マラリア、日本を救う
マラリアという病気をご存じでしょうか。電脳大本営を読んでくださるほどの方なら、多くの皇軍兵士がこの病に犯され、怨敵を倒す前に散ったことはご存じかと思います。
マラリアは古い病気で
マラリア(Malaria)の語源をご存じでしょうか?マラリアはイタリア語の「Mal-aria」、すなわち「悪い空気」がもとになった病名なんだそうです。
かつてマラリアは温熱帯によって生じる「瘴気」が原因であると考えられたので、イタリア人医師のフランチェスコ・トルチがこの名前を付けたと言われています。
マラリアの歴史が確認できるのは、イタリア人医師どころかもっともっと前で、紀元前8000年から1万年ころに遡ります。
トルコの古代都市の遺跡から、マラリアに罹患したと思われる人骨が発見されているのです。
紀元前1世紀の古代エジプトの美人女王・クレオパトラもマラリアに悩まされていたようで、これを描いたレリーフが発掘されていて、「マラリア流行の最古の記録」といわれているそうです。
また、マラリアの歴史は、アジアでも見ることができます。古代支那の殷王朝が遺した青銅碑文には、マラリアを意味する「瘧」の文字が確認できます。紀元前1200年ころの古代インドの記録にも、マラリアと思われる症状が書き記されています。
人類の歴史の一部はマラリアとの戦いに費やされている、とも言えるのはないでしょうか。
まあ、そんな古い記録はどうでも宜しい。
ヨーロッパでは、17~18世紀にマラリアが大流行しました。その後、産業革命を経験し「囲い込み」や新しい農法が開発されたことで、マラリアやそのほかの感染症の発生件数は減少していきます。
社会環境の変化によって、ヨーロッパでは地中海沿岸地域を除いてマラリアは姿を消すことになります。地中海沿岸地域と言っても湿地帯に局限されていました。
しかし、ヨーロッパ人がマラリアの恐怖から解放されたワケではありませんでした。
ヨーロッパ人が大西洋を越え、アフリカの内陸にまで魔手を延ばし、太平洋にまで植民地を拡大していく間、マラリアはある意味でヨーロッパ人に抵抗するはかない手段となっていたのです。
西アフリカが「白人の墓場」と呼ばれていたのは、マラリア対策が不十分だったことに起因していると私は思っています(ちょっとだけ)。
出た!「イエズス会」
そんな折、南米に滞在する「イエズス会の宣教師」が朗報をもたらしたのでありました。すなわち「キニーネ」の発見、っちゅうかキニーネの原料たる「キナ樹皮」の発見。
「キナ樹皮」は南米インデイオの秘薬だったようです。しかし、現地で布教活動をするイエズス会の宣教師にうっかりと誰かが伝えてしまったのでしょう。「キナ樹皮」はマラリアの特効薬としてヨーロッパに伝えられました。16世紀末頃のことであります。
それから数世紀わたり(安全な植民地支配を目指して)ヨーロッパではキナ樹皮に関する様々な研究が行われました。そしてついに19世紀初めに有効成分「キニーネ」が抽出される事になるのです。
キニーネの出現は死の病であったマラリアからヨーロッパの人類が開放されることを意味していました。
一方でアメリカ大陸やアフリカ大陸や東南アジアの先住民にとっては、搾取の加速を意味しており、先住民達はマラリアとヨーロッパ人の二重の害悪に苦しむことになってしまったのです。
電脳大本営的には、マラリアの歴史はこんな所で十分なのですが、せっかく調べたのでもう少しだけ(笑)
キニーネが抽出されたのは19世紀、と申し上げましたが、この時でもまだマラリアは悪い空気からかかる病気だと信じられていました。
ところが、19世紀中頃に微生物学が急速に進歩します。
マラリアについてもラベランって言うフランスの軍医が、アルジェリア人(要は植民地人ですな)患者の赤血球内にマラリアの原虫を発見いたします。1880年の事でありました。
続いて1897年には英国人のロスがハマダラ蚊によってマラリア原虫が媒介されることを証明します。ラベランさんとロスさんはこの功績によって二人ともノーベル医学賞を受賞しています。
戦争マラリア
昭和37年、日本国内でマラリアは完全に撲滅されました。
我が国内でも八重山諸島の石垣島や西表島などでは、古くからマラリアが発生する地域がいくつかあったのです。どうも大航海時代にオランダ船が持ち込んだみたいです。
琉球王国の時代から石垣島や西表島に移住が行われるたびに全員が亡くなってしまう、ということが繰り返されていたそうです。明治時代には「八重山の風土病」として知られていたといいます。
大東亜戦争当時、まだまだ発生する地域はたくさんありました。大日本帝国の記録だと昭和19年に八重山郡島の各地でマラリアなどの風土病の調査を終えている、とあります。
大戦争中に何やってんだか?ですが、これが「日本」ですよ。住民の健康を守る活動は出来る限りの努力をしているんです。
マラリアの発生する地帯がどこか?は早くから把握できていたようで、その地域を慎重に避けることで、八重山におけるマラリアの戦前の罹患率は10%に満たないものになっていました。
ところが、であります。大東亜戦争の末期、八重山諸島の住民が軍の命令で「マラリア有病地帯」の石垣島市街地以北や西表島へ疎開させられたのであります。
この結果、疎開した人々がマラリアに集団罹患してしまったのです。当時の八重山の人口3万1671人の53.3%が発症し、11.5%に当たる3647人が亡くなったのでありました。
この事件が「戦争マラリア」であります。死者は主に10歳以下の幼児と61歳以上の高齢者が多く、石垣島駐屯の大日本帝国軍も抗マラリア薬の欠乏によって680人の将兵が戦病死しています。
パヨクはこれを「軍部はわざと疾病地帯に住民を追いやった」などと言いやがりますが、敵弾と病原菌の選択だったわけですから。
それ以前から、大日本帝国軍はアメリカ軍と並ぶ「マラリア」と言う大敵と激闘を繰り広げていたのです。そこには疎開する、と言う選択肢はもちろんありませんでした。
映画「シン・レッド・ライン」(1998年)には、ガダルカナル島での日米の戦闘が描かれていました。
米軍が日本軍の拠点に総攻撃をかけると、そこで見たモノは熱で震える日本兵の姿。日本兵の多くは、戦闘する以前にマラリアで消耗していたのですね。
あくまでも映画ですんで、実際の戦闘の様相とは異なりましょうが、ガ島だけでなく南方のアチラでもコチラでも、戦闘もせずにマラリアで倒れる兵隊さんが多かったことは完全に事実です。
「シン・レッド・ライン」は同時に公開された戦争映画「プライベート・ライアン」が好評だったためか影が薄いんですが、アマゾン・プライムとかでタダで見られたら、観ておいて損はないと思います。
映画の話は終わります。一説によりますと、マラリアでの死者はガダルカナルで1万5000人・インパール作戦で4万人・沖縄戦では前述のように八重山諸島の住民が3600人・ルソン島では5万人以上がマラリアによって亡くなってしまいました。
大日本帝国はほとんど対策らしい対策を取って無かった、と言われますが、そんな事はありません。
後で書きますが、ちゃんとキニーネを配ったりしてるんです。ただ「補給軽視」でマラリアの特効薬どころか食糧すら不足してしまい、栄養失調になりながらマラリアにかかる兵隊さんが多かったために、一度罹ると殆ど助かる見込みはなかったのです。
アメリカ軍の方は厳重なマラリア対策を行っていたのですが、それでも患者は多かったようです。
台湾でキナ樹皮生産
「キナの木」は南アメリカ、特にペルーの熱帯山岳地帯に生えている常緑高木だそうです。花は淡緑色の鐘状のもの。
この樹皮を天日乾燥したものが生薬「キナ皮」で、「キナ皮」の主成分キニーネはマラリア原虫を死滅させることから、マラリアの特効薬としてかつては重要視されていたのです。
1930年代にはジャワ島の高地で栽培が成功、世界の「キナ皮」の90%が生産されていたそうです。
ですから、大日本帝国が南洋に委任統治領を得た時、あるいは海軍が「南進」を企図したときにマラリア対策をどうするつもりだったのか?という事は私の長年の疑問だったんですね。
キナの木を栽培した、って言う記録なんかどこにもないし結局輸入モノに頼ってたのか、輸入が途絶したらどうするつもりだったんだろう?
もっと言うと、蘭印作戦の隠された目的に「キナの木」確保があるのかなあ?なんてちょっとだけ思ってみたり。
もっとも、この頃はキニーネの完全合成も視野に入ってくる時期でもありましたけどね。
ところが、こういう疑問って意外なところで解決の糸口が見つかるモノでありまして。
私の大嫌いな左寄り新聞「京都新聞」の「反戦を騙った反日記事」の一部なんであります。
要は京都の留守師団の第五三師団(ビルマへ派遣されて「安兵団」)がロクに補給も無く苦労して~って話題を書いてるんですが。流石に京都の新聞社だけあって(それも左巻きだけに)、京大農学部の地下倉庫などに残る資料を調査しているんですね。そこで学生の実習ノートを見つけ、「台湾演習林」があった事を「発見」する。
京都新聞は演習林の施行年報などの記録から、1943年の1年間で約20トンのキナ樹皮が製薬会社に売却予定とされている事をみつけだしたのです。「年間百五十トンに達した」という記述もあったそうです。
1936年度でキナ樹皮の輸入量は450トンですから、150トンとしても南方に動員された大兵力をマラリアから守りきれたとは思えませんが、やるべきことはやってたんだなあ、と私は安心するんであります。
この「安兵団」の軍医さんの証言だと、所属の連隊(たぶん歩兵第128連隊)約3700人のうち生還者は729人、死者の「半分の兵は飢えとマラリアで死んだ」。
上陸当初、連隊はキニーネを一人に30錠支給したそうです。マラリア予防には一日一錠だそうで、1ヶ月分を渡しておいたワケですね。しかし、補充がすぐに途絶えてしまいます。
海上輸送さえちゃんとできていれば、ビルマ戦線に限らずキニーネはちゃんと一線の兵隊さんに渡っていたと思われるところです。
厚木航空隊
昭和20年8月15日の正午、海軍厚木基地。ここでもラヂオから天皇陛下の玉音で詔勅が流れました。
熱血漢の小園安名司令は隊員に総員集合を命じて訓辞を行ったのであります。
『降伏の勅命は、真の勅命にあらず。軍統帥部は敵の軍門に降り、日本政府はポツダム宣言を受諾した。ゆらい皇軍には必勝の信念こそありて降伏の文字なし。
敵に屈した降伏軍など皇軍とみなすことはできぬ。すなわち日本の軍隊は解体したものと認める。
ここに我々は部隊の独立を宣言し徹底抗戦の火蓋を切る。今後は各自の自由な意志によって、国土を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。
ゆえに諸君がこの小園と行動を共にするもしないも諸君の自由である。小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。自分は必勝を信じて最後まで戦う。』
誰一人として、その場を去る隊員はいなかった、という事になっています。
ちゃんとマラリアの話ですからね(笑)翌8月16日には小園司令率いる「独立厚木航空軍」は海軍の各部隊宛に緊急電として「独立宣言」を発信します。さらに一般国民に向けて「檄文」をバラ撒くんであります。
『国民諸子に告ぐ。』
『神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな。いまや敵撃滅の好機、われら厚木航空隊は健在なり。必勝国体を護持せん。勤皇護国。』
『皇軍なくして皇国の護持なし。国民諸君、皇軍厳として此処にあり。重臣の世迷言に迷わざることなく吾等と共に戦へ。之真の忠なり。之必勝なり』・・・云々
このビラは、零戦・月光・彩雲・銀河など、によって全国各地に撒布されたのであります。同日、海軍大臣の米内光政から翻意をうながされるのですが、小園司令はもちろん拒否。
米内海相は三航艦司令長官の寺岡謹平中将に説得を命じますが、しかし30分にわたる会見にも小園司令は納得せず。
って言うか、叛乱だぞ叛乱!
叩き潰してから裁判で(生きてれば、ですが)翻意なり納得なりさせるのがスジだろうがよ。さすが電脳大本営的「海軍三馬鹿大将」の筆頭だけのことはあるな、米内め。
この「叛乱」は規模と言い、タイミングと言い、宮城事件(玉音放送を録音したレコードを奪うとかの例のヤツ)以上の衝撃を大日本帝国政府にもたらしたハズなのですが、なぜかあまり語られません。
降伏を決めた日本にとって、守るべき最後の一線の「国体護持」が危険に陥る危機であり、なにより発生した日付と場所が最悪、そして反乱規模が大き過ぎたのです。
「厚木航空隊」は敗戦当時、小園安名司令の下に総員5500名、稼働機数170機余、予備機300機を数え2年分の食料・弾薬を備蓄していたといわれます。実質的に東日本最大・最強の実戦部隊だったかも知れません。
それでも語られないのは、その解決が神風(特攻じゃないぞ)と疾病と言う全くの自然現象に頼ってしまったからでしょうか?
えっ、厚木に来るってか!
小園安名の「叛乱」について、「コチラ側」の方たちは概ね好意的に見ておられるようです。たとえば「ねずさん」とか、大絶賛です。
この方たち、先帝陛下がご自身の玉体を投げうってまで戦争を止めるとご決断なされた事をなんと心得てるんでしょうか。
そもそも、小園の叛乱に「勝ち」の見込みも方策も有りはしません。勝つ見込みのない戦争を続けるなんぞ、「戦争のプロ」のすることではありません。
私は、不敬きわまる事は百も承知で申し上げますが、先帝陛下(昭和天皇)が「大好き」でありますから、先帝陛下のご意思に反する輩には,公平な見方が出来ない傾向があることは自覚しております。
そんな事より、この「叛乱」の顛末でありますね、申し訳ありませぬ。
厚木基地で叛乱が起こっていても、我が国の降伏は実務レベルで進んでまいります。悔しいことではありますが、聖上が国民を救うためにご決断召されたことは、臣下は実行に移すのみ。
そこまで考えぬでも、勝ち目の無い戦争を国民の犠牲で続けてはならぬのであります。
降伏した以上、敵の進駐をどこかに受け入れねばなりません。この交渉のために、連合軍と調整の上で軍使が派遣されることになりました。
参謀次長の川辺虎四郎中将を団長に、連合軍指定の白塗りの機体に「緑十字」を描いた一式陸攻2機に分乗した軍使は早くも8月16日、マニラに向けて出発したのであります。
もちろん、厚木航空隊の戦闘機に攻撃される危険を考え、迂回コースを飛行したことは言うまでもありません。
マニラに到着した川辺虎四郎中将は、米軍からの通達にのけぞってビックリすることになってしまいます。
「8月26日(イ)先遣部隊、空路厚木飛行場到着(ロ)合衆國海軍部隊、相模湾到着(ハ)海軍部隊、東京湾内ニ進入」
『相模湾やら東京湾やら、ペリー艦隊じゃあるまいし、好きにさらせ!しかし、よりによって厚木かよ!』って、ぜったい思ったでしょうね。
「そう言われましてもね、厚木で叛乱起こってましてね」とか言えるわけないし。ココまで、8月17日であります。
時間はかかる、余裕は無い
あと10日あるじゃん、とかお考えでしょうか?僅か10日で「叛乱」を終息させ、厚木基地の臨戦態勢を解除し、「叛乱将校」たちをどこかに移送しなけりゃなりません。
滑走路だって、受け入れのために整備しとかなきゃなりません。
「敗戦国」である日本が「国体護持」、すなわち天皇陛下のお命と権威を守り、そのことによって日本人が依って立つ精神の支柱を堅持するための唯一の選択肢。それは「玉音放送」一つで当時700万人いたと言われる大日本帝国軍が一斉に武器を置き、無血で進駐軍を受け入れる事だったでしょう。
天皇陛下のご存在こそが混乱なく進駐を進める、それに続く占領行政を円滑に行う唯一の方法である事を、連合軍の各階層に知らしめる事であったでしょう。
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逆に言えば、畏れ多くも天皇陛下を「処罰」などした場合は、予想を超えた反発が起き得る、と平和的な手段で連合国に伝えるのです。
その為には無血進駐が必須条件であった事はお判りいただけるでしょう。
あっ、そうそう。川辺中将以下の軍使達は慌てて帰国の途につきます。一刻も早く「厚木進駐」を日本政府に伝え、叛乱鎮圧を急いでもらわなければなりませぬから。
2機の一式陸攻のうち一機が不時着しちゃったりしてるんですが、まあココは急いで帰って来たって事だけで宜しいでしょう。
鎮圧
厚木航空隊では、小園司令に心酔して叛乱行動を支持する将校・兵も多くいました。一方で小園司令はワンマンの気味の強い人で、説得の使者(この頃は高松宮大佐まで動員されていました)への対応、日々の檄文散布などに陣頭指揮にあたり、不眠不休の活躍ぶりであったそうです。
その無理が祟ったのでしょうか?小園司令はマラリアを発症してしまうのであります。高熱を発した小園は意識が朦朧とし、それでも暴れていたようですが、ついに拘束され強制連行の上で海軍野比病院に監禁されてしまうのです。
頭の小園大佐を失った厚木航空隊では、菅原中佐と吉野少佐の二名が高松宮殿下から直々に「陛下の御心」を伝えられて抗戦態勢の終結を決意。厚木航空隊の士官たちを説得し始めます。
厚木基地では、それでも納得出来ない士官・下士官・兵たちが降伏拒否の旗色を一層鮮明にしていました。彼らは零戦・彗星・彩雲など32機を盗みだし、厚木から脱出。
零戦18機は陸軍狭山飛行場、彗星など13機は陸軍児玉飛行場へ降り立ったのですが、叛乱は広がらず、翌日には厚木に連れ戻されてしまいました。
これが8月20日から21日にかけて。こうして「厚木航空隊の叛乱」は終息します。大日本帝国の兵隊さんを苦しめ続けたマラリアが、最後の最後に来てやっと日本のために役立ちました。
この「マラリア発症」には異説もあります。この点は後ほど。
神風も吹いた
叛乱は終息したものの、厚木へ連合軍を迎え入れるための時間は5日を切っていました。
ココで、大本営と連合軍司令部の電報のやり取りをお読みいただきましょう。
八月二十三日大本営発連合国最高司令官宛電報
厚木飛行場は二十二日夕刻より降雨により現在のところ滑走路に対する双発爆撃機又は双発輸送機の着陸可能なるも滑走路以外の飛行場内は車輪めり込み地上滑走困難なり為念」八月二十四日日本政府発連合国最高司令官宛電報
「日本政府は八月二十二日夕刻より二十三日朝における七百四十粍の強烈な台風のため関東地方における通信輸送機関に相当の障害あり。貴司令部の要求になる先遣隊の進駐準備は我々の最善の努力にも拘らず若干の困難に遭遇しつつあることを報告する必要を感じおれり」
八月二十五日至急連合国最高司令官発大本営宛電報
「1945年8月20日「マニラ」において日本国代表に対し提示せられたる『連合国最高司令官要求』文書八月二十六日及それ以後に定められ足る全日程は四十八時間延期せらるべし、繰り返す四十八時間延期せらるべし、回答を待つ」大本営発連合国最高司令官宛電報
「天候のため1945年8月20日「マニラ」において日本国代表に交せられたる『連合国最高司令官要求』中において八月二十六日及その後に定められたる全日程を四十八時間延期せらるべしとの八月二十五日至急電了承す
つまり、たまたま大日本帝国本土を直撃した台風の影響で滑走路がダメージを受け、準備も出来ぬ、と言う日本政府・大本営の言い分を認めて、連合国は進駐を48時間遅らせてくれたのであります。
なんと見事なタイミングではありませんか。21日にどうにかこうにか叛乱を取り治めて
「時間ないじゃん!連合軍が来るんだよ、叛乱のあったような痕跡隠して、叛乱に加担した兵隊や将校どもも隠して(まさか殺して埋めるわけにもいかねえし)、滑走路整備して…」
などと言ってるときに、48時間は有難かったに違いありません。
戦争中に、英霊方がその身を投げうってさえ、思うように起こらなかった「神風」が、この時ばかりは見事なタイミングで吹き荒れたのでありました。
陰謀説
あまりの「都合の良さ」に、これって、変じゃね?と疑う人が出てまいります。流石に、「旧海軍が極秘に開発していた台風発生器で」とか言う説は無いようですが(笑)
小園のマラリアがマラリアじゃねえ、と言うんですね。小園司令の息子さんも、「あれはマラリアではなく、小園の居室に『桜花』のロケット燃料が撒かれて発症したのだ」みたいな事を仰っています。
仮にこの説が本当だとして、ロケット燃料を吸い込むと高熱を発して錯乱状態になる、と言う知見は私は見たことがありませんけどね。
ただ、タイミングだけは非常に怪しい事は確かです。
厚木への先遣隊進駐の第一報は、実は不時着していた一式陸攻に搭乗していた士官(たぶん須藤大尉)が海軍省へ掛けた電話による第一報とされています。
この電話とほぼ時を同じくして小園司令が拘束されているのです。
でもね、だからどうって言うのよ、と言うのが電脳大本営的反応ですね。
儂、この記事の初めの方で言ってるように、本来8月16日か17日には「武力鎮圧」をするべき事案なのよ。連合軍にバレんように、陸戦隊でもみつぶせば良いだけの話。兵力集まらぬなら、陸軍に助けて貰えば良いのですよ。
真相は「陸軍の力は借りたくねえ」程度のところでしょう。それでグズグズ20日まで解決を先延ばした。時間が無くなって、毒ガス使った(たぶんやってないでしょう)からって、それがどうしたのよ。
まあ、世の中の陰謀史観ってだいたいこの程度の話を一生懸命膨らませているモンですけどね。
マラリアの話が、エライ所へ来てしまった(笑)いつもながら、申し訳ありませんでした。