大日本帝国海軍最後の栄光~飢餓作戦をぶち破れ~

鵜来型イラスト

大東亜戦争末期、追い詰められた大日本帝国は国民の食糧だけでも満洲から運んでおこうと陸・海共同作戦を発動しました。

それが「日号作戦」です。
圧倒的な戦力を持っていながら、セコくも輸送路を破壊して大日本帝国臣民の生活を破壊するアメリカ軍の「飢餓作戦」の目論見を打ち破れたのでしょうか?

沖縄戦の陰で

アメリカ軍の沖縄来寇も見えてきた時期、大日本帝国海軍は継戦能力を維持することを目的に「南号作戦」を展開しました。

南方資源地帯から石油等の戦略資源輸送を安全に行おうと企図したものです。大小の船団を組み護衛を付けようとしたのですが、担当の海上護衛総隊には十分な戦力が配当される事はありませんでした。

海上護衛総隊の護衛方法も旧態依然、かつ情報は筒抜け。各船団の合計会敵率はなんと100%超え。これは1航海中に必ず複数回攻撃されることを意味しまています。
昭和20(1945)年3月30日に「ヒ88J」船団が海南島の楡林港へ到着すると同時に全滅してしまいました。

ヒ88J船団で応急艦首ながら奮戦する天津風

ヒ88J船団で応急艦首ながら奮戦する駆逐艦「天津風」

海上護衛総司令部も、これ以降は東南アジア方面との輸送は諦めてしまうのであります。

こうして南シナ海航路が閉鎖されてしまうと、大日本帝国に残されたシーレーンは、日本海経由の朝鮮半島航路と東シナ海経由の華北航路、それに国内航路だけとなってしまいました。

大日本帝国の領土たる台湾は、我が国のシーレーンから孤立してしまいまったのです。が、帝国にそんなことに構っている余裕はありません。

残された僅かなシーレーンのうち、朝鮮半島航路は本土決戦に向けた部隊・軍需物資の移動や、国民生活を維持するための食糧輸送に極めて重要でした。

案外知られていないことですが、大東亜戦争開始前の日本本土の食糧自給率はカロリー換算で約8割しかありませんでした。
不足分は台湾や朝鮮半島・満州・東南アジアからの移入と輸入に依存していたのです。
開戦後の自給率のデータは無いのですが、主食の国内生産量は大きな変化がありませんから、シーレーンの遮断は食糧事情の悪化に直結するのは当然です。

さらに塩の不足がひどく、昭和20年秋には家畜用の塩は配給停止が予定されていたほどなのです。
アメ公は上杉謙信公ではありませんから、塩を送ってくれるわけがありません。塩を送るどころか、日本国民を飢えさせる作戦を行ってまいります。

飢餓作戦とさらに…

「日本国民を飢えさせる作戦」とは沖縄上陸作戦とほぼ同時に開始(当初は沖縄への増援阻止も目的とされていたようです)されたアメリカの「飢餓作戦」であります。
この「飢餓作戦」は戦後に至るまで日本のシーレーンを苦しめることになる悪魔的な作戦ですが、ここで扱ってしまうと長くなり過ぎます。詳しくはWikiでお読みください。

ココでは、アメリカ軍は文字通り日本国民を飢えさせるために、海面を機雷で埋め尽くしたとお考え頂きたいと存じます。アメリカ軍はそれだけでは足りず、潜水艦まで使って大日本帝国のシーレーン破壊に邁進するのであります。

飢餓作戦による関門海峡の機雷敷設状況

アメリカ軍の飢餓作戦による関門海峡の機雷敷設状況

その潜水艦の活動は作戦名「バーニー(Operation Barney)」と言います。昭和20年6月に日本海でアメリカ海軍の潜水艦部隊が行った通商破壊作戦であります。

艦砲による各都市への攻撃、釜石への砲撃などもそうですが、これは潜水艦部隊の名誉欲や功績つくりだけのために行われたもので、米軍から見ても実施の必要性は全くありません。

アメリカの非道は都市への焼夷弾攻撃や原爆だけではないのです。

潜水艦向けご褒美作戦

大東亜戦争でアメリカ海軍の潜水艦部隊は日本の海上交通を破壊する中心的な役割を果たしたのですが、皮肉なことに日本の戦力が逼迫すると、「獲物」が減少して戦果が上がらなくなってしまいました。

そこで太平洋艦隊潜水艦部隊のチャールズ・ロックウッド司令官は、悪魔的なことを思いつきやがったのです。
日本の大陸交通を遮断することを口実に「天皇陛下の浴槽」日本海で通商破壊作戦を行おうというのです。

米潜ワフーに雷撃され大破した白露型春雨

米潜ワフーに雷撃され大破した白露型駆逐艦「春雨」(1943)

日本海への潜水艦侵入作戦は1943年(昭和18年)8、9月ごろから行われたことがあったのですが、10月に「ワフー」が撃沈されるなど日本側の防備も比較的しっかりしており、あまり有効とは考えられていませんでした。

護衛が大嫌いな大日本帝国海軍も、アメリカ潜水艦が日本海へ侵入してくることはある程度警戒して対策をとっていました。

パラオ級潜水艦

パラオ級潜水艦

潜水艦を日本海に入れなければ、恐れる必要はありません。そのためには、事前に宗谷海峡や対馬海峡に機雷堰を作っておけば良い、と思われました。

対潜機雷堰の構築は1943年7月から始められています。
まず、宗谷海峡東口へ470個の機雷を敷設。対馬海峡には1945年5月までに6000個の敷設が完了していました。宗谷海峡では2線、津軽海峡には8月3日に1線の機雷堰が敷設され、さらに2線の追加を予定していたのですが。

防備部隊も舞鶴鎮守府の指揮下で1945年5月に第105戦隊を新設、大湊警備府(鎮守府の小型版)にも4月新設の第104戦隊と海防艦部隊を所属させ、本来は駆潜艇の対潜訓練部隊である第51戦隊、対潜哨戒機を主力とする第901空・903空なども動員して朝鮮航路を死守しようとしていました。

陸軍の壱岐要塞などにも要請して、対馬海峡を監視してもらっていたのです。

この機雷堰は結局何の役にも立たなかったのでありますが、機雷堰そのものの発想は決して間違ってはいません。
その証拠を少し上げておきましょう。

北朝鮮の東岸沖において、3,000個以上の機雷(僅か数週間で敷設された)が、250隻の国連両用戦任務部隊による 1950 年 10 月の元山(Wonsan)強襲を完全に失敗させたのである。

指揮官であるスミス少将(Rear Admiral Allen E. Smith)は、「我々は、第 1 次世界大戦以前の兵器の使用―それは、キリストが生まれた頃に使われていた船でまかれた―によって、海軍を持たない国家に対する制海権(control of the seas)を失った」と嘆いた 。

最初の掃海作戦(clearanceoperations)では、3 隻の掃海艇が機雷によって沈没し、100 人以上が死傷した。
1953 年 7 月の停戦までに、連合軍対機雷戦部隊(coalition MCM forces)―国連海軍部隊全体の 2%―の犠牲者は、海軍の犠牲者全体の 20%に相当した。

これは海上自衛隊幹部学校の「戦略研究」PDF(2012年5月分)にある『機雷の脅威を検討する-中国「近海」における機雷戦-』の導入部分のごく一部です。

朝鮮戦争でも、北朝鮮の敷設した機雷でアメリカ(連合国)海軍が甚大な損害を被っているのが判るでしょう。

壱岐要塞の一部、黒崎砲台跡

壱岐要塞の一部、黒崎砲台跡

機雷堰、効果ナシ

チャールズ・ロックウッド司令官は9隻の潜水艦を3隻ずつの「ウルフパック(狼群)」に分けて日本海で暴れさせることにしました。

5月末、9隻の狼はグアムを出撃。6月5日から6日に各艦は次々と対馬海峡を突破してしまいました。

アメリカの狼たちには新型の「FMソナー」を搭載していました。「FMソナー」は当社従来品に比べてはるかに感度が高く、大日本帝国海軍が6000個も敷設したせっかくの機雷もすべて探知。

1隻も触雷せず定刻通りに通峡してしまったのです。

対馬海峡突破に成功したアメリカ潜水艦は、本州北西・日本海南東部・日本海西部海域に散開していきました。

6月9日の日が暮れると待機していた「ウルフパック」どもは3隊同時に攻撃を始めたのでした。

パラオ級シードッグ(バーニー作戦旗艦)

バーニー作戦の旗艦パラオ級潜水艦「シードッグ」

この攻撃に大日本帝国海軍は全く不意を突かれました。6月11日までのたった3日間で計13隻の民間商船や徴用輸送船が撃沈され、なんと日本海へ退避していた伊122潜水艦まで沈められてしまいます。

さらに、この数には入っていない沿岸用の小型船舶も次々と沈められていきました。

反撃

日本側は船団を組んでいましたので、損害を認知するのは早く、6月10日には海上護衛総司令部は敵潜水艦の日本海侵入を把握していました。

船団への直衛艦配備は戦力的に不可能に近いものがありましたので、海上護衛総司令部は対潜作戦を強力に実施して間接護衛を強化することを選択します。
夜間航行も禁止されましたが、アメリカ潜水艦はそれをあざ笑うかのように特設敷設艦永城丸(東亜海運:2274トン)を撃沈。

6月19日、日本側の対潜部隊は七尾湾で貨客船坤山丸(5488トン)が撃沈されると、即座に現場へ急行、アメリカ潜水艦「ボーンフィッシュ」を捕捉することに成功しました。

舞鶴鎮守府護衛部隊の第1掃討隊(海防艦沖縄・第63号海防艦・第207号海防艦)が先陣を切り、ソナーで潜水艦を探知。

付近にいた第75号海防艦(第11海防隊)と第158号海防艦(第51戦隊)も加勢して爆雷を投下し続け、ついにソナーの反応が絶えました。翌日には大量の重油と木片が海面に浮かんでいることが確認されたのです。

1944、公試に出る第17号海防艦(第1号型)

1944、公試に出る第17号海防艦(第1号型)
75号海防艦はほぼ同型

「ボーンフィッシュ」はアメリカ側の記録でもついに帰投しませんでした。

「ボーンフィッシュ」撃沈で一瞬の溜飲は下げたものの、バーニー作戦による損害は明確なものだけで27隻、合計トン数6万トン近くにのぼります。

その上漁船など多数の小型船や潜水艦伊122も撃沈されてしまったのですが、「ボーンフィッシュ」以外の敵潜はついに捕らえることは出来ずに終わりました。

国民の食糧を運べ

飢餓作戦の機雷封鎖が拡大していくのと同時進行のバーニー作戦で大日本帝国は大きな衝撃を受けました。
日本海のシーレーン(朝鮮航路・大連航路など)が途絶してしまうのも時間の問題だと認識せざるを得なかったのです。

さらに皇国の自然までもが大日本帝国を見放してしまいました。
昭和20年は天候不良で肥料が不足していたこともあって、小麦と米の凶作が予想されていました。

この年4月に成立した鈴木貫太郎内閣は、これらの情勢を踏まえて食糧確保を重点政策とし、国家船舶制度に基づいて船腹を食糧輸送用に優先使用することとしていたのです。

鈴木貫太郎

鈴木貫太郎

この鈴木貫太郎内閣の方針と「バーニー作戦」「飢餓作戦」の実施を目の当たりにした大本営では、やっと軍事作戦より国民の食を優先する気になったようです。

「日本海ニ於ケル輸送作戦実施ニ関スル陸海軍中央協定」が締結され、6月28日、大本営海軍部は、日本海が航行可能な間に大陸方面からの物資を出来る限り輸送する「日号作戦」を発令したのです。

作戦目的は「短期間でできるだけ多くの戦略物資を輸送すること」

対馬海峡方面に護衛の重点を置くとされますが、北海道・樺太も作戦地域でした。
参加兵力は、海軍が海上護衛総司令部指揮下の第一護衛艦隊や第七艦隊、第901海軍航空隊などの駆逐艦・海防艦約60隻、航空機200機ほか。
陸軍が第10飛行師団・第12飛行師団(各一部)や各地の防空部隊など航空機約70機、高射砲200門以上。
これらの戦力は、黄海方面などにも分散していたため、華北航路を放棄してまで日本海へと配備変更して「緊急輸送」に使用されることになったのです。

輸送される「戦略物資」とは主に食糧で、モロコシ(高粱)や大豆などの雑穀や食用・家畜飼料用の塩などが中心でしたが、米はほとんどありませんでした。

帝国海軍、最後の輝きを放つ

食糧は満州国内から順調に集められました。

集められた食糧と他の物資は朝鮮北部に集積され、朝鮮半島東岸の諸港から積み出されたのですが、中でも羅津(現在も黒電話ブタ国の港)が中心でした。

陸揚げ港としては、北部九州から北陸地方までの日本海側の港がたくさん指定されました。山陰地方西部では江崎港(山口市)や油谷湾(長門市)などの小港にも仮設桟橋を設置して利用しています。
これには理由がありまして、瀬戸内海の主要な港が機雷封鎖によって使えなくなってしまったためでした。ですから瀬戸内海から荷役用の艀などを回航して陸揚げ設備の不足を補い、上陸用舟艇も投入し訓練中の陸軍兵士も食糧揚陸に従事しました。

手前第9号輸送艦奥海防艦沖縄

手前第9号輸送艦、奥海防艦、「沖縄」

「日号作戦」発起は米軍の意表を衝いたようです。実際に米軍の記録に「日号作戦」妨害に関する記述は見当たりません(私に発見できていないだけかも)。

朝鮮半島北部からの航路も出来る限り沿岸沿いに進み、空襲を避けるために夜間航行を主体とし、船団に直接護衛艦艇を貼り付けて(この時期でも日本海航路は基本的に間接護衛=日本海全体を対潜艦艇でパトロールして輸送船は自由に航行させる=でした)安全を確保。

しかし大日本帝国には大型高性能な貨物船は残っていませんでした。貨物船の絶対数も不足。
前述しましたように、陸揚げした港も設備不十分な小港ばかりで、船の稼働効率がガタ落ちしたため、作戦開始時には満州各地からの食糧が積み出し港に停滞してしまいました。
その後、前述のように港湾設備の仮設や兵士の作業への投入で陸揚げ効率を改善したのですが、今度は港からの陸上輸送能力が不足してしまいます。
急遽鉄道引き込み線を敷設して消費地へと輸送。

こうして満洲各地から集められた食糧は、米軍の「飢餓作戦」にあえぐ日本国民のために日本海を渡り始めたのです。

栄光に満ちた大日本帝国海軍は対馬沖(日本海海戦)以来、久しぶりにその本来の使命である「国と国民の生命財産を護る」ことに目覚めたのでありました。

アメリカ軍の飢餓作戦は続いていました。

機雷の投下は瀬戸内海から日本海沿岸へも次々と広がり、7月には秋田県沿岸も封鎖されました。投下された機雷は、7月9日以降だけでも4000個に迫ります。朝鮮半島沿岸も例外ではなく、羅津港はついに客船の運航停止に追い込まれました。

掃海母艦うらが

現海軍の掃海母艦「うらが」

 

海軍は「日号作戦」完遂のため掃海に努めますが、米軍機雷は磁気・水圧・音響などと種類が多く、作業は困難を極めました(この時期の経験が現海軍に引き継がれて、今の日本海軍の掃海技術は世界一です)。

7月中旬になると、アメリカ海軍機動部隊が北日本一帯を攻撃。北海道が空襲されました。
この空襲で青函連絡船8隻など汽船46隻と機帆船150隻が大破または沈没して北海道からのジャガイモや石炭の輸送もほとんど途絶してしまいます。

この事態に各地に残されていた、そこそこの性能の貨客船は青函航路の代替に引き抜かれて、「日号作戦」の船舶のやり繰りはますます切迫していきます。

それでも大日本帝国海軍と、民間船員たちは7月いっぱいで95万トン以上の食糧を国内に運びこみました。目標は60万トンでしたから、達成率は150%を超えていました。
国民のために
かつて太平洋に覇を唱えた大海軍は、ついに最後の瞬間に自分の存在意義を思い出し、再び栄光に包まれたのでありました。

無念!ソ連参戦

7月末になると海軍はソ連の対日参戦を予測、その前に朝鮮半島から食糧を緊急移送する計画も発動。
羅津などの3港に向けて約40隻の商船を向かわせ、8月10日までに食糧を積み込んで帰還するよう指令しました。

しかし荷役作業に時間を取られるうち、8月9日未明にソ連軍による空襲が始まりました。羅津港で荷役中の商船15隻のうち貨物船「めるぼるん丸」など13隻が撃沈されてしまいました。

陸軍徴用船向日丸(2A型戦時標準船)

陸軍徴用船向日丸(2A型戦時標準船)
ソ連の攻撃をかわして帰国した。

 

ソ連軍地上部隊は満州及び朝鮮半島北部を蹂躙、ついに日本国民の胃袋を僅かに支えた満州からの食糧は、完全に絶たれてしまったのでありました。

大日本帝国海軍の最後の輝きは一瞬またたいただけでした。
それでも、飢えた国民をどれほど救ったことでしょう?

これこそ軍隊の、海軍の本当の姿だと私は思います。

もちろん、海軍に協力して決死の輸送にあたった民間船員諸氏にも、感謝・合掌させて頂いて、この記事を終わります。

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