明治初期の横浜浮世絵に描かれた蒸気戦列艦に関する若干の考察-4
-三代広重「横浜海岸鉄道蒸気車図」とフランス軍艦「ブルターニュ」-
4.横浜浮世絵に描かれた異国船と「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙
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本節では、「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」紙(以下ILN紙)の挿絵が、横浜浮世絵の外国船描写に高い頻度で援用されていることを、実証的に検証したい。
その意図するところは、両者の関係について一般論的な理解を構築し、もって三代広重の作品の特異な点-「時事性・共時性からの逸脱」-を、横浜浮世絵全体の文脈の中で改めて明確にすることにある。
横浜浮世絵については、現在確認されている約840点強のうち837点を収録した「集大成横浜浮世絵」(神奈川県立博物館編集 有隣堂 1979年)をソースとして、描写が比較的リアルで個々の船舶の特徴を把握できる38作品をサンプルとして抽出した。なお、過度な誇張や抽象化がみられるものについては除外している。(この選別に関しては、筆者の主観を排除できないであろう。)
他方、ILN紙のイラストは1850年から1862年末の12年間を対象に、船舶を描いた428点を取り上げた。横浜浮世絵の制作は1870年代まで続けられたが、ピークは1860年と1861年であり、年代未詳を除く約700作品のうち7割が1862年以前に集中している。上記サンプル38作品に関しても、28作品が1862年までに世に出ているため、調査工数効率化の観点から、膨大な労力が必要となる1863年以降のイラスト抽出は見送ったものである。
横浜浮世絵のサンプルとILN紙のイラストを照合した結果は、以下のように分類された。(詳細は本節末尾に表を付す。)
1)新たにILN紙からの援用が認められたもの:21点
2)先行研究で指摘されていたものに加え、別のILN紙のイラスト援用が認められたもの:2点
3)先行研究により既にILN紙からの援用が認められているもの:3点
4)ILN紙との関係が確認できないもの:11点
5)その他:1点
すなわち、1)~3)に属する26点が程度の違いこそあれ、ILN紙を何らかの形で資料として用いており、これはサンプル数全体の実に7割に相当するのである。
上記分類の1)と2)につき、それぞれに代表例を紹介したい。
1)については、一恵斎芳幾が1861年に制作した「横浜写真五国大船 亜墨利加船」がまず挙げられよう。
芳幾がアメリカ船として描いた船は、1860年8月11日版のILN紙に掲載された英国のコルベット艦のイラストがベースになっていることは一見して明らかである。
実際、船体の構造からマストの形状、船腹のタラップまで完全に一致するのだ。
これを180度反転させたものが同じ「横浜写真五国大船」シリーズの「英吉利船」である。
(既存研究によれば、残る「阿蘭陀船」、「仏蘭西船」、「魯西亜船」も全てILN紙からの援用が確認されており、同紙と横浜浮世絵の結びつきの強さを示す代表例と言えよう。)
また、五雲亭貞秀の「横浜英商遊行」の背景に描き込まれた船も、同じイラストを用いている。このような「使いまわし」は頻繁にみられ、横浜浮世絵の一つの特徴であるかもしれない。
一猛斎芳虎の「魯西亜船」も、興味深い事例である。
1862年に制作されたこの作品は、蒸気戦列艦を詳細かつ正確に描写した最初の横浜浮世絵であるが、船体は1855年7月14日版のフランス艦、マストと帆は同年10月20日版の英艦「デューク・オブ・ウェリントン」をベースにしていると考えられる。
なお、芳虎は、「英吉利国」や「英吉利国蘭頓之図」の一部にも、これらを用いていることが確認できる。
続いて2)であるが、これは1864年に発行された貞秀の「亜墨利加国大船之図」を措いて語ることはできない。
描かれているのは、1860年に就航した英国の客船、「グレート・イースタン」。総トン数1万9千トンを誇る世界最大の巨船であるとともに、船体は鉄で造られ、帆を使わずとも蒸気機関だけで大西洋を横断可能という、テクノロジーの金字塔であった。
その様な船がほぼリアルタイムで浮世絵の題材とされていること自体、貞秀の、そして彼の背後に存在する日本民衆の知識欲の強さを示して余りあると言えよう。
「グレート・イースタン」が日本に寄港することはなかった以上、貞秀は作品の制作にあたり舶来の新聞を用いるしかなかったのであるが、ここで彼は持ち前の独創性を発揮し、多数のイラストを合成、アレンジするという他の絵師には見られない手法を採るのである。
以下に示すものは参考資料として指摘されるILN紙の1860年6月23日のイラストである。
両者は様々な部分で一致しているが、二本目と三本目のマストの形状が僅かに相違している。貞秀の浮世絵は三枚の帆を張れるようにヤードが描写されているが、ILN紙のイラストはそうなっていない。
この点、英国の書籍に掲載されたイラストを原典とする先行研究によれば、マストの形状、救命ボートの描き方等、船体の様々な部分に極めて高い相似性がみられる。貞秀がこの書物を主たる情報源としたことは明らかであるが、外輪の覆いの塗装などに微小な相違がある。これについては、今日まで顧みられなかった1857年6月13日付のILN紙イラストが参考にされているものと思われる。当該イラストと浮世絵の外輪覆いは共に白く塗りつぶされているからである。
なお、イラスト左下のヨットは、浮世絵では右下に浮かんでいるのが分かる。
また、大船の周囲に見物人を載せた多数の小舟が遊弋している構図は、1860年7月21日のイラストに見出すことが出来た。これは「グレート・イースタン」がニューヨークに初めて寄港した時の情景であり、先行研究の推測の正しさを裏付けるものと言えよう。船首とマストトップに旗を掲げているのも、貞秀の浮世絵と共通である。
このように貞秀は複数のイラストを駆使し、まだ見ぬ異国の大船を活写して見せたのである。彼は、「亜墨利加州迦爾波尓尼亜港出帆之図」でも同様の手法を採っているのが確認できるが、絵師の中でも情報収集にひときわ熱心であり、またクリエイティビティの高さでも知られる貞秀だからこそなせる業ということが出来よう。
他の絵師が複数のイラストを用いた事例としては、芳幾の「亜米利加国大船之図 其余五箇国大船之写生遠景」が挙げられる。
この作品の帆の表現に関しては、先行研究が指摘するように、1860年1月21日のILN紙に掲載された英国の病院船「メルボーン」の挿絵を参考にしていることは疑いがない。
他方、船体については、1857年4月11日版の兵員輸送船のイラストに強い影響を受けているように思われる。
「船体と帆を分離してそれぞれ異なるイラストを参考にする」というやり方は、先述の「亜墨利加国大船之図」のそれと比べると極めてシンプルではあるが、貞秀以外の絵師が複数のイラストを合成した事例の多くを占めている。
また、「メルボーン」のイラストは、独特な帆の形状で絵師たちの関心を集めたのか、同じ国芳系の芳虎(「万国名勝尽競之内 仏蘭西把里須府」)や、芳員(「横浜交易隻六」)のみならず、国貞系の貞秀(「横浜休日 亜墨利加人遊行」)も援用している。
以上に紹介した個別事例は、横浜浮世絵における外国船描写の情報源として、ILN紙が極めて重要な役割を担っていたことを端的に示していると言えよう。
程度の差こそあれ、サンプルの7割がILN紙のイラストを何らかの形で参考にしていることを考え合わせると、横浜浮世絵と同紙の結びつきの強さは、定性的にも、定量的にも、揺るぎない事実として確認されたのである。
ところで、当時の西欧においては、新聞がニュースを迅速に伝えるメディアとして急速に社会に浸透しつつあった。なかでもILN紙は、生き生きとしたイラストをふんだんに盛り込むことで大衆の心を摑んでいた。横浜浮世絵の船舶描写の多くが同紙をタイムリーに援用しているのは決して偶然ではないのである。従ってこれは、東西の民衆向けメディアが「時事性」を共通項として共鳴した興味深い事例と言えるだろう。
三代広重の作品も、一見するとその典型例であるように思われるが、実際には「援用したイラストの古さ」という点で他の作品群とは明確に一線を画している。
実際、三代広重は15年以上前のものを使っているが、他の絵師が5年以上前のイラストを参考にした事例はごく僅かにすぎない。
これに関しては、強い制約の下で外国の情報媒体にアクセスしようとする絵師の意思と能力が、最大のファクターとなろう。実際、38サンプルのうち12点が海外の情報収集にとりわけ熱心であったことで知られる貞秀の作であり、別の16点が最大派閥であった国芳系の芳虎(10点)と芳幾(6点)によって占められている。これらの絵師たちは、欧米の情報を素早く入手するコネクションを築いていたとみて間違いない。
他方、これを欠いていたと考えられるのが三代広重である。彼の作品は4点がサンプルとしてピックアップされたが、そのうち3つはいずれも1858年8月の新聞イラストを援用して1870年代に制作されたものであり、残り1点は貞秀の作品の剽窃である。
前者3点については、時間的なインターバルもさることながら、参考資料が特定の時期に集中していることからも、第三者がまとめて保管していたものを何らかの理由(詳細はおって検討したい)により、偶発的に入手したと考えるのが妥当ではないだろうか。
一方で、蒸気機関車が正確に描写されている事に鑑みると、前時代の遺物である蒸気戦列艦があれほど大きく扱われているところに、筆者は絵師の作為を見るのである。
換言すれば、三代広重の作品には、「敢えて蒸気戦列艦を描く」という能動的側面と、「たまたま入手した古新聞を援用する」という受動的側面の双方が内包されているのであるが、当時の国内外の情勢を紐解けば、そのような両義性を説明することは必ずしも不可能ではないのである。
【備考:横浜浮世絵とILNの相関一覧】
ID | 制作者 | 題 | 年 | 月 | ページ | 対応するILN紙挿絵 | 既存研究 | 一致する点 | 分類 |
1 | 貞秀 | 加奈川横浜二十八景之内 | 1860 | 5 | 31 | 4) | |||
2 | 貞秀 | 神奈川横浜港案内図絵 | 1860 | 7 | 33 | 4) | |||
3 | 貞秀 | 横浜休日 阿蘭人遊行 | 1861 | 1 | 40 | 1858年11月20日 | 船体 | 1) | |
1858年3月13日 | 船尾 | ||||||||
1860年8月11日 | 船尾、煙突 | ||||||||
18560年3月8日 | 船体、帆の形状 | ||||||||
4 | 貞秀 | 横浜英商遊行 | 1861 | 1 | 41 | 1860年8月11日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
5 | 貞秀 | 横浜休日 仏蘭西人馬遊行 | 1861 | 1 | 41 | 4) | |||
6 | 貞秀 | 横浜休日 亜墨利加人遊行 | 1861 | 1 | 41 | 1860年1月21日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
7 | 貞秀 | 横浜休日 魯西亜人遊行 | 1861 | 1 | 41 | 1860年1月21日 | 船体 | 1) | |
1859年5月7日 | 船体、帆の形状 | ||||||||
8 | 貞秀 | 横浜交易西洋人荷物運送之図 | 1861 | 4 | 50 | 1860年11月3日 | 横田洋一(1979) | 構図 | 3) |
9 | 貞秀 | 亜墨利加州迦爾波尓尼亜港出帆之図 | 1862 | 3 | 61 | 1857年6月6日 | 船尾 | 1) | |
1857年5月23日 | 船体、帆の形状 | ||||||||
1858年8月21日 | 船体、煙突 | ||||||||
1860年11月3日 | 船首 | ||||||||
10 | 貞秀 | 横浜異人商館之図 | 1861 | 9 | 61 | 1860年3月31日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
11 | 貞秀 | 改正横浜細見図 | 1867 | 6 | 63 | 4) | |||
12 | 貞秀 | 亜墨利加国大船之図 | 1864 | 3 | 64 | 1860年6月23日 | 横田洋一(1979) | 船体 | 2) |
1857年6月13日 | 船体、帆の形状 | ||||||||
1860年7月21日 | 構図 | ||||||||
1858年2月6日 | 船首 | ||||||||
1859年9月17日 | 船首 | ||||||||
13 | 芳虎 | 阿蘭陀船の図 | 1862 | 2 | 90 | 4) | |||
14 | 芳虎 | 英吉利船 | 1862 | 2 | 91 | 4) | |||
15 | 芳虎 | 北亜墨利加船之図 | 1862 | 2 | 92 | 4) | |||
16 | 芳虎 | 魯西亜船 | 1862 | 4 | 92 | 1855年7月14日 | 船体 | 1) | |
1855年10月20日 | 帆の形状 | ||||||||
17 | 芳虎 | 万国名勝尽競之内 仏蘭西把里須府 | 1862 | 6 | 100 | 1860年1月21日 | 船体 | 1) | |
1860年3月31日 | 帆の形状 | ||||||||
18 | 芳虎 | 蛮国名勝尽競之内 英吉利龍動海口 | 1862 | 6 | 101 | 1862年4月12日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
19 | 芳虎 | 北亜墨利加州 | 1866 | 3 | 105 | 1862年4月12日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
20 | 芳員 | 横浜見物図会 飯製之図 車仕掛けの織物 高燈籠 蒸気船 | 1860 | 11 | 116 | 4) | |||
21 | 芳員 | 亜墨利加蒸気船 長四十間巾六間 | 1861 | 4 | 126 | 4) | |||
22 | 芳幾 | 横浜写真五国大船 亜墨利船 | 1861 | 2 | 149 | 1860年8月11日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
23 | 芳幾 | 横浜写真五国大船 阿蘭陀船 | 1861 | 2 | 150 | 1860年1月21日 | 横田洋一(1979) | 船体、帆の形状 | 3) |
24 | 芳幾 | 横浜写真五国大船 仏蘭西船 | 1861 | 2 | 150 | 1857年4月11日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
1860年1月21日 | 帆の形状 | ||||||||
25 | 芳幾 | 横浜写真五国大船 英吉利船 | 1861 | 2 | 151 | 1860年8月11日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
26 | 芳幾 | 横浜写真五国大船 露西亜船 | 1861 | 2 | 152 | 1860年1月21日 | 横田洋一(1979) | 船体、帆の形状 | 3) |
27 | 芳幾 | 亜米利加国大船之図 其余五箇国大船之写生遠景 | 1861 | 4 | 159 | 1860年1月21日 | 横田洋一(1979) | 船体、帆の形状 | 2) |
1857年4月11日 | 船体、帆の形状 | ||||||||
28 | 芳年 | 仏蘭西大湊諸国交易図 | 1866 | 4 | 189 | 1862年4月12日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
29 | 二代広重 | 横浜風景一覧 | 1861 | 2 | 215 | 4) | |||
30 | 三代広重 | 横浜海岸通り之真景 | 1872 | 5 | 229 | 1858年8月21日 | 船体 | 1) | |
31 | 芳虎 | 横浜之新港ニ五箇国之異人訓練之図 | 1863 | 8 | 273 | 1862年4月12日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
1855年10月20日 | 帆の形状 | ||||||||
32 | 芳虎 | 英吉利国 | 1865 | 1 | 278 | 1862年4月12日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
1855年10月20日 | 帆の形状 | ||||||||
33 | 芳虎 | 英吉利国蘭頓之図 | 1866 | 3 | 279 | 1862年4月12日 | 船体、帆の形状 | 1) | |
1855年10月20日 | 帆の形状 | ||||||||
34 | 芳員 | 横浜交易隻六 | 1861 | 8 | 297 | 1860年1月21日 | 帆の形状 | 1) | |
35 | 芳員 | 五国異人横浜上陸図 | 1861 | 11 | 300 | 4) | |||
36 | 三代広重 | 横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図 | 1874 | 2 | 370 | 1858年8月14日 | 船体の形状(戦列艦、コルベット) | 1) | |
37 | 三代広重 | 横浜海岸鉄道蒸気車図 | 1874 | 370 | 1858年8月21日 | 船体、帆の形状 | 1) | ||
38 | 三代広重 | 横浜波止場ヨリ海岸通異人舘之真図 | 明治期 | 372 | 横田洋一(1979) | ID9を剽窃 | 5) |
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