甲標的戦記2~第二次攻撃~
洋上で敵の主力艦を雷撃するために誕生した「甲標的」
潜水艦に搭載されて、真珠湾攻撃に参加しましたが、全艇が未帰還となってしまいました。
ココまでのお話は「甲標的戦記1」で
戦艦1隻撃沈?
真珠湾攻撃に参加した5艇の甲標的はついに一隻も帰って来ませんでした。
しかし、横山艇からの「キラ(-・-・・ ・・・)連送」を母潜の伊16が受信していました。
これは「トラ(・・-・・ ・・・)」の誤連送だと解釈されて、奇襲は成功したモノとみなされました。
伊69が友軍航空隊の攻撃に先立つ時間帯に閃光を観測(エンタープライズ搭載機に対するアメリカ軍の味方撃ちだと思われます)。
さらにアメリカ軍が平文で港内の機雷掃海・対潜捜索を指示している電文を傍受したこともあり、アメリカの損害発表も勘案して「戦艦を撃沈」と報告されたのです(先遣部隊戦闘詳報)。
10名の搭乗員と比較的安上がりな甲標的5隻と、戦艦一隻の交換なら、コスパは良さそうですが「帰ってこない」ことを問題視して、甲標的の改良は続けられました。
残った搭乗員は「我々も出撃したい」と強く希望していました。
そこで、甲標的による「第二次攻撃」は第八潜水戦隊に属して実施されることになりました。
第八潜水戦隊は昭和17(1942)年3月、新たに編成された艦隊です。甲・乙・丙の3先遣支隊からなっていました。
「甲先遣支隊」は第八潜水戦隊の石崎昇司令官(少将)が直卒、石崎司令官は偵察機搭載の「イ10」に座乗。
第1潜水隊のイ16・イ18・イ20に甲標的を搭載。イ30が一時協力。
特設巡洋艦「報国丸」「愛国丸」「東亜丸」が給油を担当。
「乙先遣支隊」は第14潜水隊司令の勝田治夫大佐が指揮を執り、 「イ27」「イ28」「イ29」で構成。
「丙先遣支隊」は第3潜水隊司令・佐々木半九大佐の指揮で「イ21」「イ22」「イ24」。
乙丙の2つはシドニー攻撃の際には合同し、佐々木半九大佐が指揮する「東方先遣支隊」に変身することになっていました。
真珠湾では、甲標的部隊は準備不足のまま臨んでしまいました。ソレが全艇未帰還に繋がったと考えた第八潜水戦隊は、「第二次攻撃」に向けて可能な限りの作戦準備に務めました。
作戦準備は、「甲標的の改良」と「搭乗員の訓練」が同時並行的に行われました。
「先遣部隊戦闘詳報第七号 先遣支隊特型格納筒 攻撃関係事項」
を見ますと、真珠湾での「戦訓」を考慮して、甲標的には以下のような改良が施されました。
① 母潜の潜航中でも、甲標的に出入できる「交通筒」を新設
② 対潜防禦網切断器の装備(航続距離が15パーセントほど低下)
③ 魚雷発射管前扉を艇内から解放可能とする(真珠湾では魚雷発射の勢いで押し飛していました)
④ 操舵装置の改善→旋回圏の縮小(第二次攻撃の時点では改善できなかったようです)
⑤ 空気に依っていた操舵動力を油圧に
⑥ ジャイロコンパスの信頼性向上
⑦ 電気装置の絶縁対策(装備位置を変更するなど)
⑧ 充電装置の改善
これらの他、オーストラリア海軍が引揚げた甲標的の画像をみると、スクリュープロペラガードも取り付けられています。
では、搭乗員訓練はどんなことをしたのでしょうか?
事前訓練として、「千代田」「日進」を母艦とした訓練を行い、その後母潜との協同訓練となっています。ただし、実際には母船との共同訓練は無かった、と言う証言もあります。
訓練内容は以下のようなモノであります。
①通信
②発進並びに会合
③障碍物突破
④防禦網突破・防材乗越・海底匍匐
⑤海峡通過
⑥艦船に追尾する湾口進入
⑦襲撃教練
⑧母潜との協同襲撃
「海底匍匐」とは、防潜網が比較的緩いと考えられた海底に艇首を接触させ、そのまま前傾姿勢で前進、網の下を潜り抜ける操船方法だと思います。
事前訓練は相当に厳しく激しかったようで、訓練期間中に松尾中尉と面会した母親が「病気にかかったのでは?」と心配したほどの消耗が見られたそうです。
この改良と訓練の結果、攻撃隊指揮官は攻撃後の収容についても自信を持ったようです。
ついに戦果
第八潜水戦隊の出撃が迫った昭和17(1942)年4月15日、上部艦隊の第六艦隊司令長官の小松輝久中将は
「生命を無駄にしてはならぬ。生命を大事にすることは、命を惜しみ生きながらえんとすることではなく、最もよく生命を生かして使うことである。死を急いではならぬ」
と甲標的部隊員を諭しました。
更にこの日の午後、連合艦隊司令長官の山本五十六大将も
「戦局は真珠湾に対する第一次特潜攻撃当時とは、大いにそ
の趣を異にしている。各級指揮官は攻撃効果確実と信ずる場合に限り特潜を使用せよ。
また特潜艇員も、死を軽視して軽挙妄動してはならぬ」
と、訓辞。
前編から読んでくださっている方はお分かりと思いますが、コレは「甲標的」誕生当時からの大方針であります。
未だに「特殊潜航艇=必死の特攻」みたいな愚論を垂れ流す○○な人びと(コチラのブログなど)が存在するんですが、史実無視も甚だしい。
フェイスブックのさるグループにも、こういうオタンコナスは存在しておりますぞ。
こういうヤカラには「論拠を示せ」と言うてやるのが一番であります。
作戦は大英帝国の生命線たるインド洋とオーストラリアの連絡を阻害する目的で、オーストラリアのシドニー港とマダガスカル島のディエゴ・スアレス港を同時に攻撃しようというモノ。
今回の「第二次攻撃」からは、作戦が潜水艦部隊だけの実力で実行されることになります。
攻撃目標と時期の選定、それに伴う偵察など、作戦成功のために必要な活動が、すべて潜水艦部隊だけで実施されたのです。
コレは帝国海軍が「水上偵察機搭載潜水艦」の整備に努力を重ねた事の一大成果と言えるでしょう。
第二次攻撃はオーストラリア方面とマダガスカル島に対して、平行して実施されました。
まず、オーストラリア方面の情況を見ていきましょう。
乙、丙先遣支隊が合同した「東方先遣支隊」は、スパ、オークランド、シドニー各港の飛行偵察を実施。
有力艦の在泊を確認したシドニーに攻撃を集中することを決定します。
昭和17年5月29日、甲標的搭載の潜水艦3隻はシドニー沖に忍び寄りました。
甲標的の搭乗員は次の3組であります。
母艦 | 艇長 | 艇付 |
イ-22 | 松尾敬宇 大尉 | 都竹正雄 二曹 |
イ-24 | 伴 勝久 中尉 | 蘆邊 守 一曹 |
イ-27 | 中馬兼四 大尉 | 大森 猛 一曹 |
この夜、イ-21の塔載機がシドニー港内の偵察を実施したところ、戦艦と巡洋艦を確認し、31日に「甲標的」で攻撃することが決定されました。
流石です、大英帝国海軍
3隻の潜水艦は、シドニー湾口7浬(12964メートル/約13キロですな)の地点から、16時20分から40分の間にそれぞれ搭載の甲標的を放ちました。
中馬艇は港の入り口で防潜網に絡まってしまい、行動の自由を失ったため自爆。
松尾艇と伴艇は折から帰ってきた漁船に追尾して、港内侵入に成功。
伴艇は停泊中のアメリカ巡洋艦シカゴを発見、見事に射点について雷撃を敢行。
魚雷はシカゴの艦底を通過して岸壁に達し、そこに係留中の「宿泊艦」クッタバルを撃沈、乗艦していた兵員のウチ19名が戦死。
隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦も爆発の衝撃で損傷しています。
アメリカ重巡「シカゴ」も反撃し、伴艇は撃沈されてしまいました。
伴艇に続いて潜入した松尾艇は、すでに港内が厳戒態勢になっていたためか、魚雷発射の機会を得ることも無く発見され、掃海艇の爆雷攻撃を受けて撃沈されてしまいます(自爆説もあり)。
参加3艇中、魚雷を撃てたのは1艇だけなんですから、「攻撃は失敗」と言ってしまえば失敗です。
しかし、先の真珠湾で何の戦果も挙げられなかった(誤認の戦艦1隻撃沈はありましたが)「甲標的」が、初めての戦果を勝ち取ったのであります。
甲標的を発進させた母潜水艦は、6月3日まで「子供たち」の帰投を待っていましたが、ついに見切りをつけて帰還。
その翌日からはシドニー港内で、自爆(撃沈)した甲標的の引き上げが開始されました。
敵国海軍の秘密兵器の性能等の調査が行われ、それも落ち着いた6月9日。
シドニー要港司令官であったジェラード・ミュアヘッド・グールド海軍少将は、装甲も無い小さな潜水艇の行動に感銘を受けたのか?
収容された2艇の四英霊(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)に対し、海軍葬の栄誉を持って報いたのであります。
オーストラリア国内では、自国が直接に攻撃されたことから、相当に強い反対がありました。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。
我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一でも払う覚悟をしているだろうか」
「戦死した日本軍の勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中していることは承知している。
けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。
なぜなら、もし我が国の兵士が彼らのように勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさせたいためである。」
(wikiからの引用ですが、一部翻訳を手直ししています)
しかし誇り高きロイヤル・ネイビーの提督であるグールド少将は意に介さず、上記のメッセージを発して海軍葬を実行。
四英霊の亡骸は「第一次日英捕虜交換船」で帰国。
残念ながら、中馬兼四大尉と大森猛一曹の両英霊は、その亡骸は行方不明のまま、靖国にお鎮まりであります。
さて、続きまして。
枢軸側であった筈なのに
インド洋に浮かぶ島「マダガスカル島」。島といっても、その面積は我が国の1.6倍にもなる巨大な島です。
ココはアフリカ大陸と離れていたため?に欧州諸国の「植民地化」を長く免れていました。
現地の人たちによる「メリナ朝」という王朝が、全土をほぼ統一、近代化も進み始めていた1830年代になって、フランスが武力進出し、植民地化。
第二次大戦で宗主国がドイツに降伏すると、マダガスカル植民政府はヴィシー政権側に付くことを選択。
インド洋での制海権喪失を危惧した大英帝国が、最大の都市で、良港でもあるディエゴ・スアレスから上陸して支配地を拡大しつつありました。
甲標的によるディエゴ・スアレス攻撃はこのような状況で行われたものです。
ディエゴ・スアレス攻撃を担当したのは、第八潜水戦隊の甲先遣支隊でした。
甲先遣支隊は昭和17年5月30日、イ-10潜水艦の塔載機を飛ばして港内の夜間偵察を実施し、戦艦1・巡洋艦1その他の在泊を確認。
31日に甲標的による攻撃を決行すると決定いたします。
甲標的搭乗員は、次のとおりです。
母艦名 | 艇 長 | 艇 付 |
伊 20 | 秋枝三郎 大尉 | 竹本正巳 一曹 |
伊 18 | 大田政治 中尉 | 坪倉大盛喜 一曹 |
伊 16 | 岩瀬勝輔 少尉 | 高田高三 二曹 |
この3潜水艦のうち、イ-18潜は進出の途上で機関が故障し、攻撃に参加していません。
そのため秋枝艇と岩瀬艇の2艇だけが発進、港内侵入に成功します。
攻撃の詳細は不明(作家豊田穣氏の調査では、秋枝艇による雷撃)ですが、英戦艦「ラミリーズ」に魚雷1本、油槽船「ブリティッシュ・ロイヤリティ」にも1本の魚雷が命中して、「ブリティッシュ・ロイヤリティ」は沈没。
さすがに「ラミリーズ」は戦艦の防御力を発揮して、沈没には至らなかったモノの、戦列復帰には1年もかかる重症でありました。
ディエゴ・スアレス港はこの攻撃で大混乱に陥り、イギリス海軍は翌日の夕方まで「小型潜水艦発見!」を報告しては爆雷攻撃を繰り返しています。
秋枝艇は攻撃後、この混乱に乗じてディエゴ・スアレス港からの脱出にも成功。
マダガスカル島北西に指定された母潜との会合点に向かいましたが、途中東岸で座礁してしまいました。
6月1日、マダガスカル島北部で陸路移動している日本兵2名が英軍の捜索隊に発見されました。
捜索隊は降伏を勧告したのですが、二名はコレを拒否。
15名の捜索隊を相手に、手持ちの武器は軍刀と拳銃だけだったにもかかわらず、逃走を図り勇敢に抵抗、ついに両名共に戦死。英軍捜索隊も戦死1、負傷4の損害が出ています。
2人は出撃前に受けた小松輝久中将、山本五十六大将の「訓示」を忠実に守り、生還を目指して、母潜との会合点に徒歩で向かっていたのです。
岩瀬艇の運命は残念ながら不明であります。
シドニー攻撃と合わせ、甲標的による「第二次攻撃」では、ついに実際の戦果を得ることが出来ました。
コレは、拙速に過ぎた真珠湾攻撃とは違って、事前準備を周到に行った結果だと評価出来ましょう。
真珠湾では港内侵入の成功率は20パーセントに過ぎなかったのに、第二次攻撃では60パーセント以上。
潜航艇の性能改善のうち、ジャイロコンパスの改善・操縦性の向上以上に、「交通塔の新設」が効果を上げたのでは?と電脳大本営では考えます。
交通塔を設けたおかげで、潜航中であっても母潜から随時艇内に入れるようになりました。
艇の整備をいつでも行えるようになったほか、発進前の艇内での待機時間も短縮できます。
コレは、搭乗員の疲労軽減に大きな効果をもたらした筈です。
搭乗員の練度も、防潜網突破・艦船追尾・狭水道通過など、港湾侵入に即した訓練を繰り返し実施して、大いに向上していたことでしょう。
周到な準備こそ、侵入成功の要因だったのです。
しかし、第二次攻撃でも「生還者」は得られませんでした。
甲標的の進化はまだまだ続くのであります。