呪われた?潜水艦伊33
伊33号潜水艦は公式には「伊15型」潜水艦、よく聞かれる言い方だと「巡潜乙型」と呼ばれるグループに属しています。
なお「巡潜乙型」にはこの「伊15型」を小改良した「伊40型」「伊54型」も含まれます。
同型艦は大活躍
この潜水艦は「巡潜甲型」から旗艦設備などを除いた実用的なフネで、数多くの殊勲艦が知られています。
伊19 – 米空母ワスプ撃沈,米戦艦ノースカロライナ大破
伊17 – アメリカ本土砲撃
伊25 – 搭載水偵によるアメリカ本土空襲およびアメリカ本土砲撃
伊26 – 米空母サラトガ撃破、米巡洋艦ジュノー撃沈およびアメリカ本土砲撃
伊27 – 商船15隻、84,227トン撃沈(日本潜水艦の中で撃沈トン数トップ)
伊30、伊34、伊29 – それぞれ第1次、3次、4次遣独潜水艦となる
要目は排水量(常備)2584トン・(水中)3654トン、速力23.6ノット・水中8ノット、魚雷発射管(53センチ)×6、魚雷17本など。
特記すべきは「零式小型水上機」を1機搭載していたことでしょう。
アメリカ本土を爆撃した飛行機です。
「伊15型」潜水艦は昭和14年(マル3計画)の計画艦で、このうち伊33は翌年の予算で建造開始、大東亜戦争開戦後の昭和17年6月に就役しました。
伊33潜、トラック環礁へ
国運を賭けた大戦争中でありましたので、伊33潜は3ヶ月に満たぬ慣熟訓練でトラック環礁に進出します。
9月25日にトラック環礁に到着、翌日入港しようとしたのですが、誤って珊瑚礁に衝突し艦首の魚雷発射管を損傷してしまいました。
これを修理すべく特設工作船「浦上丸」に横付けして作業を開始しました。
この作業中に乗組員側のミス(?伝聞による・「係留ロープが切れ」との記述も散見されますが、それだともともと浮力がなかったことになってしまいます。)でバランスが崩れ、艦尾側が沈み込んでしまいました。
開放されていた艦尾ハッチから海水がなだれ込み、水深33メートルの海底に沈没してしまいました。
艦長以下、多数の乗員は上陸中で難を逃れることが出来たのですが、艦に残っていた航海長以下33名が犠牲となりました。
引き揚げ
沈没海面が比較的浅い場所だったため、3ヵ月後の12月に伊33潜の引き揚げが始まりました。
横須賀海軍工廠の救難隊がわざわざ進出してきて浮上作業を行ったのです。
ようやく艦内を排水して艦の前部が水面に出た時、艦橋のハッチが吹き飛んで浸水、伊33潜は再び沈没してしまいました。
その後、救難隊の懸命の作業で浮上に成功、伊33潜は呉に回航され、昭和18年の3月から1年がかりの修復作業を受けました。
昭和19年5月4日には和田睦雄少佐が新しい艦長として着任、新たに新鋭潜水艦としてよみがえった伊33潜は内海伊予灘で猛訓練を始めたのでした。
以降の記述は当時の伊33潜の乗り組み士官だった小西愛明少尉の記述を参考にいたします。
元の記述には他の説明とは食い違うところや、明らかにご記憶違いかと思われるところもあり、美化してるなあ、としか思えないところもあります。
しかしながら電脳大本営的には、もっともリアルかつ詳細な証言が多いと思いますので、私流に解釈してお送りします。
よって、文章の内容に誤りがあれば、すべて沢渡の浅学故であります。
伊33潜は3度目のチンを喫します。
3度目の沈没は犠牲も多かった
小西愛明少尉は海軍兵学校72期、少尉任官は戦艦「日向」で、潜水艦を志望したこともあり、昭和19年5月20日に復活した伊33潜乗り組み。
伊33潜は公試運転を終え、
『5月31日に第11潜水戦隊に編入され、6月1日から郡中沖を錨地に連日猛訓練が始まった。乗員の練度は急速に向上したが明日は司令官の査閲を受けると云う仕上げの日に最悪の事態が起った。魔の6月13日朝の事である。』
とされています。
さらに続けて
『当日は何時もの通り0600起床、0700郡中沖を出港して伊予灘を西航、0730由利島と青島に囲まれた訓練海域に到着、艦長の「潜航用意」の号令一下、総員潜航部署に就いて試験潜航を行ったが、この時には何等の異常も認められなかった。必ず気密試験を行って水密を確認してから潜航するので、若し、この時にあの事故が起っていたら気密試験で異常を発見して対処でき、浸水沈没と云う悲惨な事故は恐らく未然に防止されていたと思うが、その後の急速潜航時に起った事は、報道関係者達の云う通り天運に見放された魔の潜水艦の宿命だったのかも知れない。』
訓練は通常の潜行から始まったわけです。潜行すれば当然のように魚雷戦と爆雷防御の訓練があります。
これらを終えていったん浮上。伊33潜はワッチを変えて警戒航行と急速潜航の訓練を開始します。
小西少尉は司令塔に入り、潜望鏡を覗いて島の位置から艦位を測定する練習をしたそうです。これが小西少尉を救うことになりました。小西少尉は通常であれば通信室にいたと思われるからです。
その時でした。
『哨戒長の「両舷停止、潜航急げ」の号令が聞こえ、総員を配置に就けるベルが艦内に響き渡った。時に丁度0805。』
『順調に潜航し始めた瞬間「機械室浸水〃‥」と伝令の非痛な声が伝って来た。瞬時にして艦は急激に仰角に変わり深度計の針の動きが速くなった。』
帝国海軍で「機械」と言うのは推進機構、通常ならタービンですが、潜水艦なのでディーゼルエンジンを指します。
エンジンルームに浸水、と言うのは給排気塔から海水が入ってきたとしか考えられません。
給排気塔は艦橋の両舷側に付いています。潜行時には最後に海面下に沈む部分です。
潜行時にはこの給排気塔を弁で閉鎖するわけですが、どうしたのか閉まらなかったという事でしょう。
戦後の調査で長さ2メートルの角材が挟まっていたとされています。
全長103メートルの伊33潜は、艦首を水面に出したまま仰角約30度で艦尾を海底につけた状態でしばらく停止したようです。
艦内には海水があふれ、司令塔から直下の発令所に降りるハッチも閉鎖。
そして、
『突然「諸君艦長の不注意からかかる事故を引き越して全く申訳ない。このまま居れば死を待つだけだが、ハッチを開いて脱出すれば10に1つは助かるかも知れない。何れを選ぶも諸君の勝手だ。俺は艦に残るから助かった者は事故の報告をしてくれ」』
一度は脱出を航海長に否定されていた和田艦長が遂に決断したのでした。
『艦内の気圧が更に高まって水圧に抗しきれる様になった処で信号長が「1,2,3」とハッチを押上げ、司令塔内に居た10名余が噴出する気流に乗って次々と艦外に脱出した。時に0830、思えば長い悪夢の25分間であった。』
潜水艦内は基本的に気密が確保されていますから、海水が浸入してくれば艦内の気圧が高まります。何処かの時点で気圧が海水圧と等しくなれば外部ハッチを中から押し開けることが出来るようになります。
こうして呪われた伊33潜から十数名が脱出できたわけですが、通りかかった漁船に救助されたのは小西愛明少尉、岡田健市一等兵曹、鬼頭二等兵曹の三人だけ。
このうち、鬼頭二等兵曹は漁船上で息を引き取ってしまいました。
この岡田兵曹が後に引き揚げられた伊33潜の艦内で、もと同僚たちに「おい、総員起こしだ。起きろ、起きろ。」と悲痛な声をかけることになります。
戦後の引き揚げ
昭和28年7月、「北星船舶工業株式会社」(元呉海軍工廠関係者が興した会社)によって伊33潜は9年ぶりに引揚げられることになりました。
深度もあり、大変な難事業となりましたが浮揚の様子は報道陣に公開されていました。
苦労の末に浮上した伊33潜の魚雷発射管のハッチを開けると、ホルマリン臭のガスが猛烈な勢いで噴出し、作業員も取材陣も母船で昏倒する騒ぎとなってしまいました。
倒れた中に文芸春秋のカメラマン・村井茂もまじっていましたが、臭気が収まると制止を振り切って真っ先に艦内へ飛び込みました。
艦内の遺体は不思議なことに生きているかのような状態であったそうです。肉付きも柔らかく、丸坊主のはずの髪は5センチほども伸びていたと言います。
岡田兵曹が「総員起こしだ」と呼びかけたのはこのときです。
村井茂は写真を撮りまくります。
英霊たちの遺体は生きているようだ、といっても酸素を吸い尽くし、二酸化炭素濃度の高まる艦内で苦しんだのです。
気温も高まっていたと思われますから、全員が上半身は裸になり、中には下帯も締めていない遺体もありました。
9年間耐えてきた御遺体たちは、甲板に運び出されるとたちまち腐臭を発していったといいます。
文芸春秋のカメラマン・村井茂はこの有様を多くの写真に収めました。
私にはこのことが許せません。
確かに、後々のために正確に記録することは必要でした。
しかし、それは英霊たちに手を合わせ、頭を垂れて感謝を捧げてからでしょう。
伊号第33潜水艦の乗組員たちは戦果を上げることこそ出来ませんでしたが、その志は大空に、大洋に、離島に散っていった幾多の英霊と変わるところはありません。
訓練中の事故によって、長時間の苦痛とともに亡くなった戦士の姿を商業目的で撮影することなど、私には冒涜としか思えません。
私はこの一連の写真のうち、上に掲げました白いドレスの女性しか正視することができません。乗員の方とどんなご関係かは不明です。
流石に「文芸春秋」ではこの引き揚げを記事にはしたものの、写真まで発表することはありませんでした。
しかしそれから17年後の昭和45年、半藤一利を編集長として「文藝春秋臨時増刊 太平洋戦争日本軍艦戦記」が発刊され、この凄惨な写真が掲載されてしまったのです。
SEALDsとか言う煩いだけの団体の指導者が、特攻隊に対する誹謗を垂れ流していましたし、金髪が唯一のウリの津田某とやらは特攻隊員のご遺書を使って日本人を揶揄するゲージツ作品を展示しやがりました。
私たちはこれらに大いに怒りの声を上げなければなりませんが、一方で戦後すぐから、英霊に対する無礼な行為があったことも、私たちは覚えておかなければいけないと思います。
伊33潜乗組員の遺書
厭な話の後で申しわけないと思いますが、この乗員たちが絶望のなかで書き残しておられた遺書が発見されています。
『浅学非才の身にして万全の処置を取り得ず数多の部下を殺す 申しわけなし 潜水艦界のこの上なきご発展を祈る』(大久保中尉)
『訓練にて死するは誠に残念なり しかし今はあらゆる努力をなしたれども刻々浸水するのみ 最後までがんばる 帝国海軍の発展を祈る 我死するとも悔ゆることなし 最後の努力するも気圧は刻々高くなる 気が遠くなる 午後十三時二十分、艤装不良箇所多きため浸水 如何に努力せしもその甲斐なし』(浅野上機曹)
『妹よ 俺も元気だと言ひたいが もう駄目だ』(署名なし)
『布野三千子殿 僅か三カ月の結婚生活であったが、自分は非常に幸せであった。今後のお前の身のふり方はお父さんの言う通り、お前の幸福になる道を進んでくれ。ではさようなら』(布野寅一 一機曹)
『年老いたる祖母さんやお母様に何一つ孝養ができなかったのが残念 孝、定、寛、可愛い喜久子よ、よい子になってくれ だんだん呼吸が苦しくなってきた 後は時間の問題 私は笑って死につく 母さんの御多幸を祈る』 (土取機兵長)
『午後三時過ぎ記す 死に直面してなんと落ち着いたものだ
冗談も飛ぶ、もう総員起こしは永久になくなったね
母上よ 悲しんではならぬ それが心配だ
光さん、がんばったがだめだった
妹よ ついにあえなくなったね 清く生きて下さい
気圧が高くなる 息が苦しい 死とはこんなものか みなさんさようなら』(羽瀬原一機曹)『小生在世中は女との関係無之。為念。』 (平松二衛曹)
『妻に残す 我々の生活もこれで終わった お前には誠に申訳がない この結婚は早過ぎた お前は自分で思うことをやってくれ』 (岡島上機曹)
『一六四五 大久保分隊士の下に皇居遥拝、君が代、万歳三唱
一七三〇 大久保中尉以下三十一名元気旺盛、全部遮水に従事せり
一八〇〇 総員元気なり。総てを尽くし今はただ時期の至るを待つのみ。誰ひとりとして淋しき顔をする者なく、お互いに最後を語り続ける』(不明)
最後の犠牲
引き揚げと村井カメラマンの狼藉から一ヵ月後の8月12日。
浦賀船渠の技術者生野勝郎(元造船技術大佐)、西原虎夫(元造船技術少佐)、吉武明(元造機技術少佐)が伊号第33潜水艦を訪れました。
将来の海上自衛隊の主力たるべき潜水艦の参考にしよう、と言う目的でした。
生野元大佐が先頭でラッタルを降り艦内へ入りましたが、一酸化炭素中毒で倒れ、生野氏を助けようとした西原・吉武の両少佐も相次いで倒れてしまいました。
傍若無人のマスゴミ関係者を狙えば良いものを、またしても潜水艦関係者3名の命を奪い、不運の潜水艦、伊33はついに解体されてくず鉄として売り払われたのでした。
同型艦の中では、最後まで「この世」に残っていたものであります。
伊号第15潜水艦:1940年9月30日竣工、1942年11月沈没。
伊号第17潜水艦:1941年1月24日竣工、1943年8月沈没。
伊号第19潜水艦:1941年4月28日、1943年11月沈没。
伊号第21潜水艦:1941年7月15日竣工、1944年2月沈没。
伊号第23潜水艦:1941年9月27日竣工、1942年2月沈没。
伊号第25潜水艦:1941年10月15日竣工、1943年?沈没。
伊号第26潜水艦:1941年11月6日竣工、1944年10月沈没。
伊号第27潜水艦:1942年2月24日竣工、1944年2月沈没。
伊号第28潜水艦:1942年2月6日竣工、1942年5月沈没。
伊号第29潜水艦:1942年2月27日竣工、1943年7月沈没。
伊号第30潜水艦:1942年2月28日竣工、1942年10月沈没。
伊号第31潜水艦:1942年5月30日竣工、1943年5月沈没。
伊号第32潜水艦:1942年4月26日竣工、1944年3月沈没。
伊号第33潜水艦:1942年6月10日竣工、1944年6月事故により喪失。
1953年7月浮揚、8月解体。
伊号第34潜水艦:1942年8月31日竣工、1943年11月沈没。
伊号第35潜水艦:1942年8月31日竣工、1943年11月沈没。
伊号第36潜水艦:1942年9月30日竣工、終戦時残存。
1946年4月1日海没処分。
伊号第37潜水艦:1943年3月10日竣工、1944年11月沈没。
伊号第38潜水艦:1943年1月31日竣工、1944年11月沈没。
伊号第39潜水艦:1943年4月22日竣工、1943年11月沈没。
深海の勇士に、改めて合掌申し上げます。