目立たない功績2~一等輸送艦~
大本営の予測を大きく裏切り、連合軍の反撃は昭和17年の8月から開始されました。ガダルカナル島の攻防戦が始まったのです。
大日本帝国海軍はこの苦しい戦いで、ようやく自分たちの認識の甘さを悟ることになります。
損害があって初めて…
強大な部隊を一挙投入した連合軍(米軍)に対して、大日本帝国軍は増援部隊を場当たり的・五月雨式に送ることになってしまいました。
陸軍の部隊の準備が出来ていなかったこともさることながら、ガダルカナル島までのシーレーンが確保できなかった事が大きな原因となったのです。
敵の制空海権のもとの輸送によって、徴用した優秀輸送船ばかりでなく、巡洋艦や駆逐艦にまで大きな損害を被ってしまったのです。
この損害を重視した海軍は、昭和18年4月(ガダルカナル撤退後)になってようやく専用の「輸送艦」を企画することになりました。
輸送艦の企画
ガダルカナル島への輸送で大きな損害を被った第一の原因を、海軍は「速力の不足」であると分析しました。
徴用した貨物船や客船はあくまでも「商用」で、経済性を重視しますから、最大速力はかなり見劣りしてしまいます。
そのうえ船団を組んで行動するので、船団の速力は最も遅いフネに合わせてやる必要があります。
速力が遅いということは、敵の制空海権下を長い間航行しなければ目的地にたどり着けない事を意味しています。
それなら、速度が速いフネを揃えて一気に目的地に辿りつけば…と言う発想ですね。
ガダルカナルでは揚陸中の損害も大きな物がありましたので、兵員・武器・物資の揚陸に掛かる所要時間も短くする必要がありました。
さらに戦争は続いていますから、一刻も早く優秀な輸送艦が必要。急速建造が可能な設計でなければなりません。
これらの要求を満たした輸送専用艦(第一号型輸送艦)が設計され「一等輸送艦」として類別されることになりました。
大日本帝国海軍には他に「一等輸送艦」と類別される軍艦はありません。
基準排水量1500トン・全長89メートル・艦本式タービン1基1軸9,500馬力・22.0ノット・航続距離(18ノット)3700カイリ。
武装;40口径12.7cm連装高角砲1基・25ミリ機銃3連装×3・連装×1・単装(っていうのかな?)×4+爆雷投射機×2~4爆雷40~50発。乗組定員148名。
昭和19年以降には対空・対水上レーダーとパッシブ・アクティブ両ソナーが順次搭載されています。
これだけでは「護衛駆逐艦」のデキの悪い奴ですが、「一等輸送艦」の本領はここからです。
一等輸送艦は各種の物資260トンと最大350名の陸兵を収容し、甲板上に最大5隻の上陸用舟艇(大発+特大発)を搭載。
この大発は完全武装の陸兵70名、または物資12トンの搭載が出来ましたたから、5隻をフルに使えば兵士は一回、物資も5回の往復ですべて揚陸が可能だったのです。
この大発を迅速に海面に下す(泛水する、と言います)為に後甲板から艦尾にかけてはスロープになっています。
このスロープ上の両舷に沿ってレールを敷き、大発は台車に乗せられていて、台車がこのレールに固定されています。
大発は兵員や装備を満載した状態で、レール上を自走泛水してそのまま海面上を航走することが出来ました。
一等輸送艦は13トンデリック一台と7トンデリック二台を2箇所のクレーンポストに配置しています。
兵員を揚陸させて、空荷で帰ってきた大発に対して、1~2回の荷扱いで満載にすることが出来るように設計されていたのです。
輸送艦としては非常に高い22ノットの速力と、これらの揚陸システムを構築することによって、輸送時間と揚陸時間の合計はガダルカナル戦の時の半分以下、場合によっては四分の一以下に短縮することが出来たのでありました。
建造
計画当初、一等輸送艦は「特務艦特型」として計画されましたので、略称「特々」をご存知の方も多いと思います。
昭和19年2月に艦艇類別が改訂されて初めて「輸送艦」と言う艦種が設けられ、これによってこのフネが「輸送艦」に類別されることになったのです。
一等輸送艦は建造が急がれたこともあって、設計に際しては曲面等の複雑な工程はなるべく排除しています。
船体のシアなども、特型駆逐艦以降の惚れ惚れするような優美さはありません。直線の折り曲げ加工で済ませてしまっています。
一等輸送艦の船体で曲線が見られるのは、前述の大発泛水用のスロープくらいのモノです。
艦内も士官室などの区分は設けられず、すべて大部屋。室内もなんの装飾もされず、むき出しの鉄板をただ塗装しただけの仕上げでした。
建造そのものにも工夫が凝らされました。曲面をできるだけ廃しただけではなく、急速建造に適したブロック工法が全面的に採用されました。
艦を四つに輪切りにして、それぞれのブロックを船台以外の場所で工作しておき、一気に船台に並べて電気溶接かリベット工法で接続・完成させるのです。
こうすることで、船台やドッグを効率良く使うことが出来るようになり、建造期間は大幅に短縮されました。
造船所には各ブロックのモックアップも用意され、「現寸合わせ」も効率的にできるように工夫していたのです。
一等輸送艦は46隻が建造される予定だったのですが、鋼材や装備機器の供給不足、造船所工員の員数不足などから敗戦までに完成したのは21隻でした。
第一号艦の竣工は昭和19年5月、21隻目の完成が昭和20年7月でしたが、後になるほど建造スピードは速くなりました。一隻当たりの平均建造期間は僅か4か月と言われています。
この一等輸送艦がガダルカナル戦の前に揃っていたら…
21隻の航跡
wikiを参考に一等輸送艦の運命を紹介しておきましょう。
横=三菱重工業横浜造船所、呉=呉海軍工廠。
- 「第1号」
- 昭和19年5月10日(横)竣工
5月25日館山出港サイパンへ。6月11日サイパンよりパラオへ向けた船団の護衛中、6 月13日に米軍機の攻撃を受けて航行不能。明島丸に曳航されてパラオに帰還。7月18日、パラオのガランゴル島の北側泊地で敵の上陸戦阻止の目的で浮砲台として配備。7月27日航空機より直撃弾4発を受け沈没。 - 「第2号」
- 昭和19年6月25日(横)竣工
8月3日父島の二見港で来襲した空母機の攻撃を受けて被弾擱座、航行不能。8月5日荒天により岩礁に激突して沈没。 - 「第3号」
- 昭和19年6月29日(呉)
9月15日、ミンダナオ島で座礁、米潜水艦の魚雷2本を受け燃料タンクが破裂炎上、火災により沈没。 - 「第4号」
- 昭和19年6月15日(呉)
8月4日、父島で来襲した空母機40機と交戦して炎上。父島湾にかく座したが船体は浸水し全没。 - 「第5号」
- 昭和19年8月5日(呉)
8月17日に甲標的の水上発進実験を情島沖で行い成功。9月14日、ダバオに進出したものの航空機の攻撃をうけ爆弾3発が命中、沈没。 - 「第6号」
- 8月19日(呉)
昭和19年10月31日第一次多号作戦に参加、陸兵350名の輸送に成功。
第五次多号作戦に参加、11月25日フィリピンのマリケド島パカナラン湾に退避中、航空機による攻撃で被弾沈没。 - 「第7号」
- 昭和19年8月10日(横)
横須賀~硫黄島、横須賀~八丈島、横須賀~父島間の輸送に成功。
12月27日、横須賀から硫黄島への輸送も成功し硫黄島で荷役中に米軍巡洋艦3、駆逐艦4の艦隊に攻撃され、擱座炎上大破。 - 「第8号」
- 昭和19年月13日(横)
12月24日、父島・硫黄島方面への輸送からの帰還時、米艦隊に遭遇捕捉されて、砲撃戦の末に沈没(父島南南東77カイリ) - 「第9号」
- 昭和19年9月20日(呉)
10月24日よりカガヤン~オルモック間の輸送(多号作戦)に数次成功。
その後12月1日マニラ~サンフェルナンド間の輸送作戦に従事、12月4日には米駆逐艦4、魚雷艇3と交戦。 - 昭和20年1月には香港経由で本土に物資輸送。
2月21日横須賀回航後、7月29日まで横須賀~八丈島~父島間の輸送に12回成功。 - 8月12日佐伯へ「海龍」輸送、呉で終戦。
戦後は復員輸送に従事、昭和22年賠償艦として米軍に引き渡されたのですが、米国には回航されず太平洋漁業に貸し出し。船尾のスロープを利用して捕鯨船母船となりました。
のちスクラップ扱いとして売却、昭和23年6月に石川島で解体。
一等輸送艦仲間では一番の武勲艦です。 - 「第10号」
- 昭和19年月25日(呉)
- 9号と同行し佐世保からマニラへ。10月23日にマニラ出港、オルモックへ陸軍部隊を輸送。軽巡洋艦鬼怒、駆逐艦浦波の乗員を救助して、27日マニラへ帰着。
第二次と第四次の多号作戦に参加・成功。
11月13日マニラを出港し新南群島で戦艦伊勢、日向の便乗者を移乗してマニラへ帰港。
24日第五次多号作戦に参加、25日フィリピンのマリドック島パリナカンで米軍機約40機と交戦し沈没。 - 「第11号」
- 昭和19年11月5日(呉)
- 12月7日、レイテ島サンイシドロで航空機攻撃を受け大破放棄。
- 「第12号」
昭和19年11月11日(呉) - 12月12日(か13日)高雄南東で米潜水艦の雷撃を受け沈没。
- 「第13号」
- 昭和19年11月1日(横)
戦後復員輸送艦となる。昭和22年、捕鯨母船として改装された後、極洋捕鯨に貸与され、日本水産と共同での捕鯨母船として操業。
同年8月8日にソ連へ引き渡し。 - 「第14号」
- 昭和19年12月18日(呉)
- 昭和20年1月15日、高雄で航空機の攻撃により沈没。
- 「第15号」
- 昭和19年12月20日(呉)
- 昭和20年1月17日、呉から鹿児島へ向かう途中、米潜の雷撃で沈没。
- 「第16号」
- 1944年12月31日(横)
戦後復員輸送艦となる。昭和22年、19号と共に小笠原近海に大洋漁業の捕鯨母船として出動。両艦で本土へのピストン輸送を行う。
昭和22年8月29日、青島で中国へ引き渡し。中国名「武夷」。 - 「第17号」
- 昭和20年2月8日(呉)
3月16日~27日沖縄へ「蛟龍」の他軍需品を輸送。4月2日奄美大島へ軍需品の陸揚げに成功したが、直後に米軍機の空襲により沈没。 - 「第18号」
- 昭和20年2月12日(呉)
3月13日第二特攻戦隊光突撃隊回天基地で第一回天隊(隊長:河合不死男中尉、以下127名)と回天8基を載せ佐世保に入航、16日佐世保を出航して沖縄へ輸送。 -
航海途上の3月18日、粟国島の北北西の地点で米潜水艦から三回の魚雷攻撃など、1時間にわたる交戦の後、ついに撃沈される。
艦長(大槻勝大尉)以下225名総員戦死、第一回天隊全員と8基の回天も艦と運命を共にしてしまいました。「第19号」
昭和20年5月16日(呉)
戦後復員輸送艦となりました。 - 昭和21年、旧乗組員以下80名とともに大洋漁業に貸与され、捕鯨母船として2月24日に呉を出航、小笠原近海でクジラを捕りました。
翌年もクジラ漁に従事した後、11月20日イギリスへ引き渡された上で日本の民間会社に売却され、スクラップとして浦賀で解体。 - 「第20号」
- 昭和20年4月23日(呉)
- 昭和21年9月25日、復員輸送中に澎湖列島で座礁放棄。
- 「第21号」
- 昭和20年7月15日(呉)
8月9日午前8時、和歌山へ向け出航、午前11時ごろ小水無瀬島付近にて米軍小型機群に捕捉され、空襲により機関が損傷し航行不能。その後機関復旧するも戦闘航行は不可能、近傍の小島「愛媛県津和地島」の砂浜に座礁。将校8名中4名戦死、4名重傷、乗組員中63名戦死、重軽傷者100名余り。津和島の住民と無事だった乗組員は弾薬が誘爆する中で戦死傷者の搬出を行いました。 - 第21号艦は同日の夜半に横転し船尾より沈没。津和島は誘爆によって民家に被害が出たのにも関わらず、島民は総出で救出、看護に当たってくれたのです。
想定外の活躍
「一等輸送艦の活躍」を書いてみましたが、ホントのところは残念ながら、一等輸送艦は大して本来の「シーレーン確保」の為に役だったとは言い難いところがあります。
もちろん、これは一等輸送艦のデキが悪かったのではありません。時期の問題としか言いようがありません。
しかし、迫りくる祖国の危機に黙っている一等輸送艦ではありませんでした。
「21隻の航跡」でもお判りのように、特攻兵器「回天」の発進母艦となったものもありました。
この時期に海上から米艦隊に近寄ることなど、だれがどう考えても不可能でしょうから、こんなことをしてもあたら英霊の志を無駄にしてしまうだけです。
「回天」はあくまで「潜水艦の兵器」、やるとすれば陸上発射で揚陸してくる輸送船を狙う方が有効だったでしょう。
しかし、一等輸送艦の変身はそれにとどまりませんでした。
敗戦後には大発泛水用のスロープを、逆にクジラを引き上げるために利用。
捕鯨母船として改装され、飢えた日本国民のため、良質なたんぱく質を得るために奮闘した艦もあったのです。
『「捕鯨戦艦長門」出撃せず』もご覧ください。
目立たない功績1はコチラ