捕鯨戦艦「長門」出撃…せず
戦艦長門が捕鯨に使われた事実はありません。使われそうになったことすらありません。
それなのに、ネット上にはけっこう「長門が捕鯨をする計画があった」みたいな情報があるんですね。こんなアホ記事みたいに。
日本の軍艦は捕鯨をした実績があります
それが根拠がない事は、この記事を読んでいただけば判る筈であります。
ではありますが、この記事のタイトルがただの「釣りタイトル」では電脳大本営の名折れであります。
戦艦長門ではありませんが、我が海軍の主力艦が鯨を狩ったお話を紹介申し上げましょう。
時は日露開戦の直前であります。明治37(1904)年2月の6日、陸軍の韓国臨時派遣隊員2252名を乗せた運送船「大連丸」と僚船2隻は、第二艦隊第四戦隊の防護巡洋艦「浪速」「新高」「高千穂」に装甲巡洋艦「浅間」を加えた計4隻に護衛されて14時に佐世保を出港いたしました。
後年、「護衛が大嫌い」と電脳大本営に酷評される大日本帝国海軍ではありますが、この時期は真剣に輸送船を護っていたようです。
この陸軍部隊は、仁川に上陸する予定でした。
輸送船団は、先頭から「高千穂」「浪速」「新高」と「浅間」、その後方に運送船が続く単縦陣で航行していました。
途中で他の部隊とも合流して順調に航程を進めていたのですが、翌7日の18時20分、朝鮮半島南西端の羅州群島沖に差し掛かった時でした。
先頭を航行していた「高千穂」が、信号を上げることも無く急に速力を落としたのでありました。
旗艦「浪速」の艦橋は大騒ぎ。「触雷か?」「噂に聞く潜水艇の襲撃か?」
コチラから問い合わせ信号を挙げる間もなく、「高千穂」に信号旗が揚がりました。
「ワレ クジラ ヲ ツク」
自分の目を疑った当直将校は信号書と首っ引き。でも間違いありません。
訳が解らぬままに返信は
「クジラ トハ ナニ ナルヤ」
「クジラ トハ オオイナル サカナ ナリ」
「浪速」の艦橋は笑い声に包まれ、開戦前の緊張が一気にほぐれたのでありました。
いまだに(有効と思ってた訳ではないでしょうが)残されていた「高千穂」の衝角(ラム)が鯨を突いてしまったのでした。
世界の海軍に「衝角は時代遅れ」と知らしめた帝国海軍の名将のお話はコチラ
高千穂の速力は10ノット位にであろうと想像しますが、この程度のスピードを避けられない鯨、ちょっとどんくさいんじゃないでしょうか?
高千穂が鯨を狩ったこの事件は「極秘明治三十七八年海戦史」から紹介させて頂きました。
こんなの事故じゃん、捕鯨じゃないじゃん。
いや、ごもっとも。
電脳大本営が「軍艦」と申し上げるのですから、コレはどんな意味でも「軍艦」です。徴用の特務艦艇じゃないですからね。
ただし、背景から説明させて頂きます。事は国民の命がかかった重大事だったのですから。
敗戦直後の食糧事情
敗戦当時の日本は食糧の配給制を取っていました。
主食の配給は1人1日に米2合1勺、グラムにして297gです。
一月前に、食糧不足のために330gだったものが1割減らされてしまったのです。
この330gは昭和16年(1941)4月から始まった配給制度で決められたものだったのですが、必要カロリーから導かれたモノではありませんでした。
ちなみに昭和15年度の国民1人当たりの米の消費量は約450gだったので、それから比べると4割弱の減少です。
加えて戦況が厳しくなると、各家庭で食料を手に入れることは難しく、配給への依存度が高くなっていましたが、戦争は終わっても状況がすぐに変わった訳ではありません。
それどころか少ない配給米の遅配欠配は日常茶飯事で、この年の東京における主食の平均遅配日数は18.9日と言う数字が残っています。
残念ながら、18.9日遅れたらちゃんと配給が受け取れたのかどうかはハッキリしません。敗戦直前の食糧事情と確保の戦いはコチラで
捕鯨再開へ
大東亜戦争前の日本人の蛋白摂取は、ほとんど水産物によるものでした。
戦後の超深刻な食糧危機を迎えてしまった大日本帝国の人々が、解決方法として海に期待したのは当然だったといえるでしょう。日本が海洋国家である所以でもあります。
いろいろな「漁業」のうちで、即効性のある蛋白質の供給源として最も有力視されたものは「捕鯨」でした。飢えた国民に蛋白質を有効な質量で供給できる見通しが立つただ一つの方法だと考えられたのです。
我が国は戦前から南氷洋で捕鯨をしていましたが、戦争の影響で中断していました。この捕鯨を再開すれば良いだけですが、再開するには二つの大きな障害があったのです。
一つは良きにつけ悪しきにつけ、敗戦後の日本に大きな影響を与え続ける連合軍総司令部(GHQ)です。
大東亜戦争終結直後(昭和20年9月)にGHQは日本政府と「日本の漁業、捕鯨業の認可された区域に関する覚書」を交わします。
この覚書で日本の漁船はは日本近海の一定水域内でしか操業出来ないことになってしまったのです。通称『マッカーサー・ライン』の設定でした。
もちろん捕鯨も例外ではあり得ません。
もう一つの障害はわが国が保有していた捕鯨母船やキャッチャーボート、トロール船のほぼ全部が「特設特務艇」として徴用されてしまったことでした。
キャッチャーボートはその小回りの効く性能を買われて駆潜艇などに。トロール船はその漁法がそのまま使える掃海艇に。母船はタンカーとして。
タンカーは開戦当初から「護衛が大嫌いな帝国海軍」に護って貰えず、アメリカ潜水艦の格好の獲物となってしまいます。
そして戦況が逼迫してくると、駆潜艇も掃海艇も輸送船団の護衛艦として使われたのです。
その結果、捕鯨母船もキャッチャーボートもトロール船も、ほとんどすべてが撃沈されてしまっていました。
日本は南氷洋の捕鯨どころか、遠洋漁業などが可能な漁船団をも喪失していたのです。
くじら、捕らせてくれ!
この八方塞がりを打開しようと動き出したのは民間企業でした。(外務省・内務省等のバックアップやGHQへの働きかけがあった事は間違い有りませんが、資料がキッチリ残っていても役人語が解読不能で、紹介させて頂けるような話になりませぬ)
大洋捕鯨は戦前の南氷洋捕鯨を行なっていた3社のうちの1社でした。注目すべきは、大洋捕鯨が戦時中の漁業統制に徹底抗戦したことです。近海漁業の会社と大洋捕鯨の合併にはいやいや応じたものの、冷凍・冷蔵設備の買収には最後までクビを縦に振らず、水産物の販売統制にも協力しませんでした。戦前の捕鯨のもう一方の主役だった日本水産が「食料報国」を社是として、冷蔵・冷凍・加工・販売部門を統制会社に譲渡したのとは大きな違いでした。
つまり、大洋漁業はGHQから見ると「敵国政府に協力しなかった良い子ちゃん」だったわけです。
大洋漁業はこの良い子ちゃんをテコに、戦前の実績と経験を大いに訴えました。
大洋漁業は小笠原に捕鯨の基地(近海で捕った鯨の処理施設)を持っていましたので、小笠原海域での捕鯨許可をGHQに申請したのでした。
GHQも日本国民を飢えさせるわけにも行かず、良い子ちゃんには弱い事もあって、許可は昭和20年(1945)11月3日に出ることになりました。ところが許可区域は本土周辺のみ。大洋漁業が望んだ小笠原周辺は認められませんでした。
大洋漁業は諦めることなく陳情・要請を続け、ついに11月30日に小笠原諸島周辺海域での操業許可をとりつけました。
しかし、小笠原諸島の「領海」3海里以内に入るなと言う条件がついていました。当時は小笠原はわが国の「領土」ではありませんでしたから。
基地が使えなければ、捕獲した鯨を処理するために捕鯨母船を使わなければなりません。前述のように、大洋漁業をはじめ日本水産、極洋捕鯨の捕鯨三社は戦争で母船をすべて失ってしまい、わずかに数隻のキャッチャーボートが残っているだけでした。
そんな時、「スリップウェイのようなもの」がついた軍艦が修理中だ、と言う情報がもたらされたのです。
スリップウェイとは
現海軍の「おおすみ」級などが装備するウェルデッキよりも単純で、簡単に設置できるのが強みです。
旧海軍でも、スリップウェイを装備していた艦は沢山ありました。悲しく腹立たしいことに「回天」を発進させるためにスリップウェイに改装した駆逐艦もいるのです。
大洋漁業に入った情報はそこまでとんがった艦ではなくて、「一等輸送艦」と呼ばれる艦種でした。
公試排水量1,800トン 速力22ノット 全長96.0メートル 全幅10.2m
補給輸送が出来ずに敗退したガダルカナル等の戦訓を受けて建造された、電脳大本営的傑作艦のひとつです。
21隻も建造されたのですが、すべて強行輸送に投入されました。
十分な護衛もつけてもらえない任務で、ほとんどが戦没してしまいましたが、僅かな残存艦のうちの「第19号輸送艦」が大洋漁業の目にとまったのでありました。
徴用した分、返してくれ
大洋漁業の社内では「それは都合がいい」「そいつを借りられないか?」ということになりました。
つい先日まで「国を背負って」とかいいながら、阿呆な戦を続けて威張りかえっていた海軍省は「第二復員省」なる組織に看板を付け替えていましたので、此処へ話を持ち込めば良いでしょう。
大洋漁業には十分な成算がありました。なにしろ捕鯨母船もキャッチャーボートも「徴用」されてほとんど返って来ていないのですから。
徴用船舶は賃料を払うだけでなく、改装したり設置した武装等を原状回復して相手先企業に返還するのがルールです。あれほど大量に沈められてしまっては海軍に返還の手立てはありませんでした。「戦艦を貸せ、って言うわけじゃあるまいし、断る事は出来んだろう。」
ここに「捕鯨戦艦長門」の都市伝説が流布する下地があったと思います。私がこの話を紹介しております元ネタは、大洋漁業から第二復員省へ「スリップウェイのようなものがついた軍艦」を借りる交渉に行った2名の社員のうちのお一人、大友亮氏がさる業界紙に寄稿された文章(原本ではありません)なのです。
そこには大洋漁業が第二復員省(旧海軍)に「戦艦長門を貸してくれ」と言ったとおぼしき記述もなければ、第二復員省側が「戦艦長門を貸してやろう」と言いだした、と読める部分は全然ないのです。
しかし、「よし、何でも貸してやる」と示されたリストを見て、申し出た方も仰天した。なんと第一行目に『バトルシップ・ナガト、三万三〇〇〇トン、八万馬力、ダメージ』と記されていた。年明けて昭和21年(1946)1月のことである。
と言うような記事は全く根拠が無いか、電脳大本営が足元にも及ばぬ調査力を持っているとしか言いようがありません。
なお、この時の戦艦「長門」の艦長は杉野修一大佐。「杉野は何処」の杉野孫七兵曹長の長男です。
旧海軍にヨイショしたいのは電脳大本営も人後に落ちぬつもりですが、根拠の無いヨイショはいけません。
第十九号輸送艦は昭和20年5月16日に竣工、瀬戸内海で回天の輸送に従事していまして、敗戦後は復員輸送にあたっていました。
2月24日、急造の「捕鯨母艦」に生まれ変わった第十九号輸送艦はマストに大洋の社旗と軍艦旗を掲げ、日の丸行進曲と軍艦マーチに送られて漁場に向けて出撃したのであります。
申上げましたでしょ、電脳大本営が言うんだからホンマモンの軍艦ですって。
軍艦とは軍人たる士官に指揮され、軍人が操艦に当たり、軍艦旗を掲げるフネを言います。武装の有無や大きさは関係ありません(帝国海軍の類別上の「軍艦」とは異なります)。
「捕鯨艦隊」奮闘す
一方、捕鯨母艦とともに「艦隊」を組む各種船舶も日本中からかき集められ、小笠原諸島の母島付近で母艦と合流しました。
キャッチャーボートが文丸、第二関丸(どちらも359トン)、木造の鯨肉運搬船新生丸級(70トン)5隻、処理船第35播州丸(998t)。
文丸、第二関丸が捕らえた鯨は「捕鯨母艦」と第35播州丸で解体、塩蔵の処理が行なわれ、5隻の新生丸たちが東京へピストン輸送する、というのが「作戦」の大筋でした。
しかし、戦争の後半から(自業自得とは言え)海軍を苦しめた燃料不足が、このささやかな艦隊をも苦しめました。
母艦は燃料節約のために、北東の季節風が吹き荒れうねりの高い母島近くで漂泊。武装を外したために喫水が浅くなっていたこともあって、振動が激しく、ジャイロコンパスや、撤去されずに残っていた22号電波探信儀が壊れてしまいました。
さらに東京への「鯨肉第一便」予定だった第三新生丸が波に煽られて母艦と接触、沈没してしまいます。続いて第一新生丸が母艦に接近したのですが、またも母艦に激突。機関室に大穴を開けてしまいます。
幸い魚箱の蓋とキャンバスで応急修理が出来、小笠原捕鯨で得られた鯨肉の内地向け第一号となったのでありました。
他の運搬船も母船との接舷時に受けた損傷であちこちが小破し、満身創痍の見るも無残な姿だったそうです。新生丸級は木造船だったのも原因でしょう。
また、一等輸送艦のスリップウェイは捕鯨母船としては、少々狭過ぎたようで、解体作業は困難を極めました。
さらに燃料と水を消費するにつれ、武装を外して高くなっていた重心がますます上昇、ローリングが激しくなって来たことも解体作業を難しくしました。
体長15.8mのマッコウ鯨1頭を引き上げるのに、何度も落としてしまい半日以上かかったこともあったといいます。
捕鯨艦隊員の奮闘は4月18日まで続き、捕獲頭数113頭、油・肉その他の生産量1,005トンの「戦果」を獲得。ついに燃料がなくなり、操業を切り上げざるを得なくなったのでありました。
十九号は下関を出港してからちょうど2ヶ月後の4月23日、東京へ帰還することが出来ました。
東京ではこの塩蔵鯨肉が臨時配給にまわされ、食糧不足の中で貴重なる蛋白源となったのでございます。
翌年も第十九号は大洋漁業から出動。僚船「一等輸送艦第十六号」も参加して「小笠原捕鯨作戦」を展開しました。
前年の「戦訓」を活かし、一方が母船として操業、他の一隻が運搬船となって東京へ鯨肉を輸送するという作戦を取ったのでありました。
海軍のお仕事
しかしながら、「捕鯨母艦」活躍はココまででした。
日本は残存した海軍艦艇を戦勝国である連合国4ヵ国(アメリカ、イギリス、ソ連、支那)に引き渡すことになっていたからです。
復員輸送と掃海任務もほぼ終わり、昭和22年の7月~10月になると残った艦艇たちはそれぞれの引渡し場所に向かって出港することになったのです。
捕鯨作戦にあたった元一等輸送艦も例外ではありませんでした。
第十九号はイギリスに引き渡されることになりました。
ソ連と支那は、大日本海軍の艦艇を曲りなりにも自国の海軍艦艇として使用してくれたのですが、アメリカとイギリスはスクラップとして日本の造船所に売却!使わないなら取り上げるなよ。
こんなことになるのも戦争に負けるから、であります。
一等輸送艦を母船とした「小笠原捕鯨作戦」もこうして作戦終了を迎えたのでありました。
大東亜戦争を生き延びた一等輸送艦が「捕鯨母艦」として終戦直後の食糧難を支えた(僅かではありますが)こと、あまり知られてはいないようです。
海軍の本来の使命は『海』を制して国民の生命財産を護ること。軍艦が戦うのは、極言すれば国民を飢えさせないためであります。
だとすれば、「捕鯨母艦」となって国民に食糧を届けた一等輸送艦は軍艦冥利に尽きる、と言っても良いのではないでしょうか?
電脳大本営は「これこそ海軍の仕事」と考えているのであります。