新司偵の系譜

新司偵

大日本帝国が開発した初の長距離高速偵察機は陸軍の「九七式司令部偵察機」で、制式採用後すぐの昭和12(1937)年8月には支那事変に投入されて大きな成果を挙げました。

メーカーの自由にやらせる

「九七式司令部偵察機」は我が国初の長距離高速偵察機、と書きましたがたぶん世界初の戦略偵察機だと言っても間違いないと思います。

この画期的な偵察機は昭和10(1935)年に三菱に一社特命で発注されたモノです。速度だけを重視した新コンセプトだったため、三菱に要求された性能は以下のような簡単至極なモノでありました。

常用高度:2000~4000メートル、行動半径:400キロメートル以上、最大速度:450キロメートル/時以上

偵察機だって言うのに視界がどうたら、旋回性能があーたら、は一切無し。武装も要求無し。

97式司偵

97式司偵

 

三菱では河野文彦技師を設計主務に据えて開発することにします。
河野文彦技師はパイロットの視界を犠牲にし、自衛用の武装を捨てて空気抵抗を軽減し、高速性を実現する方針で設計を進めました。

試作1号機は昭和11(1936)年5月にすんなり出来上がり、審査の結果480キロメートル/時という最高速を叩きだして見せます。

長距離高速偵察機のコンセプトは長距離飛行の世界記録を樹立した「航研機」のパイロット藤田雄蔵中佐の提案だったようで、陸軍としても初めてのこと。

航研機

航研機

あまりメーカーにヤイヤイ言わないのが好結果をもたらす、という見本のような開発ストーリーであります(陸軍内には「こんな前の見にくいのは要らん」って意見も、もちろんあったようですけどね)。

アジを占めた帝国陸軍は昭和12年12月、早くも後継の戦略偵察機(陸軍的に言うと「司令部偵察機=司偵」)の必要を感じ、三菱に対して「新司偵」の開発を命ずるのでありました。

今度は前の成功体験がありますので「九七式司令部偵察機」よりはちょっと踏み込んでいますが、それでも三菱に対する要求は極小でした。
納税者の立場からすると「もっとキッチリ要求性能を明確にしないと、良い機が出来ないじゃん!」とか言ってしまいそうですが、そうじゃない。

軍用機(民間機でもそうでしょうけど)っていう物は、果たすべき任務を生まれる前から持っているモノです。
軍用機の設計者は専門に育成されていますから、軍用機の性能には一定の見識を持っています。
造兵者は「果たすべき任務は○○」と「これこれの方向性(新司偵の場合は速度の優越)でその任務を果たしたい」とだけ言ってやると、設計者は経験と見識とオリジナリティを最大限に発揮してくれるモノなんです。

「新司偵(百式司令部偵察機)」の要求性能は

常用高度:4000~6000メートル、最大速度:600キロメートル/時(高度4000メートル)、航続距離:速度400キロメートル/時(高度4000メートル)で6時間。
エンジンは中島製ハ20乙・中島製ハ25・三菱製ハ26から選択すること。
乗員2名(操縦者+偵察者兼機上通信)、装備:無線装置・写真装置・酸素吸入装置各一式、後席旋回機銃1挺(自衛用)。
操縦性:良好な安定性・水平直線飛行の正確安易さ・各舵の効き良くバランスが取れていること。

とこれだけ。

人材の配置も

九七式に比べるとずいぶん増えたように思えるんですが、良く見れば「旋回機銃一丁付けてよ」くらいしか言ってないんですね。

無線装置・写真装置なんて偵察機だからとうぜん搭載しなきゃいけないし、操縦性に至っては私みたいな「技術も判らんくせに小煩せえ納税者」を誤魔化すための要求と断言できますわね。

「良好な安定性」って、安定性が極悪な飛行機が飛ぶかよ(笑)。

97式司令部偵察機

97式司令部偵察機

 

エンジンだって3種から選択って指定ですけど、単発か双発か?すら「お前が決めろよ」って事ですもんね。

前作に続いて「好きにやれや!」って注文を貰っちゃった三菱は、たぶん大喜びしつつも、責任感も強く感じたんだろうと思います。
九七式の設計主務だった河野文彦技師を「指導役」としてキープしといて、久保富夫技師を新たに設計主務に起用。

陸軍側の開発・審査主任(テスト・パイロット兼務)は飛行実験部実験隊偵察機班の片倉恕大尉が当たりました。あんまりエライ人をここに持って来ないのも、要注目ですよ。

久保富雄

久保富雄

 

最高速の600キロメートル/時は世界的に見ても時代の標準を遥かに超越したものでした。
陸軍はそのことを良く理解していて、機体の形状やエンジンの数・運動性能・武装などに細かい制約を付けなかったのだと思います。

三菱側もそこの所は判っており、実績のある河野技師を後見役に退かせて久保技師を起用したんですね。
若い久保技師だけでは、立場から思い切ったチャレンジは出来なかったでしょう。一方で河野技師が前面に立てば、前作の成功を引きずってしまったでしょう。

この絶妙な配置のお蔭で、三菱全体としてはかなり自由奔放な発想をもって「新司偵(キ46)」を設計することが出来ました。

技術者の自由な発想こそ、「新司偵」だけじゃなくていろいろな兵器の成功に繋がるのです。

九七司偵と新司偵

九七司偵と新司偵

 

エンジンは自社製のハ-26の双発を選択。双発機は合計馬力は当然大きくなりますが、空気抵抗の増大で速度はかえって上がらないのが普通です。

それでも双発を選択した三菱技術陣でしたが、コレは速度ではなく、航続距離から双発を決定しているのです。
航続距離を延ばすにはアスペクト比(縦横の比、コレが大きいと細長い主翼になります)が大きい方が有利です。

グライダーの翼は丈夫さがカケラもないほど細長いですよね。琵琶湖の人力飛行機もシビアに重量を削ってるのに、翼は思いっきり細長い。

で、このアスペクト比が大きい主翼を採用したいんですが、新司偵はのんびり飛んでるグライダーではありませんから、主翼をしっかり補強してやる必要が出てきます。

この補強を逆手に取って、主翼の途中にエンジン付けちゃえ!って言う逆発想だったようです。もちろん、故障とか被弾した時の生残性を考慮すると単発より双発ですし。

正面の面積が大きくて空気抵抗的に不利な空冷星型エンジンでしたが、東京帝国大学航空研究所に協力を求め、河田三冶教授が新型ナセルを開発してくれることになっています。

RAF博物館の百式司偵

RAF博物館の百式司偵

 

機体そのものも、写真でお判りのようにヌルっとした滑らかな形状で抵抗を減らしています。私は「空飛ぶナメクジ」と呼んでるんですけどね、失礼な話です(笑)

チャッチャと完成、高性能

「新司偵」の試作一号機は昭和14年8月(11月説あり)に完成します。世界的に見ても突出した速度の実用機、それも新機軸をタップリ盛り込んだ偵察機が一年半少しで完成というスピードぶりでありました。

試作一号機は会社のテスト・パイロットによる初飛行に成功した後、各務原から移動。基本審査・実用審査を経て、満洲へ持って行っての寒冷地試験やら内地へ戻ってさらに各種テストを受けます。

このテスト期間中にも機体には改修が加えられましたが、それは試作機が十分に期待に応えた事を意味していました。
増加試作機も8号機まで造られて実用試験に投入され、540キロメートル/時を記録。

目指した最高速には及びませんが、同時期の新戦闘機の「隼」(陸軍)「零戦」(海軍)より速いモノでした。この結果をもって陸軍は昭和15年9月に新司偵を制式採用(一〇〇式司偵1型)します。

1式戦「隼」1型

1式戦「隼」1型

ただ、この速度は陸軍を満足させていませんでした。伝えられてくる欧州の戦線にはさらに優速な新戦闘機が投入されているようだったからです。

新司偵の審査中から、エンジンを「ハ-102」(ハ-26の性能向上型)に換装した機体の試作を開始させています。

これが一〇〇式司令部偵察機二型で、速度はついに600キロ越えの604キロメートル/時を記録します。

新司偵は支那戦線をはじめとして大東亜戦争の全期間、偵察機の主力を張り続けました。
アリューシャン列島・オーストラリアのダーウィン・インド・マーシャル諸島…東西南北に飛び続けたのです。この間の生産機数は1700機を越えます。

新司偵の優秀さは、有力な偵察機を持たなかった海軍にも目をつけられました。
当初は独立飛行第76中隊など、陸軍の新司偵飛行部隊を海軍指揮下とし借用していました。
生産が進んで機数が揃ってくると、新司偵は陸軍から海軍に対して供給されるようになりました。
第151海軍航空隊・第153海軍航空隊・第302海軍航空隊などが良く知られていますね。

ガ島ヘンダーソン飛行場

ガ島ヘンダーソン飛行場
ココへも偵察に行きました

第151海軍航空隊は昭和18(1943)年6月のルンガ沖航空戦に新司偵を投入、南東方面艦隊・第十一航空艦隊に情報を供給しています。
この方面では航空部隊がほとんど引き揚げたラバウルで、廃棄された2機の新司偵で1機を再生。敗戦まで強行偵察やキニーネの調達飛行に活躍したことも知られています。

内地では、敵機の速度向上に対抗して新司偵3型も造られ、B29迎撃用に「武装司偵」も登場するのですが、その話は別記事にいたしましょう。

海軍が首を突っ込むと

大日本帝国軍に押しまくられた蒋介石は、重慶へ逃げてしまいました。

広大な支那大陸の奥地まで進撃するのは、我が国力の耐えうるところにあらず。
やむなく大本営は戦略爆撃による蒋介石の屈服を目指したのであります。

南東方面艦隊司令長官・草鹿任一

南東方面艦隊司令長官・草鹿任一

昭和14年春から始められたこの作戦が、世界初の戦略爆撃とも言われる「重慶爆撃」です。
これに参加した爆撃機は陸軍の九七式重爆撃機だけでは足りず、海軍の九六式陸上攻撃機も加わっています。
ところが、鈍重な爆撃機を護衛する戦闘機がありませんでした。重慶は遠かったのです。

97式重爆

97式重爆

 

そこで昭和16年5月、陸軍は三菱に対して長距離侵攻が可能な護衛戦闘機の開発を指示いたします。

これを聞きつけた海軍も長距離護衛戦闘機が必要だと言いだして、この開発は陸海軍協同試作の形となってしまいます。

元々この機は新司偵(一〇〇式司令部偵察機)の後継偵察機の意味合いもあり、二式複戦「屠龍」の後継でもあるという複雑な性格を持っていました。電脳大本営的に申し上げれば「失敗確実」な開発計画なのです。

ところがところが、これこそ「電脳大本営的大日本帝国航空機の最高傑作」の「キ-83」となるのであります。

当初の要求性能はやっぱりシンプル

「キ-83」の当初の要求概要は次のようなモノでした。

複座、武装は20mm固定機関砲+7.7mm旋回機関銃、エンジンは「ハ104」「ハ114」「ハ203」級とする(「級」に注意)。最大速度は650キロメートル/時とし、将来的には700キロメートル/時以上を狙う。

戦闘機だけに武装の指定はありましたが、これも至ってシンプルです。

どこかの帝国海軍とは大違い。格闘性能ガーとか旋回性能ガーとか、ましてや翼面荷重はコレコレ、などという要求は一切無し(もちろん、「爆撃機に随伴し得る長大な航続力」と、「迎撃してくる敵戦闘機を排除できる能力」は当然要求されてますけど)。

これを受けて三菱は、新司偵を成功させた久保富夫技師を設計主務として、排気タービン付きの新型エンジン「ハ214ル」を選定。用途は爆撃機援護とした機体を設計しました。

この設計は順調に進み、昭和17(1942)年4月に実大模型(モックアップ)が完成、審査も合格。
ただし、この間に大東亜戦争が始まりました。設計現場へも続々と激烈な空戦の様相とフィードバックが伝えられて来ます。

モックアップが出来た時には、昭和18(1943)年には試作1号機が完成し翌年夏には審査完了の予定だったのですが、二式複戦「屠龍」の実戦データを見た陸軍が、当初の要求にはなかった事を言い出すのであります。

いつも口を出し過ぎて失敗することの多い海軍も、もちろんあーでもない、こーでもないと言いだしています。

具体的にはキ-83を「司令部偵察機」や「地上襲撃機」としても転用可能にしたいと言い出して、「将来的に」だった700キロ/時も要求され、設計変更に時間が掛かってしまいます。

三菱ki83

三菱キ-83
米軍がテスト中

この変更に伴ってエンジンも小型の「ハ-211ル」(海軍名「誉」)に変更、大径(3.5メートル)のプロペラを採用。
武装は機首に集中して30ミリ機関砲×2と20ミリ機関砲×2。これじゃあ、対戦闘機というより大型爆撃機を迎撃するための強武装です。

この形にすんなり収まった訳では無く、要求は二転三転してそのたびに改設計を迫られて時間を空費してしまい、原型1号機の完成は 昭和19年4月となってしまいました。
本来なら制式採用され、「疾風」みたいに増加試作を大量に作ったら実戦投入できている時分です。

速度にこだわる

700キロ/時という要求性能を満たすためにはエンジン換装だけではムリだと久保技師は見切っていたようです。

久保技師は空力的な洗練のために奇策に出ました。すなわち強武装化に伴って旋回機銃が廃されたことを利用したのです。

後部の旋回機銃が無いのですから、後席の乗員は銃を撃つ必要がありません。つまり照準のための視界を確保してやる必要が無いし、アチコチ動くスペースも要らんだろ、ってことです。

Ki-83正面

キ-83
正面から見ると、胴体の細さが際立ちます。

ココを巧みに突いた久保技師は後部座席を「エマージェンシー用」とでも言うべき極小サイズにしてしまったのです。そのため、キ-83はビックリするほどスマートなスタイルに仕上がりました。

胴体は極限にまで絞り込まれてエンジンナセルよりも細くなっています。風防は操縦席のみを覆う、単座機なみのコンパクトさ。 後部席はその後ろの胴体に座り込むというケレン味のなさ(笑)。

その部分の胴体には小型の窓が設けられて「後席は邪魔」という久保技師の本音を隠しています。

戦局の推移に右往左往する陸海軍の担当者を尻目に、速度だけを重視し続けた久保富夫技師とその設計チームの努力で、「キ-83」の試作機が完成したのでした。

キ-83

キ-83

しかし開発の遅れが祟って戦局は極度に悪化していました。

当時、三菱の航空機工場は名古屋市とその周辺に集中していましたが、ソコを昭和東南海地震が襲い、大損害。
B29にもつけ狙われて、復旧すら思うに任せず。

結局敗戦までに完成したキ-83の試作機4機だけにとどまってしまいました。試験飛行では要求性能にわずかに届かない686キロ/時、その他はほぼ軍の要求を満たしていました。

このテスト中に2~4号の各試作機は空襲などで喪失してしまい、1号機だけが長野県の松本飛行場に退避して敗戦を迎えたのであります。

この機こそ、アメリカ軍に接収されてテストされ、良質な米軍の燃料によって?762キロメートル/時という驚異的なスピード(アメリカ軍最速はP51Hの759キロ/時)を見せつけてくれた機体です。

こんな設計者が居たことは、あんまり知られていませんが、大日本帝国技術の意地を見せつけてくれたのだと思います。

あー、モックアップ審査時の予定どうりに、昭和19年夏に試作機が実戦に出てたら。
いや、もう少し早く19年2月の「アキャブ作戦」時にビルマ戦線に投入してたらなぁ。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA