴルに「支那からの解放軍」を派遣するのですが、バボージャブは南東方面の軍指揮官となっています。
しかしこの年の11月の露中宣言でロシアは外モンゴルに対する中国の宗主権を認めてしまった事も前に書きました通りです。
その結果、ロシアの圧力を受けたボグド・ハーン政権は内モンゴルの各地に派遣していた軍隊を引き揚げることになってしまいます。
続く1914年から1915年にかけてキャフタで開催された露蒙中の三国会談で、モンゴルは中国の宗主権を認めさせられたのですが、バボージャブはキャフタ協定など受け入れられぬ、と考えていたようです。
ボグド・ハーン政権が軍を引き揚げた後も、バボージャブは全モンゴル統一のため内モンゴルに留まっていたのです。
ボグド・ハーン政権はバボージャブ軍に対して討伐軍を派遣することになりました。
モンゴル独立を強く希求したバボージャブはボグド・ハーン政権に対する反逆者となってしまったのです。
興安軍官学校
1915年6月、バボージャブは配下を日本へ派遣して軍資金や武器弾薬の援助を求めました。
バボージャブの要請に対して大日本帝国は動かず、満蒙独立運動をしていた川島浪速が個人的に援助に乗り出しました。
川島は大倉財閥からの資金と軍部から武器弾薬を手に入れ、大陸浪人や予備役軍人などを募って内モンゴルに派遣したのです。
1916年7月下旬、ハルハ川河畔から奉天を目指して南下したバボージャブ軍約3000は張作霖軍との戦闘を開始、激戦が続きました。
戦闘はバボージャブ軍有利に展開したのですが、日本政府は袁世凱の死去もあって独立計画を止める方向に動いていました。
川島浪速に説得されたバボージャブは張作霖軍との戦闘を続けながら内モンゴルへ引き上げることになり、本拠地のウジムチンを目指しました。
バボージャブ軍はウジムチンのすぐ南の林西城を行きがけの駄賃に落しておこうとしたのですが、騎馬突撃をおこなった際に機関銃の掃射を受けバボージャブが戦死してしまったのです。
バボージャブ軍はそのまま雲散霧消してしまいました(第二次満蒙独立運動)。
川島浪速はこのバボージャブの戦死に大きな衝撃を受け、責任を感じたようです。
バボージャブの遺児を引き取り、日本で養育したのです。ジョンジョールジャブは3男でしたが、長男はのちに行方不明となってしまいます。
次兄は、同じく川島に庇護されていた清朝の公女で日本名を川島芳子と名乗っていた女性と結婚しています。
そう、「男装の麗人」の最初の夫になっているのです。
結婚生活は3年ほどしか続きませんでしたが、バボージャブの遺児が大切にされていたことが判るではありませんか。
ジョンジョールジャブは3男ながらもっとも軍事的な才能に恵まれていたようです。
陸軍士官学校(大日本帝国の、ですよ)を卒業して軍人となり、満州国が成立すると満鉄の幹部に迎えられ、満州国版の士官学校「興安軍官学校」の設立に尽力したりします。
しかし彼の本懐は「モンゴルの独立」であって、満州国内でいくら好待遇を受けても満足することは出来ませんでした。
大日本帝国のために力を尽くしながら、「モンゴル独立」の方策を巡って何度も周囲の日本人と衝突を繰り返していました。
冒頭の「叛乱」を起こした満州国軍も興安軍官学校の卒業生でしたし、ノモンハンで大日本帝国軍を助けてソ連・モンゴル人民共和国連合軍と戦ったのも興安軍官学校の生徒たちからなる部隊だったのです。
なぜ独立を認めなかった?
こうして見てくると、外モンゴルはソ連の影響下で一応の独立を果たしたのに、内モンゴルは満州国内、支那国内ともに大日本帝国の影響下にありながら、ついに独立することは出来ませんでした。
これは大日本帝国が置かれた国際情勢もありましたが、日本政府・国民のモンゴル独立への無理解も大きかったと思います。
モンゴルの人たちは「漢人・支那人」の支配下にあることを絶対に受け入れることができなかった。逆に言えば女真と対等だったり、(一時的に)日本人の下風に立つことは余り気にしなかったようです。
さらに、彼らの生活する土地は誰から奪ったわけでもなく、元々彼らの土地でした。
どうも大日本帝国の政権中枢はそのことの理解が出来ていなかったようです。上手く立ち回れば「漢人政権」を大きく掣肘するチャンスだったのですけれど。
もし、内モンゴルの独立(カタチの上では満州国から、実質的には漢人支配から)を大日本帝国として認めて促進していたら?
モンゴル人たちは大東亜戦争の敗戦で、素直に中華民国や中凶なんぞの支配下に戻ったでしょうか?とてもそんな事は想像できないんですけれど。
その後
大東亜戦争が日本の敗北に終わると、徳王は進退窮まり外蒙古に亡命します。徳王にはアメリカに亡命する手段もあったのですが、同じ民族のもとにとどまる道を選んだのです。
しかし「モンゴル人民共和国」は徳王を逮捕して中凶に渡してしまいます。
ジョンジョールジャブはソ連に降伏後、ハバロフスクの収容所へ収監されましたが、やはり中凶に渡されてしまいます。
撫順戦犯管理所に収容されて思想改造を受けた後、国営営林場の労働者にされてしまいました。
ジョンジョールジャブは作業の合間に『わが半生の思い出』『父・巴布扎布のこと』などの手記を残したのですが、文化大革命が始まると反省室に隔離され、営林場の菜園の樹に縄をかけ、首を吊って自殺してしまいました。1967年11月中旬のことと伝えられています。
時は流れて1995年1月22日。夕闇せまる関西国際空港に大型旅客機が着陸しました。降り立った乗客はたった一人、モンゴル国のプレブドルジ副首相でした。
日本とモンゴルには定期便は飛んでいませんから、モンゴル国は特別機を仕立てて副首相を我が国に送り込んだのです。いや、送り込んだ目的は副首相ではなく「援助物資」でありました。
5日前の1月17日に我が国を襲った未曾有の大災害「阪神淡路大震災」は、モンゴルでも大きなショックを全国民に与えていました。
モンゴル政府は21日の朝に臨時閣議を開き、救援物資を送ることを決めて下さったのです。
送るだけではなく、防災担当の副首相を指揮官にして一刻も早く届けるために政府特別機を出してくれたのです。
一月の気温が氷点下50度になろうかと言う国の人たちは、寒さに震える日本の被災者がよほど心配だったのでしょうか。
モンゴルは失礼な言い方ですが、貧しい国です。援助物資は僅かに毛布2100枚と手袋500双。
その焼石に水のような、スズメの涙みたいな援助物資を一時間半かけて荷下ろしすると、プレブドルジ副首相は接待しようとする外務省高官に「長居をして迷惑を掛けたくない」と言い残して引き返してしまったのでした。
モンゴルには「困難に直面する時こそ、友人の価値が分かる」と言うことわざがあるそうです。
私たちのご先祖は、モンゴルの人たちが困難に直面している時に徹底的な援助をついになしえませんでした。
もちろん国力の限界もあり、国際情勢もあって、恥ずべきことなんかではありません。
ないからこそ、モンゴル国の人びとも(ソ連の影響下にあった時でさえ)日本人の友達でいてくれたのですから。
それでも、間違った対応であった事は確かですよね。反省しなければなりません。次こそモンゴルと手を結んで勝つために。