令和と半島からの侵略

三韓征伐

2019年4月1日、新しい元号が「令和」(れいわ)と発表されました。元号は漢籍を出典としてきましたが、今回初めて国書を出典とした元号となりました。『万葉集』巻五の「梅花の歌三十二首」の序文で、「漢文」であります。

令の字にイチャモン付けるヤカラ

アベガー陣営の糞メディアの塵芥コメンテーターどもが
「令は『命令』の令であり、圧制社会を到来させる安倍の意思を表してる!」
とかしょうもないケチを付けています。

「令」は漢和辞典を引きますと、
1 言いつける。命ずる。言いつけ。お達し。「令状」「禁令」
2 おきて。のり。「条令」「法令」
3 長官。「県令」
4 よい。りっぱな。「令色」「令名」
5 相手の親族に対する敬称。「令兄」「令嬢」「令息」
等、様々な意味がありまして。

令和発表

「令和」発表

出典は、天平2(730)年の旧暦正月13日に太宰府の長官を務めていた大伴旅人(おおとものたびと)の屋敷で、梅の花を愛でる宴会が開かれた。その際に詠まれた歌がまとめて万葉集に収録された「まとまり」の序文として書かれた文章(漢文)、

『于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉』

です。これを読み下すと
『初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く、風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かを)らす』

現代語に直すと
「時は初春の良き月、空気は美しく風も和やかで、梅は鏡前で装うように白く咲き、蘭は身に帯びた香りのように香っている」
という意味みたいです。

どうひっくり返しても、パヨク諸先生の仰る「命令」とか「圧政」などは出てきませんわ(笑)…と嗤い倒すだけでは、なんとなくちょっと面白くない。ってか面白味が不足でしょう。
で、電脳大本営はもう少しパヨや現代と次代「令和」の日本にあだなす隣国をからかってやるネタは無いかなあ、と探すんでありました、っと。

無理やり見つけたぞ(笑)

といっても、令和の「令」からは上に述べました以上のネタは、出て来そうもありません。この「ネタ」と言ってもまあ、パヨどもの勇み足・または知識不足・思考の浅薄・偏向を嗤ってるみたいなモンです。
もう少し積極的にパヨどもを小馬鹿にしてやれないモンかなあ?と思っておりますると、あることに気づいたのであります。

この天平2(730)年と申しますのは、『続日本紀』の天平2年9月28日条によりますと「防人を停止した」年なんであります。この後も防人は復活したり停止になったりを繰り返して、「東国から」の徴募が「九州各国から」に変化したりするのでありますが、取りあえずいったん停止なんです。

大友旅人

大友旅人
Wikipediaより

こ、これや!コイツをネタにパヨとKorea人をおちょくってやる!

西暦663年。わが国は朝鮮半島にあった友好国「百済」救援のために出兵し、唐・新羅の連合軍と戦います。「白村江の戦い」です。この戦闘は我が国に利あらず、残念ですが敗戦に終わりました。

百済国は滅亡し、百済の遺民は徹底的に新羅を嫌って大挙海を渡り、わが国に亡命します。一説には「土地以外は全て持って逃げた」と言われるほど。新羅の民こそが「現代のKorea民の直接ご先祖」と思われますから、「さもありなん」ですわね。

我が国はもちろん百済の遺民に暖かい手を差し伸べ、各地に入植させたりしています。地名が残っていたりすることで判りますよね。
我が国にとっても、土木・養蚕などの新技術が導入出来ましたから、悪い事ではなかったのですが…

しかし、物事には必ず両面がありまして。百済の民が我が国を慕ってやってきてくれた事は良い事ばかりではありませんでした。倭の国時代から維持してきた「半島での勢力圏」を失った事も意味していたのですから。
日清・日露の両戦役で、まだ「開国」して間もない我が国が「半島への影響力」を求めて戦った事でも判るように、半島にバッファーを持つことは当時も国防の要点でした。

それを喪失し、あまつさえ直前の戦闘で敗北を喫したのですから、やっと国家としての体裁を整えつつあった日本が、唐+新羅連合軍の侵略を恐れたのは当然だったでしょう。

その侵略対策として、北部九州と壱岐・対馬に「防人」を置いたのです。遠く東国から多くの若者が国土防衛のためにはるばるとやって来ました。万葉集の世界に誇るすばらしさの一つは、そうした若者たちのウラミ歌(防人歌)すら、収集されている所であります。

対馬の金田城

対馬の「水城」金田城
石垣の下部と上部で積み方が違うことにご注目。

その「防人」が聖武天皇の御代である天平2年、一部ではありますが停止されました。白村江から年月も経ち、唐と新羅の恐怖が去ったと判断されたのでしょう。

「令和」出典の序文を書いた大伴旅人は「太宰府」長官、つまり対唐・対新羅外交の旗振り役です。
つまり、令和の和とは「風和らぎ」と詠まれていますが、単に「春の訪れによって風が和らいだ」と言っているのではありません。
国際情勢の厳しい「風」が和らいだ事で酒を酌み交わし、和歌を詠じる喜びを表現しているのだ、と言うのは考え過ぎでしょうか。

新元号がこの序文を出典としたのは(私には、ですよ)往時の世界情勢を、今日の支那やKoreaや黒電話国の情勢と重ねあわせ、「外患が滅びてなくなり、我が国の薫り高い文化が花咲く時代になってほしい」との願いが込められているように感じます。

皆さまはどのように思われるでしょうか?

ただ、ですね。「半島の脅威」はそう簡単に滅んだりはしてくれないのでありました。その歴史を見ておきましょう。

半島勢力の侵略

歴史を見る時語る時、すべては残された史料に拠らねばなりません。我が国にはそうした史料が豊富に残されています。日本の国民は昔からご先祖を誇りに思い、その記録を大切にする傾向がありますから。

金田城

金田城
別角度で

史料は一つだけあれば良い、というモノではありません。現代のマスゴミの報道でよく判る通り、一つの事象をどのように記録するか?という事は、記録するモノの立場で変わってしまうからです。
これからお話する「新羅寇」についても、記紀をはじめとして、我が国側の史書は沢山あるのですが、相手方の「史料」は「三国史記」と言われる一本しかありません。これが高麗王朝の第17代に命じられて編纂された、と言われています。

執筆開始が1143年で、全50巻の大歴史書が完成したのは1145年。流石にKoreaのご先祖は仕事が早いですね、早すぎる(笑)
しかもですね。思いだして下さい、730年でしたよね、件の序文が書かれたのは。そこから400年以上経ってから執筆された歴史書ですから、とても同時代史料とは言えません。
この記事で紹介させて頂く「新羅寇」はこの序文から250年くらいの事象ですが(半島からの侵略行為はもっともっと続きますが、「新羅」と言い切れなくなっちゃうので)、もちろん同時代ではありませぬ。

ってなことで、
「半島側の列島に対する侵略・暴行・強奪・略奪行為をほぼ列島側の史料だけで描く」
って事になってしまうのですが、それは半島の自業自得って事でありまして、電脳大本営の歴史観が偏っているワケではありません。

大伴旅人が「序文」で平和を寿いでから十数年。『三国史記』の「新羅本紀」によれば、745年頃から750年代後半にかけての新羅国では飢饉や疫病が発生して国民は疲弊していたようです。

こうした背景で新羅の民は、我が国の対馬国や九州北部に現れては物資を略奪するようになります。実はそれ以前、大化の改新の年(大化元年₌645年)に丹後の国に新羅の賊が来襲したが、撃退された、と言う記録(日本書紀)もありますが。

そこから白村江の戦い(663年)を挟んだ668年には同じく日本書紀によると
「是の歳に、沙門道行、草薙剣を盗み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて帰る。『日本書紀・天智天皇7年是歳条』」

 

白村江の戦い

白村江の戦い

 

沙門と言うのは仏教の坊主の事ですから、道行と言う坊主が三種の神器の一つ「草薙剣」を盗み出して新羅への逃亡を図ったんですね(監視体制云々はココでは問いませぬ)。

今でも実例がありますね、半島人が宝物(仏像)を盗んで返さない事って。

流石に「三種の神器」にはご先祖神の御加護もあったようで、雨・風に行く手を遮られた坊主は新羅には行きつけませんでした。

その後、天武天皇と持統天皇(天武帝の皇后です)の御代(673年~697年)には新羅国は唐との関係が悪化(渤海国とも悪くて、世界中から総スカン状態?)し、我が国に朝貢するようになります。
新羅の国民も我が国に帰化するのですが、百済の民とは違って素行が悪く(?)遠江国と駿河国に配された新羅人700人が反逆する「弘仁新羅の乱」(後述)を起こしたりしています(820年、「日本紀略」による)。

半島人のやることは

こうして古代の列島=半島関係は基本的に列島が宗主国で半島が属国(その上に唐が君臨する時期と、唐と列島は対等である時期があります)です。

ただ、半島の新羅はその関係に満足していたワケではありませんでした。

新羅が国力を高めて半島を統一すると、それまで下手に出ていた態度を一変させるのです。735年(天平7年)に我が国にやってきた新羅使は、新羅の国号を「王城国」と改めた、と通告しやがりました。我が朝廷は(属国のくせに)無断で国号を改称したことを責めて使者を追い返しています。

当時「半島」の後背地である満洲に「渤海国」が成立し、国力を充実させていました。渤海国は我が国に使い(遣日本使)を送り、関係が良好でした。

新羅はコレを恐怖して、日本を自分の味方に留めたかったのでしょう。味方になって欲しい相手なのに、強気に出ちゃうのは、現代のKoreaのやり方に通じるモノがあります。

翌年は日本からの大使(阿倍継麻呂)を使節として礼遇せずに冷遇しやがったので、以降の新羅使は大宰府で門前払いするように。「外交欠礼」もかの国の歴史的な得意技なんですねぇ。
で、この阿倍大使は帰任途中に病死してしまいます。遺った随員たちが帰国した平城京では天然痘が大流行。今さら因果関係を証明することは出来ませんが、起こった事象を並べるだけで十分でありましょう。
「清潔」って言う概念が無い地域なんですよ、あそこは大昔から。

さて、弘仁11(820)年であります。2月13日、突如として遠江・駿河両国に入植させた「新羅人在留民」700人が反乱を起こしたのです。在留民、と言っても前後の状況を考えると我が国に帰化していた新羅の民です。
彼らが徒党を組んで廻り日本の農民を襲って殺し、家を焼いたのです。

遠江・駿河の国では兵士を動員して対応したのですが制圧できません。半島の賊どもは伊豆国に侵入して穀物を盗み、船に乗って海上に。相模・武蔵など七ヶ国から兵が動員されて追いかけ、多勢に無勢となった賊は全員が降服しました。

帰化人には当面の生活費と口分田が与えられ、生活に困る事は無かった筈です。ところが、新羅人が帰化した目的が、「博多などに土着して本国と連絡を取ったり、違法な交易を行う」事だったらしいのです。
それを我が国政府に見破られて東国に移されたんでしょう。罪一等を減ずる、どころか生活の糧まで与えられたのに、逆恨みして叛乱ですわ。

渤海国

渤海国

今も昔も半島人のやらかすことは首尾一貫してぶれることがありません。いや、褒めてるわけではありませんからね。

武力発動じゃん

時代は流れていきますが、半島人が我が国に仇を為す、と言う関係は全く変わることはありません。
それに対して、わが国は「人道的」に対応する、っていう事も千古不変であります。
が、たまに我が国にも先見の明を持つって言いますか、現実がハッキリ見えるって言いますか、頼もしい武人が出るんですね。

和歌の家系ですから、ちょっと意外に思えますが、小野春風と言う貴族もそんな「武人」の一人であります。
貞観15(873)年、小野春風は何度も襲ってくる新羅賊対策のためにが対馬に国守として赴任いたします。春風は着任するや、防備の不足を痛いほど感じます。
彼はすぐに出来る対策として、食料袋1000枚と保呂(=母衣じゃな。矢避け用のまぁマントだと思っときましょう)1000領を要求して対馬の防備を拡充しました。

寛平6年(894年)4月、前年に肥前・肥後で新羅賊が暴れたため、警戒中の大宰府は、対馬国から「新羅賊来襲」の方に接します。
沿岸国に厳重警備を命じた上で朝廷にも通報し、対策が協議されたのですが、賊は上陸することなく逃げたようです。小野春風の準備が奏功したのでしょうか。

しかし敵もサルもの引っ搔くもの、5か月ほどすると、大小取り混ぜて100艘もの新羅船が対馬に攻め寄せて参ります。この中には唐人も入っていたと言われるのですが、兵員数は2500人にものぼる大軍であります。

この時の対馬の守備司令官は対馬守の文屋善友。善友は文官でありましたが、戦闘経験もあり、国境防衛隊長としてはうってつけの人物だったようです。

文屋善友は敵の大軍を見ると「水際撃滅」の不利を悟ります。現代と違いますから、本土から後詰が来るのは数か月先。善友の麾下にあるのは「数百」で、圧倒的に少数でした。

三韓征伐

三韓征伐

「水際」に戦力を集中して万一敵を殲滅出来なければ、攻囲される恐れがあります。善友は
敵を上陸させておき、隘路に誘い込んで一撃する戦法を取ります。

電脳大本営としては、島内に守るべき住民が居るのであまり推薦できる方法ではありませんが…
事前に準備出来ましたので、文屋善友の率いる兵士たちは「弩」を構えて半島の軍勢を迎撃。強力な矢が次々と発射され、半島軍220人を射殺します。
半島軍は先を争って海に逃げますが、日本軍の追撃は素早く、さらに300名を討ち取ったと言います。
また、船11艘・太刀50振など大量の戦利品を獲るとともに、賊ひとりを生け捕ったのでした。

捕虜の告白によれば、この襲撃は民間の海賊による略奪ではなくて、新羅国による襲撃略奪でありました。新羅国内は不作が続いて餓えに苦しんでいるのだそうで。民ばかりでなく、王城ですらも食糧倉が底をつき

「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」

半島側の史料(信用に足るモノではありませんが)である「三国史記」の889年の記事でも、「国内の不作と重税によって、反乱が起こった」とあります。
ですから、この証言は捕虜の虚言ではなく、国家の意思としての侵略であった事は間違いない所でしょう(この項は典拠が山川出版の「長崎県の歴史42」です。ちょっと弱いけど、勝ち戦だから良しとするか)。

国民性は変わりません

半島の侵略はこれで終わるワケではありませんが、「令和の序文の典拠」から時代が離れていきますので、ココまでにしておきます。

「新羅人の本性」を窺い知るには、紹介させて頂いただけで十分でありましょう。

盗む・インネンを付ける・嘘をつく。
困ったときはへり下って助けを乞うくせに、状況が好転する(したと思いこむ)とたちまち居丈高になる。
相手が弱いと見れば、かさにかかって攻めるけれど、ちょっと反撃されるとすぐ逃げる。

半島に住む人々の「本性」ってモノは、それこそ千年経っても変わらないのです。

「令和」の元号で電脳大本営が考えた事、以上であります。

令和が天皇陛下の御稜威のもと、平和で豊かな時代となりますように願って止みません。

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