忘れられた帝国領
第一次大戦の敗戦国ドイツ帝国の広大な植民地は「委任統治」と言うカタチで処理されることになり、大日本帝国は広大な海面とわずかな陸地の島々をその領土に加えることになったのでした。
一口で委任統治と申しましても
「委任統治」と言っても、三種類の区別がありました。そもそも、委任統治そのものが
「住民のレベルが低すぎて独立・自治なんてムリだから戦争強い国が責任もって統治してあげよう。」
と言う、親切なのか失礼なのか?に見せかけたエゴ丸出しのシステムなんですが。その上に「ちゃんと住民のレベルを評価したからね」って言うフリを振り掛けてるだけなんですけどね。
まず、A式はオスマン・トルコ領だった西アジア地域などで、
「わりと文明的な奴らが住んでるから、そのうち独立出来るかもね(うーんと搾り取ってからだけどな)。」
って言う国々。そのせいか、今でも世界の火薬庫(古い表現ですが)ですね。シリアやパレスチナやヨルダン、イラクなどなど。
B式は「まだまだ未開の蛮族だけど、ヤル気は少しあるみたいだね。自治・独立はまだまだムリだから、暫らく文明国のためにタダ働きしとけ。」
って感じですね。ドイツ帝国領の西アフリカとか、結構大きな地域。
C式は「早く人間になりた~い、ってレベルやね。土地も人口も少ないし。独立なんて夢にもナイナイ。」
太平洋に広がるドイツ領の島々で、もちろん大日本帝国も現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域を獲得するのであります。
オーストラリアがニューギニア島の東北、ニュージーランドは西サモアなど結構大きな土地を得ていることも確認しておくべきでしょう。
大日本帝国はこの新たに統治を「委任」された島々を、植民地経営になれた欧米各国とは一味も二味も違った方法で「文明化」していくことになるのであります。もちろん、其処には大日本帝国の都合もあります。
ありますが、決して欧米流の植民地経営ではありませんでした。
C式委任統治をもう少しマジメに書いておきますと、旧ドイツ領のうちの「西南アフリカ及び太平洋諸島のような地域」で、「人口が希薄・面積が狭小・文明の中心から遠い・受任国の領土に隣接している・その他」の事情があって「受任国(大日本帝国など)領土の構成部分として、その国法の下に施政を行うことをもって最善とする」と国際連盟に認められた地域です。
ただ、それにも条件はありまして、「思想・信教の自由の供与・奴隷売買と武器火薬類取引の禁止・軍事施設の建設や現地人に対する軍事教育の禁止・通商貿易に対する連盟加盟国の機会均等」などが要求されていました。
また、受任地域に関して連盟理事会に統治年報を提出する事も義務とされていました。大日本帝国は国際連盟から脱退した後も、南洋群島の統治報告書を送り続けています。軍事施設の建設禁止も、まあまあ守り続けているのです。
最初は軍政から
大日本帝国海軍が南洋群島を占領すると、「臨時南洋群島防備隊」を置いて軍政に当たらせました。この防備隊は海軍根拠地隊の一種と思えば良いかと思います。つまり、基地の防備などに当たる陸戦隊です。
ドイツの植民地を奪取したと言っても、当の海軍は基地、あるいは寄港地を一つ占領した程度の認識だったのでしょう。まあ、人口や経済の規模を考えれば妥当なセンでしょう。
これが大正3(1914)年12月のこと。司令部はトラック諸島(今はチューク諸島)の夏島におかれていました。占領した南洋群島を6つの行政区に分け、それぞれに配置された守備隊長が軍政庁長も兼任していたのです。
大正7年には軍政庁は民政署に改められます。民政署長として文官が任命されて行政を担当。これで「民生移管」と言って良いでしょう。
国際連盟で委任統治が認められると、大正11年4月には南洋庁が開庁、本庁をパラオのコロール島に置き、その下に六つの支庁を置いきました。サイパン(サイパン島、テニアン島、ロタ島)・ヤップ・パラオ(バベルダオブ島、アンガウル島)・トラック(春島、夏島、水曜島)・ポナペ(ポナペ島、コスラエ島)・ヤルートの六つです。
病院や教育機関、裁判所や警察組織を帝国から持ち込み、元からの住民の福祉に最大限の配慮を払いつつ「新領土」の殖産興業に当たることになったのであります。
そして南洋群島は台湾と並ぶ「成功した植民地経営」となるのです。
もちろん西洋帝国主義諸国の植民地とは、やり方が根本的に違います。いわゆる収奪というモノはありませんでした。
委任統治の開始から、南洋群島の財政は大日本帝国の「特別会計」となりました。
基本的に委任統治領からの租税その他の収入を統治に要する費用としていたのですが、とてもそれでは足りませんでした。当初は先に書きましたように病院や学校を立てたり、行政のシステム整えたり、本土(沖縄含む)からの入植者を募集したりでともかく金がかかったのです。
毎年300万円前後の国庫からの補助が必要で、昭和3年度に至っても180万円の補充金を受けていました。ちなみに大正14年の一般会計予算は15億3000万円です。
国庫からの補充金は統治の進展に伴って漸次減少していきました。昭和6年度には僅かに27万円となり、昭和7年度からは補充金の必要がなくなります。以降は国庫に対し剰余金を繰入れるようになったのです。
大日本帝国の「植民地」特別会計で国庫のお世話にならない、いわば「財政独立」だったのは台湾とこの南洋庁だけです。
今回は、資源も土地も人口も少ないのに「黒字化」出来た南洋群島の殖産政策を見てみたいと思います。
電脳大本営のくせに、戦闘ナシかよ!ってお怒りになりませんように。
財政の独立がもう少し続いていたら、南洋群島の確保のための施策が積極的に打たれていたかも知れませんから。
失敗した会社
南洋群島を占領した時期、大日本帝国はヨーロッパ各国からの需要が供給力を大きく上回る戦時好況の時代でした。
「新占領地」は好況で気の大きくなった実業家たちの投資の対象となってしまいました。その代表格が西村拓殖株式会社と南洋殖産株式会社、それに喜多合名会社でしょう。
この3社は全く経験の無い熱帯での事業に進出し、結果を先に申し上げると完全なる失敗だったのですが、絶大なる教訓だけはたっぷりと残したのでありました。
西村拓殖は、下関の豪家である西村惣四郎が個人事業として興した会社です。
西村家は漁業を本業にしていた家で、南洋に眼を向けたのも鯨の漁場を見つけるためだったようです。大正五5年に惣四郎の養子の一松が南洋群島を視察したのです。
一松は南洋群島への航海中、同じ船に乗りあわせた南洋防備隊所属の技手(ぎて=エリートコースではない、たたき上げのエンジニア)から南洋群島は製糖業に非常に有利だと聞かされます。一松は単純にも話を聞いて漁業調査の目的をかなぐり棄て、サイパン島に上陸、製糖事業の踏査を行うことにするのです。
漁業家の養子の一松に製糖業の何たるかが分る筈もありません。サトウキビを見たことすらなかったようです。
ところが、この軽薄養子は自分で島の略図と事業計画書を作成してしまいます。手作りの計画書を軍政庁に提出、殖産興業には常に乗り気の大日本帝国でありますから、ホイホイとこれを受領。
一松は調査など碌スッポやらずに帰国。以上の経緯を西村一族に力説します。何しろ軍需景気に涌く国内は砂糖の価格も暴騰気味、元々が一般の製造業に比べると安定感に足りない網元で在をなした家の事とてこの新規事業に皆さんおお乗り気。総帥の惣四郎さんが最も興奮したようです。
惣四郎さんは養子の話を聞くと取らぬ狸の皮算用と言うか妄想全開と言うか?
「この製糖事望を成功させて1千万円を政府に献納する。南洋開拓の功によって男爵になるのだ」
と大日本帝国の華族制度と熱帯の過酷な状況をなめ切った、雄大きわまる抱負を語ったと言うのですから、その意気を思うべし。上に書きましたように、この頃の国庫からの南洋庁への支援が年間300万円余り。国家財政への負担が大きすぎるとして「南洋庁廃止論」もあったのに。
こうして西村拓殖株式会社は発足し、主だった漁師を幹部社員にしてサイパンへ派遣するのでありました。
西村拓殖の関係者は砂糖の素人ばかりですがそんな事はお構いなし。サトウキビの栽培なんかほっといて魚釣ばっかりしている社員たち。
漁船を二艘も造って幹部が率先して「漁業」にせいを出していました。
それでもサイパン進出2年で製糖所が完成します。
ところがこの製糖所では砂糖が出来なかったのであります。
そもそも、サトウキビは刈り取ってそのまま放置するとショ糖分が減って品質が低下します。刈り取った後は、なるべく早く近くの製糖工場で原料糖にしなければなりません。これこそが南洋群島に製糖工場が造られる理由なんですが、西村拓殖ご一行様はそこまでも行かなかったようで。
どうやらサトウキビを搾った汁を一生懸命煮詰めたようですが、それでは砂糖にはならないのです。しかも、ご一行はこの過程で角砂糖に出来る「精製糖」が出来ると信じていたようです。
実際にはこの工程を経ても出来上がるのは「原料糖」で、内地に輸送して精製する必要があったのですが…
その他にもサトウキビの虫害にも気が付かないなど、実に乱暴な「事業計画」であったのでした。
こうして西村拓殖の事業は散々な失敗を繰り返し、遂に撤退に至ってしまうのでありました。
また南洋殖産会社の方は大橋新太郎(博文館の2代目・衆議院議員・貴族院議員)、藤山雷太(藤山コンツェルン創始者)らの参加を得て華やかなスタートでしたが、社内統治は乱脈で西村同様の運命に陥ってしまいます。
喜多合名会社は製糖事業ではなくて椰子(香具師ではないぞ)の営林を狙ったのですが、前2社と同様に失敗。
これで困窮したのが3社に連れてこられた本土や沖縄からの「移民」でありました。事業計画や社内の統制がいい加減な会社が、事業に失敗した後の従業員を本土に連れ戻す段取りをするわけがありません。
結果、サイパン島には1000名の「移民」が置き捨てにされてしまいました。
開発の希望に誘われて新領土に渡った人たちは、食糧にも事欠くようになってしまいました。島の山野をさまよって南瓜の蔓・馬鈴薯の葉・パナナの茎・パパイヤの根などを集め、海水で煮て(醤油も味噌もありません)口を糊する人も出る始末。
この人たちは帰国したくても、お金が無くてフネにも乗れなかったのです。
救世主
こうした新規参入組の苦戦を横目に、既存の製糖業者は何をしていたのか?
あるいは「新領土」の産業を興すべき東洋拓殖株式会社(満鉄と並ぶ国策デベロッパー)は何をしようとしていたのでしょうか?
ココに製糖産業の専門家で「新高製糖」の常務まで勤めた松江春次が登場いたします。松江は南洋ではサトウキビが台湾の二倍も採れる、それも無肥料で、ということを聞いて大いに興味を喚起されていました。
新高製糖の台湾事業はなかなか軌道に乗らず苦しんでいました。松江はその打開策として、南洋進出を会社の幹部を説きつけたのです。
しかし先発の企業の惨憺たる結果に、世間では「南洋悲観論」が台頭しており、他の役員の賛同を得ることは出来ませんでした。
松江春次は現在の東京工業大学の出身で、卒業後は日糖会社に入社、砂糖畑の専門家でした。それだけに南洋群島での製糖業には確固たる自信を持っていました。先行の素人企業が失敗した事業を自らの手で成功させたい、と言う実業家としての矜持もあったでしょう。
松江は新高製糖を辞職すると南洋群島の調査の旅に出たのです。大正12年2月の事でした。
調査はわずかに1ヵ月ではありましたが、サイパン島とテニアン島の実情をつぶさに見て廻った松江は自信を強めました。
西村拓殖と南洋殖産が失敗したのは、思っていた通り南洋群島の植生が悪いのではない、経営が悪すぎたのだ。
ただ、事業を起こすにはやはり資本が必要です。その資本は満鉄と並び称される国策会社の「東洋拓殖」に頼ることになります。
東拓は南洋群島での綿花栽培を目指していました。しかし、西村拓殖と南洋殖産が遺した1000名に上る棄民の救済に苦慮する防備隊(既述のように統治に当たっていました)からは「早急に事業を開始して欲しい」との催促。
松江春次の「南洋群島調査譚」が新聞紙上に掲載されたことがキッカケになり、東拓は南洋糖業の可能性を検討することになります。
松江は東拓の技師を伴って2回目の南洋群島の調査を行い、ついに東拓の南洋投資が決定されるのでありました。
東拓はさすがに国策会社だけあって、投資が決定するや南洋群島に物資と現金を送って困窮した移民の救済を開始します。
これと並行して西村拓殖と南洋殖産の整理・引継の交渉が行われ、2社を清算して「南洋興発株式会社」を設立。松江が社長に就任したのです。
「新高製糖」の常務として順調に務めていた松江春次。彼が南洋群島悲観論が唱えられている時に示した見識と勇気が、南洋群島の経済を変えていくことになりました。
南洋興発株式会社
大正10年12月、松江春次は社員とともにサイパン島を目指しました。
松江は2回の調査の結果、サイパン島では原料糖の年産1200トンを目標とし、当初は800トンを生産する原料糖工場を建設すること、その工場の敷地のおおよその位置、サトウキビ畑は大きく三つの集団に分けるなどの方針を決定していました。
上陸の翌日からは松江自ら脚絆・地下足袋で社員を督励、毎日まいにち原野とジャングルを歩き廻ります。
踏査の済んだ土地は直ちに設計・開墾・鉄道敷設・工場建設が同時に取り掛かり進行するダイナミックな工事。食べる物にも困っていた移民たちは今度こそ、と期待を抱いたことは想像に難くありません。
南洋興発株式会社のサイパン製糖所はサトウキビ畑、精製工場だけでなく小規模な鉄道も敷設して運営する予定でした。これに要する労力は今までの移民1000名を全て雇用しても不足すると見積もられていました。
さらに2000名の移民を迎える必要がありました。南洋群島は人口も少なくて、原住民に頼ることは出来なかったのです。
明治の開国以来、大日本帝国からは多くの移民が海外に出ています。国内では将来の展望が描けない貧農が…と言うのがパヨクお得意の主張なのですが、移民は渡航費の一部を準備しなければいけませんでした。つまり完全に窮乏状態の農民には無理な相談だったのです。
西村拓殖と南洋殖産にいざなわれてサイパンに渡った移民たちもその例外ではありませんでした。
この移民たちも日本人ですから優秀な労働者ではありましたが、一面では一獲千金を求めてもいました。南洋興発はさらに困苦に耐えてくれる労働者を望んでいしたのです。
松江春次率いる南洋興発株式会社は支度金・渡航費・到着後の生活費などを貸与する制度を創設して、当時で言う「無産農民」にも新天地に渡るチャンスを提供することにしたのです。
「無産農民」たちは勤勉かつ困苦に耐える強靫性を持っていましたし、大日本帝国としても窮乏生活からの救済という面で有効な政策でもありました。
また、当初は気候が近いとかサトウキビの栽培に熟達しているだろう、と言う理由から沖縄の出身者が集められたのですが、その後サトウキビ栽培と熱帯気候に順応する能力は、東北地方からの移民が予想外に優秀な成績を上げることが判って来たそうです。
ともあれ、南洋興発の成功はこの「無産農民」の移民制度に負うところが大きかったようです。
鉄道建設
サイパン島には交通機関と呼べるようなモノは全く存在していませんでした。
原料糖を造るには、3つのグループからなる畑から工場へサトウキビを集約しなければなりませんし、原料糖はフネで本土へ運んで精製しなければなりません。
「未開の処女地」に産業を興すには交通機関の整備が必要なんであります。当時はクルマって言う選択肢はほぼありませんから、当然のように鉄道がひかれます。
工場を中心に南線・北線の「二大鉄道幹線」が建設されたのです。と言ってもナローゲージの軽便鉄道ですけどね。
小さな島のことですから、どこもかしこも傾斜が急で勾配があり、工事は困難に満ちていたそうです。中でも「南線」のラウラウ湾に面する2.5キロほどは断崖また断崖の連続。サイパン島開拓の中でも最大の難事業だったそうです。
2.5キロの鉄道敷設に要した期間は一年半。要したダイナマイト十数万発、人夫の延人員数万人。線路に百円紙幣を並べたと同じ費用が掛かったと言われています。
こうして「サイパン製糖所」は大正10年3月に完成しました。
サトウキビの栽培は順調だったのでしょうか?
密林を拓くのは大変そうですが、焼き払ってしまえば意外に簡単だったようです。植溝を掘ってサトウキビを植え、土をかぶせておけば発芽するんだそうです。
サトウキビは生育も早く、サイパンでは3メートル以上もある見事なサトウキビが育つのに僅か1年。成熟まで1年半かかる台湾に較べて、効率の良い事です。
しかしながら人生はそんなに甘い事ばかりではありませぬ。せっかく成熟させたサトウキビでしたが、80%が箴象虫(しんしょうちゅう=ゾウムシ科の害虫?)という虫の食害を受けてしまいました。
当時の大日本帝国の製糖業では歩留り(製造した原料糖と必要としたサトウキビの重量比)は13~14%だったそうですが、南洋興発は不整地からの初収穫でもあり、歩留り目標は8%としていました。
ところが実際の成績は歩留り3.75%。食害による影響は絶大だったのです。
松江春次はココで非情な決断を下します。収穫したサトウキビをすべて焼き払い、害虫を撲滅することにしたのです。加えて今年の収益を諦め、来年の為に砂糖きびの品種改良を断行することとしたのです。
台湾では、食害に強いジャワ種のサトウキビが好成績を上げていました。これを輸入して農場を再建しようと言うのです。
そのように決断し、非凡なる実行力で会社・農場を改革する松江でしたが、大正14年までかかってようやく歩留り8%の成績を挙げることができました。
南洋群島は我が領土
これ以降「南洋興発」は発展の一路を辿ります。移民の数は五千人以上となり、製糖業以外の産業も徐々にではありますが軌道に乗って行きます。
サイパンで成功した「南洋興発」はテニアン島の開発にかかりました。
テニアン島は16世紀の半ばにスペインによる大虐殺が行われ、一朝にして完全な無人島となったと言う悲しい歴史があります。
人が居ないと搾取のしようがありませんから、ドイツもこの島には手をつけなかったのでしょう。大日本帝国が占領した頃は野生の牛や豚や鶏が密林の中を縦横に馳け回っていたそうです。
このテニアン島に企業家として最初の足跡を残したのは大阪の実業家喜多久蔵、先に名前の出た「喜多合名会社」の社長です。
喜多は大正5年に「椰子栽培」を行なうために借地権を獲得、日本人4人とサイパン島民20名をこの島に送りこみました。その後400名ほどの移民を迎え、密林を伐採・開墾。
大正7年12月には椰子の苗を6万7~8千本も植付け、順調に生育しました。
ところが翌年6月になると旱魃に祟られ、貝殻虫に襲われて椰子はほとんど枯死の状態となっってしまいました。
喜多はこの程度ではあきらめず、大正10年5月から綿花の栽培に移ります。
綿花は良く出来たのですが、この事業は労力問題で失敗に帰してしまいます。
そもそも綿花の収穫には平素の3~4倍の人手が要るんだそうで、テニアンのような元無人島ではこの労力問題はとても解決出来るわけがありません。
喜多氏はついにテニアンの土地を南洋興発会社に明け渡すことになってしまいます。
テニアンは全島が平坦で建設事業はサイパンと違ってスラスラと運んだようです。昭和3年に開墾、4年に植付と工場建設、5年から製糖を開始。
サイパンとテニアンの製糖事業が確立する事で、南洋群島の開拓はひとまず創業期を終えたと言えるでしょう。
産業の確立とともに、「出港税」などの収入が増加して南洋庁の財政も独立を遂げる事が出来るワケです。
南洋群島は我が領土
このように大日本帝国は(民間企業を通じて)全く産業の無いところに、現地が自活・発展できる芽を育てていきます。
もちろん帝国の為ではありますが、現地の人を搾取する「植民地経営」ではありません。
日本人が投資し、労働者として肉体労働に当たり、現地の人には教育・医療・福祉を提供しているのです。
昭和19年7月9日。20日以上にわたる陸軍第43師団(斎藤義次中将)・海軍中部太平洋方面艦隊(南雲忠一中将)の抵抗も虚しくサイパン島は米軍の手に落ちます。
この失陥を報告する、時の総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長・東條英機に対して昭和天皇は「取り返せぬのか?」とご下問になるのであります。
電脳大本営は昭和天皇が南洋群島を開発した民間人の苦労をご存じであらせられた、と信じて疑いません。
この時、東條も南洋群島開発の実情を知っていて、天皇陛下のお言葉から自分へのご信認が潰え去った事を即座に認識していたら?
大東亜戦争の終末は少し変わった形になっていたかも知れませんね。
*この文章は戦前に発表された南洋群島のレポートを参考にしています。
史実と異なる点は出来る限り排除したつもりですが、沢渡の能力不足で不正確な記述が入っているかも知れません。