花の旅団1~落ちこぼれ旅団長登場

浅草の凱旋門

時は明治37(1904)年の10月であります。
大日本帝国陸軍は前月末からの「遼陽会戦」でロシア軍を打ち破り、要衝都市の遼陽を占拠したのですが…

やはり国力が

もともと大国ロシアと大陸で覇を争うには、少々国力に余裕がなかった大日本帝国。
遼陽を占領・確保したものの、兵員や物資の補給には苦労しておりました。

ロシア軍はこの隙をついて反撃に転じやがりました。
明治37(1904)年10月に入り、ロシア軍は奉天から大兵力を南下させ始めたのです。
特に態勢を立て直した、ってわけでも無い様です。

この攻勢の直前に、ロシア帝国は満州での陸軍の指揮を、それまでの
「アレクセイ・クロパトキン将軍指揮」から
「オスカル・フェルディナント・カジミーロヴィチ・グリッペンベルク(もう一回出てきたら単にグリッペンベルクと書きます)とアレクセイ・クロパトキンの二人で指揮」
に変更することを決めていたんです。

日露戦争の戦場

日露戦争の戦場

 

先任のクロパトキンとしては、「お前だけでは心もとない」って言われてるみたいで、あまり気分は良くないですよね。

そこでクロちゃんは、グリッペンベルク君が着任する前に大日本帝国軍を叩いて、自分の有能ぶりを見せつけてやろう!って思い立ったんでしょう。

日露両軍は遼陽会戦後、沙河をはさんで対峙していました。

帝国陸軍としては、(大きな声では言えませんが)兵力も弾薬も糧食も不足して追うに追えず。
ロシア側(ってかクロちゃん)としてはあんまりズルズルと後退しては本国の覚えが悪くなる。

お互いに「了承済み」みたいな、一種の休戦状態であったのですが…
前記のごとき黒鳩菌将軍のご都合によって、ロシア軍の攻勢が始まったわけであります。

このとき、日本軍の右翼に位置していたのは第一軍であります。
第一軍は名将・黒木為楨大将の指揮する、当時の帝国陸軍最強部隊。

その第一軍陣地のうち、最もロシア軍陣地に向かって突出していたのが、本渓湖付近の「近衛後備混成旅団」であります。

黒木為楨

黒木為楨

 

ちょっと判り難い用語が続いてますので、解説をします。
たぶん、「そんなん、常識やろ!」って方も多いと存じますが、確認がてらお付き合いのほどを。

まず、「近衛」って言いますのは五摂家の一つ…ではありませぬぞ。
明治維新時の「御親兵」をルーツとする、基本的には「天皇陛下と宮城の守護」を任務とするスーパー・エリート部隊であります。

帝国陸軍は「連隊区」という、それぞれの特定の地域からの徴兵によって連隊を構成していました。
その連隊が集まって師団になるわけですが、大日本帝国陸軍はあくまでも連隊が基本なんです。

その証拠に、命より大事(これは嘘ですけどね)な「軍旗」も、連隊の創設時に天皇陛下から直に賜るのであります。

近衛師団は基本任務が「禁闕守護」でしたから、衛戍地(軍隊の半永久的な駐屯地)は東京市(だいたい23区内だと思うぞ)内になります。

御親兵を率いて鹿児島に入る明治大帝

御親兵を率いて鹿児島に入る明治大帝

 

しかし他の師団とは異なり、近衛師団を構成する各連隊は「連隊区」(普通だと東京近郊=東京だけではありません)によるのではなく、大日本帝国の全国津々浦々から選抜した兵士で充足されたのです。

徴兵検査に合格した大日本帝国の若人にとって、近衛兵になることは大変な名誉だったのです。
軍服すら少々デザインが違ってたし、何よりほかの師団では考えられない「新品」が支給されたんだからな(笑)。

後備

続いて「後備」であります。コレは兵役の一種を言います。

おパヨさん的に表現すると、
「国民に無理やり銃を取らせて戦場に追い立てる」
法的根拠は徴兵令でありますな(笑)。

お怒り召さるな、電脳大本営はそんな風には考えておりませぬぞ。

たびたび指摘させて頂いてるように、兵役は(時期にもよりますが)豊かではない層にとって、有力な就職先であり、階級上昇の手段でもあったんですから。

それはさておき、徴兵令は数次の改正を経まして、明治22年には兵役が「常備兵役」「後備兵役」「国民兵役」に三分されています。

近衛歩兵第一連隊の軍旗

 

このうち「常備兵役」はさらに「現役」と「予備役」に分かれていました。
現役は陸軍が3年で海軍が4年。予備役は陸軍が4年、海軍3年です。

陸海ともに7年間の「常備兵役」が終わると、5年間の後備兵役につきます。

最後の国民兵役ってのは17歳以上40歳未満の「兵役に就いてない男子」が対象です。
此処は、パヨさんたちが決して知らない(フリをしてる?)ポイントですよ。

基本的にお金のない大日本帝国、特に陸軍は「少数精鋭」主義でしたので、徴兵検査に合格した人でも「入営」する人は20パーセントほどしかいませんでした。

この比率が上昇し始めるのは「日支戦争」が思うように行かなくなって(つまり戦線が拡大しちゃって)からです。ちなみに、入営する2割を決めるのは基本、抽選ね。

ですから、日露戦争の時期に「国民兵役」に就いてる人は、戦争に直接参加することを期待されてませんし、生涯にわたって全く訓練を受けてないので、参加したって邪魔になるだけです(儂は国民兵役を馬鹿にしてんじゃないぞ。銃後で生産に勤しむことも、立派に国のためじゃ)。

徴兵検査の様子

徴兵検査の様子
ケツのたるんだヤツが一人もおらぬ。
立派なご先祖方である

 

コレに対して、後備役の人は(予備役も)平時には毎年一回の簡閲点呼と60日以内(一年じゃなくて5年で60日)の「勤務演習」のための召集がありました。

一度は「現役」を経験してますし、諸外国に比べて非常に短い勤務演習ではありますが、訓練も続けてるワケですから、まあ戦陣も務まるかな?と。

それにしても、20歳で徴兵検査に合格し、23まで現役、その後シャバに戻って就職する傍らで予備役を4年。

予備役から後備兵役に移るころには、結婚もして子供も生まれてるだろうし、体力も無くなってるだろうし、戦意も戦力もかなり落ちる、ってのは間違いないでしょうね。

つまり、後備兵役の人たちをピンチの時に招集して、急遽編成する部隊は「二線級」「当てにならない」部隊だと認識されていたのであります。占領地の治安維持・補給路確保が主任務、みたいな。

本渓湖付近の「近衛後備混成旅団」は、当てにならぬ二線級のくせにロシア軍に向かって張り出してた、ってことです。
こんなところにも、帝国陸軍の苦しい台所事情が読み取れます。

旅団

近衛後備まで来ましたな、あとは旅団です。一緒に「混成」も書きますよ。

旅団、って言いますのはぶっちゃけて言うと「師団の半分」であります。その師団だって、国により時期により、さまざまな形がありますが。

極端に言うとその兵員数5000人強から20000人超まで、千差万別なんです。
まあ、ナポレオンまで遡ってあれこれ言うても(それも「参謀本部」絡みでやると面白いと思いますが)「花の旅団」には行きつきませんので、帝国陸軍の場合だけ。

帝国陸軍の師団は、世界的に見ても大きな規模の部隊でして。戦時になると20000人前後の兵員数になります。

日露戦争当時の帝国陸軍の師団って言いますのは、4単位師団です。4単位ってのは隷下の歩兵連隊が4個ってこと。

連隊はだいたい平時の兵員数1000名(戦時編成だと倍増)くらいで大佐の連隊長が指揮。
この連隊2個を合わせたのが「旅団」です。

日露時師団編成

日露戦争時の帝国陸軍師団の基本編成

 

で、師団ってのは旅団が2個で構成されてたワケですが、それだけではありません。
師団を構成する兵員のおよそ6割が「歩兵」とされていまして、歩兵はほぼ「連隊」に所属しています。

つまり残り4割は?って話でして。

残り4割は砲兵・騎兵・輜重兵・工兵・通信兵・衛生兵・司令部要員などであります。司令部を除いてそれぞれ、歩兵連隊とは別の部隊を構成しています。

そうなんです。大日本帝国陸軍は師団のレベルで、初めて「各科混成」の部隊となるのです。

余談ですが、私が「師団は最小の戦略単位」と申し上げるのはコレが理由であります。

以前こう言ったときに、某警察大学校の教授(某東洋経済に安全保障関連の連載を持ってやがりました)が孑孑(ぼうふら)のごとく沸いてきて、
「2万人程度では兵力量が少なすぎて戦略単位とは言えぬ」
とかホザキやがりました。

アホめ、輜重や通信・衛生などを随伴してれば本国から隔離されてる地域で長期間に渡って陣を張れる。
だけどね、兵力が20万人になっても、歩兵(正面兵力)だけでは、「孤立して戦闘」などは出来ねえんだよ!
だから、師団こそが戦略単位なんだ…って殺虫剤を振りかけてやったら、何処かへ行ってしまいましたが。

まあ、日本のエリート官僚ってのはこの程度…いや、軍事を曲がりなりにも語れるだけ、マシな方かな(例外は無論あります)。

厚生労働省宴会課長

オマケ画像
厚生労働省の宴会課長
コレでも首にならんから、役人は益々増長する

 

ごめんなさい、恒例の脱線でありました、元に戻ります。

師団のレベルで、初めて「各科混成」の部隊となる…ってことは「旅団」は戦略単位とはなりえない、ってことになります。

この弱点を補強したのが「混成旅団」なのであります。

本題の「近衛後備混成旅団」を例に、その建制を見てみましょう。

近衛師団は第一次動員(明治37/1904年2月4日)で戦時編成となります。戦時編成になる、ってのは兵力が増えるのね。そのうえで第一軍隷下で出征、4月末から鴨緑江渡河。

その間、東京では留守近衛師団(主力が出征した後の衛戍地防護などを任務としています)隷下で後備部隊の編制が進められました。
5月の末には「近衛後備歩兵第一連隊」「近衛後備歩兵第二連隊」の編制が完了しています。

この2連隊で「近衛後備歩兵旅団」を構成して、主力の第一連隊は宇品港から「常陸丸」に乗船します。
ピンときた貴方、正解です。

悲劇に続いて継子扱い

「常陸丸」は明治37年6月15日に玄界灘で、ロシア帝国海軍のウラジオストクを根拠地とする装甲巡洋艦「ロシア」「リューリク」「グローモボイ」の3艦に捕捉・攻撃されて沈没してしまうのです。

常陸丸

常陸丸

 

「常陸丸」は敵艦隊を発見すると逃走にかかったのですが、早々に機関部に直撃弾を受け、接近を許してしまいます。
近衛の後備兵たちは勇敢にも小銃で抵抗を繰り広げますが、コレは蟷螂の斧とでも言うべきでしょう。
後備兵も船員も次々に倒れ、イギリス人の船長ジョン・キャンベル氏や機関長も相次いで戦死。

第一連隊長の須知源次郎中佐はこれ以上の抵抗の不可を悟り、軍旗奉焼を命じます。
ただし、軍旗を奉じていた藤崎乕一陸軍二等卒に対しては「生き残って事の仔細を報告せよ」と厳命。

コレは旗手が責任を感じて自決することが無いように、という配慮です。

この直後に敵弾が須知中佐の近傍で炸裂、中佐は重傷を負いますが、切腹して果てます。
残った将校も切腹・拳銃・あるいは自ら海に沈む、と言った手段で自決。

生存者はフネの乗組員や他部隊の人員含めて僅か147名でありました。

須知源次郎中佐

須知源次郎中佐

 

先発して無事に満洲に着いた第二連隊と第一連隊第一大隊の一部は、旅団司令部と合流の上、現役の騎兵中隊・野砲兵中隊(野砲6門)・工兵中隊それぞれ一個を編合。

6月下旬に「近衛後備混成旅団」の編制が、ついに成ったのでした。

つまり、「混成旅団」とは、通常の歩兵旅団に、小規模ながら他兵種を組み合わせて「戦略単位」としたもの、と言って良いでしょう。

近衛後備混成旅団は第一二師団に追随して北上を始めたのですが、初代旅団長の酒井元太郎少将が、行軍中に落馬して重傷、後送されてしまいます。

後任の旅団長には、留守第五師団付で待命中の梅沢道治少将が任命されました。

「留守師団付で待命中」で判るように、梅沢は「少将」と言っても、定年満限の名誉進級です。
直前は近衛歩兵第四連隊長でしたから、「近衛のことが良く解っている」とでも言うのが抜擢の理由だったかも知れません。

しかも、近衛歩兵連隊を率いていた頃は、師団長の長谷川好通中将に疎まれ、勤務評定では酷評続きだった人です。

戦時の応急人事、という他ない任命でありました。結果的にはこの人事は大当たりを取るのでありますが。

そんなこんなで、近衛後備混成旅団は満州で「虐められ」ます。

戦場の進軍途上で「虎の子」とも言える野砲兵中隊を引き抜かれ、主力の筈の近衛後備第二連隊も召し上げられ、代わりに後備第二九連隊を廻される…という、戦力どうこうよりも「部隊としての建制」がズタズタになるような扱いを受けちゃったのであります。

今で言うたらパワハラ全開であります。

31年式速射砲

31年式速射砲
野砲兵中隊が装備していたのは、たぶんこの砲です。

 

現代のパワハラにだって、する方にもそれなりに(勝手な)理由があるように、近衛後備混成旅団を虐めるのにも、それなりの言い分はありました。

有力な砲兵隊や連隊は、どうせ役に立たぬロートル(このとき梅沢は52歳)旅団長に使わせることはない、ってモンです。

梅沢旅団長はこんな虐めを受けつつも、行軍しながら麾下の後備兵たちを強くしていくのでありました。

次回、ロートル旅団長は帝国陸軍の「エース」に化けます。

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