水中高速潜水艦と知られざる継戦工作
この記事の元ネタはある海軍士官(の卵)による回想です。裏づけを取ろうにもあまりに史料がありません。
しかしただ埋もれさせてしまうにはあまりに勿体ない、と思いますので沢渡なりに解釈を加えて記述いたしました。
限りなく史実に近いと思いますが証明は出来ませんし、ご記憶に誤りがあるのでは?と思われるところもあるのですが、ご容赦をお願いします。
第6艦隊第11潜水戦隊
昭和20年の暑い夏が続いていた8月。
その日も第六艦隊の練習部隊である、第11潜水戦隊に所属する小型潜水艦、波201・202・203と海軍の期待を集める新鋭潜水艦伊202・203は内海伊予灘で旗艦「にしき丸」に対する襲撃訓練を行っていました。
訓練を終えると旗艦「にしき丸」に接舷して、各艦の艦長と航海長が会議室に集合して研究会が開かれます。
旗艦側からは旗艦の航跡図とマストから撮影された各潜水艦の発射した雷跡の写真が示されます。伊201型(202と203)からは航跡図を提出。
その上で各艦長から襲撃経過の説明があり、最後に参謀から講評が与えられるのです。
呉まで
潜小型(波201型)は大日本帝国海軍が本土決戦に向けて建造した画期的な「水中高速潜水艦」でした。
この頃には既に波204から210も竣工して個艦訓練に入っており、次々に戦力化される予定でした。
建造はすべて佐世保工廠です。
波201・202・203の乗員は、昭和20年4月15日に佐世保工廠内の宿舎に「潜小隊」の標札を掲げました。
ここで教育・訓練・整備を行い、5月10日には試運転に入ります。各艦は鋭意諸性能試験・潜航諸試験をすすめました。
その結果、計画性能のすべてをクリアし、運動性では予期以上の成果を収めました。不具合箇所も奇蹟的に一つも発見されず、波201型は「優秀」の判定が下されたのです。
5月31日に竣工し、翌6月1日には個艦訓練地の七尾湾に向けて出港、途中舞鶴に寄港して七尾湾の奥の穴水泊地に到着。
連日の急速潜航訓練を行い、目標の急速潜航時間30秒に自信が持てるようになったのですが、湾口にB29が機雷を敷設し始めました。
これ以上湾内で訓練を続けては脱出不可能になるおそれがあり、舞鶴経由で呉に回航することとなりました。
呉では7月20日付けで11潜戦に編入、襲撃訓練に専念することとなっていました。
訓練も進んでいた8月の段階では、どの艦もおおむね命中率90%のところまで練度が向上して、第六艦隊の実戦部隊に編入されるのも間近いと噂されていたのです。
いつもと違って
この日に限って、研究会が終っても各艦長はしばらく旗艦に残るようにと命じられました。通常なら潜小隊の3隻は大畠泊地(柳井のすぐ東側)で停泊するんですが、艦長を置いてはいけませんから各艦はそのまま待機でした。
やがて各艦長が戻り、泊地に帰ったときには日が没していました。
真っ暗な中で「総員上甲板」が命ぜられ、艦長の訓示があるとのことでした。
いよいよ実戦配備だ、驕敵アメリカ艦にいよいよ必殺の魚雷を放つときが来たのだ。戦隊員の間に歓喜とも緊張ともつかない空気が張り詰めます。
しかし、艦長の言葉は乗員たちの期待したモノとは全く相違したものでした。
「本日正午、終戦のご詔勅が下された」
戦争がおわった、と言うのです。しかし艦長は続けました。
「艦としてどういう行動を取るかは、やがて示す。あらゆる事態に即応すべく兵器・機器の点検整備に万全を期せよ。日課と基本訓練も従来通りである。軍艦旗掲揚・降下は勿論、『総員ハッチ突入訓練』も続ける。他艦も同様である。ただし軽挙妄動は許されない。以上、解散。」
昨夜までは灯火管制で真っ暗だった大畠部落には無数の灯りが燈っています。艦長がどう言おうと、一つの幕は確実に降りてしまったのだ、としみじみ実感出来る光景でした。
出撃?
8月17日、旗艦より電命が入ります。
「ハ201・202・203ハ呉ニテ実用魚雷・燃料・真水・食糧ヲ搭載スヘシ」
「潜水艦はやるんですね!」
と艦内は急に活気に溢れました。8月18日、軍艦旗掲揚後直ちに出港。3隻は、ハ201、ハ202、ハ203と艦番号順で単縦陣を組み、真直ぐ北に針路を取ります。
暫くすると、遥か南方に大型潜水艦が見えたかと思うと見る見る追いついてきます。ごく最近敵重巡洋艦のインデアナポリスを討ち取ったイ58が、潜小隊の右側を同航して追い越そうとしていたのです。
「カクカクタル センカヲ シュクス センショウタイ イチドウ」。
「カンゲイヲシャス マスマス クンレンニ ハゲマレタシ」。
呉
呉に入ろうとすると、どうしても大破着底した重巡利根、軽巡大淀の姿が目に入ります。大日本帝国海軍は壊滅してしまったのだ、と言う思いと俺たち新鋭潜水艦はまだやれる、との闘志がどちらも胸をよぎっていきました。
呉ではかなりの数の潜水艦が盛んに積み込みを行っていました。
第六艦隊旗艦「筑紫丸」と潜水艦基地隊が全面的にバックアップしてくれています。
まだ正式に戦列に加わっていない「潜小隊」は後回しにされ、順番がきた時は夜に入っていました。
沢山の投光器のもとで筑紫丸に横付けし、訓練用魚雷を搬出して実用魚雷を搬入する作業を徹夜で行いました。翌日には水船、油船がやって来ます。米、缶詰、タオル、ちり紙など気前よく配給してくれました。
工廠の建物は無惨な姿を呈していたのですが、修理を申し出ると溶接機を持込んで大至急で治してくれます。
「潜水艦だけはやるんだそうですね。何でも手伝いますから、出撃の時は是非乗せて下さい、お願いします。」と懇願する勇ましい工員さんの姿があちこちで見られました。
各艦の出撃準備が出来上ると、艦長たちの第六艦隊長官醍醐忠重中将への直訴が始まりました。
「出撃命令を下さい。何時になりますか。」と詰め寄ると、中将は
「中央を説得して必ず出撃の許可をもらってくる」と、飛行服に身を固めて呉沖から水偵で飛び立って行きました。
醍醐中将は律儀な人で、翌日には舞い戻って艦長等の相手をし、再び飛立って行きます。
この出撃命令を待っている間、伊47潜は毎日高々と菊水の幟を翻して港内を遊弋するデモンストレーションを繰り返していました。
一方で「波201」では艦長から士官に対して海軍病院に行って青酸カリを貰って来い、との指示も出されています。自分の身は自ら処さねばならぬ時が来るのだ、と艦の仕官全員用に10アンプル入りを2函貰った人もいるようです。
8月はあっと言う間に過ぎ、9月に入るともう誰も「出撃」とは言わなくなりました。
そんな時、「各艦帰郷者と残留者とに分け、残留者は航海に必要な最少の人数とせよ」との指示がありました。
波201潜では帰郷者16名、残留者10名として名簿を提出しています。
当局側の反応はすばやく、帰郷者は9月10日艦を去ることになりました。
これで実質的に戦闘力は失われてしまいます。
それでもこの頃には、抗戦派の潜水艦隊内でも水兵さんを早く両親の元に帰してあげることも良い事だ、と思われるようになっていたのです。
米軍
9月も中旬になるとアメリカの第8軍が呉地区へ進駐してきました。各艦の航海長はその水先案内に狩り出され、そこでアメリカの水兵さん達となごんで行きました。
しかし、敗戦は敗戦でした。10月にはそれを実感させられます。
「伊201」と「伊203」は水上の姿を見ただけでも特異で、特にアメリカ軍の注意を引きました。その上、当時の世界の潜水艦の水準をはるかに抜く「水中高速艦」であることが判って接収されることになってしまったのです。
整備の上、米兵のみで米国へ回航することとなり、整備作業のため各艦から毎日2名ずつ手伝いに出ました。
日本流の技術と操縦法の伝授が不安視されましたが、容易に解決してしまったそうです。すでに日本兵と米兵の間に垣根がなくなっており、海の男同士の国を越えた理解が壁を壊していたのです。
緊張感のない平穏な日々が過ぎていき、昭和21年の正月を迎えました。
呉に待機していた第六艦隊の士官たちも思い思いに帰郷したり、下宿先のご家族と交流したり、久々に自らの生命の心配も国の存亡も思うことの無い正月でした。
第11潜水戦隊(練習戦隊)の若い士官たちにとっては海軍に入って初めての「平和な正月」だったことでしょう。
その正月が過ぎ、2月になると残された海軍艦艇の処分が決まり、第11潜水戦隊は呉を出港して九州の南を回り佐世保に向かうことになりました。佐世保には続々と各地の潜水艦が集まり、全部で40隻程になりました。
海没処分
潜水艦はまとめて爆破処分する事になっていたのです。
4月1日に五島沖まで自力航行し、波201は波202と共に巨大潜水艦伊402の両舷に抱かれた恰好で繋止され、回航してきた士官たちは米軍のLSTに移乗しました。
次々に爆破されるようすは見せてもらえましたが、自分の乗っていた艦の時には下の船室に降ろされて見ることは出来ません。
爆薬は大型の辞書位の大きさです。波201型ではその爆薬2つを内殻のやや下側に固定し、導火線をハッチの外側まで導いて係の兵がライターで点火し、急いで内火艇に飛び移り離れる作業の繰り返しです。
潜水艦は恐らく水面下の部分で裂けるのでしょう。火炎は見えませんが、突如ハッチの数だけの黒煙が吹き起こり、天に向かって伸びていきます。
煙以外は何事もなかったかのように見えるのですが、気のせいか乾舷部分が薄くなってゆくように見えます。
やがて水平が失われると艦首か艦尾が棒のように立ち上り、どの艦も名残り惜しげに暫く静止しますが、間もなくスーと音も無く海面に吸込まれていきます。
それは太平洋に覇を唱えた大海軍の最後を告げる荘厳な儀式でした。
波201型の特徴
波201型の特徴を紹介しておきましょう。
排水量;水上320トン、水中440トン
全長53メートル、全幅4メートル、喫水3.44メートル
速力;水上10.5ノット、水中13ノット
兵装;7.7ミリ単装機銃1挺、53cm魚雷発射管×2門、魚雷4本
戦局の逼迫、特に連合軍の対潜探知能力の強化を受けて、本土決戦時に敵補給線を覆滅する目的で企画された「水中高速潜水艦」の小型バージョン(1000トン級は伊201型)です。
水中での高速達成のため、船体は徹底したシェイプアップが行われ、備砲は装備されていません。機銃も潜行時には収納されるようになっており、船体そのものも「準ティアドロップ」とでも言うべきフォルムです。
高速だけでなく水中での運動性能にも注意が払われ、潜舵が艦の中央に位置しています。これは世界に先駆けた独創的な設計。
潜入・浮上が極めて軽快になり、上記にもある急速潜航30秒(最速は25秒だったそうです)はこの潜舵に負うところが大きいのです。
現在の潜水艦の基本形をほぼ満たしている、「未来先取り」型の潜水艦でした。
このような「潜水艇」としては「海龍」や「蛟龍」などが既に建造されていたのですが、いかんせん小型に過ぎて本土近海でも航洋性や行動性能に不満がありました。
「海龍」や「蛟龍」の甲標的では哨戒しながら攻撃、と言う使いかたは航続距離や行動可能時間が短か過ぎて不可能なのです。
そこで計画されたのが「水中高速潜水艦」伊201型です。この艦は水中19ノットの超高速(当時のアメリカ潜水艦で水中9ノット、現行の「そうりゅう」級でも20ノットです)を誇りましたが、追い詰められていた日本では量産は望めませんでした。
量産のために伊201型を小型化したのが「波201型」でした。
乗員は26名で通常の3直はとれず、常に2直で勤務したようです。居住性が悪いといわれた大日本帝国の潜水艦でも、寝台は各自に割り当てがあったのですが、波201型では二名で一つのベッドを使っていたそうです。
この辺りが小型潜水艦の大きな弱点でしょう。
戦わなかった者は誰も覚えていない
一般の潜水艦では1,500メートルとされていた「好適射点」は、波201型は発射管が2門しかないので必中のために500メートルとされていました。
13ノットで航走しながら射距離500メートルで発射すると、ぐずぐずしていたら魚雷命中時の爆発に巻き込まれてしまいます。波201型の良好な運動性を抜きにしては考えられない新戦法でした。
敗戦時に完成していたのは全部で10隻。本土決戦に備えて訓練完了が上述のように3隻。実戦に投入されることはありませんでした。
建造中の艦が29隻もあり、続いて40隻もの建造が予定されていました。
戦わなかった者は誰も覚えてくれません。しかし、波201型は(伊201型も)その若き乗組員達とともに戦おうとしていたのです。
せめて伊400型の半分くらいでも覚えておいていただけないでしょうか?
できれば第六艦隊司令長官醍醐忠重中将もついでに。
醍醐忠重提督は1947年12月6日、オランダの報復的戦犯裁判により死刑判決。
刑場で君が代を声高らかに歌い、天皇陛下万歳を三唱した後に銃殺されました。