花の旅団2~戦の香り

浅草の凱旋門

帝国陸軍それもエリート部隊・近衛師団で冷遇され続けた男が、臨時で旅団長に任命された「二線級旅団」。
兵力不足に悩む大日本帝国にとっては大事な「戦力」であったのですが…

名将此処にあり

梅沢道治少将指揮の近衛後備混成旅団は、第一二師団に後続して指示を受けつつ北上を続けます。

明治37年の8月には遼陽の東で太子河の線にアタマを出しました。

8月末には遼陽会戦への戦機が動き、近衛後備混成旅団は太子河を渡河してロシア軍の側背を攻撃することになります。
ところが、ロシア軍もこの動きを読んでいたのです。

梅沢旅団が渡河するのを見透かしたように猛攻を始めました。

それでも、帝国陸軍全体の作戦を考えれば、是が非でも遼陽に向けて急がねばなりません。

梅沢は後備歩兵第四連隊長の率いる一個大隊だけを残し、迂回して遼陽に向かうこととします。

遼陽で指揮を執る黒木大将左

遼陽で指揮を執る黒木大将(左)

 

ところがこの連隊長は、
「一大隊では到底守り切れません。自分の部下全部と砲兵を残して下さい」
と主張。
連隊長の言を容れれば、隷下旅団兵力の1/3を割かねばなりません。
そんなことをすれば、遼陽の側背を襲うことなど、とても出来無いのです。

梅沢の決定は簡潔でした。

「よろしい、任務を達成しないでもいい。ただ死んでくれ、わしも死ぬ」

連隊長も、これには二の句が継げませんでした。
旅団は一大隊に砲二門だけを残して転進を開始します。

残された部隊はわずか一大隊で優勢な敵の攻撃を食い止めたのでした。
(以上を含め、梅沢のエピソードの大半は副官だった荒木貞夫の文章に拠ります)

梅沢道治は陸奥国仙台藩の藩士・梅沢道貞の二男として生まれました。
戊辰戦争では星恂太郎(この人、面白いですよ)率いる「仙台藩額兵隊」の隊士として参戦、箱館戦争まで戦い抜きます。
明治2年(1869年)5月に捕虜となり、流罪。

榎本 武揚

「函館戦争」の首謀者榎本 武揚

 

釈放された後も、元・朝敵ってことで故郷には受け入れてもらえず、明治4年(1871年)1月に大坂陸軍兵学寮青年舎で陸軍軍人の道へ。

軍隊ばかりじゃなく、政府が薩長閥に牛耳られている時代です。仙台出身で元賊軍の梅沢が、出世できるワケがありません。

それでも西南戦争(明治10/1877年)に従軍したのを皮切りに「実務派」軍人としての才能を開花させます。

長い陸軍軍人の経歴の中で、梅沢のデスクワークは陸軍省人事局課員を短期間経験しただけ。あとは連隊付や副官、中隊長・大隊長を歴任。
日清戦争では第2軍兵站司令官として出征、明治33(1900)年3月、近衛歩兵第4連隊長に就任。

しかし、前述のごとく上司に嫌われて大佐で退役か?というところを、名誉進級で陸軍に残してもらい日露戦争にも従軍…っていう人であります。

梅沢道治

梅沢道治

 

戦場に出してみると、梅沢は予想以上の「現場の人」でありました。
特に才能を発揮したと思えるのは、「部下の戦力化」という部分ではないでしょうか?

梅沢が指揮を執ったのは、兵員の質に劣るとされる「後備兵」です。それも、戦場で旅団長交代。

つまり、後方で兵を鍛え上げ…ってことなどは、梅沢には出来ません。

質の悪いの(酷い言いざまで申し訳ありませぬ)を、梅沢少将は「言葉一つ」で精兵に変えちゃうのであります(もちろん、指揮の適確なこともありますよ)。

こういう人こそ、電脳大本営的には「名将」と言うのであります。

梅沢少将は常に部下を信頼し、現役兵に負けない「自信」を持たせることを意識していたようです。
士気の維持にも気を配り、兵士が気軽に歌える「部隊の歌」まで作っています。

また梅沢自身も無類の「いくさ上手」であることを実戦で示し、部下から絶対的な信頼を得たのでした。

第一二師団の指揮を受けて北進中の事でした。

師団は命令を出すモノの、兵站の方は全くかまってくれません。
仕方ないので旅団が自分で糧秣を貯めて第一線へ出よう、ということになりました。食い物が無ければ戦など出来ませんからね。

しかし、軍の購買には「牛は○十円、馬車は△円」というような細かな購入規定があります。
売る方の現地の人は巡ってきた大チャンスに、一円でも高く売りたい。
旅団副官以下は大いに困ってしまいました。

そこで梅沢旅団長は、
「2円や3円の細かい値段など気にするな。食糧が無くて負けたら破産じゃん。勝てばいいんだ、高くても構わん、どんどん買え!」

おかげで近衛後備混成旅団は必要な糧食類を買い込むことが出来、やっとのことで第一線に出られたのです。

副官の荒木の文章によれば「糧食の持参金付で第一線に加入を許された」ようなモノ。

帝国陸軍の悪しき官僚主義丸出しvs現場第一主義みたいなエピソードでありますが、梅沢の横紙破りはこんなモノでは収まらなかったようで。

匍匐(ほふく)前進で進む歩兵第45連隊の兵士

匍匐(ほふく)前進で進む歩兵第四五連隊の兵士

 

たとえば、部下が機密書類を紛失してしまっても
「そんなモン構わん。焼いたとでも報告しとけ」
細かい規定には極めて無頓着(な態度)を貫いたそうです。

この旅団長の「気遣い」によって、梅沢旅団は自由闊達な戦闘を繰り広げることが出来たのです。

その上梅沢は末端の兵隊さんたちに、すこぶる優しかったのです。

ある時、暗夜の宿営地で他師団の輜重兵が荷駄を引いて通りかかりました。梅沢は就寝前とて、支那服を着用に及んでいました。

輜重兵は傾いてきた荷物を直そうとしたのか、道端に立っている支那服のオッサンに、
「おい、ちょっと手綱を持っといてくれんか?」
梅沢少将は気軽に
「おう、いいよ。ゆっくりやってくれ。」

下士官や兵から見たら、いくら定年寸前を何とか助かった人でも、少将の旅団長なんて「雲の上」も良いところです。

住んでる世界も見える風景も違うんですけれど、梅沢は一切構わなかったようです。
おそらく梅沢には判っていたんでしょう、「実際に戦うのは兵隊さんだ」ってことが。

こういう兵隊さんたちの噂話は、あっという間に広がるモノです。
また、こういう指揮官の元では、部下の将校たちも下士官・兵を大切にせざるを得ません。

大切にされた下士官・兵は、大切にしてくれた上官のために死力を尽くすのです。

こうして近衛後備混成旅団は「精兵部隊」となっていったのでありました。

沙河会戦

遼陽の会戦後に反撃にでたロシア軍。

情けない理由はいろいろあるモノの、さすが大陸国の陸軍だけあって、重厚な戦力を投入してきます。

ロシア軍は山岳部に布陣する日本軍右翼を突破し、その後方に回り込んで兵站線を遮断、さらに押して日本軍全体を攻囲する作戦。

沙河会戦

沙河会戦

 

日本軍は第一軍を右翼として、その最右翼かつ最も突出していたのが梅沢旅団でありました。
ロシア軍の攻勢を察知した満洲軍は、その第一軍を「軸」にして第二軍・第四軍を旋回・北進させ、ロシア軍の中央を突破することを目指します。

目指すのは大山司令官の裁量内のことですので、電脳大本営が「あーだこーだ」言う筋合いではありませぬが、このやり方だと第一軍がロシア軍の攻撃を持ちこたえられなきゃ、一挙に戦線は崩壊しますな。

大国ロシアと違って、大日本帝国には予備兵力なんて「ほぼ」ありませんから、一敗がそのまま支那大陸撤退に繋がりかねないのです。この「作戦」は大博打です。

ってか日露戦争の陸戦って、ほとんど大博打の連続です。
大博打を打ち続けなければ、元手に大差があるんで降りることすら出来ない…ってのが実相だと思います。

私たちは勝った史実を知ってるから、冷静に戦闘ぶりを振り返ることもできますが、やってる兵隊さんや下士官や下級士官や司令部要員や司令官たちは、どんな神経してたんでしょうか。

偉大なご先祖に、今夜も一献捧げることにいたします。

第一軍司令官の黒木大将は、ロシア軍の攻撃を一手に引き受けるために、戦線を整理します。
最右翼で最も敵に近かった梅沢旅団を本渓湖まで後退させ、他の部隊も含めて新しい陣地を構成。コレが10月7日でした。

大山巌(満洲にて)

偉大なご先祖その1、陸の大山(満洲にて)

 

このとき、荒木副官は糧食と弾薬を運ぶ準備をしなければ…と「一日待って退却しましょう」進言したそうです。しかし梅沢は

「いまの状況では、『退却の香り』が敵に伝わる」

として具申を認めず、即座に退却を命じます。

梅沢の長い戦場往来による「カン」の為せる技だと考えられます。

一方で梅沢は毎日のように伝令1人を連れただけで、司令部そばの高地に登っては敵情を観察していた、とも言われています。
つまり、綿密な偵察が梅沢の判断をサポートしていたのだろう、と思うところです。

まあ、それでも「戦の香りが伝わる」ってな表現は、凡人には出来ねぇっすね。

10月8日、ロシア軍は本渓湖に攻撃を集中しました。
本渓湖は日本軍の補給集積地になっていまして、梅沢旅団はこれ以上後退することは出来ません。

しかし、攻撃してくるレンネンカンプ将軍率いるロシア軍の兵力は優に3倍を超えていました。

梅沢旅団は寡兵ながらも必死で守りました。
激闘に次ぐ激闘が3時間あまりも連続し、ようやく撃退に成功。

黒木為楨

偉大なるご先祖の2
第一軍司令官・黒木為楨大将

 

しかし翌日。ロシア軍はさらに増強された戦力で梅沢旅団に襲い掛かりました。

梅沢旅団は悪戦苦闘を重ねます。苦戦しながらも旅団は一歩も下がらずに本渓湖陣地を死守。
この戦況を見た第一軍司令官黒木為楨大将は、第一二師団と騎兵第二旅団を援軍に送ることを決意。

特に騎兵第二旅団は機動力も攻撃力も強力で、軍の総予備ともいえる部隊です。
コレを出した後に、他の部隊や地域が危地に陥っても救援手段はなくなってしまいます。

しかも、この騎兵第二旅団の旅団長は閑院宮載仁親王殿下。皇族軍人も良いところでありまして、旅団の上から下まで「切り札中の切り札」だったのです。

その切り札を投入する、ってことで梅沢旅団の守る本渓湖陣地の重要性が判ろうってモノですね。

閑院宮旅団長は大日本帝国軍の最右翼をさらに迂回します。

閑院宮は、この迂回行軍中も機関銃に三脚架を付けたままにするように指示、好機に即座に攻撃発起できるようにしていたそうです。

撃退

梅沢旅団が辛くも守り続ける本渓湖陣地付近で、ロシア軍の左側に出た騎兵第二旅団。

閑院宮旅団長の命により、機関銃の猛射撃下で騎兵突撃。
この突撃に、さしものロシア軍も大混乱に陥り、退却していきます。

この退却がロシア軍の作戦企図(日本軍右翼を突破して旋回、日本軍を包囲する)を大きく狂わせてしまいます。

その後も1週間にわたって日本軍と衝突を繰り返すのですが、「引き癖」の付いたロシア軍に、作戦の根本的な立て直しをする力はありませんでした。

閑院宮載仁親王

閑院宮載仁親王

 

閑院宮旅団長が「騎兵突撃」を敢行した原野は、のちに「宮の原」と呼ばれるようになりました。
宮の原は近くを通る鉄道「安奉線(安東~奉天)」の駅名にもなっています。

この戦いで、閑院宮載仁親王殿下以上に名を挙げたのが、梅沢道治少将であったことは、言うまでもありません。

梅沢が率いていたのは二戦級の後備旅団、それも現地入りしてから砲兵隊を取られたり、主力の連隊を入れ替えられたり、マトモに補給を貰えなかったりの「いじめられっ子」でありましたから。

この後備兵の旅団が、定年寸前の落ちこぼれ旅団長に率いられて、満州に展開する全軍を救う防衛戦を展開したのです。

梅沢が自信を持たせ、大切に扱った兵隊たちは、自分たちと指揮官の有能ぶりを証明して見せたのであります。

梅沢少将は、このときリューマチを患っていたと言います。しかし「寝ると立てなくなる」と言って椅子に座ったまま、不眠不休で指揮を執ったそうです。

部下には優しく、自らには厳しく。

まさに名将、ビジネスにおいても善きリーダーとして活躍できる人でありましょう。
しかしながら、こういう人は旅団以上のレベルになると、力を発揮しきれないかもね?って言う疑念は捨てきれません。

それ以上になると政治要素が絡んでくるのが、日本的役人界ってモンでありますから。
陸軍だって「軍隊」であると同時に「陸軍省」ってお役所の役人って一面もありますのでね。

後日譚

さてさて、近衛師団長として連隊長時代の梅沢を虐めた、ってか酷評し続けた長谷川好道さんです。

もちろん日露戦争に従軍、梅沢とは別動ですが、ともに満洲の大地で奮闘したのではありますが。

戦争中に近衛師団長を「上がり」、明治37年9月には韓国(半島国のこと)駐剳軍司令官に「栄転」します。

長谷川は梅沢が大活躍して「名将」と呼ばれるようになると、「連隊長時代の勤務評価は、コレを取り消す」と電報を送ったそうです。

陸軍としても、満州軍全体で巻き起こった「華の梅沢旅団」の声に放置もできず、後備歩兵連隊を増強してやることになります。
当時の旅団としては異例の大規模旅団で、歩兵3個連隊の編成というのは、大東亜戦争時の師団(3単位師団)に匹敵する規模です。

増強された梅沢旅団は第一軍の指揮下から満州軍の「総予備」に引き抜かれ、日露陸戦の決勝戦「奉天会戦」では切り札として投入され(る予定だったが、その直前にロシア軍がビビッて退却)るまでに「出世」しちゃうのでした。

功二級金鵄勲章略綬

功二級金鵄勲章略綬

また、これだけの戦功を立てた人をおいそれとはクビには出来なくなって、梅沢は名誉少将(本来は大佐でクビだけど、お情けで将官の名前だけもらう)から中将に進級し、師団長にもなり、金鵄勲章(功二級)も貰うことになります。

長谷川の「評定取り消し」は、これらの栄典のための事前工作だったのかも知れませんが、泥縄感は拭えません。

何より「お詫び」の気持ちをみじんも感じることは出来ません。

まあ、長谷川好道は岩国藩(長州の支藩)の出ですからねぇ(笑)

沙河会戦において、日本軍の参加兵力は12万800人で、戦死者4099人・戦傷者1万6398人。

ロシア軍の方は、参加兵力22万1600人のうち戦死者5084人・戦傷者3万394人・行方不明者5868人の損害を出しています。

日本の同盟国の有力新聞「タイムズ」は、
「ロシア軍の失敗は日本の第1軍最右翼に位置した本渓湖等を確保できなかったことだ」として、間接的に梅沢旅団の戦功を称賛しています。

そんなことより、梅沢らしい後日譚がありました。

奉天を無事に占領した後のことであります。

奉天北方の瓢起屯と言うところで、第一軍主催の陣没兵の「招魂祭」が開かれました。

梅沢旅団の仮装行列

梅沢旅団の仮装行列

 

この余興では、梅沢旅団の兵士ら十数名が女装して大いに注目を集めます。
中には女学生に扮したり、藁を染めたカツラをかぶったりの本格的?な兵も。

女装兵士たちは歌や踊りを披露し、赤穂四十七士に扮して仮装行列をやったりと大はしゃぎ。

そもそも、梅沢旅団は戦争が講和交渉で休戦に入ると陣地内に公園を新設しちゃう茶目っ気ぶり。
しかもその公園の名は「何の園」。

釣り竿を持つ梅沢

釣り竿を持つ梅沢、建物は飛出亭。

 

「なんのその」に建てられた東屋は「飛出亭」と命名されているんです。「飛び出してぇ」ですね、間違いなく。

名将・梅沢道治は休戦中、「飛出亭」を根城に暇さえあれば釣りばっかりしていたそうです。

こういうオッサンが「任務は達成しなくても良いからね、その代わり死んでね」とか、ソフトに言うんだもん。

ゴネてた部下は迫力負けするし、慕ってる部下はより一層発奮するってモンであります。

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