パンとおにぎりと日本海海戦

戦艦三笠イラスト2

日本人はコメをこよなく愛して喰い続けてきました。それは「海の男だ、艦隊勤務」の水兵さんも同じこと。
でも月月火水木金金、毎日コメを喰ってたんでしょうか?

初めての給糧艦

コメを喰うにしろ、パンかビスケットを喰うにしろ、前線にある艦隊には本拠地から食料を届けてやらなければなりません。

「聯合艦隊で水兵さんに最も愛された艦(フネ)」である「給糧艦・間宮」は超有名でしょうけれど、ココでは「間宮」のご先祖様を紹介させて頂きましょう。

給糧艦間宮

給糧艦間宮
「福岡丸」の画像が無いので(泣)

 

日清戦争では、徴用した「給炭船」に食糧を積ませていた大日本帝国海軍でありますが、日露戦争では大阪商船の貨客船「福岡丸(3000トン)」を専門の食糧輸送用に徴用いたしました。

「福岡丸」は日露開戦までに食糧運搬用の艤装を完了していました。
そのうえ、開戦後になりますが、生鮮食料品のために「J・E・HALL式製氷機」を2台設置しています。製氷機と言っても冷蔵庫として使ったんですけどね。

「福岡丸」は戦争期間中に佐世保と艦隊の間を39回往復し、ひたすら水兵さんに食糧を届けました。

日本郵船の「松山丸」も給糧用として徴用され、2隻で交互に艦隊に食糧を届けては佐世保に帰る体制が確立していました。
「福岡丸」の4つの船倉には全艦隊の1か月分の食糧が搭載可能で、腐りやすい物は中甲板(雨が掛からず、風通しが良好)に吊るして運んだそうです。

それでも食糧は腐りました。特に牛肉は良く腐ったために、後甲板を改装して牛舎を造り「生牛」を搭載するまでになっています。
パン(麺麭)も黴び、コメにも虫が沸きました。
野菜類も大根はけっこう日持ちしたのですが、土付きの牛蒡は腐敗が早く、もやしの保存もほぼ不可能だったそうです。

まあ、そやろなぁ、外食産業のコックさんを雇入れておけばうまい事保存法を考えてくれたと思うけどな。

元三景艦「橋立」の場合

日清戦争で大いに期待されながら、案の定役に立たなかった「三景艦」は、日露戦争では第三艦隊第5戦隊(三景艦+鹵獲した鎮遠)として旅順港の封鎖作戦に従事いたしました。

封鎖作戦(閉塞作戦とは絡むけれど、別物ですよ)は約半年にもおよび、「橋立」と僚艦は「松山丸」の恩恵を受けるのですが、それでも生鮮食品の不足は深刻でした。

海防艦橋立絵葉書

「橋立」絵葉書より

 

とくに野菜の保存は絶望的で、馬鈴薯・玉葱は3~4日、大根・人参は4~5日しか持たなかったそうです。

ですから、水兵さんに出されたサラダは鮭の水煮缶詰・昆布・干しバレイショが使われていました。
煮付けは牛缶と切干し大根で調理され、あげくは「コンビーフ其侭(そのまま)」というメニューまで。

主計科員はラクでいいけどね。「海軍給与例」では『缶詰「コンビーフ」ハ一週二回以内ヲ給与スルモノトス』とあるけど。

さらにこの傾向は少しづつ激しさを増し、鮭の水煮缶詰・鱒の水煮缶詰・昆布・干し馬鈴薯が毎食毎食「其侭」出されるようになりました。

水兵さんたちはやむを得ない、とは知りつつやはり不満。この不満を、主計長の安斎辰造大尉にぶつけます。
大尉は決して悪くないのに、「ホッカイドーチョー(北海道庁)」と渾名して憂さを晴らしたそうです。

駆逐艦「白雲」

お次はグッと小さくなって駆逐艦。

後年、万難を排して「敗戦」を確定させる(褒めてるんだからね)働きで有名な、鈴木貫太郎大佐の指揮する第4駆逐隊の一隻「白雲」であります。

白雲1902英国にて引渡直前

駆逐艦「白雲」 1902、英国にて引渡直前

 

第4駆逐隊は「白雲」の他に「朝霧」「村雨」「朝潮」の4隻で構成されていました。

明治38年5月27日0530。鈴木貫太郎司令は「敵艦隊見ユ」の緊急電を傍受し、警戒していた対馬海峡南部を離れて連合艦隊主力に合流します。

0900、敵艦隊と思しき煤煙を視認して「戦闘配置」を下令。

この日、有名な電文にあるように、海面は「天気晴朗なれども波高し」でした。

「白雲」は艦の動揺が激しく、調理は諦めてしまいました。艦載の調理機材は石炭を炊くもので、調理員の火傷や火災の危険を考えたのでしょう。

こういった場合の食事の内容については、「海軍給与例」にちゃんと記載されています。
当然ちゃあ当然のことで、軍艦はどんな海面状態だろうが、敵と相まみえれば戦わねばなりません。

戦えば、それは長引くかも知れず、長引いて腹が減ったら戦になりません。なんか論理的にヘンな気もしますが、まあ、そういうコトです。

「白雲」では5月27日は昼食・夕食ともに「乾麺麭50匁(187.5グラム)・砂糖(舐め物じゃな)22.5グラム・貯蔵獣肉150グラム」が支給されました。
貯蔵獣肉とは具体的には缶詰のコンビーフで、前述の「コンビーフ其侭(そのまま)」ですね。

実際には一人づつ配って回る訳にも行きませんから、乾麺麭の空き箱に「乾麺麭」「コンビーフ」を入れて置き、「砂糖」だけは規定量を渡して後は食べ放題にしていたようです。

私のように昭和30年代から40年代に育ちざかり・喰い盛りを迎えたものにとっては、コンビーフ喰い放題はけっこう魅力的だったりして。

今になって考えると塩分が過剰になる気もするけどな(儂は長い事高血圧とお付き合いがあるのじゃ)。

明治30年代の軍艦内部の食事風景,パン食

明治30年代の軍艦内部の食事風景,パン食

 

実はこの数字、これまた「海軍給与例」の規定によって1割減となります。
ご心配なく。水兵さんの食い扶持をピンハネしてる訳じゃなくて、給与量の一割を「嗜好品」に換えることが認められていたのです。
つまり、主食を1割減らして、その分スイーツが出てたんですね。

これをやれない(やらない)主計長は「北海道庁」と呼ばれるくらいじゃ済まないシッペ返しを貰いますから、ぜったいに出してた筈です(笑)

まあ、合戦中は出ないでしょうけどね。

駆逐艦「霞」の場合

もう一隻、日本海海戦の駆逐艦を見ておきましょう。

駆逐艦「霞」です。「春雨」「吹雪」「有明」「暁」の4隻とともに「第一駆逐隊」を構成。

決戦前日の5月26日は「第二戦隊」の「出雲」「吾妻」「常盤」「磐手」に随伴して沖ノ島附近にありました。

駆逐艦「霞」日時場所不詳

駆逐艦「霞」日時場所不詳

 

信濃丸からの飛電を受けた上村彦之丞提督率いる「第二戦隊」は東郷直卒の第一戦隊に続航、「第一駆逐隊」もこれに続きました。

「霞」では「白雲」と異なり、平常通りに白米を炊爨して「梅干し入り握り飯」を配食しています。

当日の海上は時化ていて、乗員たちは波しぶきを被りながらおにぎりを喰ったようです。
塩水が洗う甲板上で喰うんですから、梅干しは止めて海老マヨとかにした方が良かったんではないでしょうか(笑)

「霞」はおにぎりで士気を上げたためか、この日の夜戦ではロシア艦「スエトラナ」に魚雷を命中させる殊勲をあげています。

戦艦「八島」

戦艦「八島」は日露開戦時に連合艦隊が保有していた6隻の戦艦のうちの一隻でした。

戦端が開かれると、主力の一艦として旅順港の監視に当たっていたのですが、明治37年5月15日1110、旅順港沖合にてロシアの機雷敷設艦「アムール」が仕掛けた機雷2発に接触してしまいます。

触雷は2つとも右舷で、「八島」はたちまちのうちに傾斜。

八島 M30429

戦艦「八島」 明治30年

 

乗員は必死に排水に努めたのですが、浸水が止まりません。

1200、艦長は意を決し軍医科・主計科と機関科の一部に退艦命令を出します。
主計科は戦闘の持ち場が基本的にありませんから、こういった緊急時には応急要員として活躍するんです。

それに退艦命令とは、艦をあきらめて水兵さんを救う決断をしたって言う事ですな。

それでも主計科員たちは退艦前に非常食を用意しています。

残る水兵さんたちに、食い物を準備してから退避しよう!って算段ですが、艦内は爆発とそれに伴う浸水で防水区画が閉鎖されてしまい、缶詰倉庫にはアクセス不能になっていました。

缶詰「其侭」で誤魔化す手段を絶たれた主計科員たちは、その手前にある食糧庫に入り、「乾麺麭」4貫入り16箱(計240キロ)と「砂糖」16貫(60キロ)入り一俵を搬出。

通常の通路は使えませんでしたが、手作業で乾麺麭と砂糖を上甲板中部に集積しておいたのです。

「八島」の総員退艦はこの日の1800ですから、この準備完了から6時間弱、相当数の居残り乗員が砂糖を乗せたパンを喰って乗艦を救おうと戦った筈です。

なお、八島の乗員は741名ですから、事前に退艦した人も含めて一人あたり300グラム以上(当時の基準では2食弱)の乾パンを用意したわけですね。

副食が無いとは言え、非常時に良く喰うよなあ。やはり我らのご先祖は素晴らしい。

戦艦「三笠」

大日本帝国海軍の食糧事情(のごく一部)をお話しようと、この記事を書き始めたのですが、どうも日本海海戦が中心になってきてしまいました。

となると、戦艦「三笠」の場合を書いとかないといけませんね。あんまりエピソードがないんだけどなあ。

「三笠」の場合、決戦の日も朝食と昼食は通常通りです。

主計科は昼食の準備に引き続いて、夕食用の握り飯の準備を開始。1400には各部署に配食完了しています。

流石は連合艦隊旗艦で、ちゃんと握り飯を造ってたんですが、時間がこんなに早いのは、戦闘による損害を考慮して烹炊所への蒸気の送気が早めに止められたため。

三笠 裏長山泊地

日露戦争中の三笠 裏長山泊地にて

 

戦闘終了後も翌日に備えて握り飯を造り、28日の未明には朝・昼分を配食完了しています。

パンの製造

海軍の戦闘時の食事というと、「乾麺麭」が思い浮かびます。

乾麺麭(かんめんぽう)はイギリス海軍で言うビスケット、私どもが非常用に備蓄する乾パンなんですね。
これを毎食喰わされたんじゃあ、いくら「嘗め物」を乗っけてもパワーが持続しないように思います。

そんな事は大日本帝国海軍の偉い人たちも(この頃は、ですが)理解していて、日露戦争が始まると佐鎮(佐世保鎮守府)で「生麺麭」(今の食パン)の製造を強化した記録が残っています。

パン類は当時は業者から購入するんじゃなくて自家製(鎮守府の軍需部が担当)だったのですが、明治37年1月から「乾麺麭」の生産を中止して「生麺麭」一筋に製造します。

軍属の「乾麺夫」さんは2交代でパンを焼き続けたそうです。

佐世保鎮守府正門

佐世保鎮守府正門

 

当初は15名だった「乾麺夫」さんは日露開戦と同時に24名に増員。

「焼けた生麺麭は4本ずつ並べて」と記録にありますから、食パンみたいな形だったんでしょうね。これを90度向きを変えて3段に重ねたそうです。

この12本を木枠に収めたものが最小単位で、各艦隊へと送られたのですが、やはり良く腐ったようです。

そこで、佐鎮では食パン型をやめて丸い小型のパンに変更。

パン1個ずつを紙で包んで、通気の良い木枠に入れて輸送することにしたのですが、それでも完全に腐敗を防ぐことは出来ませんでした。

明治37年6月、大連を占領すると早速「大連海軍工務部」が設立されて業務を開始。

防備隊も含めて、工務部への食糧供給のために佐鎮軍需部も大連へ進出することになりました。
具体的には佐鎮の「請負人」が現地へ行き、陸軍部隊からレンガの提供を受けて「かまど」を製造、1日に3000斤の生麺麭を生産したそうです。

これで佐世保から運ぶよりはずいぶんと輸送品質が上がり、海軍ばかりではなく、旅順攻囲の乃木第三軍や陸軍の野戦病院へも供給されたそうです。

一方で「乾麺麭」は内側をブリキ張りにした木箱に入れて供給されたのですが、箱の大きさは大型艦用の4貫入りと小型艦用の2貫入りがありました。

一食分は50匁(187.5グラム)で、これを一食分づつ防水紙でくるんで蛸糸で縛り、4貫入りには80個・2貫入りには40個を収めていました。

前述の「白雲」で食べ放題のパンとコンビーフ缶は小さい方の箱だったんですね。

明治44年、給与例改正さる

以上の経緯を経て、明治44年に至り海軍給与例の「施行細則」が改訂されることとなります。

今までのパン食を出来る限り「米麦食」に換えて行こうというモノであります。

一日三食のうち、パン食は一回だけにするのが建前とされたのですが、航海中は一週のうちに5回までパン食を米麦食に換給して差支えなし、とされました。

「換給して差支えなし」という表現は、お役所(海軍もお役所の性格を色濃く持っています)特有の言い方でして、「コメを喰わせてやれ」という事です。

この改訂によって、水兵さんは航海中なら週2回だけパンを喰えば、あとは(麦は入ってるけど)コメの飯が食えるようになったのです。

現在の私の食生活と同水準ですな(笑)。

私は毎水曜の朝と土曜の昼がパンで、あとはコメか酒であります。
この程度のパンだと厭にならずに喰えますな。いや、別にパンが機雷嫌いなんじゃないけど。

コメは時おり「五穀米」とか言って麦飯どころじゃない不味いのになりますけど。昔は「コメなんぞ喰わんでも平気や」って言ってたんですがねぇ。やっぱりコメが一番美味い。

スマートネスがウリの海軍と言えど、やっぱり大日本帝国の水兵さんはコメの飯を喰いながら戦ってくれたのでありました。

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