大日本帝国陸軍とくりいむレモン
旧陸軍は海軍に比べて封建的・抑圧的な組織であり、科学的な思考も出来ないミリタリー馬鹿の集団、的な論はいまだに左側の人から良く聞かれるところですね。
宣伝下手
電脳大本営では「そうじゃないよ」って何度も説明してきました。
まあ、海軍側から見た(海軍ってこんなオマヌケな面も、的な)記事が多いんですけどね。
で、その中でも「食」にはこだわって書いてるつもりです。
ってワケで、今回は陸軍だってパン食の日もあった、っていう点から帝国陸軍のお茶目ぶりを見てみたいと思います。
陸軍が頑迷の塊みたいに貶されるのは、海軍のウリの「スマートネス」に対比されてのものだと思います。
さらに、海軍が兵員数の少なさからくる「一人当たり」の予算の潤沢(陸軍に比べて、ですよ)で豪華な(陸軍に比べて、ですよ)武器・兵器を駆使してカッコ良かったことが大きいと思われます。
しかし、陸軍の方も出来る範囲で真っ当な政策を取り、現代戦の観点では海軍よりはるかに合理的な戦備(航空機の防弾等)を整えていた部分もあるのです。
今回、兵食を考えるわけですが「帝国陸海軍の兵食」と言えば、脚気との関係を避けて通れません。
日本海軍で、有名な高木兼寛が軍艦「筑波」で洋食による脚気防止実験(脚気が多発していた我が国に対して英国海軍では皆無)を行ったのが明治17年。
ほぼ同時期、陸軍だって負けてはいません。大阪鎮台の軍医部長だった掘内利国が明治17年12月から一年間、試験的に主食を米6分・麦4分として脚気予防を試みています。
その結果は、明治17年の大阪鎮台兵の脚気患者が353人だったのに対し、明治18年にはわずか18人にまで減少。
これに着目した近衛聯隊(この時はまだ鎮台制、近衛師団は明治24年から)は、堀内を東京に招いています。
近衛聯隊所属の二個大隊のうち、1大隊には米飯のみを与え、他の大隊には麦飯を与えた上で、同条件で千葉県の習志野の野原を行軍させる実験を行いました。
白米食の大隊には脚気患者が続出しましたが、麦食の大隊には少なく、麦食の有効性が確認されています。
ホントは違うんですけどね、「脚気には麦食が有効」なんて。
脚気はビタミンB1の不足が原因なんですが、ビタミンが知られていない時代では、この誤解も仕方ありません。
海軍の高木軍医だって「麦を喰わせとけば良い」と思ってるわけで、電脳大本営としては「陸軍だってそんな事には気づいてたさ」、と張り合ってみたいだけの事です。
あの兼業軍医のせいで、陸軍が阿呆みたいに言われるからさぁ(笑)
銀シャリは庶民の憧れ
まあ、そんなことで「日本の風土病」と思われた脚気が、喰いモンで何とかなりそう、ということは海軍でも陸軍でも認識され
「兵隊には麦を喰わせろ」
となったのであります。
ところが、当時の大日本帝国はまだまだ貧しかったのです。
銀シャリ(白米だけのご飯)はなかなか喰えなかった、と良く言われるところであります。
「なかなか喰えない」とか「良く言われるところ」などと持って廻った言い方をしているのには理由があります。
江戸の昔から、日本人は腹一杯とまでは言えなくても、ちゃんとコメを喰ってたからです。
江戸の中期以降の人口はほぼ一定で推移し、その数約3000万人と言われます。
一方で当時の大名家や天領、その他の禄高を合計すると3000万石です。
一石と言うのは、「大人一人が一年間に喰うコメの量」でありますから、ちゃんとみんながコメ喰ってる勘定です。
だって江戸時代はコメに限らず、輸出はしてませんからねえ。
明治維新後には人口爆発があるんですが、大日本帝国はコメの取れる領土も増えていましたから、基本的にコメが不足することは無かったんです(海外領から「移入」できない、ってことはありました)。
ただし、不作であるとか経済恐慌などには対応しきれなかった。本当の意味でまだまだ国力が足りなかったのです。
新たに兵役という義務を負った新興帝国の臣民、特に貧しい階層に属する人たちにとって軍隊(ほぼ陸軍です。海軍は兵員数が少ないので)はある種の「憧れの就職先」となりました。
誤解の無きように書いておきますが、徴兵検査に甲種合格しても、実際に兵隊さんになれる者はごく一部です。
だってね、軍隊での2年間は住居・衣服・食べ物が完全保証です。
しかも、最低限度の教育しか受けられなかった身に、再教育の機会も提供されます。
少なくとも論理的な思考能力は叩き込まれます。
標準語も強制的に喋れるようになります。
例えば京都人にとって「自分」が「貴方」ではなく、「なおす」は「片づける・しまっておく」ではない、などとは軍隊でしか知りようがなかったのです。
いやいや、無駄にプライドだけ高い京都人のこと。
軍隊で強制されなければ「自分」とは標準的な日本語では「私」のことで、「なおす」が「修理する」という意味だなどと認めるはずがありませんわな。
京都の皆さん、カンニンどすえ。儂は諸君の永遠不滅のライバル、滋賀県人じゃからな(笑)。
そんな貧しい階層の兵隊さんたちは
「軍隊に入ったら、毎食銀シャリ(白米だけのご飯)がたらふく喰えるぞ!」
と楽しみにしていました。
上手いこと立ち回って下士官になり、20年も務めたら、故郷で一家を建てるに足る田畑を買えるほどの恩給(生涯年金)も付きます。
もっと軍事的な(って言うか役人としての)才能があれば、正式な士官になることだってできたのです(ただし、海軍では出来ません)。
麦飯、出せねえじゃん
軍隊は国民に支えられてこそ、その精強を保つことができるモノです。
大日本帝国ほどの「民主的な帝国」なら猶更です。
左側の方やChinaやウ〇コ半島にお住まいの方には理解出来んだろうが、電脳大本営を良くお読みいただいてる方々には大日本帝国って、(当時としては)かなり民主的な社会だった…ってことがお判りでありましょう。
閑話休題。
精強な軍隊を維持するためには、兵隊たちに麦飯を喰わせるべきだって事は、陸軍にも十分わかっていました。
判ってはいても、「銀シャリ」を求める国民感情に逆らってまで麦飯ばっかり出せない事情が陸軍には有ったのであります。
それは「人気」です。
兵隊さんになるには、徴兵される以外にも「志願」って方法もあって、志願の方が優秀な兵隊さんが集まります。
陸軍としては、なるべくたくさん志願で兵隊を集めたい。
ところが人気があるのは海軍への志願で、海軍は志願だけで必要な兵隊さんを集めちゃうことが多いのです(必要兵員数が少ないこともありますが)。
それでなくても不人気な陸軍が、麦飯ばっかり出してては、優秀な若者はみんな海軍へ行ってしまいます。
陸軍の幹部(山縣有朋など)も
「国のために征くのだから、真っ白な飯を喰わせてやりたい」
とほぼ反論不可能な感情論をほざくし。
悪口言ってるんじゃないですよ。
山縣有朋はどうも汚職のイメージで評価が低いですけど、この件や日清戦争の時の「捕虜になるな論」など、兵隊さんを愛することは誰にも負けない人ですからね。
支那人は国際法なんて守らないから、捕虜になったら虐待される、それより潔く…って話ですから。
結果、陸軍は日清戦争・乙未戦争(台湾に残留していた清兵などの掃討)・日露戦争で大量の脚気患者を出すことになってしまったのでありました。
麦飯がだめならパンを喰え
そんなこんなで「兵隊に麦を喰わせなければ」、と焦った陸軍は「いっその事、パンを喰わせちゃえ」と思い付くんであります。
大正9年の「陸普第二五二九」で
「毎週一食以上をパン食とし、逐次その度合いを増加せしめる事」
が下達され、一般的にはこれが陸軍における本格的パン食の始まり、とされています。
電脳大本営としては、その前のシベリア出兵(大正7年~)の兵営の朝食が毎食パンだったという説を聞き込んでおりまして、コチラを「陸軍パン食」の嚆矢としたいんですけどね。
ただ、シベリア出兵はアメリカなどと協力作戦を行うことが多く、その影響を受けたんだと思うんですけれども、確たる証拠が無いんですよね。
シベリア出兵の初めからパンだったのかもハッキリしませんし。
まあ、大正7年・9年どっちからでも良いんですけれど、陸軍のパン食は途切れることなく続いて参ります。
人気はイマイチだったようですけど。
さて、ここからがこの項の本題。まいど導入部が長すぎてすみません。
昭和11年版の『経理官陣中便覧』と言うマニュアル本には、食糧の凍結防止策として
「先づ成るべく凍結し難き食品を選ぶこと」と(当然じゃん)あり、
「食品中には其の性質凍結し難き物あり例えば、パン、穀類、乾魚菜、味噌、甘味品の如し」
とパン食を推しています。
帝国陸軍の活動範囲が広くなってくると、
「熱地作戦に於ける給養勤務の参考」
のように酷暑の中でも兵隊さんを元気に活動させるマニュアルも出現します。
このマニュアルの「第5章・給養実施上ノ注意」には、
「食パンハ寒地ニ於ケルヨリモ寧ロ嗜好ニ適シ且保存上飯ニ優ルヲ以テ戦術上ノ必要ヨリ「パン」食ノ要求多カルヘキヲ予期ス然」
とあります。寒冷地でも熱帯でもパンが良いって訳ですね。
ただし、マニュアルには続きがありまして
「然レトモパン食ハ動(やや)モスレハ食慾減退ヲ来シ易キト多量ノ湯茶ヲ要スル欠点アルヲ以テ之カ顧慮ヲ要ス」
と書いてあります。
わが陸軍が、真に兵隊さんのことを考えていたことが良く判ります。
兵隊さんはもっとも重要な「兵器」ですから、当たり前だ、って事かも知れませんが「赤紙一枚」とか「一銭五厘」(以上はパヨ珍のデッチアゲと思って間違いありません)とか一部の補給を無視した指揮官とかだけから陸軍を判断してはいけないんです。
「熱地作戦に於ける給養勤務の参考」はアジ歴で閲覧できますよ。
要するにパンは炊飯後のメシと比べると、寒冷地では飯より凍りにくく、熱地では飯より傷みにくい。
つまり陸軍の認定だと、パンは寒冷地・暑熱地どちらでもコメの飯より保存上優れているということですね。
コメ好きの儂としては、焼きおにぎりにしたり梅干しを入れたりすりゃあ良いじゃん!と思うんですけどね(笑)
パンの副食は?
大日本帝国陸軍は「立派な軍隊」でありますから、支給される食事の量もちゃんと決まっており、また副食のレシピもありました。
パンを主食とする場合は兵隊さん一人に対し、一日1020グラムの支給となっていまして、一食分で340グラムですね。
相当な量です。だって、コレは普通にスーパーで売ってる5枚とか6枚切りの食パン一斤相当ですよ!
毎食毎食あれを喰っちゃったんですね、我らがご先祖たち。カラダ小さいのに…
まあ、コメの場合は一人一日6合ですからこんなモノかも知れません。一食2合のコメは多いと思いますよ(笑)その分運動量も多かったんだろうけどな。
で、昼・夜食になるとパン食向けの副食が用意されていました。
大正11年の歩兵三三連隊第二大隊のパン食の献立が残ってますので、紹介してみましょう。
『3月18日夕食:食パン・白砂糖・澄まし汁(ほうれん草・焼麩・削り節)
4月19日夕食:食パン・白砂糖・シチュー(牛肉・葱・牛蒡・小麦粉・砂糖・醤油)
4月22日夕食:食パン・白砂糖・シチュー(牛肉・葱・牛蒡・小麦粉・砂糖・醤油)
5月26日夕食:食パン・白砂糖・シチュー(牛肉・馬鈴薯・玉葱・小麦粉・食塩)
7月9日夕食:食パン・蜂蜜・シチュー(牛肉・馬鈴薯・玉葱・小麦粉・醤油・砂糖)』
副食にシチューが多用されてますね。
砂糖と醤油がメイン調味料のシチューって、海軍の「肉じゃが」を知っている私たちにとっては不思議でもありませんけど。
もう少し時代が下ると、シチューらしくなってきます(笑)
ホントだぞ!栃木縣護国神社さんが復活させている「軍隊調理法」からレシピを拾ってみました。
『シチュー
熱 量 四百四十三カロリー
蛋白質 四十五・五六グラム
材料(一人分)
開き鱈(または塩鮭、塩豚、牛肉、貝類)五十グラム、削り節四グラム、馬鈴薯百グラム、玉葱八十グラム、人参二十グラム、小麦粉十グラム、ラード十グラム、食塩少量、胡椒少量。
準備
イ、開き鱈は庖刀にて切り得る程度に水に浸しおき、一・五センチ角に切り置く。
ロ、馬鈴薯は乱切りとなし、玉葱は粗き千切りとし、人参は木口切りとなし置く。
ハ、ラードを煮立て、小麦粉を投じて攪拌し、油粉捏(ルー)を造り置く。
調理
鍋に約三百五十ミリリットルの水と鱈を入れてしばらく煮沸してその塩味を見て、鹹きときは煮汁を捨ててさらに水を加えて塩梅し、これに人参を加え、のち馬鈴薯、玉葱を入れ、火の通るまで煮立て、塩味足らざるときは食塩を加えて調味し、胡椒を振り、油粉捏を流し込み、攪拌して煮上ぐ。
備考
イ、一般にシチューは堅き肉その他粗悪の材料を用いて長く煮続けて、軟かに、かつ味よくするを要旨とす。
ロ、本調理はパンの副食に適す。』
おそらく、昭和10年代初めのレシピだと思います。どうです、「鱈シチュー」食べてみたいと思われませんか?
↑はアマゾンで売ってましたけど、本文とはまーったく関係ありません。
嘗めモノ
さて、やっとこの記事の表題である「くりいむレモン」まで辿り着けそうです。
もう一度、歩兵三三連隊第二大隊の献立をご覧いただきたいのですが、食パンの後に「白砂糖」とか「蜂蜜」とありますね。
これは「嘗物(なめもの)」とよばれて、パンに付けて食べるための物でした。
コメにおける漬物みたいな理解で良いと思います。
量としては白砂糖が15匁(56グラム)、蜂蜜20匁(75グラム)ですから、結構な量が付いてます(時代・予算状況で変化あり)。
大正年代、白砂糖や蜂蜜は高級品ですからね。
もちろん、バターやジャムの日もありました。
陸軍は兵隊さんのパン食を進めるに当たって、パンに合う副食だけではなく、「嘗物」の研究も精力的に行っていたようです。
昭和12年版「軍隊調理法」の「嘗物」の項目には、「シロップ」「甘藷ジャム」「葱味噌バター」「大豆粉(きなこ)クリーム」「牛乳クリーム」などが記載されています。
この「牛乳クリーム」は軍隊調理法のレシピなどから、今でいう「カスタードクリーム」だろうと推定いたします。
「牛乳クリーム」には、香り付けにレモン果汁や香料を滴下することが推奨されていました。
このレモンフレーバーの「牛乳クリーム」を陸軍では正式に
「くりいむレモン」
と呼んだのです。
左寄りの人たち(正式には糞パヨ)のイメージする所の大日本帝国陸軍であれば、「栗芋檸檬」とか呼びそうですが、「くりいむレモン」です。クリーム、じゃなくてひらがなで「くりいむ」です。
まさか70年以上もたって、エロアニメの題名にパクられるとは…
まあ、すでに珍鉾がほぼ役に立たなくなった私としては、帝国陸軍が兵隊さんを大事にしてた面もあった事が、皆さまに伝われば良いんですけどね。