開戦前夜、東條英機は昂っていたのか?
2018年の7月23日付け読売新聞1面のトップ記事は「東条 開戦前夜の高揚」という大見出しでありました。東条総理が当時の内務次官に語った言葉が、メモとして残っていた!と言う内容なんですが。
記事引用
私は読んだ瞬間に違和感を覚えました。そして読み返してみて、このメモに対する「解説」が歴史研究の原則を無視していると思う次第です。
読売の一面は次のようになっています。
文中に不敬で私たちを不快にさせるような表現もありますが、修正せずに引用いたします。
日米開戦前日の1941年12月7日夜、東条英機首相が政府高官に開戦について語った内容が、メモとして残っていることがわかった。東条はこの日昼、開戦当日の予定を昭和天皇に説明したことにも言及。戦争に反対していた天皇が開戦を決意し、軍が一致して行動する状況になったことで「すでに勝った」と発言するなど、太平洋戦争に突入する前夜に高揚する東条の胸中を初めて伝える貴重な史料だ。
メモは、当時の湯沢三千男内務次官(1963年死去)の遺品から見つかった。東条の言葉を便箋5枚に書き残したもので、「十六年十二月七日(日曜日) 午後十一時二十分」との日時も書かれている。
昭和天皇は主戦派の陸軍を抑えるため、41年10月、陸相の東条に組閣を命じ、外交交渉で戦争を回避する検討も求めた。だが米側の最終提案「ハル・ノート」が届き、交渉を断念。12月1日の御前会議で開戦を最終決定し、8日未明、米ハワイの真珠湾を攻撃した。
メモによると、東条は7日午後8時半、首相官邸に呼んだ湯沢内務次官と陸軍次官に開戦日の段取りを伝達した後、「之(これ)ニテ全ク安心セリ」と心境を吐露。「陛下ノ御(ご)決意」に基づき全軍が行動することに感激し、「御上(おかみ)ヨリ御(お)ホメノ御言葉ヲ頂キテモ宜(よろ)シカラン」と語った。
開戦決定まで、昭和天皇はとても心配し、各方面から検討していたが、「一旦(いったん)決シタル後ハ悠々トシテ何等(なんら)ノ御動揺ナク」と述懐した。さらに「対英米交渉ニ未練アラセラルレバ(中略)暗キ影ガ生ズベシ。之無カリシ事即(すなわ)チ御上ノ御決意ノ結果ナリ」と断定し、「斯(か)クノ如(ごと)キ状態ナルガ故ニ既ニ勝ッタ」と発言した。
(東条の写真挿入あり)
東条はこの夜、微醺(びくん)(ほろ酔い)の状態だったという描写もあった。
古川隆久・日大教授(日本近現代史)は、東条は状況を細かく報告することで天皇の信任を得たが、国運を背負う大局観はなかったという。「天皇に開戦を納得してもらえた満足感が伝わるメモだ。開戦を主導してA級戦犯として裁かれた東条の研究を深める史料になる」と評価する。
さらに東条はこの夜、日中に面会した天皇の姿を「明日ノ行事ヲ本日奏上セル際ニ於(おい)テモウムウム(うむうむ)ト仰セラレ何等平生ト異ナル所無カリシ」と明かした。2014年に公表された昭和天皇実録は、天皇が7日昼頃、参謀総長に続き、東条と面会した事実のみ収録していた。
実録の編集に関わった岩壁義光・学習院大史料館客員研究員(元宮内庁編修課長)によると、実録の資料収集でこの面会の様子を知り得る資料は確認できていない。「奏上を受けた天皇の複雑な心情を単純化して理解する東条の認識度がわかる記述」と指摘する。
以上が一面の記事です。これは以下のリンクでお読みいただけると存じます。
https://toyokeizai.net/articles/-/230543
ここまでで「歴史的に事実である」と認定できるのは
「湯沢三千男内務次官が大東亜戦争開戦前夜の昭和16年12月7日の夜に東条首相に面会した。その内容である、と自ら主張しているメモが発見された」
という事「だけ」であります。
「斯(か)クノ如(ごと)キ状態ナルガ故ニ既ニ勝ッタ」と東條首相が語ったのも、「東条はこの夜、微醺(びくん)(ほろ酔い)の状態だった」というのも湯沢三千男氏がメモに残しているに過ぎません。
事実かも知れませんし、湯沢三千男(役人でありますから、敬称略で良いでしょう)が嘘を書いたのかも知れません。東條が部下の役人を前に一芝居打って(戦争勝利のために、部下の士気を高めようと)、湯沢三千男がそれを鵜のみにしていた可能性もありますよね。
メモであって日記ではありませんから、本当に昭和16年の12月7日か8日に書かれたのかすら(この記事内容からは)断定できません。
敗色濃厚になってから、極言すれば敗けてから自分の責任回避のために書くことだってできるのです。何しろ「メモ」ですからね。前後関係がハッキリする日記では無いのですから。
ただし、私はこのメモがそう言った「捏造」だと断定しているわけではありません。本物である可能性は捨てきれませんし、そうであって欲しいと思います。
ただ、その程度の真贋を疑われても仕方ないレベルの「新発見史料」であることを、まずはご理解頂きたいのであります。読売新聞もその旨書くべきだと思います。
この記事にはさらに続きがあります。滋賀版では32面に掲載されていました。「」内がその見出しです。
「東条の胸中 克明に」「天皇の信認 誇る記述も」
日米開戦前夜、東条英機首相が語った言葉をメモに残したのは、東条内閣で内務次官や内務大臣を務めた湯沢三千男氏(1963年死去)だった。戦後は随筆でも活躍した人物で、開戦を主導したが、戦況の悪化で退陣に追い込まれた東条首相の姿を見つめ、戦争の内幕を詳細に記録していた。
東京・神田神保町の古書店主、幡野武夫さん(73)が交流のあった湯沢氏の親族から9年前に入手した遺品の中にあった。
親族によると、湯沢家は1945年3月、東京大空襲に遭ったが、メモは書籍類と一緒に湯沢氏の郷里の栃木県内に移されていたようだという。幡野さんは「總理」「陛下」「十六年十二月七日」などの記述を見つけ、開戦を巡る話では、とメモを読み進めてきた。戦史に詳しい日大の古川隆久教授や静岡県立大の森山優(あつし)教授らが、湯沢氏の他の書簡などと比較し、同じ筆跡と確認された。
開戦前日、首相が語った言葉を記録したメモには「聖上陛下」「御上」など天皇を指す表現が7回、天皇の「決意」という言葉が3回登場する。自分の知っていることは全て昭和天皇も承知していると、首相が誇るような記述もある。
メモは書籍類に紛れていた大学ノートに挟まれていた。このノートにも、戦中の出来事を巡る湯沢氏の記述が見つかった。
東条内閣が44年7月に総辞職するまでの内幕をつづった「政変記」、続く小磯内閣の「組閣経緯」、敗戦の翌月、責任を取って自殺した杉山元・元帥と夫人の「遺書」の写しなどが書き込まれていた。湯沢氏は42年2月、東条内閣の内務大臣に就任。府と市に分かれていた東京をまとめて東京都を誕生させるなど、地方統制の強化を担当した。だが後に、東条首相と対立、地方制度改正案を巡って議会が紛糾した責任を取る形で、43年4月に更迭されていた。
開戦前夜を記録した湯沢メモは、首相の姿を「何等動揺憂悶の態無カリシ」と好意的に描写している。だが、ノートに残された政変記では「彼ハ信念ノ人ナリ、忠誠ノ士ナリ、然レドモ其ノ思想ノ固牢斯クノ如シ。修養ト読書ヨリ来レル政治家トシテノ思想ナキ」(原文ママ)と、指導者としての資質を批判している。
布留川教授によると、ノートの記述は、戦後に出版された随筆集「天井を蹴る」「出入無時」の材料にもなった。「湯沢氏は節目節目を意識して記録していた。メモやノートを含め、残された文書類は、昭和史の貴重な資料になる可能性がある」と話している。
この「メモ」の真贋を探るのに、「本当に湯沢元内大臣が書いたのか?」という点を明らかにしなければなりません。
その役に当たったのが「戦史に詳しい日大の古川隆久教授や静岡県立大の森山優(あつし)教授ら」ですか。筆跡鑑定の専門家ではないんですね?
私も歴史に一家言持つものとして、一端の歴史家ならある程度の「筆跡鑑定能力」があることは承知しています。
ですが、その能力は筆跡鑑定の専門家には遙かに及びませんし、ましてご自分の主張と合致する/しない関連の史料の鑑定などは、能力があってもやってはいけないことでしょう。
この後に出てきますが、「静岡県立大の森山教授」は明らかにこのメモの記述を「大歓迎」しているのです(森山教授は軍事史学会にも所属してるけどなぁ)。
こんなん、絶対にアカンやん!「ジャパン(ラグビー日本代表のこと)」ファンの儂が、ワールドカップで日本戦全部でレフリーやるようなモンだぞ。(判りにくい例えでゴメン)
一次史料が何でもかんでも史実って訳じゃない
歴史資料に書かれた記述が「史実である」と万人に認められるには、一定の条件があります。
それは①その歴史資料が一次史料であること②少なくとももう1点、他の記述者による史料が同じ状況を示していること、の2点であります。これが最低の条件です。
たとえば、ですよ。野球って言うスポーツが忘却の彼方に去って行った数千年後に、ある巨人ファン(政治的なある程度の権力が有る人と仮定)の日記が見つかったとしてごらんなさいよ。
そこには「巨人軍は今日も負けた、王者広島との差は開くばかり。もう反攻のメは無い。」と書いてあったとしましょう。
『数千年前には日本は幾つかの国に別れていた。そのうち有力な「巨人国」と「広島国」の戦争が繰り広げられていて、「広島国」が連戦連勝。「巨人国」は滅亡の淵に追い込まれていた』…という理解を、未来のパヨ歴史家がするでしょうね。
これは儂が良く言っている事でありますが、実は日本人が大好きな「邪馬台国」は歴史上の存在が認められるワケでは無いのです。
だってアレ、魏志倭人伝・三国志魏書東夷伝倭人の条、どっちでも良いですけど「それ」しか史料がありませんよね(笑)。こんなモンを教科書に載せちゃあいかんぞ。陳寿が適当にデッチ上げた、ただの「お話」じゃない証拠はどこにあるんですか?
儂、実は遠い昔の中学生のころですけど、これを武器に歴史の先生と1年バトルを繰り広げて完勝したんじゃ。
「巨人国」と「広島国」に戻ります。数千年前の誰かさんの日記だけだと「巨人国」滅亡は避けられそうもないんですが、日記の日付の前後数年くらいの新聞が発見されたらどうでしょうか?
新聞全部じゃなくても良い、スポーツ面のごく一部で、セントラル・リーグの順位表が確認出来たら結構です。横にパシフィック・リーグも有れば尚可、打撃成績とか投手成績の欄があれば更に可。
「パヨ歴史学者」のボケ論は一発論破です。
論破されないためにも、「もう一点の史料」が必要な事はご理解いただけると思います。
さて、ココまでの(読売+メモの)記述で歴史的に評価できるものは無いのか?って言えば、そんな事はありません。
「自分の知っていることは全て昭和天皇も承知していると、首相が誇るような記述もある。」
という部分などは、大いに興味を惹かれる方がいらっしゃるんじゃないでしょうか?
多くの歴史書や戦史では「帝国に不利な戦争に関する予測や状況は先帝陛下に対して伏せられていた」事になっています。開戦後は実際に敗北した戦闘や損害は伏せたり誤魔化したりして報告されていることは確認できます。
先帝陛下もそれは薄々ご承知で、側近を通じて情報をお集めであられた事も知られています。
「自分の知っていることは全て昭和天皇も承知している」と東条首相が言っていた、という情報はこの言葉を本当に東条が語ったか否か?は断定できませんが、「東条首相も併せて騙されていた」あるいは「内閣・省庁上層部では天皇陛下を騙している事は周知だったが、東条首相は下僚の湯沢氏に『騙してない』と言い訳している」どちらかの推測は可能であろうと思います。
何処をどう読むとそんな理解ができるのか?
さらに、この「詳報」に続いて読売新聞の解説も付されています。
陸軍を代表するエリートの東条首相は主戦派だったが、天皇への忠誠心から組閣後、戦争回避も検討した。結局、開戦論に押し切られるが、報告にたけた官僚的な素養で昭和天皇の信認を得た。その天皇に強く依存しながら、開戦を主導した首相の実像を湯沢氏のメモは生々しく伝えている。
静岡県立大の森山教授は、東条の「既に勝った」という発言に着目し、「戦争は敵と国際情勢に大きく左右されるのに、天皇の下に国内が一致結束すれば事なれり、とする視野の狭さを象徴する記述だ」と指摘する。
メモは東条が7日に面会した昭和天皇の姿も伝える。
東条に即した記録ではもっとも価値が高い「東条内閣総理大臣機密記録」、天皇の側近木戸幸一の「木戸日記」など主要な史料でもこの面会の内容はわからない。昭和天皇史の一端がメモで明かされたことになる。
来月、73回目の終戦の日を迎えるが、310万人もの犠牲者を生んだ戦争の検証に終わりはない。無謀な日米開戦の前夜、時の指導者が語った言葉を読み解くことは、昭和天皇の思いをよく知る天皇陛下が訴えられる「先の大戦の反省」を深める上でも意義がある。
この中で、トンでも無い「理解」が一杯あるんですが、特にこれは酷いってのを引用しましょう。
『静岡県立大の森山教授は、東条の「既に勝った」という発言に着目し、「戦争は敵と国際情勢に大きく左右されるのに、天皇の下に国内が一致結束すれば事なれり、とする視野の狭さを象徴する記述だ」と指摘する。』
何じゃ、これ。
今回発見されたこの「湯沢メモ」は、湯沢内務次官が東条総理大臣と面会した際の心覚えのメモです。東条首相が自分の真意を湯沢氏に語った保証などありませんし、湯沢氏が面会内容を正直に綴った保証もどこにもありません。
それなのに、「(東条の)視野の狭さを象徴する記述」と断定しちゃってます。教授先生には事前の思い込み=「東条は日米の国力・戦力の格差を認識できないほど阿呆」=があったのでしょうが、それでも歴史学者としては絶対に取ってはいけない態度と言えましょう。
パッと読みでの違和感の正体はコレだと思います。
私だってね、東條が史上空前の名将だったとか思ってるわけじゃありません。それでも、聡明なる先帝陛下が皇国の興廃を託した人間ですよ。ただの視野狭窄野郎の筈がないでしょう。
そもそも「これで勝った!」くらいの事、しょっちゅう言ってるでしょ?ビジネスでもスポーツでも。
学者も馬鹿なら、その言葉を批判もナシに記事にする新聞も馬鹿ですよね。
大馬鹿モノなんですが、こういうアホな理解がパヨを勇気付ける以外にも、陰謀論のネタになったりするんですよね。
私には絶対に許せません。