後醍醐天皇と戦争の勝ち方

佳子さまイラスト

敗戦の日のちょっと前ですが、今週の話はトンでもなく古い話です。
それもあんまり人気のない南北朝時代なんですが、「戦争」を考えたいと存じますので、ご辛抱ください。特に「やめ時」を考えます。

捲土重来

1336年5月25日、九州から湊川(現・神戸市)沖に現れた足利尊氏の大軍。大楠公や北畠顕家公らの作戦と戦闘力で京都から追い払われて、縁もゆかりもないはずの九州へ落ちていた足利尊氏。

九州においても、菊池武敏を筆頭に宮方(南朝)に付く武士は多く、やっと宗像氏範らの支援を取り付けたモノの兵力は宮方の1/10。この状態で名高き「多々良浜の戦い」が始まるのでありますが、宮方に裏切りが続出して尊氏が大勝利を飾るのです。
このあたり、後の関ヶ原を思わせてくれますね。電脳大本営の興味を無茶苦茶ひくのですが、この記事には関係ありません。

ともかく、九州の健児を率いた尊氏方は今度は圧倒的な優勢です。優勢な兵力にモノを言わせて海・陸で攻め寄せていまして、長い海岸線のどこにでも兵を上げられる優位も保っていました。

足利尊氏

足利尊氏

対して後醍醐天皇方は大楠公・楠正成が智謀を傾けて防戦、尊氏の上陸を許すと、本陣めがけて吶喊すること幾たびか。少数の精鋭部隊を率いて孤軍奮闘しますが、ついに衆寡敵せず。刀折れ矢尽き、ついに自刃。

いったんは戦場を捨て撤退した新田義貞も、軍を返して尊氏に迫りましたが、大楠公の敗北を見て京に逃げ帰ってしまいます(「大楠公の敗北」と書いてることに注目してくださる読者さまがどれほど居られるでしょう?楠木正成は防衛戦に失敗して敗死したんですよ。言葉を飾ってもしょうがない、負けを正面から認めなきゃ、次も負けてしまうんです)。

追い詰められた後醍醐天皇は、伝家の宝刀「比叡山へ退避作戦」を発動します。この作戦はわずか半年前にも楠正成の進言によって発動され、絶大な効果を上げた戦い方であります。
しかし、今回はすでに後醍醐方を支え続けた名将・大楠公はすでにありません。もう一本の柱である新田義貞も精彩を欠き、山を駆け下りて京都を襲う能力を欠いていましたから、山上で追い詰められるばかりだったのです。

楠正成 

楠正成

 

和睦

余裕を見せる尊氏は、8月に入ると比叡山に使者を送って和睦を持ちかけました。都では「北朝」の光厳上皇の院政(光明天皇は上皇の弟)も始まっており、八方ふさがりを認めた後醍醐天皇は降伏を決意するのであります。

足利尊氏は日本という国(って意識があったかどうかは?でありますけれど)の統治方法では後醍醐帝と対立して、兵火を交えることになってしまいましたが、個人としての後醍醐さんが大好きだったようです。
天皇陛下を大好きってのはいささか不穏当な表現ですが、コレが史実のように私には思えます。

ですから、尊氏は圧倒的に有利な情勢であっても、南朝に対して過酷な条件を提示することはありませんでした。後醍醐帝はこの条件に乗ることになさったのであります。

ただ困ったのは新田義貞の処遇です。義貞は徹底抗戦を主張して譲りません。義貞にしてみれば、一族郎党の生活どころか命まで掛かっていますから、そう簡単に「降参」してもらうワケにはいきません。

やむなく、後醍醐天皇は新田義貞を騙すことにいたします。北朝への降伏を前に「皇太子」の恒良親王に譲位する、と言い出されたのであります。

ご自身は尊氏(北朝)に降伏するフリをして攻撃を食い止める。三種の神器は恒良親王に譲り、恒良親王は新田義貞と行動を共にして北陸に退避して再起を図れ!というストーリーを描いてお見せになったのです。

新田義貞・稲村ケ崎

稲村ケ崎で進撃路が開くことを祈る新田義貞

恒良「天皇」は新田義貞に守られて北陸(新田家の勢力が強かった)へと下向されました。

降伏と譲位

「徹底抗戦派」をなんとか追い払った後醍醐天皇。京都へと還御なさいますと、事前の約束どおり、今度は北朝の光明天皇にまたも譲位されます。天皇陛下が天皇陛下に御位をお譲り給うってのもすでに十分ヘンな話ではあります。
ただ、この時点で北朝の光明天皇は三種の神器を保持なさってはおられませんでした。天皇の御位には「上皇陛下」のご指示によってお昇りになっているのです。

後醍醐天皇はこの光明天皇に三種の神器をお譲りになったのでした。二組目だぞ、神器は。

後醍醐天皇

後醍醐天皇

二つ目かどうかなど、電脳大本営の興味をあまり引かないのでありますが、ココからがひとつのポイントであることは間違いありません。

北朝(+足利尊氏)と後醍醐天皇の約束で、光明天皇の皇太子には後醍醐「上皇」(実権はありません)の皇子である成良親王が立てられたのであります。

足利尊氏くん、いくら後醍醐さんが好きだからって、それは無いんじゃないの?って思われるかもしれませぬ。尊氏くんが北朝を擁立したようなモンですからね。
でも、南北朝っていいますか鎌倉幕府を倒しちゃった事自体が天皇家内部の勢力争いに端を発しておりまして。
この勢力争いを鎌倉幕府が何とかおさめた方式を「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と言うのであります。

詳しく書くのは面倒なんで、「大覚寺統」(こっちが南朝になります)と「持明院統」ってのが、一代交代で天皇の位に就こうね、っていう約束だと理解しといてください。大覚寺・持明院ってのが、(お寺の名前ですが)両勢力が持ってた荘園の名称、ってのも一つの理解の助けになるかも。

そもそもの出発点

後醍醐天皇は、実は皇位におつきになる可能性がそんなに高いお方ではなかったのですが、両統迭立の狭間で偶然も重なって天子様におなりになるのです。

で、後醍醐天皇はご自分の子孫を、ず~っと天皇の御位につけることを狙って「両統迭立」を決めた鎌倉幕府を倒しちゃったんであります。一面ではそういう理解もできる、ってことですからね!

成良親王の立太子は後醍醐帝がご自分で望まれてぶっ壊された両統迭立を復活させたことを意味しています。成良親王は数多い後醍醐帝の皇子のなかでも親足利派だった、という理由もありますけどね。
(この辺の経緯は話し出すと長くなってしまいますので、またの機会に)

足利尊氏はこの時点で前代の鎌倉幕府と同様に、皇位の両統迭立(対立する二つの皇統、持明院統と大覚寺統が交互に帝位につく)を保障したわけです。

後醍醐天皇は鎌倉末期、大覚寺統でも中心的な地位を占めていたわけではありません。偶然が重なって、つまりは天の思し召しによって、至高の存在となられたのですが、ご自分の直接の子孫が皇位につく可能性は殆どなかったのです。

現代の大覚寺

現代の大覚寺

これをなんとか、ご自分の血統で皇位を独占できぬか?というのが「倒幕」の出発点だったのです。倒幕には成功したモノの、天下の情勢は帝の思うにようにはなりませんでした。

ご子孫を安定的に皇位につけるどころか、ご自分も譲位される羽目に陥ってしまったのです。ところが、足利尊氏の「配慮」によって、両統迭立の状態に戻るという「戦略的勝利状態」が転がり込んできたのであります。

大東亜戦争の出発点

時代がとんで電脳大本営の主テーマ、大東亜戦争です。

どうも米英に、あるいはソ連に踊らされて彼らの都合の良い「日本参戦」へと導かれてしまった、というのが真相のようではあります。とはいっても、当時の政府、そして昭和大帝は主体的に判断なされて開戦を決意された筈です。

何を判断なされたのか?を考えてみますと、「自存自衛に足る石油の確保」に行き着きます。アメリカから原油・鉄鉱石・屑鉄を止められてしまったら、現代のKoreaが我が国から白国指定を解除された、どころではない存亡の危機であります。
昭和大帝は帝国が自主的な政策を取り続けるため(ってことは世界的に一流の軍隊をいつでも何処にでも投入可能な状態にしておく、ってことです)に、アメリカと戦うことを決意なされたのであります。

攻撃当時のパレンバン製油所群

攻撃当時のパレンバン製油所群

つまり大東亜戦争の「目的」はあくまでも「石油確保」にあります。戦争はその目的を達成したほうが「勝ち」です。
戦闘による被害の多寡は、後々(いやいやすぐにでも)影響が出るかも知れませんが、戦争の勝ち負けに直接は関係ありません。

後醍醐天皇の場合、いったんは全国制覇をなしとげたものの、政権樹立直後から不安定そのもの。その後いろいろな戦闘を経て、ついにおん自ら敵方に譲位する屈辱まで味わうこととなってしまいました。

しかし、尊氏による成良親王の立太子で、後醍醐天皇のご子孫は1/2の確率で皇位につけるようになったのです。成良親王が御位におつき遊ばされ、後醍醐「上皇」が治天の君として君臨されたなら、両党合一も可能になっていたかもしれません。

これは後醍醐天皇にとって、『勝利』ではなかったんでしょうか?
出発点からすれば、全く零の可能性が50%以上になったら、それは十分な勝利だと思うのですが。

さらに、この時代は現在のように天皇陛下が終身その地位にあらせられるワケでは無いですから、後醍醐天皇が「治天の君」として院政を敷くチャンスも大いにあったのです。

成良親王の立太子は従来、殆ど大きく取り上げる歴史論は無かったように思いますが、私は重要なポイントだと考えています。

大東亜戦争の目的達成点

大東亜戦争の緒戦はわが国の圧倒的有利(個々の戦闘を詳しく見ると、そうでもないんですが)で展開していきます。

「石油確保」の観点から見れば、蘭印作戦が成功し、とりわけパレンバン油田地帯をほぼ無傷で占領して「戦争目標」は完遂されたのでは無かったんでしょうか?
パレンバン油田の年間産出量は大日本帝国の年間需要を上回っていたのですから。

アメリカの主力艦隊を叩いたり、フィリピンを占領したりは石油輸送路確保のための支作戦と位置づけるべきなんじゃないでしょうか?実際にはこの石油の還流が出来なかった(緒戦期からずっと、です)のが大きな敗因となるのでありますが…

しかし、次のような反論も成り立ちますね。「戦争はコチラの都合だけで始められても、止めるのは双方の同意が無ければ出来ないじゃないか。」と

挺進部隊の降下

油田無傷占領の立役者、
挺進部隊の降下

ただ、パレンバン占領の時点なら、英は本国近くの戦闘に集中したかったワケですし、米は「対独参戦」と言う第一目標は達成済み(ヒトラーが周囲の反対を押し切って対米宣戦布告)です。

大英帝国の極東地域での一番大きな心配は、自国領が一時的に占領されることより、重大なカネヅルのインド他の植民地に「独立の機運」が蔓延することだったでしょう。
この面から言えば、「敗戦国オランダ」の植民地が大日本帝国の植民地に転換することは受け入れ易い事態ですしね。大日本帝国の植民地経営が自分たちのソレと大いに異なっていて、「現地の人の先頭に立って、本国人が汗水たらして働く」ものだったことにはジョンブルは気付いていないようですし。

炎上する空母「ワスプ」

炎上するアメリカ空母「ワスプ」

大日本帝国が和平を持ちかけていれば、米英両国とも、少なくとも交渉の席に着いた可能性は高かったと思われます。ドイツとは…まあ「ゴメンね」、では済まないかなあ。

南北朝へ

1336年12月、後醍醐天皇は突如京都を出奔、大和の国は吉野にそのお姿を現し給います。吉野の仮御所において、
「光明天皇に渡した三種の神器は偽器であり、朕の保持するものこそ真の三種の神器である」
とのお言葉を発し給い、ココに「南朝」が誕生したのであります。

日の本の歴史の上で、空前絶後の「同時にお二方の天子が君臨し給う」事態となってしまったのであります。この時より、60年に及ぶ内戦の幕が上がりました。この「内戦」も我が国の歴史で空前絶後であります。
他の時代は天子はお一人だけですからね、いくら血で血を洗って争っても、それは「臣下の勢力争い」に過ぎませぬ。

吉野の南朝行宮跡(建物は後世のモノです、もちろん)

吉野の南朝行宮跡(建物は後世のモノです、もちろん)

「あれ?北陸の恒良親王は」と思った貴方、鋭い!
これもあんまり歴史本には出てきませんが、一時期は北陸・京都・吉野の三朝が同時存在していましたよ。

恒良親王はご自分の存在を大きくアピールされることも無く、やがて篭城していた越前金ヶ崎城が落城して捕らえられ、京都へ送られて毒殺されてしまったようです。

ともあれ、この後醍醐天皇の行動によって和睦の条件はご破算になり、成良親王も皇太子の地位を棒に振られることになってしまうのであります。

勝てるときに勝っておく

大日本帝国にとって、石油の確保は存亡の分かれ目だったのですが、あまりに難なくパレンバンを占領できたことが、指導者の眼を曇らせたんでしょうか?

北畠顕家

南朝を支えた北畠顕家

この時点で「和平」などだれも言い出さず、次の戦略目標もはっきりしないまま、戦争を続けてしまったのは皆さん良くご存知のとおりであります。

後醍醐の帝が立ち上げ給うた南朝の勢力も大きくならず、マトモに抗戦できたのは当初数年間だけ。
東北から、純朴な健児を率い鎌倉を席捲、再度の上京を狙った北畠顕家卿が和泉の国石津浦(現・堺市あたり)で北朝方の名将・高師直に討たれると、全国で退潮傾向に。
あとは北朝方、室町幕府内の内輪もめに乗じて単発の小反撃をするだけでした。

勝ち方を研究してから

電脳大本営では、よく「万一負けたときの負け方も考えておくべき」と申し上げております。

一方で、「どこまでやったら勝ちか」という小さな目標も立てておかねばなりません。
大東亜戦争において、「パレンバンを占領・確保して帝国の石油需要を満たしたら、いったん矛を収める(べく努力する)」と決めて置いたら歴史はどのように変わっていたでしょうか?

後醍醐帝が、「成良親王はしばらく待てば次代の天子となる。そうなれば朕が『治天の君』である。朕の系統が皇位を独占するための手を打つチャンスはまだまだある」とお考えになったとしたら?歴史はどのように変わっていたでしょうか?

光厳上皇

光厳上皇

結果はどうなったか、かえって日本にとって良くない結果になったかもしれません。
「良くない結果」というのは、私が光厳上皇の後半生を「日本の帝王のあるべき姿」と信じている為かもしれませんので、念のため。

*光厳上皇は北朝の初代(実際は初代の先代ですが)とされるお方です。観応の擾乱の際に、南朝方に拉致されて囚われの身のままでご出家なさいます。京都にお帰り給うと、栄耀栄華を捨てて丹波の国山國荘の常照皇寺にお入りになります。
この僻遠の地で、「元上皇」としてではなく一介の禅僧として仏事に励まれ、ご崩御まで両統の争いに倒れたモノの冥福と我が国の平安を祈らせ給わったのであります。まことにもって有り難き帝王ではありませぬか。*

「冷静に考えれば、絶対に負けるよね」って誰もがおっしゃる戦争でも、「そんなには負けなかった」とか「ズルズルやって、なんとなく目的を達成しちゃった」という結果にもっていく方法は常にある、ってことはお判りいただけるのではないでしょうか。

堕ちろ、文

堕ちろ、文

現在進行中の「日Korea歴史・経済戦争」も、我が国が勝利することは間違いないでしょうが、「どこまで勝つか」は慎重に考慮しなければなりません。その際にはかの邦民が「約束を守らない」「嘘をつくのが生来の質」「感情に流されるのを好み、何事も冷静に判断できない」といった我々からは理解不能な国民性を持っていることも考慮に入れるべきであります。

来るべき日China戦争でも「どこまで叩いたら勝ちか」を明確にしておかねばなりません。対Koreaとは違って、相手は国土と国民の数において我が国を上回っております。

そう簡単に城下の盟を強いることは出来ないのであります。

しかし、「城下の盟」が戦争目的とは限りません。電脳大本営としては、チベット・ウイグルで武力独立運動が起き、満洲にも波及したあたりで「休戦」をちらつかせるのが良いのではないか?というのが持論であります。
休戦交渉をしながら、満洲での「反乱」をテコにして漢人勢力の分裂を図ります(笑)
Chinaの国力は漢人の数の多さと、もともと0円だった土地を金に換えた錬金術によって来るモノですから、人口の方を分断しちゃえば、その先は恐れる必要はありません。
ココを戦争目的にすればよろしいのであります。

「戦争は目的を達成した方が勝ち」はこのように使うべき考え方でありまして、私の大嫌いな「大東亜戦争は大日本帝国の勝ち!」的な屁理屈で使ってはなりませぬ(笑)

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA