お召し戦艦大和
大東亜戦争のころ、現在のパラオ共和国は大日本帝国の「委任統治領」という「領土」でありました。
委任統治…
パラオ諸島は、カロリン諸島の西部(西カロリン諸島)にあたり、マリアナ諸島の南に位置しています。
カロリン諸島はドイツ領でしたが、第一次世界大戦の結果として「国際連盟」が大日本帝国に統治を委任することになったのです。
帝国はそれまで、台湾とか雲鼓半島とか樺太半分とか(台湾の人たち、ウンコと並べて御免やでぇ)の「海外領」を得て、それぞれに相応のインフラを整備し、経済を発展させてきた実績があります。
この「開発」は西欧諸国の「植民地経営」とは一線を画す、「本国化」とでも言うような殖産興業策でありました。
帝国は昭和8(1933)年に国際連盟を脱退しちゃうのですが、パラオやサイパンなどの統治を続け、国際連盟のルールに則って毎年の「統治報告書」も提出し続けています。
日本からは入植者も多く、日本風の生活様式も定着しつつありました。
パラオの言葉には今でも日本語の影響を受けた単語が散見されると言います。
例えば女性用の下着の「チチバンド」とか、仕事終わりに呑む発泡性アルコール飲料を「ツカレナオース」とか(笑)
何所が日本語やねん、スラングやんかいさ。
大東亜戦争が始まると、パラオはソロモン・ニューギニア方面への後方兵站基地となり、部隊や軍需品輸送の中継基地として重宝されました。
アメリカ軍の反攻が始まり、帝国海軍がマリアナ沖で大敗すると、昭和19(1944)年9月にはペリリュー・モロタイ各島に米軍上陸。
守備の帝国陸軍は奮戦・敢闘を見せますが、戦力は隔絶していまして、残念ながら何処も守り切れませんでした。
帝国軍は現地の元からの住民や帝国本土からの移住者を事前に避難させるなど、人的な被害は極小に抑え、この点だけでも称賛されるべき成果を上げています。
しかし、パラオの人々に迷惑を掛けた、という事実は残ります。
また、防衛に散華された英霊の御遺骨は収骨できないままのモノも多く遺されてしまいました。
昭和大帝の思いを引き継がれ…
このことは、私たち国民以上に、昭和大帝の御心に強く影を落としていたように思われます。
昭和大帝は戦後すぐに、荒廃した国土をくまなく歩き給い、敗戦に肩を落とす国民を励まされ続けました。
日本国がすぐに(少なくとも経済的には)復活することができたのは、運もあったでしょうが、昭和大帝の全国御幸が大きな力となったことは間違いありません。
昭和大帝が、周囲の反対を押し切り、私のような下々でもハード過ぎて二の足を踏むような旅を、敢えて強行されたのは、もちろん「国民を勇気付ける」お気持ちが第一であったと思います。
しかし、どこかに
「戦禍に倒れた国民を弔ってやりたい」
との思し召しもあったのではないでしょうか。
昭和大帝は国土をくまなく歩かれた、と書きましたが、沖縄県だけはついにお尋ねになることは出来ませんでした。
まだ皇太子であらせられたみぎり、欧州歴訪の途次にお召し艦の戦艦「香取」でお立ち寄りになったことはありますが、ご即位のあとはついに沖縄にはご行幸のないままだったのです。
心無いパヨ珍どもが(当時はまだこの言葉はありませんでしたが)陛下のありもしない「戦争責任」とやらを言い立て、沖縄訪問に反対し続けやがった為であります。
それでも昭和大帝は、沖縄を見捨てるお気持ちはみじんもお持ちではありませんでした。崩御のその瞬間まで沖縄に御心をお寄せ続けてくださったのであります。
昭和大帝御製
「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果たさむ つとめありしを」
この沖縄訪問にかけるお気持ちは、上皇陛下がお引継ぎとなられました。
父帝と同様に、まだ皇太子の御身分の時に沖縄をご訪問。
この時は過激パヨに火炎瓶を投げつけられるという狼藉を受けたにも関わらず、粛々と行事をこなされる、という超絶的な勇気をお示しになり、その後何度もご訪問になりました。
私は、昭和大帝はこの沖縄だけではなく、帝国の「領土」であった離島への思い入れも強くお持ちであったのではないか?と拝察いたしております。
その証拠の一つに、サイパン失陥を言上した宰相東条英機に対するご下問があります。
昭和大帝は絶対国防圏と言っていたのに、とか防備は万全と言っていたではないか、とかの非難は一切なされず。
たった一言だけ「取り返せぬのか?」と仰ったのです。
一般には、このお言葉は東条の不実(太平洋全域で防備は万全、反攻も間もなく…と繰り返すもズルズル後退…)を責めるお言葉と理解されていますが…
実際に東条はご下問に即答することが出来ませんでした。
その場を退出して、陸軍省で「逆上陸」を検討させましたが、とてもサイパンに部隊を輸送することは出来そうもありません。
やむなく翌日の参内で「不可能」を言上し、大帝の「ご不興を買った」として辞任の止む無きに至るのであります。
しかし、私にはどうも昭和大帝が東条を責めた、ってあたりがすっきり理解できません。
責任感がお強すぎる…
昭和大帝は皇太子であらせられた頃、欧州を歴訪されておりますのは前述のとおり。
このとき御自ら、強くつよくご希望になってマルタ島をご訪問になっています。
もちろん、「第二特務艦隊」の戦死者73名や、負傷者を慰霊顕彰するためであることは申すまでもありますまい。
*第二特務艦隊とは、第一次大戦で地中海に派遣された護衛艦隊です。
独逸潜水艦の脅威から同盟国輸送船を身を挺して守り抜き、大英帝国議会でこの活躍が紹介されると、英議会史上空前絶後の「スタンディング・ウェーブ」が巻き起こるほどの「壮挙」でありました。
しかし、実際には英仏海軍の護衛に比すれば、その技術は拙いものでした。
指揮官から一兵卒に至るまで、すべての乗員が
「命に代えても任務を全うする」「わが身を盾に」
という、いわば「大日本帝国臣民の特性」とでもいうようなモノを大量に持って乗艦していたからこそ、成し遂げられた偉業でありました*
ご即位前から昭和大帝は、こういった目立たないながら、国に貢献した人々へのお気遣いは大きなモノをお持ちだったようです。
実はサイパンもパラオも、帝国の委任統治領となって、経済開発をしていくときに、沖縄県の人々も多く移住しています。
開発に当たった企業の
「暑いところだから、沖縄の人が良いだろう」
ってな単純極まる考え方からでありました。
この人々も生命を失くしたり、少なくとも自力で異郷に築いた生活基盤は無くしちゃったワケで、昭和大帝が「責任」をお感じにならぬワケがありませぬ(どう見ても昭和大帝に責任のあろうはずはないのですが)。
上皇陛下、ついにパラオへ
コチラの「心残り」のほうも、私には上皇陛下がお引継ぎ給ったように感じられます。
ご即位より「戦地巡礼と慰霊」を願い続けた上皇陛下は、ついに平成27(2015)年にパラオ訪問の夢を叶えさせ給いました。
なんと激戦地ペリリュー島のまで足を延ばして頂き、上皇后陛下ともども海に向かい深々と礼をなされたお姿は、厳かでもあり、美しくもあり、それでいて悲しみと慈愛に満ちておりました。
私などは「ああ、儂は日本人で良かったぁ」と心から思えたモノであります。
誠にありがたきご訪問でありましたが、一つ気になった事があります。
それはご宿泊の用に供されたのが海上保安庁の巡視船「あきつしま」であったことです。
決して海上保安庁がイカンとか、「あきつしま」の船長室にお泊めしては両陛下に失礼である、とかそういう事ではありません。
そもそも、儂は
「誕生の経緯からすれば、帝国海軍の正当後継者は海自よりも海保」
論者だからな(海保は帝国海軍の下級士官・下士官中心、海自は高級士官が就職したこと、が理由です)。
しかししかし、現状は海上保安庁はあくまでも警察組織ではありませんか?
警察というのは、基本的に「国内の治安維持」のための実力組織であります。
ちょっと横道に逸れますが、尖閣諸島の警備に海保が専属で当たっているのも、Chinaが尖閣侵略に海警とか言う「建前警察」を使うのも、ちゃんと理由はあるのです。
日本国内の行幸ならともかく、パラオは小なりといえど外国ですからね。
その外国でのご宿泊用に、国内警察のフネを持っていく、と申しますのは、儀礼上いかがなものかと考えるのです。
やはり諸外国と対等にお付き合いする時、一国を代表すべき船舶とは「軍艦」をおいて他にはありません。
我が国で言えば海自の艦艇以外にはないのです。
「電脳大本営らしい、時代遅れの砲艦外交論」とか、左巻きの論難が聞こえてきそうですが、そんなモン糞くらえであります。
さらに、もっと大切な警備上の問題があります。
「あきつしま」は大型巡視船ではありますが、両陛下を守護申し上げるにはあまりにも武装が軽すぎる。
儂は武装とは防御力も含んで申し上げています。
この先、両陛下に限らず皇室外交への要望は強まるでしょうし、それをお断りになる皇室とも思えません。
一方で、我が皇室に仇なさんとする輩は菌近隣国にゴマンと蠢いている現状を見ねばなりません。
先帝陛下は
かつて昭和大帝は『お召し艦』でご移動なさいます事、しばしばでありました。
現在なら航空機によるご移動となりましょうが、上皇陛下・上皇后陛下がパラオにお出ましになったのも、航空機でありました。
「あきつしま」は先乗りしてホテルと策源地の役目を果たしたのです。
同じように、専用お召し艦を準備しておいて、ご訪問国に先乗りさせておく、などの運用で有効に使えるのではないでしょうか?
なにも天皇陛下専用とせずとも、皇族の海外訪問には(内陸国以外)必ず先乗りさせておけばよろしい。
艦にはヘリコプター搭載は必須でありましょう。
ご訪問中に万一にも相手国内が混乱した際の避難用となります。
また、交通インフラが未発達な地域でも、気軽にご訪問いただくことが出来ましょう。
当然ながら儀仗隊も必要ですし、警護のための陸兵も必要となりますし、晩餐会の返礼等に必要になりますから、シェフも一流をそれなりの人数揃えて乗艦させなければなりません。
そう考えますと、海自だけでは無く、全自衛隊のエリート部隊を特別編成しなければなりませんね。
「お召し艦乗り組み」の任務を終えた「エリート隊員」は出身の各自衛隊に帰り、「3軍統合」の礎となる事でしょう。善き哉善き哉(笑)
軍艦で相手国を訪問する、ということは相手国のインフラに頼らずに、十分な外交儀礼を実行できる、ってことなんですね。
また、大東亜戦争以前の世界では、外地にある軍艦は軍事力であると同時に「外交拠点」でもありました。
一時期の海防艦や、揚子江の河用砲艦などが、軍事上のヒエラルキーは駆逐艦よりはるか下なのに、艦首に菊の御紋章を輝かせていたり、時には大佐の艦長(駆逐艦長は基本少佐)が乗艦していたのは、これが大きな理由です。
海防艦はソ連の漁業監視艦艇と、河用砲艦はChinaや大英帝国・亜米利加合衆国の砲艦などと利害が対立することが多かったですからね。
そのほか、海外有事の際の邦人の救出にもむろん使えますが、「陛下の特別の思し召し」が無ければ出撃出来ぬことにいたしましょう。災害派遣についても同様です。
以上、考えてみますと良いことだらけでありますが、困った?事にこの艦はかなりの大艦となります。
速度はある程度(30ノットくらいかな)必要ですし、皇族のご乗艦を考えれば安定性も必須。
ヘリ搭載・宿泊施設・儀仗隊・宴会場・・・「いずも」以上の大型艦、いや、もっと大型になるな。
さらに「防護が厳重」で無ければなりません。
もっとも防御力が強い艦
歴史上もっとも防御に優れた艦は『戦艦』であります。
その巨体と巨砲だけが語られる事の多い「戦艦」ですが、防御力もズバ抜けていました。
巡洋戦艦っていう艦種もありまして、大きさ・砲力では戦艦に匹敵し、速力では戦艦を凌駕しておったのですが。
しかし防御力では戦艦に遠く及ばず、ついに海戦では戦艦のまえに砕け散ったものなのです。
独逸の大戦艦ビスマルクを追撃した「世界最大」の巡洋戦艦「フッド」の最後が象徴的でありましょう。
「フッド」は新時代の巡洋戦艦として「防備が強化された」と言われていたのに、「ビスマルク」の巨弾一発で轟沈してしまったのであります。
戦艦と巡洋戦艦の「防御力」にはこれほどの差があるモノなのです。
現代の「お召し艦」は、やはり「現代の戦艦」となるべきではないでしょうか?
いま、巨砲を持つ必要はなく、重装甲による防御でも無いでしょうが、攻防にバランスの取れた世界に冠たる大艦でなければなりませんよね。
私は艦名については「大和」永久欠番派なんですが、「お召し艦」または宇宙戦艦(イスカンダルまで行かなくても可)なれば襲名賛成なんであります。
『お召し戦艦大和』出来ないかなぁ。
戦艦を復活させたいばかりに、昭和大帝や上皇陛下の御行動を云々してしまいました。
不敬の気持ちはサラサラございませぬ、平にご容赦を。
「あきつしま」=「秋津洲」
いわゆる日本の古い呼び名です。
他の文献で鎮魂の意味も含めてこの艦に乗って行かれたと聞いてます。
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