紫電と紫電改3

紫電改

いよいよ、紫電と紫電改は国防の、防空の最前線へと飛び立ちます。「元祖曲芸飛行師」源田実と三四三空の活躍は有名ですが、その他にも「紫電改」を駆って我が大空を護った勇士はおられるんですよ。
航空自衛隊でも我が国土を護った英霊が。

本土防空

「強風」から「紫電」が生れ、「紫電改」に発展。フロートが無くなり、エンジンが変わったらそれは「別の機」ですけどね、普通は。
さらに主翼の取り付け位置が変わり、胴体のカタチも違っている飛行機は「完全に別設計」で間違いありません(笑)

紫電と紫電改比較イラスト

別の戦闘機です!

 

昭和19年も押し詰まって、大日本帝国の「絶対国防圏」はあっけなく破綻していました。
開戦の時から海軍の航空作戦を指導していた源田実大佐は「戦闘機が負けているから制空権が取れない、だから戦争に負けている」と考えて、この年の12月25日に「第三四三海軍航空隊」を編成しました。

昭和20年1月5日には、自らこの三四三空の司令に就任します。

三四三航空隊戦闘407隊長林喜重

三四三航空隊戦闘407隊長林喜重

装備する機はもちろん「紫電」と「紫電改」、搭乗員はよく言われるほど「エースばかり集めた」わけではないようですが、隷下の3個戦闘機隊(戦闘301=菅野直大尉・戦闘407=林喜重大尉・戦闘701=鴛淵孝大尉/各隊定数48機)の隊長にはベテランエースを配し、若年パイロットの促成に努めました。

三四三航空隊戦闘301隊長菅野直

三四三航空隊戦闘301隊長菅野直

それまでの単機戦闘を排し、最低でも2機による編隊空戦を徹底、偵察隊(彩雲)も充実し機載の無線電話も独自に改善、源田の人脈を活かして見張り所や上級司令部をつないだ情報網を形成して立体的な防空システムを組織したのでありました。

死闘・松山上空

練成を重ねた三四三空は自前の偵察機を駆使して参戦の機会を窺いましたが、なかなかその機会を得られませんでした。
これは源田の方針で、自隊有利な態勢を待ち続けたためでもありました。松山に基地を選んだのも、来襲する米軍機との間合いが取りやすいからだ、とする人もおられます。

三四三航空隊戦闘701隊長鴛渕孝

三四三航空隊戦闘701隊長鴛渕孝

昭和20年3月19日、米機動部隊の艦載機が来襲しました。「九州沖航空戦」の勃発であります。
源田司令は「古来これで十分という状態で挑めた戦の例などない。」(これは歴史的に間違い、ビスマルクの例などを見よ、源田!)としてついに迎撃を決意。「目標は敵戦闘機、爆撃機には構うな」と訓示します。
この指示は鬱屈していた搭乗員たちの士気高揚のため、ともされますが、私が源田を「ただの戦技オタク」と評価する根拠でもあります。

源田サーカス

源田サーカス(使用機は10式艦戦)

 

いくら20ミリ砲を積んでいようが、戦闘機など何機侵入して来ても国家の継戦能力に大した傷はつきません。敵が戦闘機を送ってくるのは、あくまでも爆撃機に無事仕事をさせるため。
この爆撃機を叩くために、防空隊は敵戦闘機を排除するべく戦うんでしょ?真の目的には構うな、とは戦争を知らないと言われても仕方ありません。

ハリケーン

ハリケーン
旧式なのに、「バトルオブブリテン」ではスピットより沢山ドイツ機を墜としてます。それは、スピットが敵戦闘機を爆撃機から離す役目を果たしたから。

ともあれ、ついに三四三空は米軍機迎撃に参戦。世に有名な「松山上空戦」が初陣となったのでありました。

手筈どおり、偵察機「彩雲」によって事前に敵情が報告され、「紫電」7機、「紫電改」56機が松山上空に待機します。

離陸寸前の彩雲

離陸寸前の「彩雲」

 

なお、殊勲の「彩雲」は高田少尉が機長、操縦員遠藤上飛曹、電信員影浦上飛曹の3名が搭乗したことが判っています。例によってエンジン不調となり、速度が上がらず捕捉され被弾高知県津野町上空で米軍機に体当たりを試み、ナンと2機を道連れに散華。

敵はF6Fヘルキャット・F4Uコルセア・SB2Cヘルダイバーの艦上機ばかり160機の大編隊でした。この大軍が呉方面へ進撃するのを遮った三四三空は米軍機58機撃墜を報告、日本海軍航空隊最後の大戦果となります。

F6Fヘルキャット

F6F「ヘルキャット」

我が方の損害、未帰還16機・損傷多数。実際にはアメリカ軍の損害報告は我が損害と同程度で誤認も多かった、とされる事もあるのですが。
次のようなアメリカ軍戦闘機隊長の発言も残っており、三四三空が大暴れしたことに間違いはありません。

「今まで経験したことのない恐るべき反撃を受けた。この大空中戦に参加した当飛行隊員の中でも戦闘経験の深いパイロットは、『ここで遭遇した日本軍パイロットは、東京方面で出遭ったものより遥かに優れている』と言っている。」

F4Uコルセアかなり激しい着艦

F4U「コルセア」
かなり激しい着艦ですが、丈夫な機体でした

 

「彼らの操縦は巧みで甚だしく攻撃的であり、良好な組織性と規律と空中戦技を示した。彼らの空戦技法はアメリカ海軍と同じだった。この部隊は、戦闘飛行の訓練と経験をよく積んでいる。」(VBF-17飛行隊戦闘機隊長の戦闘報告)

三四三空も特攻?

こうして華々しいデビューを飾った三四三空でしたが、アメリカ軍の攻撃を止めることは出来ませんでした。ついに沖縄まで攻め寄せる米軍に対し、三四三空も九州へ進出して出撃する特攻隊の護衛を担当するようになります。

この頃になると、三四三空の損害も大きくなりました。損害の補充が追い付かなくなり、搭乗員が後方へ下がって出来たばかりの「紫電改」を受領してくるようになると、その途上での事故も発生してしまいます。

雲上の紫電改

雲を行く「紫電改」

叩き上げの戦闘機乗りとして戦闘301の搭乗員を務め、後進の育成に力を発揮していた指宿成信少尉もその一人で、起田厚・桜井栄一郎の両上飛曹を率いて練習機「白菊」で「紫電改」の受領にでかけ、事故にあってしまいます。不時着したまでは判っていますが、負傷して以後消息不明。

じつは、指宿少尉の実兄も海軍航空隊の搭乗員で、この方の戦歴を書きたいんですが、もう少し三四三空のエピソードを紹介しておきましょう。

洋上を進撃する白菊

洋上を進撃する「白菊」

 

昭和20年の6月。この時三四三空は第五航空艦隊の指揮下にあったのですが、司令部から三四三空に「特攻を出すように」との指示がありました。この時三四三空は大村に所在していて、五航艦司令部は鹿屋にありました。

源田司令が鹿屋に呼び出され、指示を持って帰って来たようです。源田はこれを断らずに持ち帰ったワケです。そして飛行長の志賀淑雄少佐に「相談」するのでした。

「飛行長、特攻だせと言ってきたよ。」「だれがそんなことを言いました?」

このやり取りのあと、源田は口を濁したそうです。
「特攻」を拒否した航空隊司令は戦闘303の岡島清熊や芙蓉部隊の美濃部正のように実在していまして、源田ほどの立場であればその場で断って帰ってくることも容易だったはずです。

志賀淑雄少佐

志賀淑雄少佐

 

しかし源田は「特攻を出せ」の話を自隊に持ち帰って、志賀淑雄飛行長に丸投げしたのです。

「行きましょう。私が一番先に行きます。兵学校出の士官は全て出しましょう。ただし予備士官は出してはいけません。源田司令、あなたは最後に特攻に出てください!」

源田は黙って聞いていたそうです。そして、二度と特攻を要求されることは無かった…
志賀飛行長は「紫電と紫電改2」で紹介しましたように、「紫電改」のテストパイロットを務め、「紫電改」の優秀性を世に広めた人です。自分の部下の技量にも、紫電改の性能にも自信があったのでしょう。

この話は、戦後に源田が航空自衛隊の幹部として活躍している時期に残されたモノです。志賀少佐が源田に遠慮した点が多分にあると思います。遠慮してこの通りの源田の卑怯っぷり。

源田の評価

電脳大本営の見るところ、源田は特攻に深く関わっています

本当に特攻隊員を出さないつもりであれば、飛行長に相談するでしょうか?自分で断れば良いのです。
源田は自分が特攻に関わっていた以上、断ることが出来無かったのでしょう。志賀に相談すれば、特攻を出してくれると期待していたとしか考えようが無いのです、私には。

三四三空の搭乗員や地上要員の人たちに、文句があるわけではないのですよ。また、源田の識見や情熱が無ければアメリカ軍が恐れるほどの精強部隊が出来上がらなかったことも事実でしょう。

戦後になっても、我が国の防空に果たした役割が大きいことは認めてあげなければならぬ、と考えます。それでも私は源田が好きになれません。

ルメイ叙勲の新聞記事

ルメイ叙勲の新聞記事

政治上の要請があったのかも知れませんが、戦時中のカウンター・パートに勲章をくれてやることは無いじゃありませんか。
私は
「自国の兵士の損害を軽減するためなら、敵国の民間人がいくら死のうが知った事か」
と考えています。それを防げない防衛側が悪いんじゃ!とも思っていますが、日本人ですからね。
我が国民を虐殺することを発案して命令を下したルメイに勲章をくれてやるなんて、防衛に失敗した男が為すべきことではありません。

それでも、続くエピソードでは源田を褒めてやらねばなりませぬ。戦訓というモノは、私情を排して汲まねばなりませんから。

源田、空中特攻を決意?する

昭和20年8月6日の朝、愛媛県の松山基地から飛び立った飛行機がありました(機種不明)。三四三空の本田上飛曹が操縦し、7時45分頃には広島城の上空に達していました。
突然、飛行機の舵が取られ、500メートルほども高度が落ちました。慌てた本田上飛曹が機の姿勢を回復させて廻りを見渡すと、今まで一度も見た事の無い巨大な入道雲が立ち上がっていたのです。

陸軍船舶司令部練習本部(宇品)から撮影した被爆直後の広島市街

陸軍船舶司令部練習本部(宇品)から撮影した被爆直後の広島市街

 

入道雲の中側は赤黒くて広島の街は一瞬で全てがかき消えてしまったようでした。本田上飛曹はすぐに松山に引き返し、これを報告したのですが、司令以下三四三空の幹部士官たちは一言も発することは無かったと言います。

8月9日には部隊は大村航空基地で待機中で、大爆発音だけを聞いたそうです。これには、三四三空の搭乗員がそろって近くの山にハイキングに行っていて、せっかく捕捉した「ボックス・カー(長崎原爆搭載機の愛称)」迎撃に出られなかった、という説まで流布されてますけどね。

やがて基地司令から、被害者を病院へ搬送する手伝いをするように要請が出ました。三四三空では整備兵を中心に救援隊を編成して長崎市内に派遣したのですが、市内の惨状に息をのむばかりでした。

海軍はこの広島・長崎の惨状を見て、今後B29が単機で侵入した場合は「体当たりを持って即時撃墜せよ」とすべての戦闘機隊に命令を下しました(渡辺洋二著「日本本土防空戦」)。

B29イラスト

B29イラスト

 

三四三空司令の源田実大佐も事態の重要性を認識し「三四三空も組織的な防衛機能は乏しくなった」として、
「新型爆弾に対する情報が入ったら、俺が体当たり(特攻)をしてでも阻止してみせる。その時は本田分隊士、二番機をつとめてくれ」
と言ったそうです。本田分隊士とは広島原爆を報告した本田上飛曹です。
二番機は司令機の援護役ではなく、司令機の特攻でも落ちない場合の二の矢だったそうで、源田も流石に本気で特攻する気だったみたいですね。

しかし、その後はアメリカ軍は「原爆機」を飛ばさず、源田が迎撃に飛び立つこともなく大日本帝国は敗戦を迎えました。

三四三空は初陣から約5ヶ月の戦闘で敵機170機を撃墜、損害は戦闘機隊の戦死・未帰還併せて78名、偵察隊・地上部隊を含めると97名でありました。

いくら称賛しても、三四三空の技量と「紫電改」の優秀性は誉めきれませんが、もう一つだけ、こんな話。

二〇三空が特攻機のための進路啓開に当たっていた時の事。米軍の戦闘機がこの日も多く、二〇三空は苦労していました。
その時、上空の雲の中から黒いつぶてが降ってきました。三四三空が助けに入ったようです。F6Fを面白いように次々と海へ叩き込み、あっという間に70・80機を撃墜、胸のすくような見事な攻撃ぶりだったそうです。

岩本徹三

撃墜王・岩本徹三

 

70、80機は一桁多すぎるでしょうけれど、これを言っているのは岩本徹三さんですからね。三四三空の技量、恐るべし。

兄弟で紫電改を駆る

もちろん、「紫電改」で戦ったのは三四三空ばかりではありません。その代表として、紫電改受領中の事故で行方不明となった指宿成信少尉のお兄さんの話をさせていただきましょう。

私が知る限り兄弟で「紫電改」を操ってアメリカ機を墜としたのはこの兄弟だけです。

指宿正信大尉は現在の鹿児島県南さつま市加世田地区(旧加世田市)の出身で、海軍兵学校六十五期。海軍兵学校を主席で卒業した秀才、つまり「恩賜の短剣組」です。

真珠湾攻撃

指宿正信大尉は一貫して航空畑、戦闘機乗りとして歩み、大東亜戦争の開戦時には航空母艦「赤城」乗り組み。

真珠湾2次攻撃隊を発艦させる赤城

真珠湾2次攻撃隊を発艦させる「赤城」

昭和16年12月8日、指宿大尉は「赤城」の戦闘機隊(零戦)の分隊長として第一次攻撃隊に加わりました。 僚機の岩城芳雄一飛曹と羽生十一郎一飛曹を率いてヒッカム飛行場上空を制圧したのでありました。

インド洋へ

第一航空艦隊は緒戦の勝利の勢いをそのままに、インド洋まで進出、通商破壊戦を展開します。守るイギリス軍はハリケーンに加えて最新鋭のスピットファイアを投入、セイロン島のコロンボ上空で日英の代表機対決が実現しました。
このとき、指宿正信はスピットファイアばかりと交戦して4機を撃墜しています。

スピットファイア

スピットファイア

撃墜したうちの一機は不時着してパイロットは無事。これを上空から認めた指宿は風防を開け、手を振って去っていった、というエピソードも残っています。

ミッドウェー

昭和17年5月、帝国艦隊はミッドウェーの攻略を目指します。この作戦では指宿大尉は母艦「赤城」の上空直衛を担当。
指宿大尉は合計8回もの発艦・着艦を繰り返して母艦上空を死守するのですが、途中で乗機が被弾。
修理する間も無く上空に戻り、雷撃機のTBD-1「デヴァステイター」を1機、急降下爆撃機SBD「ドーントレス」1機、双発の陸上爆撃機B-26「マローダー」2機を共同撃墜しています。

SBDドーントレス

SBDドーントレス

 

しかし米軍の執拗な攻撃は防ぎきれず、赤城は沈没してしまいます。指宿大尉は空戦では敗れることはありませんでしたが、母艦を失ったために海上に不時着せざるを得ません。
数時間も海水浴をさせられた後で救助はされたのですが、真珠湾以来の部下である羽生一飛曹は行方不明のままとなってしまいました。

南太平洋海戦

昭和18年8月、指宿は空母「翔鶴」乗り組みとなり新郷英城大尉指揮のもとで南太平洋海戦に出動します。
この戦いでは空の要塞、B-17「フライングフォートレス」が偵察、空爆で帝国艦隊のお邪魔虫となりました。指宿大尉も防御能力の高い敵に苦労させられます。

B17

B17「フライング・フォートレス」

 

ようやく一機のB-17を撃破したのですが、列機の岩城一飛曹が被弾して火災となってしまいました。帰還不可能と感じた岩城一飛曹は指宿大尉に敬礼すると海面に突っ込んで自爆。
ここに指宿大尉は真珠湾以来の部下を2名とも亡くしてしまったのでした。

指宿自身も継続した戦闘で被弾・不時着しましたが救助され生き延びています。

マリアナ沖海戦

昭和18年末頃から、指宿正信は二六一海軍航空隊の錬成に務めるようになります。この過程で、指宿は「特攻の生みの親」である大西瀧次郎を補佐した玉井浅一と濃密に接することになります。

育てた航空隊はグアム・サイパン・テニアン・ペリリュー各島を転々とします。そのたびに空戦を重ねましたが、消耗は激しく最後にマリアナ沖海戦でほとんどの部下を失ってしまいました。指宿大尉と生き残りの部下たちはサイパン島に残ってしまいました。

大日本帝国海軍はアメリカ軍のサイパン上陸戦を控え、生き残りの航空隊員は貴重だとして、潜水艦と輸送機を活用して彼らの脱出を図りました。
搭乗員同志では脱出に優先順位等は無かったと思われますが、脱出はギリギリでした。指宿は無事脱出してフィリピンに上陸できたのですが、
二六一空の司令も指宿の部下たちもサイパン島に取り残され、戦闘機の操縦桿を慣れぬ手榴弾に持ち替え、アメリカ上陸軍を迎え玉砕してしまいました。

敷島隊と本土防空戦

昭和19年10月、指宿は初の神風特別攻撃隊「敷島隊」の編成に関与したとされています。
敷島隊の編成にあたり、玉井浅一が指宿を特攻隊指揮官に指名しようとしたのですが、指宿はこれを辞退した、としている記述を時おり見かけるんです。
玉井は仕方なく関行男を指名した…
事実かどうか、今となっては探りようもありませんし、指宿の当時の地位・立場を考えれば(無責任かも知れませんが)、どっちでも宜しい。

関行男

関行男

ただ、指宿は復員したのち、幾度も愛媛を訪れて関の墓参りをしている事だけ紹介させていただきましょう。

内地へ戻って横須賀海軍航空隊で飛行隊長となった指宿は、ついに「紫電改」を手にします。実験航空隊の筈の横空も戦況逼迫で実戦部隊となっていたのです。
指宿はすでに少佐になっていましたが、常にその姿は愛機とともにあり、B-29やP-51を邀撃し続けました。

殉職

敗戦後、指宿は航空自衛隊に入隊し、ココでも搭乗員一筋を貫きます。日本人として最初期のジェット戦闘機パイロットの一人となり、二佐に昇進した指宿正信は後進の指導に当たるようになりました。

昭和32年1月9日、この日も指宿正信二佐は航空自衛隊浜松基地所属のF-86戦闘機に搭乗、訓練飛行に出発いたしました。

f8Fブルーインパルス塗装

F86Fブルーインパルス塗装

途中で後続の訓練生が前を行く教官、指宿の機体を太陽に重ねてしまいました。訓練生は目を眩ませてしまったのですが、一瞬スロットルを戻すのが遅れたようです。

訓練機が指宿の機に追突する形で空中衝突。訓練生はその場で落下傘降下して無事でした。訓練生の機体は天竜川河口の河川敷に墜落したため に民間に被害はありませんでした。

F86、ゴジラに捕まる

F86、ゴジラに捕まる

一方、追突された指宿機は浜松の市街地にさしかかっており、指宿は瞬時に脱出の不可を悟りました。民家への被害を避けるためには海上まで機を持って行くしかありません。
指宿正信二佐は操縦桿を離さず、傷ついた機体を巧みにコントロールして海上への離脱を図ったのでありました。

遠州灘まではF86の速度なら一瞬ですが、事故機では高度が維持出来ません。海上に出た指宿は緊急脱出レバーを引いたのですが高度が足りず、落下傘が開かないまま海面へ激突してしまったのです。

最後の瞬間まで身を挺し国に尽くした男、指宿正信。日本を護って戦い続けた42年の生涯。

「遠州灘まで引っ張る!」が指宿最後の言葉でありました。

なんだか、「紫電改」から離れちゃいましたね。

大日本帝国海軍で唯一、「紫電改」に乗ってアメリカ機を叩き落した指宿兄弟、覚えて頂く訳には行きませんか?

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紫電と紫電改3” に対して1件のコメントがあります。

  1. ミズキ より:

    初めまして。紫電と紫電改3の記事を読ませていただきました。
    編集お疲れ様でした。
    こちらの記事を読み、いくつか疑問に思う点がありましたのでコメントさせていただきます。

    まず、源田司令と志賀飛行長における343空特攻のやり取りについてですが、両者の会話の後半が実際と違うのではないかと思います。
    おそらく両氏における特攻のやり取りがあったという根拠は、下記の動画17:44~の志賀氏のインタビューと考えられますが
    https://www.youtube.com/watch?v=r7MrDZ3X2Vc (タイトル:紫電改)
    ここにおいて、志賀氏は「源田司令、あなたは最後に行ってそれで終わり」と発言したのちに「ただしもう一つ条件があります。参謀をね、特攻をやる特攻をやるってどういうものか、私の後ろに乗っけるから、最初にね来なさいと。それだけの気持ちがあるんであれば、343は見事に、343でやりますって言ったんですね。それで源田さんも、まったくだ、と。それっきり特攻の話は、ありませんでした」と話しています。
    こちらの記事とは内容が違っていると感じたので、コメントさせていただきます。

    もう一つ、岩本徹三氏と343空の話です。
    こちらの話が出てくるのは「零戦撃墜王 空戦八年の記録(光人社 岩本徹三著)」ですが、私が持っている文庫版において378頁に空戦の模様が書いてあります。
    経過を略して書きますと
    鹿児島湾上空1000m程に攻撃後の敵7,80機が集結、旋回していた。すると紫電隊が降下攻撃し敵を撃墜。グラマンは一時反撃に出たが、撤退を始めた。岩本氏の中隊も追撃に参加したが追いつけず、紫電隊もいつの間にかいなくなってしまった。
    つまり、何が言いたいのかと申しますと、紫電隊が7,80機の敵機を撃墜したとはどこにも書いていないのです。あくまで、集結していた敵機が7,80機と書いてあるのです。
    こちらも記事の内容と違っていると感じたので、コメントさせていただきます。
    重箱の隅を突く様なコメントで申し訳ありません。

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