あっちこっち通報艦
無線電信が各国の海軍で採用されるまで、「艦と艦と間」や「艦と陸上の間」で命令や報告の伝達を担当しておりました。
姉川
大日本帝国海軍も、もちろん「通報艦」を持っておりました。大正元年までですけど、ちゃんと艦種区分として存在してたんです。
「海戦になった時は艦隊の非戦闘側を併走し、旗艦からの信号を各艦に伝えて回る」のがお仕事なんだそうで。
「単縦陣で突撃するときはどうしたんじゃろか?」とか言わないでね(笑)。
さて、と。世界の海軍はその所有する軍艦に名前を付けるんですが。
「大和」とか「ニュージャージー」とか「プリンス・オブ・ウェールズ」とか。
その名前を付ける基準は各国海軍で、ちゃんと決まっているんですね。たとえば戦艦だと、アメリカは州の名前(例外一隻あり)、ドイツ・イタリアは人名。
適当に付けてるようなイギリスだって「イニシャルを揃える」時もありましたし(R級戦艦など)、王様が代替わりすると、そのお名前を最新型の主力艦のネームシップに付ける、のようなルールみたいなモンはあったようです。
大日本帝国海軍は、なにせ几帳面でおますから、艦種ごとに名前の付け方を変えておりましたね。
戦艦は旧国名、巡洋艦は山の名・川の名、ってな具合。金剛型の4隻はもともと巡洋戦艦(巡洋艦のデカい奴/戦艦の速い奴ではありません)だったので、戦艦に改装されても「山の名」なのね。
で、でありますよ。滋賀県人の儂には、このネーミングは非常に不満があるんです。
だって「戦艦・近江」ってのが無いですやん。
まあ、一応「八八艦隊計画」で加賀型戦艦・天城型巡洋戦艦に続く「紀伊型戦艦」の4番艦(もしくは改・紀伊型2番艦)として予定はされてたみたいですけどね。
ワシントン海軍軍縮条約が成立したんで、予算の審議をすることもなく消えてしまった(泣)
軍艦設計と物議を醸すことが上手な平賀譲さんが、一番元気で嫌われてた頃だから、面白い戦艦になったんじゃないかなぁ。
もちろん、さっき書きました金剛型の戦艦「比叡」はあるけれど、残念ながら「旧国名」じゃねえし、一応「近江の山」と言っても半分は京都にあるし。
山内の比叡山延暦寺に至っては住所は滋賀県の癖に、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されとる。
これじゃあ、近江の裏切りモンじゃねえか。
こんなんじゃあ駄目だな。滋賀県人は基本的に京都が嫌いなんだ(笑)
と思って、改めて海軍の古い艦を探しますと…ちゃんと有りましたよ。それも儂の大好きな通報艦じゃん。
それが「通報艦・姉川」であります。
近江の歴史を体現したような川じゃから、国名じゃないけど許す(笑)。
まず、このフネから「通報艦」の話をさせて頂きましょう。
「通報艦・姉川」は日本で生まれたわけでもありませんし、日本のために働いていたワケでもないんですね。
ロシア仮装巡洋艦
「姉川」の生まれは大英帝国でありました。
クライドバンクという会社で建造され、1898年(明治31年)9月に進水した貨物船。
注文したのは「ロシア義勇艦隊」で、「モスクワ」と命名されたこのフネは、オデッサからウラジオストックや旅順へ陸兵や軍需物資を輸送していました。
ついでに書いておきますと、ロシア義勇艦隊って言うのは、ホンマモンの「義勇艦隊」ではなくて、ロシア国営の海運会社の名前です。
もちろん、非常時には海軍に徴用されるのが前提ですけど。こんなことは何処の国でもやってるんですね。
民間企業にカネ出してやって、良いフネ作らせた極東の島帝国海軍なんて可愛いもんですよ。
それで、ですね。大日本帝国とロシア帝国の緊張が増してきた明治36(1903)年になると、「モスクワ」は15糎(センチ、と読みます)砲4門なんかを載せてもらって、仮装巡洋艦に改装されます。
この時に艦名も「アンガラ」と変更されています。
病院船?
アンガラってのはロシアの川の名前だそうですが、どこら辺を流れてんだか?さっぱり解りません。調べる気もねぇけど。
改装なった「アンガラ」は旅順に配備されました。
日露戦争が始まりますと、明治37(1904)年3月に「アンガラ」は備砲を撤去されて病院船にされます。
病院船なら、敵(この場合は大日本帝国)から攻撃される心配はありません。ただ、困ったちゃんのロシア海軍、敵(日本)側に「病院船である」って通告していなかったようです。
病院船が病院船として保護されるには(ジュネーブ条約で規定されてるんですけど)、船体を白に塗装して、民間なら赤・軍用なら緑のラインを入れなきゃいけません。
その上で、交戦国へ船名等の基礎データを通知しておかなきゃいけないんです。
「アンガラ」は塗装だけはしてありましたが、大日本帝国には通知された、との記録がありません。
まあ、コレだけじゃ、絶対に通知してない!って言う証拠にはなりませんけどね。帝国が隠したかも知れねえし。
しかし、旅順が陥落するときに、「アンガラ」はその必要が無いのに、港内で自沈していたんですよ。
ホンマに病院船だったら(ちゃんと塗装して、相手国に通告して、ヘンなモン・人を積んで無ければ)、攻撃される心配はないし、ウラジオストックまで逃げることなど簡単なんですけどね。
コレ、あとでもう一度出てきます。今さら、「自沈の謎」は解けないでしょうが、何か変なんですよね。
滋賀県にゆかりの艦がミステリアスってのは頂けません。
しかしながら、お金は無いけど、国が生き延びるために大敵と戦っている日本軍であります。こういうフネを見逃す筈がありません。
さっそく「アンガラ」を浮かび上がらせて整備、明治38(1905)年6月3日付けで「姉川丸」と命名。
翌明治39年3月8日には通報艦に類別して、艦名も「姉川」としたモノであります。
ネーミングセンスに恵まれた帝国海軍の誰かさんが、「ロシアの時も川名だから」とか、気を使ってくれた記録は…ありません。
ポーツマスで「大日本帝国の戦勝」が確定して、日露間は良好な関係となりました。
ロシアって国が誕生して、今に至るまで(日本は有史以来ず~っとありますが、ロシア我が国に比べたら、若い国でありますよ)で最高に仲が良かった時期なんであります。
ところが、ロシアちゃんったら、この病院船「アンガラ」じゃない通報艦「姉川」だけは何故か意地を張りやがったのです。
曰く
「病院船の拿捕である。即刻返還すべし。」
前に書きましたように、「自沈」してるんですからねぇ。
ちゃんと通告した病院船なら、堂々と占領されかけの旅順を出て、ウラジオでも欧露でも、何処でも行きたいところへ行ったら良かったのに。
まあ、病人か怪我人乗せとく必要はありますけどね。怪我人ならいっぱい居たでしょうに。
それを、なんで自沈したのか?
病院船の通告をしてないの、ロシア側も承知だったに決まってますよ。証明は出来ねぇんだけどね。
何故かロシア側はこの「姉川の件」は執拗兼強硬でありまして、困惑した日本側は結局返してやることにしたんですね。
この時のロシアに負けず劣らず、私もしつこい(戦争で取られたモノを交渉で取り返すのは、しつこくなくちゃね。北方領土とか)ので、もう一度書きますが、自沈してたんですからね。
自分で勝手に(たぶん)キングストン弁を開けて、勝手に沈んでいたんです。
旅順港内に「捨ててあった」アンガラを「拾った」のは大日本帝国海軍です。それも「浮揚させる」ってお金を掛けて。
素直に返してやる必要なんか1ミリもないのでありますが、ソコはそれ、大日本帝国は(貧乏なくせに)鷹揚だし、「仲の良い国」が何か言うてるのに無視するような三流国ではありません。
ただ、流石にこんな無理難題に「はい、そうですか」と言ったんじゃあ、後日の災難を招く…ってんで明治の政治家と天皇陛下は知恵をお使いになったのであります。
すなわち、通報艦「姉川」はいったん海軍籍を除籍になります。明治44(1911)年8月22日の事でした。
普通のフネなら
「お前、古くなったし、性能も陳腐化したからもう要らね」
宣言されちまった、という事になります。
ところが「姉川」は同日付けで宮内省に移管されています。コレが民間へ、ってんなら「払下げ」ですし、民間から、なら「献上」ですが、海軍から宮内省への異動はなんていうんでしょうね?
いったん宮内省のモノになりましたので、「姉川」は天皇陛下のお持物、という位置づけになったワケです。
そうしておいてアンガラ改め姉川は、明治天皇からロシア皇帝にプレゼントされることになったのです。
明治44年9月2日、「姉川」は呉を出港、同月6日にウラジオストックに到着し、ロシア側に引き渡されたのです。
大事に使えよ、大陸国め
大日本帝国海軍の軍艦、「通報艦・姉川」であったころのコノ船の要目は
常備排水量11,700トン・16.9ノット・15.2cm単装砲4門・7.6cm単装砲4門。
一万トン超えてるんだから、けっこう大きなフネであることが判ります。速力もまあまあ、仮装巡洋艦として使うには好適な艦でしょう。
砲力は、判り易く言っちゃえば「後年の軽巡洋艦とほぼ同等」でありますので、十分に有力。
日露戦争で海軍力を、ほぼ喪失してしまったロシア帝国にしたら、コレはたいへんな贈物であったことでしょう。
ところが、ですね。
ロシアめ、船名を「モスクワ」に戻したとか「ペチェンガ」と改名したとか、ちっとも大事にしてない印象。
大正11(1922)年までは機関が動かないままウラジオストックに係留されていたと言います。
その後どうなった事やら、調べがつきません。
『聯合艦隊軍艦銘々伝』によれば「アンガラ」に船名を戻した、とも書いてありまして、そんなことなら明治大帝に返納してくれたら良いのにね。
もう一つの「通報艦」
さてさて、大日本帝国においては「通報艦」と言う艦種は大正元年をもって廃止されてしまうのであります。
無線電信が使い物になってきら、ワザワザ「命令やら報告を携えて艦隊の間や策源地との間を走り回るフネ」、なんて不要ですものね。
ただ、そんな時代にあっても「通報艦」を運用し続けたお国があります。フランスとかイタリアです。
これらの国々、特にイタリアヘタリアはわずかですが植民地を持ってまして。
植民地を警備したり、本国との連絡に当たったりするために「植民地通報艦」ってのを使ってたんです。
世界中に巨大な植民地を持ってる大英帝国だと、いつも言ってるように、巡洋艦を使うんですけどね。
って申しますか、福井静夫大先輩によりますと(この方の文章はたいへん非論理的で判り難いんですが)「通報艦は巡洋艦である」そうですから(世界巡洋艦物語)…
ってことで、第二次大戦の開戦直前になって国力があんまり強くないヘタリアが、わざわざ建造した「植民地通報艦・エリトリア」に注目いたします。
艦名「エリトリア」は(たぶん)当時イタリアの植民地だった、「アフリカの角」にある国に由来しております。
性能諸元
基準排水量:2165トン・フィアット式2サイクルディーゼル機関2基&電気モーター併用2基2軸・速力20ノット・12糎45口径連装速射砲×2基・37粍54口径連装機関砲×2基・13.2粍75.7口径単装機銃×4基
福井先生、巡洋艦には少々力不足ではあるまいか?と愚考致しますが(笑)
でもよくよく見ると、どんなシステムか良く判んねぇ「ディーゼル・電気推進併用」で航続距離が6900カイリもある。
艦形も乾舷はしっかり取ってあるし、無理な武装をしていない上に艦の中央から、上甲板を一段下げて重心低下を図り、その分艦首楼甲板と同レベルのフライングデッキを伸ばす…
ホンマの意味で「巡洋(海を巡る)艦」にしようって設計じゃん、これ。
第一次世界大戦で上手いこと勝利側に引っ付いて、リビアやソマリアなどの植民地を維持出来たイタリア王国。
さらに領土拡大の野心を肥大化させる、っていう身の程をわきまえぬ国策をとるヘタリア。
世界の趨勢は軍縮へと向かっておりました。
軍艦の大きさやら保有量を制限されて困ってたのは、一人大日本帝国だけではなかったんです。
この記事で問題になるヘタリアの場合「植民地警備」のための通報艦をどうするか?ってのが大きな問題となったようであります。
まあ、この問題はイタリアだけじゃなくて「植民地持ち」海軍のほぼすべてが抱えていた問題でして。
加えて戦費をいっぱい使っちゃった各国は、低コストで植民地警護に適した次世代の通報艦を待ち望んでいた…と言ったら言い過ぎかな(笑)
そんな状況の1927年、ヘタリア海軍の最も強力なライバルであるフランス海軍が、傑作通報艦「ブーゲンヴィル級」をリリースいたします。
フランス海軍は基本的に
「新奇なコンセプトに積極的に挑むけど、基礎的な技術力のわずかな不足で大失敗に終わる」
のが常なんですけど(それもムッチャンコ格好悪く)、ブーゲンヴィル級みたいな「新時代を作る」レベルの傑作もたまに生みだすんですね。極々たまに。
言い方変えると「下手な鉄砲も数撃ちゃなんとか」ですわ。
これが「植民地通報艦」の新スタンダードになっちまったようで、ポルトガルとかオランダみたいな
「ちょっとだけ植民地持ってる海軍」
が次々にパクリまして、フランスをライバル視するヘタリアもやっぱりパクったのであります。
それが、この「エリトリア」
…なんだ、パクリ通報艦か!と仰るべからず。
このフネ、イタ公のパクリすなわち「イタパク」艦とは思えぬ数奇な生涯を送るのですから(笑)
紅海艦隊
「エリトリア」が就役したのは1937年2月10日です。
ネタ元のブーゲンヴィル級から10年も遅れとるし、この間にブーゲンヴィル級は10隻も建造されてるんですが…
1940年6月10日、ムッソリーニさんが何をどうトチ狂ったのか?ヘタリアは欧州の戦乱に飛び込んでしまいます。
私の大好きな小噺
「総統、イタリアが参戦しました。」
「想定内である。1個師団を送って国境を固めよ。」
「いえ、イタリアは我が方に味方しての参戦であります。」
「う~む。10個師団送って守ってやれ。」
と言う問答が電脳大本営じゃない、総統大本営で繰り広げられて(笑)いたころ、通報艦エリトリアは艦名のネタ元である東アフリカ・エリトリア植民地のマッサワ港を母港にしておりました。
イタリア海軍の「紅海艦隊」の一員として第二次世界大戦を迎えることになったのです。
イタリア紅海艦隊は、通報艦のエリトリアの他に、「レオーネ級駆逐艦」が3隻と「サウロ級駆逐艦」4隻と言う、まあまあの性能の駆逐艦が主力となっていました。
そのほかに潜水艦8隻と、ラム1世・ラム2世と言う仮装巡洋艦が2隻。
ソコソコの戦力ですが、問題なのは母港の位置であります。
ってか「紅海」艦隊って時点で、大英帝国相手に戦うには悪条件も極まりないですな。小学生くらいの地理と歴史の知識があれば判る話でして。
紅海とイタリア本国が飛び出している地中海の間は、「スエズ地峡」という地面で遮られております。
そこには「スエズ運河」ってモノがありまして、大きなフネも通過できます。ココを経由すれば紅海艦隊はすぐに本国へ帰れますし、補給も簡単なのです。
ただ、通るためには持ち主にお金を払う必要がありますし、そもそも持ち主に通航を許可してもらう必要があります。
小学生でも理解しているように、運河の持ち主はこの当時は大英帝国。
スエズ運河の地中海側は、大英帝国海軍地中海艦隊の根拠地でもありまして、もう無数って言った方が良いほどの軍艦がウロウロしております。
つまりイギリスと戦争状態になった瞬間、ヘタリア紅海艦隊は孤立無援となったのでした。
この孤立した小艦隊の奮闘ぶりは「イタ公と呼ばないで」シリーズで書くつもりですので、今回は「エリトリア」に集中いたします。
そもそも「植民地通報艦」などと言うモノは建造するときに艦隊戦闘とかこれっぽっちも考えていませんし、イギリス海軍と言ったら「見敵必戦」がモットーの好戦的な輩であります(笑)。
イタリア紅海艦隊は、それでも通商破壊に打って出たのでありますが、駆逐一隻と潜水艦の半分を失ってしまいます。
その間、エリトリアはジッとしてたようなんですけど。
陸上では大英帝国領のソマリランドに侵攻して、イギリス側の判断ミスにも助けられて…なんてマサカの事態(なにせ「世界最弱」と評判だったギリシャ軍にコテンパンにされたヘタレ陸軍ですから)もあったのですが。
流石と言うかヤッパリと言うか、ヘタリア全体としてはあちらこちらの戦線で追い詰められちゃいます。
1941年に入りますと、エリトリアは陸上から英軍の攻撃を受けるようになり、マッサワ港も安全ではなくなってしまいました。
2月、紅海艦隊司令部はついに決断を下します。
戦闘力に劣る通報艦・仮装巡洋艦や潜水艦を脱出させようというのです。
しかしマッサワはイタリア本国とは交通途絶しております。スエズ突破なんて考えるのもおこがましい事は前述の通り。
アフリカ一周は、バルチック艦隊ほどの補給地すらないので無理筋。
無事にまわれたって、地中海の入り口はロイヤル・ネイビーが見張ってる(大英帝国の「ジブラルタル租借地」)。
しかし東があるじゃないか!「不屈」のヘタリア紅海艦隊司令部は(たぶん)そう考えたんでしょうねぇ。
紅海から東へ出れば、大英帝国の生命線の(一つの)インド洋。
でも地中海戦線に比べれば警戒密度が遥かに低い「世界の果て」に向かうんだし、さいはてには同盟国の日本がいる。そもそも、他に方法がありません。
歓迎されず
通報艦「エリトリア」は仮装巡洋艦「ラム1世」と「ラム2世」を率いてマッサワを出撃、って言いますか逃走行に出ます。
インド洋を横断して、世界の東の涯にある同盟国への脱出行であります。
もう一度、脱出したのは1941(昭和16)年2月だったことをご確認ください。
大日本帝国は未だ参戦しておりません。
つまり、大英帝国艦隊に追われる小艦隊を、大日本帝国艦隊は助けに来てくれません。
自分の力で大日本帝国領まで逃げ込まなきゃいけないのです。
2月27日。この日はモルディブの西を航行中だったのですが、「ラム1世」が先行していました。
このラム1世がニュージーランド軽巡「リアンダー」に捕捉され撃沈されてしまいます。
ラム1世が撃沈されたことで、エリトリアとラム2世は英国の捜索が迫っている事を察知。
その後はなお警戒を厳にし、なんとか無事に大日本帝国の神戸港にたどり着いたのでありました。
ちなみに、エリトリア戦隊と同時にマッサワを脱出し、別行動の紅海艦隊の潜水艦戦隊はドイツ勢力下にあった、おフランス領ボルドーへ全艦たどり着いています。
在日伊艦エリトリア
今までの紅海と違って、広々とした太平洋・東シナ海・南シナ海が新たな舞台。
「思いっきり通商破壊しちゃる!」と(たぶん)張り切ったに違いないエリトリアとラム2世。
残念なことに、大日本帝国はまだ「中立」でありました。
交戦国の艦船が入港した場合、本来なら中立国は退去を求めるか武装解除をしなきゃいけません。
前年にイタリアと同盟関係を結んでいた大日本帝国は、流石にソコまではしませんでした。
それでも、日本を基地に通商破壊活動なんぞされた日にゃ、連合国と外交問題になってしまいます。
イタリア艦の活動を認めるわけにはいかず、エリトリアとラム2世は神戸港に「引きこもり」。いや、自分で出かける気はあるんですから「座敷牢」生活となってしまいます。
大日本帝国って、イタリアには冷たいんだよねぇ。
大東亜戦争中には「飛行機による連絡」も試みて、イタリア機が成功してるんだけど、コレも歓迎してないし。
しかし「座敷牢」生活も一年経たずに大東亜戦争が始まりました。
これでエリトリアとラム2世は日本から援助を受け、行動の自由を認められるようになります。
China大陸の天津にはイタリア租界があり、そこには「イタリア極東艦隊」がおりました。
と言いましてもアツィオ級敷設艦「レパント」(基準排水量615t)と砲艦「エルマーノ・カルロット」(同212t)の2隻だけ。
艦隊と言うのは相当に図々しい「艦隊」であります。
エリトリアとラム2世は、そのイタリア極東艦隊に加わる形になりました。
「イタリア極東艦隊」は極東で活動するイタリア商船の護衛や、枢軸側潜水艦(タイフーン戦隊やイタリアからの遣日潜水艦)の補給・修理などの任務に就きます。
遠い母国のヘタレ海軍とは違って、同盟国海軍は強い事強い事。マレー沖海戦・セイロン沖海戦などで大英帝国東洋艦隊を一蹴。
太平洋西部からインド洋に至る広大な海域をアッという間に制圧しちゃいます。
イタリア海軍艦艇(エリトリアとラム2世に限らず)にとって、「敵の襲撃の心配のない海域」なんて空前絶後の経験だったことだと思われます。
良いことは長続きしない
ミッドウェー海戦が起き、ガダルカナル島の戦いが繰り広げられておりました1943年9月8日、とんでもない事件が勃発いたします。
イタリア本国で政変(クーデタ)が起り、ムッソリーニが失脚。
ヘタリアは連合国と休戦しちゃったのであります。実際は「降伏」なんですけどね。
そうなりますと、「イタリア極東艦隊」の立場も様変わりいたします。
乗組員も艦長以下皆さんイタリア軍人。
彼らの「本国」が「連合国」と休戦したんですから、エリトリアも休戦に従うべきなんですが、今は拙い。
たかが「植民地通報艦」とはいえ、エリトリアが休戦するのは枢軸側の戦力が減少することを意味してますし、連合国に合流しちゃえば連合軍の戦力が増えちゃいます。
しかし、エリトリアは幸運でした。
「イタリア降伏」のニュースがもたらされた時、エリトリアは輸送護衛の任務に就いて、シンガポールからスマトラ島北端・サバンへ航行中だったのです。
帝国海軍も「イタリア降伏」は知っていましたが、逃走するエリトリアを発見したのは軽巡球磨だけ。
球磨はエリトリアを激しく追撃したのですが、振り切られてしまいます。
仏通報艦「フランシス・ガルニエ」
通報艦「エリトリア」にとっての第二次世界大戦はコレで終わったワケですが、お花畑頭さんやパヨの皆さんには大変お気の毒ながら、「戦争」が無い世界になったわけではありません。
枢軸国と連合国との対立こそ無くなったモノの、西側と東側って対立はちゃんと残っていますし、新たに「宗主国と被植民地」って言う新たな火種が出来ちまいます。
この対立で苦しかったのは、ドイツに一旦蹂躙されて軍備がほぼ無くなったおフランス。
フランスは戦後復興のために、植民地を搾る必要があり、しかし一時的に(大日本帝国によって)解放された植民地はそう簡単には言うことを聞きません。
それを脅し上げる軍備が無い、ってのは非常に痛いのであります。
そこで目を付けたのが自国領の港でブラブラしている、植民地通報艦のエリトリア。
1948年、イタリアに掛け合ってエリトリアを譲渡させると、一応はオーバーホールしてからフランス極東艦隊に編入。
編入にあたって、エリトリアは「フランシス・ガルニエ」に名前を変更されちゃいました。
当然のように「インドシナ戦争」に参加させられてしまったんですが、敵の方は陸上のゲリラが主力。
エリトリア改めフランシス・ガルニエの出番はほぼゼロのまま、フランスはベトミンに苦杯を舐めちゃうのであります。
インドシナ戦争が終るとフランシス・ガルニエは太平洋艦隊に編入されて、まだおフランスの持ってる「海外領」を警護する任務に就きました。
あちこち逃げ回って苦労の末、やっと「通報艦」の本来の任務に付けたんですね。
この時期に親善航海として神戸港に帰ってきたりしましたが、イタリアには帰れないまま。
就役から30年が過ぎた1966年、ついにフランス海軍籍を除籍。これでイタリアに帰れるかと思いきや、エリトリアはムルロア環礁に引っ張って行かれます。
おフランスが必死で大国であることを証明した、核実験の標的となったのでありました。
ラムちゃんも
「エリトリア」の最初の脱出行の時にご一緒したラムちゃんこと仮装巡洋艦「ラム1世」「ラム2世」の姉妹。
実はもとバナナ運搬船と言う変わった経歴の持ち主。他にも「3世」と「4世」がおりまして。4世だけは病院艦なんですけどね。
1世はご覧いただいたようにモルディブ沖で英巡リアンダーに撃沈されました。
2世は神戸港で自沈したのですが、大日本帝国海軍が浮揚・修理して「生田川丸」と改名、再就役。
昭和20(1945)年1月12日にサイゴン港内で空爆を受けて沈没。
3世はなんと現存。
4姉妹のうち、この艦だけ本国周辺にいたのですが、潜水艦に攻撃され大破。
修理中に休戦となり、ドイツ軍が接収して機雷施設艦として使用。1944年11月、自沈。
浮揚・修理後にユーゴスラビアに売却されて王室ヨット「Galeb」となります。共産化してからはチトー大統領の専用。
赤崩壊後はモンテネグロ、クロアチアとたらい回しされ、将来は博物館船として使用されるみたいです。
4世はイギリスがマッサワを占領した際に接収され、そのまま病院艦として使用されましたが、ドイツのアレクサンドリア空襲で撃沈されています。
姉妹艦4隻で大日本帝国・ドイツ・イタリア・ユーゴスラビア・大英帝国と5ヵ国の海軍に属し、5回沈み、21世紀に至るも一隻現存。
ラムちゃんたちも、エリトリアに負けず劣らず、変わったフネなのでありました。